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平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう) [ 日本大百科全書(小学館) ] (1867―1952) http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/433.html
(回答先: 帝人事件(ていじんじけん) [ 日本大百科全書(小学館) ] 投稿者 新世紀人 日時 2010 年 2 月 03 日 15:10:03) http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E/ 平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう) [ 日本大百科全書(小学館) ] (1867―1952) 司法官僚出身の政治家。津山藩士の子として岡山県に生まれる。1888年(明治21)帝国大学法科卒業後、判事となり、東京控訴院部長を経て検事に転じた。政党勢力に対して峻厳(しゅんげん)な方針をとり、1907年(明治40)の日糖疑獄では多数の政党政治家が起訴された。11年西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の司法次官となり、検事総長、大審院長を歴任。23年(大正12)第二次山本権兵衛(ごんべえ)内閣の法相となるが、同年12月の虎(とら)の門(もん)事件に衝撃を受け、翌年5月、皇室中心主義の修養団体、国本社(こくほんしゃ)を結成する。国本社には陸海軍将官、高級司法官僚、枢密院、貴族院などの有力者が参集し、平沼は政界に隠然たる勢力を築いた。25年枢密院副議長となり、金融恐慌問題、ロンドン軍縮条約問題では政府を攻撃し、政党内閣の基盤を掘り崩した。31年(昭和6)の満州事変勃発(ぼっぱつ)後、右翼や軍部の間から平沼内閣を求める声が広まったが、元老西園寺はこれを忌避していた。36年枢密院議長になると国本社を解散し、政権担当を目ざした。39年1月第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の後を受けて組閣、日独軍事同盟の成立に苦心したが、独ソ不可侵条約の締結によって「複雑怪奇」の声明を残して総辞職した。以後、第二次、第三次近衛内閣の国務相を務め、太平洋戦争期には重臣の1人として東条英機(ひでき)内閣の倒壊工作にも関与した。敗戦直前のポツダム宣言受諾をめぐる御前会議では、陸軍側の4条件案に反対し、和平条件を国体護持のみに絞ることを主張した。戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として終身禁固を宣告され、昭和27年8月、服役中に病死。終生、独身であった。 [ 執筆者:小田部雄次 ]
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