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http://www.egawashoko.com/c006/000315.html
東京地検特捜部の判断は常に正しい、のか
2010年01月19日
民主党幹事長の現・元秘書3人を逮捕し、それに対して小沢氏は断固戦う旨を宣言した。事態は、検察と小沢氏の面子をかけた戦い、戦力を奪い合う闘争といった様相を呈している。
このままでは、自民党に愛想をつかした国民の民主党への期待がしぼむだけでなく、結局どこも一緒じゃないかという政治不信に陥りかねない。国会も、景気対策を含めて、国民の生活や国の経済に関わる論議はそっちのけになりそう。「政治と金」の問題での疑惑を積み残し、政治資金団体をそのまま受け継ぎ親の遺産をごっそり無税で相続する、という裏技で”節税”してきた世襲議員をたくさん抱え、そのうえ情報の公開には消極的だった自民党が倫理や透明性を訴えても、「あなたが言う?」となんだか空しく響く。
そのような事態は、国民の利益を大きく損なう。そのことを考えれば、小沢氏は早くに事情聴取に応じてもらいたかったし、捜査中の事件とはいえ、与党幹事長という公の立場であることを考えて、できる限り国民の疑問にも答え、早期に事態を収束する努力を見せて欲しかった。
刑事事件の捜査の渦中に置かれている時に、洗いざらい何でもかんでも明らかにするわけにはいかない、という事情も分からないではないが、たとえば金融機関に関する情報を小沢氏サイドから検察側に提供したことなどは、民主党の党大会で明らかにするくらいなら、その前に行った記者会見で述べてもよさそうなものなのに…と思う。
しかし、それにしても今回の東京地検特捜部の”やる気”は、尋常ではない。ターゲットを定めたら、徹底的にあらを探し、強制捜査の権限を存分に行使し、メディアを抱き込む世論捜査を行う…。その異様なまでの執念には、恐ろしささえ感じる。
検察当局は、小沢一郎を権力から排除することが正義と信じてやまないようだ。その検察からすれば、昨今の小沢氏の言動は、憤慨に堪えなかっただろう。
昨年5月、このまま民主党が選挙に勝てば、代表だった小沢氏が首相になる、という時に、大久保秘書が起訴された事件の責任をとって、彼は代表の座から降りた。ところが、この事件が思いの外発展しなかったうえ、総選挙に大勝したことで小沢氏は政権に多大な影響を与える実力者となり、実質的には民主党政権の最大権力者となった。しかも、その民主党政権は、検察など官僚の権限を押さえ込み、捜査過程の全面可視化も行うと公言している。小沢氏が検察の出頭要請を無視し、囲碁なんぞに興じている姿も、検察としては大いにプライドを刺激されただろう。今度こそ、小沢氏を権力の座から放逐してやるという検察当局の意気込みが、メディアを通じて伝わってくる。
だが、「検察の正義」が常に「社会の正義」とは限らず、検察の判断が常に正しいとも限らない。
私たちはこのところ、いくつもの冤罪事件を通して、検察の判断の誤りを見て来た。かつては冤罪と言えば、警察の無理な取り調べが最大の原因とされてきたし、最近明らかになた冤罪の数々でも、警察の捜査の問題は大きい。だからこそ、取り調べ課程の全面可視化の必要性が叫ばれているのだが、問題なのは警察ばかりではない。
たとえば、昨年12月に最高裁で再審開始決定が確定した布川事件では、別件逮捕された2人が警察の強引な取り調べでやむなく「自白」したが、拘置所に移送された後、検察官に対して否認した。すると、なんと検察は2人を警察の留置場に送り返し、再び「自白」に追い込んだのだ。そのうえ、裁判や再審請求の課程でも、検察側は2人に有利な証拠を隠し、真実の発見を遅らせた。
とはいえ、こんな声もあるだろう。「今回の小沢氏を巡る事件を捜査しているのは、東京地検特捜部だ。東京地検特捜部といえば、エリート検事の集団。ロッキード事件を初めとする数々の難事件を解決してきた東京地検特捜部が自信を持って捜査を行っているのだから、まず間違いはない」
果たしてそうか。
もしかして、それは”東京地検特捜部幻想”なのかもしれない。
経営破綻した旧・日本長期信用銀行の旧経営陣3人が、証券取引法違反と商法違反の罪に問われていた事件で、最高裁は1、2審の有罪判決を覆し、無罪判決を言い渡した。(当然のことながら)その無罪判決はそのまま確定した。3人は、東京地検特捜部の捜査によって粉飾決算を行なっていたと判断され、起訴されていた。
この判決について、「刑事も民事も経営者が責任を問われなかったのは、ツケを負担した国民としてなんとも釈然としない」(08年7月19日付朝日新聞社説)という不満がある一方で、経済アナリストの森永卓郎氏は、「見識のある素晴らしい判決であり、最高裁が正義を貫いた結果」と絶賛し、次のように書いている。
<長銀のやったことは、大部分の大手銀行がやったことと同じだったのだ。だが、大手銀行にはおとがめがなかった。これは明らかに法の下の平等に反するのではないか。
では、なぜ長銀の旧経営陣だけが罪を問われたのか。そこには、世間に対するアピールがあったのだ。なにしろ、長銀には累計で約8兆円の公的資金が注入され、そのうち4兆8000億円がいまだに戻ってきていない。国民一人当たり約4万円、一つの銀行の破たん処理としては空前絶後の税金がドブに捨てられたのだ。だから、どうしても誰かに責任を負わせなければならない空気になっていたのである>
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/144/index.html
読売新聞も社説の中で、こう指摘している。
<東京地検特捜部が摘発した大型経済事件での無罪確定は、過去にほとんど例がない。
不良債権処理に公的資金が投入された旧住宅金融専門会社(住専)の事件以降、住専の母体だった銀行への批判が強まり、「国策捜査」と言われる摘発が続いた。
銀行批判という時代の“空気”に流された面はなかったか。検証が必要だろう>(08年7月19日>
”空気”に流された検察も検証が必要だが、その”空気”を作ったのは、読売新聞を含めたメディアではなかったか、という観点での「検証」も、必要だったのではないか。
ちなみに、やはり東京地検特捜部が捜査を行った旧日本債券信用銀行の経営陣が粉飾決算を行ったとして旧証券取引法違反に問われた事件も、最高裁が1、2審の有罪判決を破棄し、高裁に差し戻した。
それ以外にも、最近の事例では、東京地検特捜部が捜査・起訴したコンサルタント会社「パシフィックコンサルタンツインターナショナル」(PCI)の元社長が、昨年10月に東京地裁で無罪判決を受けている。
では、政治家を巡る事件はどうか。
ダム建設を巡る談合を背景にした汚職事件で知事が賄賂を受け取ったとして、東京地検特捜部が元福島県知事・佐藤栄佐久氏を逮捕したのは2006年10月。ダム工事を準大手ゼネコンに受注させた見返りに、弟が経営し、佐藤氏も役員に名前を連ねていた会社の土地を、下請けの建設会社に実勢価格を上回る高額で買わせとされ、その差額が賄賂と判断された。
クリーンさを強調してきた県知事が汚職に手を染めていたということで、メディアはこぞって大々的に報道。弟を隠れ蓑に、清廉の仮面をかぶってきたと、佐藤氏の人格も含めて激しく非難した。
ところが、1審、2審と判決を受けるたびに事件は小さくなっていった。
検察側は、土地の売却代金約8億7000万円とその後に追加で1億円、計9億7000万円が佐藤氏の弟に支払われたとし、土地の実勢価格は約8億円と判断。その差額1億7372万円を兄弟が共謀して賄賂として受け取った、として佐藤氏を起訴した。
1審判決では、追加で支払われた1億円に関しては佐藤氏の関与を否定。賄賂性なしとした。そして、残り7372万円について賄賂と認め、有罪とした。
ところが2審は、土地の売却代金と時価に差があるという検察側の主張を退けた。となると差額の利益はなく、佐藤氏側が受けたのは「換金の利益にとどまる」とした。しかも、土地を金に換えた主たる動機は、弟が経営難に陥っていた会社の再建資金調達とされた。そうなると、何がいったい賄賂なのか分からなくなってくる。限りなく無罪判決に近く、弁護人の宗像紀夫弁護士(元東京地検特捜部長)は有罪判決に不満を示しながらも、「検察側の主張の中核が飛び、中身のない収賄事件ということが示された」と語った。
この事件は現在、最高裁で審理が行われている。
佐藤氏が有罪とされたのは、本人などの自白調書があることが、裁判所に大きな影響を与えていると思われる。部下が検察の厳しい取り調べを受ける中で自殺を図ったまま意識を回復せず、逮捕後の取り調べで自身の言い分は聞き入れてもらえず、やはり逮捕された弟が精神的に不安定になっていると知らされ、次第に精神的に追い込まれた末に、不本意な「自白」に追い込まれていく経緯については、佐藤氏自身が著書『知事抹殺』(平凡社)の中で生々しく書いている。
この事件でも、佐藤氏が「天の声」を発したと強調され、弟の会社の土地を買い取った(つまり賄賂を提供したとされる)のが水谷建設であり、小沢氏を巡る事件でも頻繁に見聞きする用語や固有名詞が出てくる。それだけではなく、佐藤氏の事件の捜査を東京地検特捜部副部長として指揮した佐久間達哉氏は、現在、小沢氏を巡る事件の捜査を行っている特捜部長だ。
ちなみに、被告人全員が無罪となった長銀事件も、佐久間氏が担当していた。
こうした大きな事件は1人の判断だけで動くものではないし、佐久間氏の能力にケチをつけるつもりはサラサラないが、このように東京地検特捜部が鳴り物入りで捜査を行い、それをメディアが大々的に報じたからといって、その時点での検察の判断が正しいとは限らないのだ。
日本歯科医師連盟が自民党の橋本派にヤミ献金を行っていた問題も、東京地検特捜部が捜査を行った。ところが、1億円の小切手を受け取った者橋本龍太郎、野中広務元自民党幹事長、青木幹雄自民党参院幹事長の3人はいずれもおとがめなしで、その場にいなかった、村岡兼造橋本派会長代理が起訴された。収支報告書に記載しないことを決めたとされる派閥の幹部会には、村岡氏の他に、野中氏や青木氏も出席していたのだが…。
政治的判断が働いて核心に踏み込むことはせず、かといって、大々的に報じられ国民の関心も高いこの事件を立件しないわけにもいかず、村岡氏一人をいわば人身御供にする形になったのではないか、という疑念はぬぐいきれない。なお、青木氏はその後も参院の「ドン」として権勢をふるい、次の参院選挙にも出馬するとのことだ。青木氏は、十分に「説明責任」を果たされたのだろうか……
このように、東京地検特捜部といえども、その判断に疑問を抱かざるをえない事例はいくつもある。なのに、今回もマスコミ、とりわけ新聞などの活字メディアでは、「東京地検は正しい」という前提の報道ばかりがセンセーショナルに行われている。マスコミの中でも、まだテレビは検察側の主張を鵜呑みにすることには慎重なコメンテーターが出る番組もあるし、多様な見方を伝えたいと考えているプロデュサーもいる。ところが、新聞は朝日、毎日から読売、産経に至るまで、まるで検察の広報紙になったような記事ばかり。逮捕した石川議員の供述の一部が、小出しにされて報じられている。各紙とも小沢氏の幹事長辞職を求め、説明責任を果たしていないと糾弾。小沢氏があたかも暴君であるような人格批判やら、事実上の収賄に関与しているかのような報道まである。
私は、小沢氏の人となりを直接知らないし、格別支持・支援する立場でもないので、彼を擁護したいとは思わない。彼の権限のふるい方にも、違和感を感じてきた。彼に、単に形式的なミスではすまされない問題があるならば、彼の権限の大きさからして、厳しく処断されて当然だと思う。しかし、刑事責任を問う一連の報道の仕方には、「メディアの過去の教訓や反省はどこにいったのだろうか」と嘆かわしく思わざるをえない。
報道機関の役割の一つは権力を監視することなので、政権与党の最大実力者の小沢氏の言動を厳しくチェックすることは当然といえる。だが、検察も権力機関だ。なのにその検察のやることについては無批判に受け入れるだけでいいのだろうか。
私も、小沢氏は国民に対してできるだけ詳細な説明をした方がいいと思う。しかし、捜査の対象となっている小沢氏にだけ「説明責任」を求める、というのは、フェアではない。一方の東京地検特捜部は、顔と名前を伏せて、自分たちに都合のいい情報ばかりをメディア(とりわけ新聞)に流している。しかも、こうした情報が間違っていても、これでは誰も責任をとることはない。
流していい情報ならば、発言者が隠れていないで、佐久間部長自らが堂々と顔と名前を出して国民に「説明責任」を果たしてもらいたい。一連の捜査にかかっている経費も、国民の税金からまかなわれているのだ。万が一、流してはいけない捜査情報を、検察庁の誰かが流しているのであれば、そういう輩は特定し、守秘義務違反できっちり処分するべきだろう。 その辺のもしっかり説明してもらいたい。
捜査対象となっている小沢氏の「説明責任」を求めるなら、捜査中にも関わらず情報をリークして世論操作を行っている検察当局の「説明責任」も追求していかなければならない。小沢氏の記者会見はフリーランスのジャーナリストにも開かれているのに対し、検察の記者会見がフリーランスの記者にもオープンになったとは聞かない。なので、検察の「説明責任」を追求していくのは、もっぱら新聞社を初めとする記者クラブの役割のはずだ。その役割を、新聞社はきちんと果たしているだろうか。
マスコミが検察の監視役ではなく、露払いや煽り役を果たしてしまった前例は少なくない。先に挙げた長銀事件もそうだろう。多額の税金を投入しなければならなくなった責任を誰もとらないというのは釈然としないという国民感情を背景に、誰かを「犯人」にしなければ気が済まない雰囲気が醸成された。それにメディアは大きな役割を果たしている。
リクルート事件にも、そういう面があった、と思う。未公開株の政治家への譲渡が明らかになった1988〜9年のメディアの報道は、競って”新事実”を報じ合い、世論を巻き込んで検察を煽るような熱気を帯びていた。そうした時代の雰囲気は、今になって思えば、異様ですらあった。与野党問わず汚れきった政界の浄化を検察に託そうという世論の風潮に押されるように、東京地検特捜部が捜査を進め、江副浩正・リクルート会長や藤波孝生元官房長官らを逮捕、起訴した。
その当事者である江副氏が、昨年になって著書『リクルート事件・江副浩正の真実』(中央公論新社)を出版。自分の意図や記憶とまったく異なる報道が嵐のように激しく飛び交い、逮捕後は何を言っても検察側には受け入れられない無力感、リクルート社の今後を託した後任者まで逮捕されるのではないかという不安に加え、硬軟交えた取り調べに心を揺さぶられ、不本意な自白調書が作られていく課程が、詳しく書かれている。保釈後も孤独感にさいなまれ、精神状態が不安定な状態が続いた、という。この本を読むと、私たちがそれまで「真実」だと思っていたのは、「検察の真実」にすぎなかったのではないか、と考えさせられる。
国の最高権力者であっても、罪を犯しているのであれば、捜査機関は粛々と捜査を進めてもらいたい。小沢氏だけが、除外されるべきとは思わないし、それどころか、権力を持つ者は、それ以外の人たち以上に、厳しい監視の目にさらされると覚悟しておくべきだろう。検察側の狙い通り、小沢氏に問題があると分かれば、当然責任を取るべきだ。その時に「なんで僕ばっかり」とグチられても、同情はされないだろう。
しかし、捜査機関の判断は必ずしも「常に正しい」とは限らないことは、報道機関はもちろん、その報道に接する一人ひとりが忘れてはなるまい。だから、なるべく冷静に、極力慎重に、そして複眼的に捜査の進展を見守りたい。
……そういうことを述べると、「小沢を擁護するのか」「検察批判をするな」と頭に血が上って、じっとしていられなくなる方々がいる。私もそうした方々からのメールを受け取ったし、中には意見というより、罵詈雑言と呼びたくなるものもあった。そうした”東京地検特捜部幻想”にとらわれている方々には、佐藤栄佐久氏と江副浩正氏の前掲書、それに元検事で名城大学教授の郷原信郎氏の『検察の正義』(ちくま新書)をお読みになるよう、お勧めしたい。
過去の事例から学べば、取り調べの課程をすべて可視化する必要があるのは、警察に限らない。今回の事件も、石川議員らの捜査段階での「自白」が裁判になってから問題になってくることもありうる。供述の任意性や信用性が問題になれば、裁判に長い時間を要することになり、真相の解明にも悪影響を及ぼすことを考えれば、これを機に、検察の捜査も含め、任意段階からの全面可視化を急いでもらいたい。