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GENKIのブログより
http://ameblo.jp/hirokane604/
民主・連立政権の外国人関連法案の背景には多くの利権・思惑があり、一概に賛成というわけにはいかない。
朝鮮のことわざというものが有る。
【http://2chcopipe.com/archives/51388617.html】
「女は三日殴らないと狐になる。」
「他人の牛が逃げ回るのは見ものだ。」
「他人の家の火事見物をしない君子はいな。」
「弟の死は肥やし。」
「梨の腐ったのは娘にやり、栗の腐ったのは嫁にやる。」
「母親を売って友達を買う。」
「営門で頬を打たれ、家に帰って女房を殴。」
「姑への腹立ち紛れに犬の腹をける。」
「あんな奴は生まずにカボチャでも生んでおけば、煮て食べられたものを。」
「人が自分にそむくなら、むしろ自分が先にそむいてやる。
「家と女房は手入れ次第。」
「野生のまくわ瓜は、最初に独り占めした物が持ち主だ。」
「らい病患者の鼻の穴に差し込まれたにんにくの種もほじくって食べる。」
「一緒に井戸を掘り、一人で飲む。」
「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる。」
「川に落ちた犬は、棒で叩け。」
「泣く子は餅を一つ余計もらえる。」
およそ日本人には受け入れられるものではない。
しかし、それは感覚的なものだ。
ただ、この世の摂理に反している・・・・ような気がするだけだ。
日本人のその感覚を一概に道徳的とは呼ばない。
戦後の日本人が失いつつある感覚であることは間違いない。
永住外国人地方参政権法案がまさに提出されようとしている。
そもそも日本人とは何か、今の日本人では、韓国人・中国人と見分けがつかない。
見分けがつかなくて良いのかもしれない。
しかし、売国・売国と叫ぶ保守派がいる。国益・国益と叫ぶ評論家たちがいる。
領土、領海、領空だけの問題ならば、静かなる侵略の前に余りにも日本人は無防備ではないか。
我々は、もしかして日本国籍を持つ、日本人らしき者なのかもしれない。
日本人何たるかを見出さず、何かに扇動されるかのような差別や排除は、戦前まで行われていた欧米白色人種によるアジアの迫害・殺戮・侵略となんら変わらない。
子供をしかる時に、その訳を話さず殴る事があれば、紹介したことわざの観念まで引きずり下ろされる。
「自虐史観」の対のベクトルにあるものは「正しい歴史観」ではない。
有史より綿々と我々と共にある「皇国史観」ではないか。
戦前に回帰するものではなく、侵略国の烙印を押された戦後でも、アメリカによりこじ開けられた明治以降でもない。
それは、成文憲法の裏にあり、日本人の根底に流れ、決して窮屈ではなく自由闊達にして縦横無尽。
何者にも囚われず、時代によっては多様な変化を許容するものである。
日本は戦後多くのものを失った、しかしかけがえの無い成長も遂げている。
平和ボケではない、平和を愛する心を学び、かけがえない事を知った。
皇国史観に邪な考えを織り込む事はもはや無いであろう。
日本人とは何か、温故知新とは何か、立ち止まって考える良い機会になるのかもしれない。