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検察の「暴発」はあるのか(下)― 郷原信郎(日経ビジネスオンライン) http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/414.html
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100201/212508/?bvr 2010年2月3日(水) 検察の「暴発」はあるのか(下) 郷原 信郎 【プロフィール】 政治資金規正法 小沢一郎 民主党 陸山会 検察 検察庁法14条但書による法務大臣の検事総長に対する指揮権は、行政権に属する検察の権限行使に対する唯一の民主的コントロールの手段として規定されたものだが、造船疑獄での犬養法務大臣の指揮権発動が、国民の多くに、「政治の圧力」が「検察の正義」の行く手を阻んだ事例のように認識されたことで、それ以降、検察の正義は、政治が介入してはならない「神聖不可侵なもの」のように扱われることとなり、指揮権は、事実上、「封印」された形になった。 しかし、「『法務大臣の指揮権』を巡る思考停止からの脱却を」で詳しく述べたように、実は、この事件における指揮権発動は、捜査に行き詰まった検察側が「名誉ある撤退」をするために、自ら吉田茂首相に指揮権発動を持ちかけた「策略」だった。そのことは、元共同通信記者の渡邉文幸氏の著書『指揮権発動―造船疑獄と戦後検察の確立』(信山社出版)で、事件当時法務省刑事局長だった井本台吉氏の証言などを基に明らかにされているほか、新聞等でも関係者の同様の証言が取り上げられており、ほぼ定説となっている。 今回の事件で、検察が、小沢民主党幹事長の刑事責任追及の動きを見せた場合には、造船疑獄事件における当時の佐藤自由党幹事長の逮捕をめぐる法務大臣指揮権と同様の構図が再現されることになる。 両者に共通するのは、検察捜査に無理があること、そして、一方で、政治状況にも不安定な面があり、検察の権限行使によって政権自体が壊滅的なダメージを受けかねないことである。造船疑獄事件での指揮権発動は、吉田内閣に対する国民の厳しい批判を巻き起こし、吉田首相は退陣に追い込まれ、それが保守合同の実現、「55年体制」の確立につながった。
今回の事件についても、これまで述べてきたように、石川議員の逮捕事実自体にも問題があり、小沢幹事長に対する刑事責任追及は常識的にはあり得ないが、もし、検察が、あえて、それを行おうとしてきた場合、民主党政権の側には法務大臣の指揮権発動が一つの選択肢となる。しかし、その発動の仕方を誤れば、吉田内閣と同様に、鳩山首相は退陣に追い込まれ、民主党の分裂など、政治の枠組みが大きく変わることになりかねない。 このような場合の法務大臣の指揮権発動に関しては、造船疑獄の教訓が最大限に活用されなければならない。そこで、最も重要なことは、事件の事実関係、証拠関係の十分な検討の上で法務大臣としての判断を下すことである。造船疑獄事件においては、「重要法案の審議」への「政治的配慮」だけが指揮権発動の理由とされ、佐藤幹事長に対する容疑事実の内容には言及されなかった。それが、政治的圧力が検察の正義の行く手を阻んだように誤解される原因になった。 法務大臣が指揮権の発動を検討するに当たって、その前提となる事実関係、証拠関係について検察当局から報告を求めるのは当然のことである。検察の権限行使を差し止めるのであれば、まず、事実関係、証拠関係が権限行使の十分な根拠となり得るものか否かを判断する必要がある。 既に述べたように、今回の事件に関しては、報道されている範囲内の事実関係であれば、陸山会の代表者である小沢氏自身の刑事責任追及は極めて困難だと考えられる。法務大臣としては、そのような方向の検察の権限行使に当たっては、十分な時間的余裕を持って事前に報告するよう指示し、検察側が報道されている以上の証拠、事実をつかんでいるのかどうか、それによって強制捜査や起訴が正当か否かを判断すべきだ。 その結果、十分な証拠や事実に基づかずに検察当局が小沢氏本人に対する捜査権限を行使しようとしていると判断した場合には、検察当局から示された証拠関係や事実関係を公開した上で、指揮権を発動するという選択肢もあり得る。 刑事事件の事実関係は、捜査、公判業務に密接にかかわるものであり、個人のプライバシーも多く含まれていることなどから、「訴訟に関する書類は公判の開廷前はこれを公にしてはならない」との刑訴法47条本文の規定によって、具体的な刑事事件についての事実関係や証拠関係を公表することは差し控えられてきた。 しかし、殺人、強盗のような一般的な刑法犯であれば、犯人を検挙し処罰することが最優先されるのが当然であるが、政治資金規正法違反事件というのは、まさに、国民に対する政治資金の収支に関する情報の公開が問題になっているのであり、検察当局の動きが、単なる刑事事件の処罰を超えて、政治闘争の色彩を帯びている場合には、情報が公開され、十分な議論が行われた上、最終的に国民が判断することが重要である。 検察の権限行使が適切ではないと判断して指揮権を発動するのであれば、法務大臣は、検察当局から示された証拠関係を公開し、その判断の是非を公の議論と国民の判断に委ねるべきである。その場合の証拠の公開は47条但書の「公益上の必要その他の事由があって、相当と認められる場合」に該当すると言えるであろう。指揮権発動の判断が国民に支持されない場合には、法務大臣として責任を問われることになり、首相の任命責任につながることもあり得る。それだけに、法務大臣が十分な証拠の検討に基づき適切に行われるよう、法務大臣をサポートする体制を整えることが必要となる。
本件の事実関係が、基本的に報道の範囲内なのであれば、もともと、小沢氏自身が刑事責任を追及されるような話ではない。しかし、小沢氏の刑事責任が追及されず、今回の捜査が検察の「敗北」に終わったとしても、資金管理団体による不動産取得等に関する小沢氏に対する批判がすべて的外れだったということではない。 本件当時、資金管理団体による不動産の取得は禁止されておらず、多数の秘書を抱える有力政治家が政治資金を有効に活用する方法として秘書の宿舎のための不動産を取得することに一定の経済合理性があることも確かである。しかし、そもそも、資金管理団体は特定の政治家のための政治資金の財布のような存在である。その団体が代表者の政治家の名義で不動産を所有した場合、その政治家が死亡した後の不動産の所有関係に問題が生じることは避けがたい。 今回の陸山会をめぐる政治資金の問題の背景には、このような資金管理団体による不動産取得に関する疑念があったのであり、小沢氏には、その疑念を晴らすための十分な説明と不動産の所有関係の問題を解消するために納得できるだけの措置をとる必要がある。法令に違反していないので問題はない、という言い方は、悪しき「法令遵守」主義そのものであり、「政治団体の収入・支出についての誤りはすべて処罰の対象」という理屈で今回の捜査を進めてきた検察の「法令遵守」主義と同レベルだと言えよう。 小沢氏は、刑事責任追及を免れた場合も、今回の事件に関連して受けた様々な批判を、真摯に謙虚に受け止め、政治的、社会的責任を明確にすることで国民の信頼を回復することに努めるべきだ。 「小沢VS検察」の対立構図になって以降、検察の敗北が小沢側の報復と検察の支配につながることへの懸念が、法務・検察や、それを支持するマスコミの大義名分にもなり、それが強引な検察捜査を可能にしてきたとも言える。今回の捜査が検察の敗北に終わった場合、検察の組織は、危機な状況に陥る。そうした中で、小沢氏側が政治的な力で検察に対する報復や検察組織の解体を行おうとすることはあってはならない。「小沢VS検察」の対立構図になって以降、検察が敗北すれば小沢氏側からの報復などにつながるとの懸念が、小沢氏側に対する検察捜査の大義名分となってきた面もある。 検察捜査が敗北に終わった場合においても、小沢氏の側には検察に対して慎重な対応が求められる。報復的に検察組織に介入したり、支配をしようとする動きは、検察の捜査権限を政治的に利用する悪しき前例を残すだけだ。小沢氏側がそのような動きを見せた場合には、筆者を含め、今回の問題に関して検察の「暴走」を批判してきた多くの論者は、一斉に小沢氏側を批判する立場に回ることになるであろう。
拙著『検察の正義』(ちくま新書)の中でも述べたように、検察の危機の根本的な原因は、社会的価値判断が不要な一般的刑事事件中心の刑事司法において「正義」を独占してきた検察が、社会が複雑化・多様化し、複雑化・多様化する中で、様々な分野における法令違反行為に対する健全な制裁機能を果たすことを求められているにもかかわらず、組織の閉鎖性、硬直性ゆえに、社会の構造変化に対応できず、大きく立ち後れていることにある。 検察は、今回の事件を機に、検察組織が直面している危機的な状況を認識し、特捜検察の組織体制や権限行使の在り方についての抜本的な改革に自ら着手しなければならない。 最悪のケースは、検察の「暴走」が成功し、「小沢VS検察」が検察の勝利に終わった場合だ。最大の政治権力者を、今回のようなレベルの政治資金規正法違反の容疑で葬り去ることができるとすれば、もはや、マスコミ報道を味方につけた検察の権力に対抗できる個人も組織もなくなるであろう。昭和初期に、帝人事件をはじめとする検察の疑獄摘発と軍部の台頭によって民主主義が崩壊したのと同様に、戦後初めての選挙による政権交代によって新しいステージに入りつつあった日本の民主主義は重大な危機に瀕することになる。 最後に、「THE JOURNAL」のコメントの中にあった、戦時下の体験を綴った匿名の一文を紹介して、本稿を締めくくることとしたい。 「戦時中、軍国少年だった私です。太平洋戦線が始まった頃、学校の担任教師が『2・26事件』を論評し、政府要人を殺害した青年将校の所業について≪彼らの行為は自分の生命を犠牲にして、腐敗と悪臭に満ちた重臣たちを征伐した≫と、小学生の私たちに教えました。戦後になって、その教師たちも、自分たちの誤りに気づいたことと思いますが、戦時中は、大多数の日本国民が、『2・26事件』の犯人(青年将校)を、そのように評価していたのは事実です。 これは戦時中に書かれた数々の書物に残っていますが、中には事件の犯人たちを≪幕末の勤皇の志士≫と同じとまでなぞらえ、称賛していた作家もいたのです。 だからこそ、事件を起こした青年将校たちは≪自分たちの政府要人たちの殺害は、昭和維新を実行する【正義の鉄槌】と信じ込み≫新聞・世論も、それを安易に容認していたのです。 今回の東京地検特捜部の独走は、戦前の『2・26事件』ほか、数々の≪自分たちだけが、正義である≫の誤った独断で、日本を破滅に導いた悪夢の再来としか思えません。 【自分たちだけが正しい】。こうした考え方を、凶器同然の【国家権力の逮捕権】を持っている人々が思いこんだとき、民主主義は破滅いたします。」
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