12. 2011年2月27日 09:56:40: 9lLEdfe5g6
○削除禁止:2/27の自称「元」極左過激派主催の鎌倉デモについて(リチャード・コシミズです。) 本日、2/27の「小沢支持」鎌倉デモの主催者は、阿修羅の有名人、愚民党さんだと聞いています。さて、御本人のHPによれば、以下の「左翼遍歴」があるそうです。 ●塚原さんの「極左」経歴 ◎手配の活動家逮捕 日雇い求職票を偽造 県警鉄道隊−静岡市 90.11.02 静岡 朝00版23面03段 589文字 SS97629 静見 =02付一社 静岡県警鉄道警察隊は一日までに、神奈川県警伊勢崎警察署から有印私文書偽造・同公使の疑いで指名手配されていた過激派「戦旗 ・荒派」の活動家で東京生まれ、住所不定、塚原勝美容疑者(37 )を逮捕した。調べによると、塚原容疑者は、八月中旬、架空の名前を使った日雇い求職票を偽造して横浜港労働公共職業安定所に提出し、日雇労働被保険者手帳(通称・白手帳)を不正取得した。県警鉄道警察隊員が十月三十一日午前三時ごろ、JR東海道線静岡駅に停車中の東京発大垣行き普通列車内で警ら中、洗面所でたばこを吸っていた不審な男を職務質問したところ、塚原容疑者と分かった。塚原容疑者は、機関誌やビラを所持していた。塚原容疑者が所属する「戦旗・荒派」は、昭和六十一年十月十四日、国鉄の分割・民営化や成田空港二期工事に反対し、三島市と沼津市内で盗んだ乗用車を使い、東京・霞ケ関の検察庁合同庁舎などに火炎弾を打ち込むなどのゲリラ事件を起こしている。県内では九月二十七日に静岡市内で過激派・中核派のアジトを警視庁が摘発、活動家二人を逮捕した。県警も即位の礼、大嘗祭(だいじょうさい)に向け、職務質問の徹底など過激派ゲリラに対する警戒・警備を強化している。 1953年東京・調布市都営住宅生まれ。 1歳で栃木県矢板市豊田村に里子。 まんが家をめざしていたが、70年安保闘争の怒涛により、栃木県北反戦青年委員会に加盟。 70年安保闘争を栃木県反戦高校生デモ隊でたたかう。 全国反帝高校生評議会に参加。 宇都宮大学社会主義研究会に出入りし、栃木県下の反戦高校生と討論する。矢板高校において反戦高校生会議を組織・建設。 学内民主化闘争を推進する月刊ガリ版印刷雑誌「さわがに」を仲間とともに発刊 全クラスに配布して、校内問題となる。数々のビラをまく。 入管法改悪阻止の運動を推進。 1970年12月社会主義青年同盟(解放派)栃木県委員会に加盟(高校3年17歳)。バリ封鎖の卒業式粉砕を画策したが失敗。処分をくらう。 71年印刷工として、栃木県反戦工場労働運動を推進。(18歳) 1971年沖縄返還粉砕連続闘争を首都において、たたかう。「おれは、ひとりで東京の集会に連日自己動員していっているのに、あなたたち 先輩はなぜ、首都決戦に参加しないのだ!栃木から行っているのは、おれと宇都宮大学治自会の学生だけだ」栃木県書記長とケンカをする。 沖縄返還粉砕首都決戦において、闘争とは方針を生み出すためにあることを機動隊に蹴られ、ぶん殴れながら学ぶ。 地元栃木県北において自主上映運動を推進。反核映画・反戦映画・パリ・コミュ−ン等を上映 1971年10月栃木県委員会執行委員に選出される。(18歳) 社青同県北支部担当となる。 1972年、地元矢板における秋木工場閉鎖阻止連帯会議を組織、栃木県県労会議の事務所に出入れする 秋木闘争支援栃木県青年労働者集会を組織・成功させる。(19歳) 1973年1月、社青同解放派での栃木県での運動に挫折。 1973年1月社会主義青年同盟栃木県委員会(解放派)から脱落。 19歳、1973年1月東京に出発。日本民主主義青年同盟品川地区委員会に加盟。(20歳) 新左翼に欠落していた戦前革命運動と議会選挙闘争を学ぶ。 民主主義青年同盟矢板地区委員会に移動。議会選挙運動をにらう。 1974年日本共産党へ入党。(21歳) 1975年、人口3万人の矢板市で二人の共産党議員を誕生させる。宣伝担当として、印刷を担当。エレファックス印刷機で多色刷りチラシで 政治ビラの革命を実現させる。一斉地方選挙、栃木県委員会印刷担当。 1977年9月共産党運動に挫折(24歳)10月、横浜市に逃亡。 1980年から再び三里塚闘争に参加。 1983年5月、寺山修司死亡。5月5日、三里塚で空に寺山修司が登っていく幻影をみる。「革命の演劇か」「演劇の革命か」その寺山修司の問いに答えるべく再度、革命の前衛でおのれを鍛えるべく決意する。 戦旗・共産主義者同盟(ブント)の労働者共闘会議に加入。(30歳) 1984年から1989年まで日本革命生活・アジト共同生活。革命主体論、哲学、経済学を学ぶ。(31歳〜36歳) 横浜・川崎・相模原・湘南において三里塚闘争支援・反戦運動を組織。1989年4月、自己の空洞をみすえ、日雇労働運動と革命党の路線との自己矛盾に苦しみ、アジトから逃亡。(36歳) 共産主義者同盟から脱落する。その後、全国日雇労働運動に全力をそそぐ。 東京・山谷/大阪・釜が崎/横浜・寿町/名古屋・笹島/九州・福岡の日雇労働者の仲間とともに山谷労働者福祉会館を建設。(37歳) 1989年から1991年1月まで全国日雇労働組合協議会・ 寿日雇労働者組合執行委員。大成建設、熊谷組、飛島建設、ゼネコン現場闘争を担う。 1990年秋反天皇反だいじょううさい闘争、大阪西成釜が崎暴動勃発。 1990年11月末、寿から大阪釜が崎労働者暴動支援に派遣されたが、途中、大阪への参入を阻止する警察庁指令による全国指名手配として静岡駅にて逮捕される。翌日、新幹線で新横浜まで護送され伊勢崎署に投獄される。NHKニュ−ス、全国新聞・神奈川新聞にて実名報道され、「新聞に名前が載るような人になりなさい」教えを受けた中学時の数学女性教師との約束をなしとげる。連日10時間の取り調べ、黙秘闘争貫徹。12月末、処分保留で、寿にもどる。またしても全国新聞と神奈川新聞に「処分保留」出獄の実名報道。 革命と表現の原点を70年代において、敗北につぐ敗北の過程で形成。 1989年事態・東欧ソ連邦崩壊によって、世界革命への展望を喪失しつつも、横浜寿町で日雇労働運動、外国人労働者への労働災害、 賃金不払い等の問題解決に死力をつくして奮闘する。 1991年湾岸戦争の勃発そのデジタル世界の出現に驚嘆し、社会運動の現場から逃亡する。2年間部屋に閉じこもり、図書館に毎日通い、世界史・日本史・文学・経済・政治に関する書物を読み漁り、再度、世界イデオロギ−を建設せんと模索格闘。そのとき寺山修司演劇論を再読し、「革命の演劇か」「演劇の革命か」を再度おのれに問うべく演劇の現場に飛び込むことを決意する。(38歳) 1992年39歳から演劇活動に入る。 以上のご経歴から、「ただ、学生時代にサヨクをちょっと齧っただけ」ではない筋金入りの「極左」であると判断します。「大阪釜が崎労働者暴動支援に派遣された」とあるように「暴動惹起」のノウハウもお持ちと解します。 37歳以降は、「社会運動から挫折し、読書をしながら、世界と日本を発見してまいりました。そして演劇運動に飛び込みました。」とありますが、「世界イデオロギ−を建設せんと模索格闘。そのとき寺山修司演劇論を再読し、「革命の演劇か」「演劇の革命か」を再度おのれに問うべく演劇の現場に飛び込む」とあるように、左翼活動の延長線としての「劇団」活動であったわけです。 この極左活動経歴HPは、たまたま有志の方が見つけたから明らかになったものであり、誰も何も言わなければ知られることはありませんでした。塚原さんが元左翼活動家であることを、デモ参加者は知らずにいるところでした。 さて、デモ主催者が極左出身者だと、何か不具合でもあるのか?私、RKはそこそこ定評のあるジャーナリストです。デモの背後関係に非常に興味を持って事態を注視しています。「デモの拡大、過激化・暴徒化の末の官憲による弾圧、小沢支持者の一掃」のシナリオを実行するなら、デモの黒幕・扇動はノウハウのある極左でないと務まりません。そして、極左は深いところで、「裏社会=世界権力」の手先です。デモ参加予定者の方、どうぞ、よく事態を御理解された上で行動してください。 ちなみに2・20東京デモは、主催者発表で400人参加とのことですが、参加者からは実際には「百数十名」だったと報告されています。「粉飾数字」でしょうか? ●2.20東京デモ。三井環、岩上安身が呼びかけたにも関わらずたった二百人弱。阿修羅住民のあまりの政治意識の低さに驚いた。 http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/1226.html 投稿者 檀界の世代 日時 2011 年 2 月 21 日 06:14:39: 2rjErBUofWJ3Q さて、本日のデモ、どのくらい集まるでしょうか?参加者よりも警察の公安部の私服の方が多いというような事態はないとは思いますが。 ●前科持ちの「極左」主催の鎌倉デモについて、情報を纏めておきます。 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201102/article_64.html ●2月末の鎌倉デモ主催者で、自称「元」左翼活動家の塚原勝美さんへの回答文です。(その1) http://richardkoshimizu.at.webry.info/201102/article_65.html ●2月末の鎌倉デモ主催者で、自称「元」左翼活動家の塚原勝美さんへの回答文です。(その2) http://richardkoshimizu.at.webry.info/201102/article_66.html ●自称「元」左翼過激派主催の鎌倉デモに御参加予定の方へ http://richardkoshimizu.at.webry.info/201102/article_69.html リチャード・コシミズでした。
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