23. 2010年1月25日 12:02:02 村田秀雄浪曲師から歌手へ 福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、実父 広沢仙遊、実母 矢野ツタ子の子として生まれる。生後まもなくツタ子の姉弟子である出利葉スミ子の養子となり、その後、スミ子が梶山春雄と結婚し、梶山春雄一家は佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。4歳で京山茶目丸と称し『中山安兵衛婿入り』にて初舞台を踏む。5歳のときに九州の大物浪曲師酒井雲門下に弟子入りし、(64番目の弟子であった)酒井雲坊と称し13歳で真打昇進、14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続ける。1947年に少女浪曲師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。 1949年日本一の浪曲師を夢見て上京し、25歳で村田英雄に改名。1958年古賀政男に見出され無法松の一生で歌手デビューした。しかし当初はヒットに恵まれず(わずかに「人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみ)NHK紅白歌合戦への出場も果たせずにいた。 1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の王将がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「王将」のヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、その人気を不動にする。 1973年には糖尿病の悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中の1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また1981年〜1982年には、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』でネタにされたことにより若者からの人気も得る。 長年三橋美智也、春日八郎らと演歌をリードし、1988年にはこの二人と三人の会を結成し活動した。 作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を歌った曲が多い。 また『二階堂伸』、『北くすお』のペンネームで作詞、作曲もこなしている。 俳優としては1939年少年浪曲師としての初出演を皮切に、1974年まで任侠映画等に多数出演。短身だが男らしい風貌と声で1960年代後半は東映任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。鶴田浩二・高倉健・北島三郎らと多数共演した。 持病の糖尿病が悪化した1991年以降も闘病生活を送りながらも演歌が再び注目されるまで歌うという執念から精力的に活動し、話題を集めた。 1993年 芸能生活60周年を記念し、『俺は村田だ!!』を出版。 1997年 半生記『生命あってこそ』を出版。芸能生活65周年記念パーティーを開く。 1999年 福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)の生家に石碑を建立。 2000年 石田須眞子と再婚。 闘病 村田の人生は糖尿病との闘いでもあった。食生活は好ましいものではなく、野菜嫌いで、太い声を出すには肉を食べることだとして肉を好んだ上、大の酒豪であった。35歳で糖尿病を発症、その後長年にわたり患うこととなる。1972年から1973年にかけて糖尿病のため一時入院した。その後1991年に長年連れ添った妻の梶山ユイ子と、「三人の会」の仲間で公私共に親しくしていた先輩歌手の春日八郎がほぼ同時期に亡くなったことによる心労で病状が悪化、見かねた関係者からの勧めで妻の葬儀終了後に治療のため入院。退院後は「大阪のお母さん」と親しんだ長年の愛人(この人は、と生前の妻も半ば公認していた仲だった)石田須真子のもとに身を寄せ、体調管理を行い小康を得ていたが1995年頃より糖尿病の合併症が深刻となり、同年8月には急性心筋梗塞、欝血性心不全で一時意識不明に陥る。翌1996年1月には「三人の会」の仲間・三橋美智也が亡くなり、「この前、私が倒れたとき真っ先に駆けつけて頂いたのが(三橋)先輩だった。まさか先に逝かれるとは」と絶句。その心労が祟り、翌2月の白内障手術のために入院中に倒れ、6時間におよぶ心臓バイパス手術を受けた(白内障の手術は回復した翌3月に受けた)。さらに5月には右下肢閉塞性動脈硬化症で壊疽状態に陥り、右膝下12センチを切断。この際「一切無になりたかった」と病状が悪化していた90年代以後はカツラを被っていたが外し、剃髪。以後は坊主頭に作務衣がトレードマークになった。翌97年には大月みやこ公演への特別出演という形で全国公演を実施し、回復ぶりを示したものの同年10月に低血糖発作(今まで呑んだことの無かった赤ワインを酒と思わずに大量摂取したためと本人が苦笑いしながら会見)を起こし、一時は生死すら危ぶまれた。2000年1月には左足も同様に切断。それまでは義足で歩いていたが完全に車椅子生活となる。さすがの村田も憔悴していたが「足がなくても歌は歌える」と励ますなど、村田の闘病生活の支えとなっていた長年の愛人「大阪のお母さん」こと石田須真子と「男としてけじめをつける」と再婚。結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。2001年4月、長年のライバル・三波春夫も亡くなり、「これで生き残ってるのは俺だけやな」と絶句。同年6月に「私には時間がない、生きているうちに」と、「三人の会」のコンサートで発表したオリジナル楽曲をレコード会社の垣根を越えてCD化にこぎつけた。2002年5月に体調を崩し、6月13日、合併症の肺炎のため、同日午前9時52分に大阪市内の病院で死去。享年74(満73歳没)。同日、勲四等瑞宝章を授与された。 亡くなる5日前の6月8日には、スポーツ報知が訃報の誤報を一面で報道。その情報を受けてテレビ番組「やじうまワイド」、東京スポーツ、日刊ゲンダイが同様に報道し、関係者を激怒させる事件が発生した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E7%94%B0%E8%8B%B1%E9%9B%84 |