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転載:権力闘争の構図 by 田中良紹の「国会探求」 http://www.asyura2.com/10/senkyo78/msg/885.html
田中良紹の「国会探求」 様ブログ 1月27日記事 −権力闘争の構図− (以下に全文転載) 「国民主権」の国家では、国民から選ばれた政治家や政党が国の進路や政策を巡って争い、それを国民が判断する。国民に支持された政党は国民から権力を与えられ、その代表が最高権力者となって国の進路を決め政策を実現する。国民に支持されない政党は次の選挙で権力を得るべく政策に磨きをかける。つまり誰に権力を与えるかは国民が決める。ところがかつての日本にはそうした権力闘争の構図がなかった。 自民党の中だけで権力闘争が行なわれ、最高権力者が交代してきた。野党第一党の社会党が決して過半数を越える候補者を選挙に立てなかったからである。全員当選しても権力は握れない。むしろ権力を握らないところに社会党の本質があった。自民党と社会党は経営者と労働組合の関係で、労働組合は分配を要求するが経営権は奪わない。そのため国民には主権を行使する機会が与えられなかった。 自民党政権下では国民生活に関わる予算は霞が関の中で決められ、法案のほとんども官庁が作成した。つまり国の政策は専ら霞が関の官僚に委ねられた。と言っても初めから全てがそうであった訳ではない。国の進路を決めたのは官僚ではなく政治家である。安全保障を米国に委ね、貿易立国で経済成長を図る路線を敷いたのは吉田茂や岸信介、椎名悦三郎といった政治家だった。初めは「官僚主導」でなく「政治主導」だったのである。 しかしそれが世界も驚く高度成長を成し遂げると、その成功体験を誰も否定できなくなった。日米安保と貿易立国が金科玉条となり、その推進役の官僚が次なる進路を考える政治家より尊重された。「政治主導」が「官僚主導」に移行していく。予算や法案を霞が関が作り、それを国会が承認・成立させる分業体制は、次第に国会を形骸化させていった。国民には「国民主権」の幻想があるから、自分たちの選んだ与野党が経営者と労働組合だとは思わない。国会では野党が与党の権力を奪おうとする姿勢を見せなければならない。すると野党は予算や法案よりスキャンダル追及に力を入れた。 権力を奪う気があれば国民生活に直結する予算や法案に関心は向かうが、その気がないと権力者のスキャンダルを追及する方が面白い。こうして予算を審議する筈の予算委員会がスキャンダル追及の主戦場となった。これは官僚の喜ぶところである。官僚が作った予算がろくな吟味もされずに成立し、政治家はダーティなイメージに包まれる。本音では「国民主権」など認めていない官僚は、国民の選ぶ政治家がダーティだと思われる方が都合が良い。 この構図を利用して政治にくさびを打ち込んできたのが検察権力である。戦後最大の疑獄事件とされるロッキード事件では東京地検特捜部が田中角栄元総理を逮捕して「最強の捜査機関」と拍手喝采された。しかし実は日本の検察に「最強の捜査機関」の能力などない。その実態がどれほど劣悪かは、産経新聞社会部記者として18年間検察を取材してきた宮本雅史氏の「歪んだ正義―特捜検察の語られざる真相」(情報センター出版局刊)や、同じく産経新聞社会部記者として12年間検察を取材してきた石塚健司氏の「『特捜』崩壊―堕ちた最強捜査機関」(講談社刊)に詳しい。 宮本氏はロッキード事件と東京佐川急便事件を取り上げて検察捜査の異常さを指摘し、「歪み」の出発点を造船疑獄事件に求めている。石塚氏は大蔵省接待汚職事件と防衛省汚職事件での特捜の暴走ぶりを紹介している。これに前回紹介した「知事抹殺―つくられた福島県汚職事件」(平凡社刊)や「リクルート事件―江副浩正の真実」(中央公論社刊)を加えると、検察の「でっちあげ」の手口がよく分かる。私もロッキ−ド事件で東京地検特捜部を取材した記者の一人であるから、ロッキード事件が「総理の犯罪」にすり替えられていく過程を体験している。 ロッキード事件は日本だけでなく世界中で起きた。西ドイツ、オランダ、ベルギー、イタリアなどにもロッキードの賄賂がばらまかれた。西ドイツの国防大臣、オランダ女王の夫君、イタリア大統領らが賄賂を受け取った事実を公表された。しかし誰一人刑事訴追されていない。外国企業の工作資金を受け取ったとしても、国益を損ねなければ刑事訴追の必要なしと判断されたからだろう。しかし日本だけはロッキード社からの55億円の工作資金のうち5億円だけを解明して田中元総理を逮捕し、事件を「総理の犯罪」と決めつけた。事件の全容を解明する事なく田中元総理一人を逮捕したやり方は検察権力の政治介入そのものである。 ところが「クリーン」を売り物にした三木元総理はそれを機に政治資金規正法の趣旨をねじ曲げ、やってはならない金額の規制に踏み込んだ。そこから政治資金規正法は官僚による政治支配の道具となる。その辺の事情は以前書いた「政治とカネの本当の話」(1〜3)を読んで貰いたい。以来、日本では「政治とカネ」の問題があたかも民主主義の根幹であるかのように錯覚させられ、政治家の力を削ぐ刃となった。 90年代に冷戦が終わると世界は大きく構造変化した。米国の敵はソ連ではなく日本経済となる。米国議会は日本経済を徹底分析し、強さの秘密は日本企業ではなく、その背後の政官財の癒着にあると判断した。そして日本経済を潰すのに最も有効なのは司令塔である大蔵省と通産省を潰すことだと結論づけた。すると間もなく日本の検察が「ノーパンしゃぶしゃぶ」接待をリークして大蔵省のキャリア官僚を逮捕する事件が起きた。 当時の日本は金融危機の最中であり、大蔵省の金融行政が批判されていた時だから世論は圧倒的に検察に味方した。しかし石塚氏の「『特捜』崩壊」を読むと事件は全くの「でっちあげ」である。接待側を脅してウソの供述調書を数多く積み上げ、それを否定するには全員のウソを証明しなければならない状態に追い込み、否認は無駄と思わせた。逮捕された30代のキャリア官僚は接待の席に居ただけだったが、国家が官僚の中の官僚と言われた大蔵省権力を分割し、金融庁を作り出す過程の中で「生贄」にされた。 事件の前後には、特捜部の捜査によって大蔵官僚の縄張りだった公正取引委員長、預金保険機構理事長などのポストが次々に法務・検察官僚に持って行かれる事態も起きていた。要するに米国の権力が日本経済を潰すため大蔵省をターゲットにする中で、国内にも大蔵省を分割しようとする権力があり、そこに霞ヶ関の縄張り争いが絡まって大蔵省接待汚職事件は作られた。検察にすれば「時代の流れ」に沿う捜査と言うだろう。しかし国益にかなう捜査であったのか疑問である。 「ノーパンしゃぶしゃぶ」のリークに見られるように、あらかじめ摘発の対象を「悪」と思わせる手法をとるため、検察の捜査は常に「正義」とメディアに報道される。しかしこれはナチスの宣伝相ゲッベルスの手法そのものである。メディアを使って大衆を扇動し、大衆にシロをクロと思い込ませれば、裁判所も無罪の判決を下せなくなる。福島県汚職事件では一審判決で7千万円だった水谷建設からの賄賂が二審ではゼロと認定された。それでも有罪は覆らない。このカラクリになぜメディアはいつも引きずられるのか、こちらの取材能力も相当に劣悪である。 去年の総選挙で国民は初めて自らの手で権力を誕生させた。霞ヶ関の中だけで決められた予算編成の一部が「事業仕分け」として公開され、国民は熱狂した。国民にとって予算を実感出来た事が新鮮だった。それはこれまで予算委員会がスキャンダル追及に終始し、予算審議をまともにやって来なかった事の裏返しである。長い「官僚主導」の権力構造が崩れ始めたと思われた時、また検察権力が動いた。いつもながらの「政治とカネ」の問題で政治権力と対峙したのである。特捜部長は「殺すか殺されるかだ」と物騒なことを口走ったと言う。究極の権力闘争と認識しているのだろう。 国民主権が選び出した政治家と国家試験で選ばれた検察官僚との戦いの帰趨は、この国の「国民主権」のあり方に大きく関わる事になる。それにしても野党自民党が予算委員会で「政治とカネ」の追及に終始している姿はかつての社会党を彷彿とさせる。なぜ予算委員会で「事業仕分け」と同じように予算の中身を追及しないのか、私には不思議でならない。 ─────────────── (以上、転載終了)
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