★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79 > 856.html ★阿修羅♪ |
|
「検察政治」と「小沢政治」煉獄に耐えた小沢氏はその志を貫け (THE JOURNAL) http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/856.html
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/02/post_493.html 武藤 功(文学と思想誌「葦牙」編集長) 小沢幹事長が不起訴となった。おそらく、きわどいなかでの最終判断だったのだろう。特捜部の「暴走」を検察首脳部が抑えたという見方もあるが、さもありなんとも思える。昭和10年代の青年将校たちの野望を抑えきれなかった当時の軍部首脳と比べると、現在の検察首脳はいくらか民主主義の風を経験していたということになるのだろう。法治国家という視点から見る「検察と政党」という関係でいえば、この小沢氏に対する検察の自己抑制は当然のこととはいえ、政治の正常化に役立つことである。 「検察政治」という問題 この「政治の正常化」というのは、検察が政治を両断してしまう異常事態が防がれたという意味である。おそらく、東京地検特捜部の検事たちのなかにはその両断を目指す勢力もいたのであろう。法の正義も世論も、わが方にあると考えても不思議ではない現象がメディアによって連日伝えられていたからである。それは一種の「検察政治」と名付けてもいいほどの実体を持ち始めていた。このなかで、小沢氏はカネで政治を動かす「金権政治家」というイメージを増幅され、その幹事長のもとにある民主党への不信もまた増幅されつつあった。党内の不協和音も出始めていた。つまり、万が一の場合に政権与党が使える可能性のある法務大臣による指揮権発動についても、外堀も内堀も埋められてしまった状況にあった。これは、かたちはどうであれ、特捜部による「起訴」という検察行為が小沢氏の政治生命を制する一撃ともなりうる事態が生まれていた状況といえた。青年将校的な検事がいたとするなら、張り切るのも当然であったろう。 その危ういタイミングの2月4日、小沢氏の不起訴は決定された。特捜部の「暴走」が抑えられたという意味では、この決定はよかったといえるが、石川知裕議員ら3人を起訴するに至った一連の検察行為については改めて検証が必要である。問題の核心は、政治に対して検察の力があまりにも強大になり得るという不均衡な法的関係が政治資金規正法にはあることである。かつての青年将校が「武力」として持っていたものを、いまの青年将校的な検事は「法」として持つことができる。一般的に見ると、その「武力」は不穏当に見えるが、「法」は正義の表現のように見える。ここに、「検察政治」が作られてしまう危険の根源がある。 なぜ、危険かといえば、第一には国民にはその検察の「正義」が見えないからである。その「見えない正義」が政治を制してしまう。それが怖いのである。第二には、その法が特定の政治家を狙い撃ちすることが可能だからである。つまり、検察の任意によって運用されやすい。しかも多くの国民はそうした検事を正義の味方と錯覚してしまう。 この意味において、これら一連の今回の「小沢事件」との関連でいえば、検察にその法の権限を与えている政治資金規正法が問題となる。どんな法律でもそうであるが、その違反摘発などの法の執行のためには制度が必要になる。政治資金規正法の場合、その制度運用は通常は検察機関が行う。「検察政治」が生み出されるという問題は、その法律そのものというよりも、この制度の運用によってなのである。国民の目には、この運用の実態は見えない。その典型的な例が、検察による情報リークである。これはメディアが加担することによって、一層見えにくくなっている。 たとえば、石川議員が管理していた預金通帳に住宅をあらわす「住」の字が記載されていたなどということは、家宅捜索によってその通帳を押収し、それを見た検察関係者しか分からない。メディア各社がそれを報道できるのは、それについての検察のリークがあるからである。検察はこのような情報リークによって情報操作を行い、メディアを使って小沢氏と秘書たちを黒く黒く描き出して世論を形成していくのである。民主党の議員有志がこの種の情報リークを問題視して「捜査情報の漏えい問題対策チーム」を作ったとき、マスコミ各社がそれをメディア規制だとして大騒ぎした。検察の違法行為を追及されると困るからである。「小沢氏不起訴」を伝えた2月5日の各紙も、その情報リークについては「これは誤解である」(読売)などと弁解につとめた。 この点では、国家公務員法には守秘義務の規定があるものの、検察の業務マニュアルというべき肝腎な刑事訴訟法に、その検察情報についての管理条項がないのは早急に是正されなければならない。しかも、同法は被告人や弁護士については証拠情報などの目的外使用については罰則(懲役1年、罰金50万円)を設けていながら、検察官については「捜査関係者に対する訓示規定」として「被疑者その他の者の名誉を害しないように注意し、且つ、捜査の妨げとならないように注意しなければならない」(196条)とある程度なのである。 この条項ですら、検察情報がそのリークの対象となる「被疑者その他の者の名誉」をいかに損なっているかについては、単なる「訓示規定」であるため検察官らはまったく考慮しようともしないのである。この検察に甘い規定がかれらの情報リークなど「検察政治」への暴走の要因となっている事実は、立法府において厳しく見直すことが必要である。 考えてもみるがいい。政治的に何らの実績も責任もない一介の検事が、それなりの政治的実績を積み、国民からも支持されて国会議員となった者を、公訴権を持つゆえにその胸三寸によって翻弄してしまうというのは、どう考えても民主的で公正な権力バランスとはいえない。石川知裕議員の例はその典型である。もちろん、検察が法によって犯罪を追及するのは正当である。ところが、この正当以前の問題として、検察はその被疑者にたいして正当な法定手続き(デュー・プロセス・オブ・ロー)をしっかり守って対応するということがまったくできていないのである。 たとえば、刑訴法は捜査について「その目的を達するため必要な取調をすることができる」(197条)としているが、検察はその「目的」を拡大し、「逮捕の要件」規定(同法199条)をこえて、取り調べそのものまでも目的として拡張して実行しているのが現実である。石川議員は検察の出頭の求めに応じていたのであるから、逮捕の必要などまったくなかったのである。しかし、検察がかれを逮捕したことによって、かれは事実上の犯罪者とされるに等しい扱いを受けた。メディアがそれを増幅させる報道を繰り返し、その犯人像(虚偽記載者)が裁判前に作りあげられてしまったのである。 つまり、検察もメディアも、憲法(37条)の保障する「刑事被告人の権利」について、その基本となる人権を尊重していくという態度にまったく欠けているのである。この人権無視による犯罪者容疑者報道は、とくに政治家の場合には大きな痛手となる。政治生命が断たれることにもなるからだ。一般的にも、被疑者や逮捕者にたいして、長時間にわたる拷問的な尋問や長期勾留などの不当行為が合法の名のもとに公然と行っている例もある。 今回の小沢氏の政治資金管理団体「陸山会」にかかわる事件で逮捕された石川議員の女性秘書に対する扱いに、その種の検察の横暴の一端が見られる。鈴木宗男衆院議員のブログ「ムネオ日記」によると、その女性秘書は検察庁に呼び出されて10時間にもわたる「拷問的取り調べ」を受けたという。これは憲法(38条)が禁じている「不利益な供述の強要」のための取り調べの典型的な例である。石川議員の秘書にすら、それだけのことをやるのであるから、当の石川氏についてはどれほどの「強要」的な取り調べが行われていたか想像がつこうというものである。 こうした意味では、小沢氏関連の政治資金捜査についてのさまざまな論評のなかで最も正鵠を射た批判は、鈴木宗男氏の「検察が正義だなどと思ったらとんでもない」とう批判である。これは鈴木氏自身がかつてターゲットとされて国策捜査の苦い味を体験した立場から真実を吐露しているだけでなく、「検察政治」の本質を衝いている批判といえる。 つまり、国民にとっては、鈴木氏の言う意味での「検察の実態」を知ることがきわめて重要なのだ。なぜなら、検察はよく言われるような「正義の味方」でも「法の体現者」でもなく、官僚機構に一角を占める公務員にすぎず、間違いも数々侵しているという実態の認識が大切だからだ。国民的にその実態を知ることが、かれら官僚としての「検察政治」の暴走に歯止めをかけるもっとも確実な保障となるからである。 司法という聖域にあるがごとく、国民のコントロールから自由であるように見える検察の権力には、常に国民「全体の奉仕者」という立憲主義の制約を加えておかなければならない。本来なら、検察の捜査段階でのさまざまな歪みについても、検察庁法の規定にしたがって、国民の代表者たる政府(法務大臣)が一般的な「指揮監督権」を発動して是正していくべきなのであるが、かつての自民党・佐藤栄作幹事長の悪例のために、それを「政治介入」とするイメージがつくりだされてしまったため、宝(法)の持ちくされとなってしまった。司法権も統治権の一環をなすものであり、その源泉は主権者たる国民に発するものであることを再認識し、鳩山政権はこの法務大臣による指揮権発動についても、その法的権限が生かされるように再考すべきである。 小沢氏側の問題 今回の「検察政治」の発生源が小沢氏の政治資金をめぐる問題にあったことは事実である。この事実にそって見れば、小沢氏自身にも責任の一端がある。私は小沢氏の幹事長の続投を支持するが、「政治とカネ」の問題については、再び検察につけこまれるような事態を招かないための抜本的な自己検証を求めたい。そもそも一国の政治を率いようとする政治家が自己の足元の政治資金で足を掬われるような無様なことがあってはならない。これは国内の企業献金の類の話だけではない。 かつて、自民党にCIA資金の提供があり、革新政党にソ連資金の疑惑が取り沙汰されたことがあったが、この謀略の時代、どこからの「カネ」であれ、政治にかかわって疑惑の影を足元に落としてはならない。現在、アメリカでもさる1月に連邦最高裁判所が企業・団体の選挙資金提供にたいする制限を違憲とする判決を出したことに対して、オバマ政権が猛反対をするという「言論の自由」論議が起っている。「カネ」は国境を越えて外国の政治をも動かす手段ともなる事態を日本でも考えておかなければならないのである。わが国では、そうした事態が起こらないために国民が政党助成金によって基本的な政治資金を負担しているのであるから、この際、99年の改正で政治資金規正法に抜け穴を作る結果となった企業・団体献金を全面的に禁止すべきだ。 その法改正ができれば、現在やられているような小沢氏の資金団体「陸山会」のなかの資金のやりくりの話(それも自主財源という4億円の原資についてであり、それは2月5日に神奈川県警で明らかにされた6年間にわたる13億円の不正経理とくらべても、あるいはその前日の4日に公表された千葉県警の同じ期間の5億7000万円の不正経理とくらべてもはるかに小さな額である。犯罪ということで言うなら、これら県警の不正経理は公金そのものの不正使用という犯罪そのものである)については、その種の疑惑の払拭にも役立つだろう。 そのなかで、小沢氏は半ば達成しつつある「ニュー小沢」(自民党的な派閥領袖型の資金調達をテコにした政治手法を取っていた「古い小沢」から、政治資金を政党に一元化した近代的合議システムによる党運営を志向する「新しい小沢」への脱皮過程にある)を完熟させ、今後に取り組むべき「21世紀ビジョン」実現の政治体制を確立してほしい。圧倒的に多数のメディアと立花隆氏らが親検察の立場から試みられた小沢バッシング(立花のそれは『週刊現代』2月6日号「小沢逮捕へ私はこう考える」など)の煉獄に耐えた今こそ、その取り組みのチャンスである。 小沢政治への期待 環境問題、憲法問題などさまざま市民運動に取り組んでいる無党派グループのなかには、「小沢政治」に期待する声が意外と多い。これは単純に小沢氏の革新性に幻想をもって期待するというのではない。むしろ、小沢氏の保守的立場からの「剛腕」への期待といった方が正確である。この背景には戦後60年余に及ぶアメリカへの国家的追随ということがある。日本の戦後政治は常にアメリカの「大きな政治」に追随するかたちで「小さな政治」に甘んじてきた。この「小さな政治」の別な名称は「安保国家の政治」ということである。 いわば、日本は戦後の「45年体制」として米国の傘の下の「安保国家」を選択したことによって、必然的に米国政治への追随を余儀なくされてきた。現在でも、この枠組みのなかから脱却できないでいる姿は、沖縄の普天間基地移設問題一つとっても明らかである。新旧の「安保条約」と「地位協定」によっても合法的に撤去要請ができるのに、その主権国家の意思がまるで働かないのである。この意味では米国は戦前の天皇制と同じ作用を及ぼしている。現状の変革になるような意見は「畏れ多くて」口にすることもできないという風情である。とくに安保にかかわる問題となると、主権国家の意思が麻痺してしまうかの如くである。 この国家的な政治現象は、世界的にも稀に見るものであろう。これだけの自立的な経済大国であり、かつ自主防衛という看板をかかげて5兆円もの防衛予算をつぎ込みながら、その10分の1にも満たない軍事予算の北朝鮮に脅えて日米安保にすがりつくという塩梅だからである。この意味では、対米的な国家主権ということからいえば、北朝鮮よりもイラクのマリク政権やアフガニスタンのカルザイ政権よりも臆病であり、主体性がない。これは、経済的には完全に中国の傘の下にありながら、決して従属的ではない北朝鮮とくらべてみても際立っている。その内容はどうであれ、北朝鮮は六者協議への対応にも明らかように、国家主権を歪めるような卑屈な態度は中国に対して取っていない。ところが日本は、普天間基地という一基地の「小さな問題(在日米軍基地の20分の1)でも、相手がアメリカだということになると哀れなほどのビビリようである。足元がふらついてまともな思考ができないかの如くである。 もう、いい加減にしろ、というのが国民の声なき声であるが、自公政権を倒した鳩山政権でも、この声をしっかりと受け止められずにいる。普天間基地問題が鳩山政権の命取りにもなりかねない現実がつくられつつあるのは、その対米姿勢に主権国家の意思を提示することができず、「アメリカの理解」という制約を自ら作り出しているからである。もうその種の主人の意見を聞いて動く「番頭型政治」は脱却すべきだ。 小沢氏の「剛腕」への期待が生まれるのは、こうした背景においてである。現在の政界を見渡して、「安保国家」のしがらみを排して「普通の国」へと舵を切れる能力をもつ政治家は小沢氏しかいそうもないということがその期待の第一である。しかとは確認できたわけではないが、小沢氏には米国にたいする「独立意識が感じられるということが根本的な期待要因である。そして、それは小沢氏の言葉では「普通の国」への脱皮ということになるが、実はこれは幕末の黒船対策や不平等条約撤廃と同じくらいの大事業である。敗戦後65年を要してもまだ達成できない「独立国家」形成の課題だからである。 小沢氏への期待の第二には、それを安定的な政治によって達成するためには多数派第一党のリーダーであることが不可欠であるということがある。第三には国論の統一のもとに国民国家とその主権にもとづく国際秩序に合致するかたちで米国の従属的安保体制から脱却するためには、保守の立場に足場を置きながら現状の変革を試みるという坂本竜馬型の人物がふさわしいからである。 なぜなら、この課題はブルジョア市民的な課題であり、社会変革的な次元の話ではないからである。竜馬が土佐藩からは脱藩しながら、幕府という保守的な基盤からは遊離しなかったことによって薩長同盟を成功させ、国民国家への脱皮の基礎を築くことができたと同じように、現状の政治状況においては保守派のリーダーにふさわしい課題だからである。おそらく、この三つの要件にかなう政治家は、現状では小沢氏だけであろう。 そしてこの「安保国家」という「45年体制」からの脱却は、単に安全保障の問題にとどまらず、日本の自主的な「大きな政治」への道を開く画期ともなるということが肝腎なのである。国民的な希望を常に自主的に描けるようになるというのが主権国家の原則である。この原則に「アメリカ」という禁制をもたらしている「安保国家」は、最早その20年前の冷戦の終焉とともに歴史的使命が終わっている。 このことを認識できずにきたのが自民党中心の「55年体制」であったが、その政治の枠組みを突破する政治戦略を描いてきた小沢氏には、もう一つその外枠となった「安保国家」という「45年体制」を突破できる可能性が生まれている。そしてまた、戦争をやりながらノーベル平和賞を受け取るというオバマ型の「剛腕」に対峙して「安保国家」の制約を打破するためには小沢氏の「剛腕」が不可欠である。2月7日の主要各紙は一斉に内閣支持率の下落と、小沢氏の幹事長辞任回答の高率の世論調査を発表しているが、それはまだ国民の多数が「検察政治」の実体をよく認識できない段階での数字である。今後に問題となるはずの検察審査会なども、こうした一時の世論動向に惑わされることなく、政治の真実を見出す立場から慎重な審査を行ってほしい。 この独立国家としての自主的な「大きな政治」への可能性を持つ小沢氏が、幕府の岡っ引き同様の「検察政治」に潰されなかったことを喜ぶのは以上に述べた通りの理由からであるが、この新しい可能性が今後の検察審査会によっても損なわれないことを望みたい。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79掲示板
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/
since 1995
▲このページのTOPへ
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。 すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。 |