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なぜ、日本の「世論」は死刑制度を支持するのか?【井上純2009/02/14】・・バブル期以降に急上昇したわけは? http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/741.html
(回答先: 死刑容認85%で過去最高 内閣府世論調査(東京新聞) 投稿者 クマのプーさん 日時 2010 年 2 月 06 日 18:15:59) http://www.news.janjan.jp/living/0902/0902120315/1.php なぜ、日本の「世論」は死刑制度を支持するのか? 井上純2009/02/14 最近、凶悪事件の裁判での死刑判決や死刑の執行が増えている。それに伴い死刑制度の是非の論議も激しくなっているが、多くの人が死刑を肯定している。1月30日の荒木祥記者の「日本、国際世論に逆らってまた『ベルトコンベアー』死刑を執行」の記事の書き込みでもどちらかといえば死刑廃止に否定的な意見で占められていた。死刑廃止の運動は日本では大きな壁に当たっている。 筆者は1.わずかでも冤罪の可能性が払拭できない場合には取り返しの付かないことになる 2.現在出されている死刑判決は単なる報復に堕しているのではないか、などの理由でどちらかといえば死刑廃止に賛成なのだが、多くの人が死刑を支持する現状では廃止運動は今までのやり方では力を持ち得ないのではないかと考える。 ここで、多くの人を死刑の支持に向かわせる背景を考えることは、死刑廃止の議論を考える上で有益なばかりでなく、裁判員制度が始まった今、一人ひとりが裁判にどう向き合うかという問題についても役立つように思われる。そこでなぜ日本では厳罰化傾向が強まり、多くの人が死刑を支持するようになったのかを論じてみようと思う。 日本における死刑制度の概要 刑法では、死刑になりうる罪として、16(約20年前は17)もの罪状が挙げられているが、このうち戦後において実際に死刑判決の罪状として適用されたものは次の7つである(適用件数は1948〜2001年の数値)。 現住建造物等放火罪:適用件数不明 現住建造物等放火罪の適用件数が不明なのはほかの罪状との競合があったためである。このうち強盗致死(強盗殺人)罪での適用が全体の約78.2%を占める。最高裁での判例などにより、死刑を適用する際の判断基準としては以下の通りである。 3人以上殺害:死刑 ただし、被告人の前科や累犯、反省の態度などによる刑の加減がある。刑事訴訟法第475条により、刑の執行は法務大臣の命令に基づいて判決が確定した日より6ヵ月以内に行われることになっている。ただしこの規定には法的拘束力はなく(拘束力なしとされているのは現状説明のための後付ではないかという意見もある)、また再審の請求や恩赦の出願があった場合にはその審査期間中は刑を延期することとなっている。そのために刑の確定から執行までの期間は多くの場合、数年から十数年かかっている。ただし、最近では確定から執行までの期間が2〜3年の例も多く出るようになった。 判決の厳罰化を求める傾向が強くなった日本の世論 凶悪犯罪の裁判などに限らず、ここ20年の間に刑事事件の裁判において被害者や遺族、世論などがより重い判決を求めるようになった。例えば、自動車事故の場合は従来の業務上過失致死罪に加えて危険運転致死罪が設けられ、飲酒運転での死亡事故などに適用されるようになった。殺人事件においても遺族が死刑の適用を強く求める事例が多くなっている。 内閣府が実施している死刑制度に関する世論調査によると、死刑に対する肯定意見の変遷は以下の通りである。 1956年 65.0% 調査の設問が毎回違うため、この結果を単純に比較することはできないが、1989年までは大体60%台で推移していたのに比べ、近年は上昇傾向なのがわかる。興味深いのが、1970年代は60%を割っていたこと、上昇傾向を示しているのがバブル期と重なっていることである。ではなぜ、バブル期を境に厳罰化傾向と死刑に対する支持が強まってきたのか? * たけ(tk)注:バブル期は、概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51ヶ月)間を指すのが通説(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E6%99%AF%E6%B0%97)なので、バブル崩壊期に急上昇したと見るべき。 死刑支持の背景1.理不尽な犯罪が顕在化――凶悪犯罪の性質が変わった 凶悪事件の発生件数は戦後一貫して減少する傾向にある。たとえば殺人事件の認知件数は1983年が1,745件だったのが2007年は1,309件に、犯罪被害による死亡者数は1987年に1,605人だったのが2007年には1,284人に減っている。にも係わらず死刑制度の支持者が増えている背景のひとつには今まであまりなかった性質の凶悪犯罪が増えてきたことがあげられる。 バブル期より前の凶悪犯罪は加害者と被害者の間に怨恨や利害などの関係が絡んでいたり、関係がなくても加害者の動機や事件の背景がはっきりしていた事件が多かった。そのため被告人に死刑判決が下りなくても多くの人がその内容に納得することができた。それがバブル期以降になると加害者と被害者の関係がなく、かつ加害者が犯行を行う動機・背景が常識では理解できない犯罪が目立つようになって来た。 特に目立つのが秋葉原の通り魔殺人に代表されるような「アベンジャー型」と呼ばれる犯罪である。岡田尊司氏の著書「アベンジャー型犯罪」(文春新書)によると、加害者がこのような事件を起こす要因として以下の項目を挙げている。 ・不適切な成育環境(親の過保護・過干渉・虐待・無関心、家族関係の崩壊または不安定)による人格の歪み(自己愛性の肥大、共感性の欠如、家族への憎しみ・拒絶と依存心の共存、逆境に対する耐性の欠如など) ・周囲からのストレス(挫折体験、過酷な労働、人間関係をめぐる軋轢、不当な扱いを受けるなど) ・ヴァーチャルな環境(ネットやゲーム)に依存することによる妄想性の増大、現実感の失調 これらの要因が重なると、人間はそのような状態に追い込んだ社会に対する復讐者(アベンジャー)と化す。人間の殺傷そのものが目的となり、無関係な人間を巻き込む。家族や社会に自分の鬱積を思い知らせようとするため、事件の規模を大きくしようとし、劇場型犯罪になりやすい。 また、このような形でなくても、名古屋の女性派遣社員拉致殺害事件のように、今までまったく関係がなかった複数の加害者がネットによって集まり、行きずりに被害者を襲うといった想像を絶するような事件が起きている。この事件ではいまや日常的に利用するようになったネットに今までとは違った形の凶悪犯罪を促すような仕組みができていたことが社会に衝撃をもたらした。 被害者・遺族にとってはいかなる凶悪犯罪も理不尽なものであるが、アベンジャー型犯罪に代表される最近の特異な犯罪は第三者にとっても理解しがたいものである。多くの人は自分の理解を超えているような事柄に対しては拒絶する傾向にある。そこでこのような犯罪を起こした人物を排除しようとして死刑を求めるようになるのである。 ところで、なぜこのような犯罪がバブル期を境に増えるようになったのか?それは共同体の消滅などで人間同士の交流がなくなり、また競争社会によるストレスが大きくなった結果、孤立した人間が個々に抱える負荷を支えられなくなったことも影響している。幼いころのバランスを欠いた育てられ方によって性格をゆがめられた人間も社会との皮相的でないつながりがあれば立ち直るきっかけを得られたかもしれないのである。 死刑支持の背景2.遺族の報復感情をさらに昂進させる社会構造 ここ20年ほどの間に被害者や遺族が加害者に重い罰を強く求める姿が大変目立つようになった。それが判決の厳罰化・死刑支持の増加の大きな要因のひとつになっていることは間違いない。彼らを支援する人々は「被害者の人権」を口にし、その名の下に少年事件の審判内容を被害者に知らせる制度や裁判の被害者参加制度などができた。しかしバブル期より前は被害者・遺族が加害者に対して強硬に重い刑罰を求めるということが目立つことはなかったように思われる。これをどのように考えればよいか? ひとつの可能性として、被害者・遺族は常に加害者に対して重罰を与えるように主張していたがマスコミが取り上げなかったと考えることもできる。しかし世を騒がすような凶悪犯罪は常に新聞の社会面などに大きく取り上げられ、裁判などの経過も詳しく報じられてきた。そこで被害者・遺族が重罰を強く求める姿が目立てば何らかの形で報じられるはずである。だがどう考えてみても20年より前の刑事事件の裁判で強く重罰を求めていた被害者・遺族の印象はほとんどない。 それでは被害者・遺族は重罰の要求を押さえつけられていたのだろうか?今までの日本社会がそれを押さえつけなければならなかった理由はどこにもないし、「世間」にそのような行為がはばかられる空気があったような気配は感じられない。 そこで考えられるのはそれまでの被害者や遺族は厳罰を強硬に要求するほどまでに報復感情が強くなかったということではないだろうか。少なくとも筆者にはバブル期より前の凶悪犯罪の遺族に現在の遺族と同じほどの強い報復感情は感じられないのである。では、なぜ20年以上前の遺族はそれほど報復感情が強くなかったのか。 ひとつの考えとして、そのころまでの社会には人間同士の交流が今よりも強かったことにその理由があるような気がする。地域共同体はそのころにはかなり解体が進んでいたが、それでもまだいくらか機能していた。また、多くの人が所属する企業に共同体としての機能が備わっていた。凶悪犯罪の遺族は共同体の中での交流により事件で生じた重い負荷を和らげることができ、またさまざまな人の考えに触れることによって自分の立場を相対化することもできたと思われる。それが遺族の受けた心の傷をある程度癒すことにつながったのではないだろうか。 ところがそれ以降になると地域共同体はいよいよ壊滅状態になるばかりでなく、市場優先の新自由主義により企業内部にまで持ち込まれた露骨な競争原理は企業から共同体としての機能を奪ってしまう。さらに競争至上の世界は孤立化した個人に対し重いストレスをかけるばかりでなく、自分自身を内省する時間をも奪ってしまう。 このような状態で自身または家族が凶悪事件に巻き込まれたらどうなるだろうか。事件によって受けた心の傷だけでも耐えがたいのに日常のストレスもそのまま残り、さらにマスコミが取材に殺到してメディアスクラム状態になればそのストレスも背負うようになってしまう。遺族はその負荷のすべてを加害者にたたきつける以外になくなってしまうのである。このようにして被害者・遺族は過剰なまでの報復感情を加害者に抱くようになったのではなかろうか。 死刑支持の背景3.共感の域を超えて遺族と「同化」してしまう「世間」と、それを煽るマスコミ 最近、起きた凶悪犯罪に対する世論は被害者・遺族の立場に立つ意見が圧倒的に多く、加害者側の立場はともかくとして、第三者の冷静な立場の意見は目立たないようになっている。さらに被害者側の立場の意見を個々に見ていくと被害者・遺族に共感するという域を超えて彼らとシンクロ化しているのではないかと思えてしまう。 ここで「共感」とはどういうことかということを考えてみる。講談社の日本語大辞典を引いてみると、「共感」とは考えや感情に親しみを持って相手と同じように感じることと書いてある。千差万別な他人の中に自分と同じ考えや感情を発見することで自分に通ずるところを見ることが「共感」なのである。しかしそれは自分と他人を「同化」させてしまうことではない。昨今の被害者側に立つ人の多くは被害者・遺族と自分の違いを無視して「同化」してしまっているように思える。それは自らの「情念」の投影である。なぜならもし本当に被害者・遺族に共感できているのなら被害者・遺族側だけでなく加害者にも自分に通ずるところを見出すことができるはずだからである。 共同体の崩壊や競争社会がもたらすストレスは加害者や被害者・遺族のみならず今の社会を生きるすべての人々に等しくのしかかっている。人々は生活が楽にならないことへの不満や将来への不安を日々抱き続けている。しかも不満や不安を生じさせている具体的な原因を見出せない。人々はストレスのはけ口を無意識に求めている。そこにアベンジャー型に代表されるような特異な凶悪事件が発生したとき、多くの人は理解しがたい加害者に「敵」を、被害者・遺族に自分自身を見出してしまうのである。そして自らが加害者と同じ立場に置かれ、同じ罪を犯す可能性に思い至らない。 このような感情をさらに煽るのがマスコミである。多くのマスコミは部数増や高視聴率をもくろみ、多くの人の関心を引こうとして加害者の特異性をことさら強調したり、事件の残虐性を繰り返し伝えたりするなどのセンセーショナリズムに走る。その姿勢が加害者の真の人物像への理解をさらに遠ざけてしまう。そして肝心な、事件の背後に何があるのかという報道は少ない。 マスコミに煽られた感情はネットの掲示板を増幅回路にしてさらに膨張する。匿名な空間で発せられた言葉は過激化しやすいからである。こうして加害者に死刑を求める声が圧倒的多数を占めることとなる。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、今の日本では罪もろとも人まで憎まれてしまうのである。 それぞれの背景に共通するもの さて、これまで死刑を支持する世論の背景を凶悪事件の性質の変化、遺族の報復感情の高ぶり、それを支持する世間を取り巻く状況の3つの観点で見てきた。それぞれの背景に共通する部分がある。それは共同体の崩壊による人々の孤立化、競争社会がもたらすストレス、共感性や想像力の喪失、自己を見つめる機会の剥奪などである。それは、人間が暮らしている社会の構造が過酷なものとなっていることを示している。 それは、単に死刑制度の存続の原因になっているだけではない。日本では人が生きていく条件がいかに満たされていないかを示している。明治からの日本の社会は産業優先の政策が長く取られ、生活の条件を整えることの順位は低かった。それを補ってきたのが地域共同体や企業内の共同体であったのだが、新自由主義政策はそれを壊滅状態にした。そういう意味では凶悪事件の加害者もそのような社会の犠牲者である。それで彼らの犯した罪がチャラになるわけではないのだが、事件が起こった背景を分析せずにすべてを加害者を罰することでおしまいにするのでは問題は解決しない。 現在、アムネスティの日本支部や監獄人権センターなどのNGO・NPOが日本での死刑廃止運動に取り組んでおり、国会にも「死刑廃止を推進する議員連盟」が結成されているが、それがうまくいっていないのは、啓発に熱心なのはいいのだが、それを阻んでいる原因にまで手が回っていないからではないだろうか。今のままではいくら国際的な潮流であることを説いても死刑廃止に賛同は得られない。たとえ終身刑が導入されてもそれが死刑を減らすことにつながらないのではないだろうか? したがって死刑を廃止したいのであれば人間性を摩滅させてしまうこの社会を再生する必要がある。多くの人が人間性を取り戻し、人と人の間の交流が生まれ、共感性や想像力が育まれてこそ死刑廃止に理解が得られるようになる。特異な凶悪犯罪が減り、遺族が心の傷を癒すことができ、世間に加害者の背景を理解しようとする態度が育つことが必要なのである。 おわりに 本稿に対する識者の意見を尋ねる欲求を抑えることができない。そこで僭越ながらご意見をいただきたい方を指名させていただく。ただしこれはあくまでも筆者の「お願い」である。それぞれのかたがたの返事をお待ち申し上げる。もちろんほかの方々のご意見も歓迎する。
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