投稿者 gataro 日時 2010 年 2 月 15 日 11:37:44: KbIx4LOvH6Ccw
http://blog.goo.ne.jp/longicorn/e/d0a365756fc3201f2d6d56c8026f497e
小沢権力闘争論のおかしさ= 小沢疑惑の中間的感想
2010-02-14 09:50:29 / ◆世相を拾う
不起訴決定以前
小沢権力闘争論などと、しかつめらしい表題をつけました。いうまでもなく、これまで繰り返されてきた小沢疑惑にたいする、捉え方の一つです。こうした主張は基本的にいえば小沢を擁護する立場のものと言い切ることができるでしょう。
メディアが、小沢の土地購入疑惑にからんで報じるとき、多くが小沢対検察という構図を前提に、読む、あるいは聴く、視る者に所与の対決構図として押し付けてきた。小沢の動かしているカネが通常では考えらない程度の巨額であるにもかかわらず、それがこう報じられることで関心は勝負の世界に移されていく。何せ人は勝負事に弱いともいえる。昔から判官贔屓ということばもあるし、およそ、ものというものに勝ち負けを暗につけてしまうきらいのある動物が人間だともいえるでしょう。
はたして、たとえばテレビでは毎週のサンプロは、しばしばというより毎回この視点から小沢疑惑を論じる。検察の捜査は違法か否か、小沢はどこで対決するのか、などなど。元検察幹部、検事を登場させ、両者の対決こそが、現局面の一流の政治課題であるかのように、田原総一朗の例のまくしたてる話しっぷりに視聴者が引き込まれることを狙う。この番組に典型なように、メディアは捜査のあり方に視聴者の関心を集中させ、論点は、悪者は検察か否か、小沢かというところに帰着するのです。
これだけの世論操作によれば、いくらかの影響を受けるのもまた、人間というもの。メディアに登場する評論家たるや、まったく押し付けられた構図にのっかって論じているにすぎなかった。こんな感想をもたざるをえません。ほとんどのように。ましなことを時々、いくらかこれまでいっていた人物が、検察という権力による違法捜査だと主張したり。
不起訴になるまで、小沢のこの問題でいってきたことは、自分は法にのっとってやっているということ、仔細は、とくに政治資金報告は秘書がやったこと、自分は関与していないということと、今一つ、小沢にたいする捜査を前に民主主義への挑戦という旨の発言を繰り返してきました。自らの遵法的態度と問題への不関与と同時に、民主主義への挑戦だといってきたことを思い返さなければなりません。そして、彼の資金調達にからむ発言は、語るたびにその内容がかわってきたことを。検察が不起訴を態度決定するまでに、小沢が強調したのは、詳細を語らないこと、語ったことは二転三転してきたこと、そして自分を対権力の闘争家に仕立てるということでした。わが首相は、この問題に政府の長として、問われているものが何かも知らないかのように、司直の捜査の只中だから嘴をはさむのはよくないなどと答弁してきましたね。
「考える会」の存在
この検察の態度決定前の状況でさらに追加すれば、私が注目してきたのは、民主党内の動きでした。そう、あの「石川知裕代議士の逮捕を考える会」の結成です。逮捕された衆院議員・石川知裕と同期の議員13人によってつくられたといわれています。いわれていますとあえていうのは、この13人が自発的に結成したものとは考えにくいと率直に思うからです。この「会」は、石川の逮捕は不当とする立場を明確にするとともに、法務省から担当者を呼んで事実関係を聞き、釈放要求の発議を検討したいということを確認しています。結成にあたっては、しばしばメディアに登場し、検察の捜査方法を批判する郷原信郎が関与している。「会」の結成自体が、捜査を牽制することを事実上ねらったものであることは確かでしょう。しかし、自民党によって予算委員会で、政務官が会の活動に参加していることを追及されると、これを陳謝せざるをえなかった。この「会」の活動自体は前後して世論の批判にあって表面に出てくることはなかった。
不起訴決定後
検察の態度決定の前の以上の状況は、不起訴決定後どのように変化したのか、変化していないのか。いちばん問われるべきは、小沢対検察という論陣をはってきた者が、以後、どのような発言をするのか、この点でしょう。彼らが今の時点で何を語るのか。以前とつじつまがはたしてあうのか、これが(私の)関心の一つでした。
当の小沢は、不起訴が決定されると、驚いたことに、公正な捜査がおこなわれたといって、まるで手のひらを返すかのような態度を明らかにしました。これまでの「不当な捜査」には一切ふれることもなく。民主主義への闘争はどこに消え去ったのか。自らの保身が整ったら、それは民主主義が守れたことになるのか。前後の脈絡はまったくないじゃありませんか。
「考える会」は、一連の流れをどのようにまとめるのか。見解を出すべきでしょう。そして、検察の不当性を追及してきた連中は、今後も、不当な検察権力にたいする姿勢を貫くべきでしょう。が、はたしてそうなるでしょうか。ましてや自身のかつての秘書ら3人は逮捕されたというのに。彼の以前の姿勢からみて、それでは3人の逮捕はどう位置づけられるのか。小沢のこの姿勢は、ただ、自身が不起訴になったという点で、なおかつ3人の秘書の逮捕はなるべくしてなった当然のものという点で、民主主義が守られたということになる。言い換えれば、民主主義は小沢の不起訴という形で、3人の逮捕という形式をとって保持されたということになるわけです。不関与という口実が今のところ奏功したのです。
小沢擁護の連中たちは
メディアの世論誘導の方向は以上のとおり明確でした。ブロガーとて人間であることにもちろん変わりありませんし、私をふくめ、せいぜいメディアの報道が情報のほとんどを占める身であることにちがいはないでしょう。だから、どこかにマスメディアの影響を残すでしょう。
自民党からの政権交代こそが日本の政治課題の唯一のものだととらえてきた連中は、いったん民主党が政権についたらどんな態度をとるのか見ものでした。案の定、雲散霧消。極論すればこんな状況かもしれません。展望を描いてなくて、プログラムなくして、先がみえなくなる者も少なくなかったようです。政権交代が唯一と考えた者が「矛盾なく」何かを主張しようとすれば、こんどは新政権を絶対化するほかはありません。今でも、一片の迷いもなく、民主党命を主張する連中です。その一人は、たとえば企業献金は認めると主張します。主張しなければ、つじつまが合わない。小沢支持と結びつかないからです。もちろん小沢にかけられる(国民の)疑惑そのものを振り払うことはできませんから、企業献金は悪いものではないのだとせいぜい主張するしかありません。思い出すのは、こうした主張の陳腐なものとして政党機関紙の縮刷版を団体に共産党が売りつけているものもでてきましたね。
そして、彼らの手法は今一つあって、検察そのものに矛先をむけることです。小沢のいう民主主義を守る闘争だと位置づけることです。不起訴という今の段階で、彼らの主張の発展を期待したいものです。
それだけではなく、変化球を投げるタイプも存在する。直接的に民主党を支持したり、小沢を擁護する姿勢はみせないが、現政権に批判的な立場を認めないというもの。
たとえば、いくら理屈をこねても政治を動かせないでは何も力をもっていないに等しいという旨の発言です。しかし、思い出してほしいのは、この主張は、ここ数年の選挙戦で、しばしば繰り返されているということ。国政選挙でも、地方選挙でも。たとえば、直近の都知事選を思い出してください。浅野史郎が担ぎ出されました。彼らは、共産党にも出馬辞退と支援を求めたわけですが、「政策が石原と変わらない」「宮城県政への反省がない」と共産党は批判した。すると彼らは、共産党の姿勢は石原を助けるといって、この共産党を逆に批判した。自ら(期待する)枠組みに入らないと、パーリア扱いし排除する姿勢です。
今回の民主党政権のつぎつぎに繰り返される、ほとんど自民党とかわらない事件・事実が明らかになると、奇麗事をいっても政権に入っていなくては存在価値がないといわばいわんとするものですね。しかし、これは、政治を国会内に押しとどめようというものにほかなりません。民主党の大衆闘争は、ほとんど皆無といってよいと私は思いますが、では、民主党の野党の時代に形ができた肝炎問題解決の道筋はどう理解できるのでしょうか。そして、国会内においても、違法派遣があれだけ問題になり、結果的に部分的であれ、是正姿勢を大企業がとり始めたのはどう説明するのか。そして東京派遣村の経験と日本社会に及ぼした影響をどう把握するのでしょうか。政治はもちろん国会の中だけで、論戦だけで動くものではありません。
結局、この主張は、あたかも民主党の姿勢には反対であるかのようであっても、現政権を支持するというだけでなく、野党の存在をも否定しようとする点で、より悪質だともいえるでしょう。排除の論理は、同時に囲い込みの論理であって、高じると与党以外は認めないということに帰着する。翼賛体制志向を加速するものだといえるでしょう。その点で、小選挙区推進論者で、民主党による政権交代の旗頭の一人であった山口二郎が、都知事選で、共産党を批判してきたことを忘れてはなりません。
問われているのは何か
小沢の土地購入問題と周辺で動いた常識的には考えられない巨額のカネにたいする疑惑は、これを葬り去っては、何も教訓が残らない。問題は解明されない。問われているのは、政治と企業が癒着し、税金のつかいみちをゆがめ、とりかたもゆがめる自民党政治のあり方です。大企業や財界の思惑どおりに政治をすすめることを自民党政治の表現の一つだとすれば、小沢の手法はこの域を出ていないということです。公共事業を舞台に結びつく「政治とカネ」。それを断つ上で、いちばん先に手をつけるべきは、企業・団体献金の全面禁止でしょう。小沢疑惑を追及する姿勢を表面上はみせる自民党も、追及される立場の民主党も、全面禁止を言い出さないのはなぜか。ここに自・民の共通性があるからにほかなりません。政治姿勢の基本として、国民本位ということになっていないからともいえるでしょう。企業・団体の思惑に顔も身もむけざるをえないのです。両党の態度は象徴的にすぎるでしょう。
自民党政治というのは、自民党がやる政治という意味ではありません。企業や財界の支配をどのように断ち切るか、これが当面の政治課題の一つだと思います。それが、小沢疑惑に決着をつけられるか否かに、直接結びついているのではないでしょうか。
小泉政治も形こそ違え、財界に奉仕するという点で少しもかわりないことはすでにのべました(参照)。政権担当者が、自民党であれ、民主党であろうとも、企業・財界による政治のゆがみをどう正すのか、それが問われています。
その意味で、国会内での民主と自民のかけあいなんて、結局、茶番にすぎないと思うのです。
(「世相を拾う」10028)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
フォローアップ:
次へ 前へ
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK80掲示板
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/
since 1995
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの
引用、転載、リンクを許可します。
確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK80掲示板