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【記事転載元:http://www.the-journal.jp/contents/futami/2010/01/post_13.html】
検察が「小沢潰し」の本性をむき出しにした。15日、石川知裕衆議院議員ら三名の逮捕である。逮捕の条件である証拠隠滅と逃亡の恐れはまったく考えられないのに、特捜部があえて逮捕に踏みきったのは「石川議員は事情聴取での説明に虚偽が多く、証拠隠滅や自殺の恐れがあると判断」(朝日、1月16日付)したからと強弁する。特捜は小沢の影響力を抹殺し、鳩山政権を崩壊させ、小沢が推し進める「改革」(注:「民主党が推し進める」と書かなかったのは、民主党内に旧勢力と手を握ることを画策している獅子身中の虫がいるからである)を潰すシナリオを描いている。ところが、石川が特捜の用意したセリフを拒否し、本当のことを供述するので、業を煮やして「牢に叩き込め」となったのである。特捜の意図に沿わない供述はすべて「うそ」なのである。捜査に協力するということは、人間の良心を捨てて、特捜が書いた供述に捺印することである。大久保隆規公設秘書逮捕の時もそうだったが、今回も「自殺の恐れがあるので」逮捕して、身柄を拘束したと説明しているが、この説明はマヤカシである。私は無実の罪で取り調べられた人たちから、取調べは拷問同然であったと聞いている。最長2月 4日まで「拷問」されれば、神経が相当図太い人でも、参ってしまう。特に気が弱いわけではない普通の人も、「菅家さん事件」を思い起こすまでもなく、無実でありながら、取調官の「書いた供述に印を捺」してしまうだろう。時代劇の悪代官の「お白砂」である。「自殺の恐れ」ではなく、自殺したくなるような残酷な取調べをする特捜こそ問題である。
1月13日、「西松建設」問題で、大久保隆規公設秘書の第二回公判が開かれた。翌日の読売新聞によると、検察側の証人として出廷した岡崎彰文西松建設元取締役総務部長は、裁判官の尋問に対し、「二つの団体については、対外的に『西松建設の友好団体』と言っていた。事務所も会社とは別で、家賃や職員への給料も団体側が支払っていた」と説明し、前任者から引き継ぎを受けた際にも、「ちゃんとした団体で、問題はないと言われた」と答えた。また、検察官が「あなた自身が訴訟を起こされることが心配で、本当のことを話せないのではないか」と質問すると、岡崎元部長は「なぜそんなことを言われるのか分からない。もともとダミーだとは思っていなかった」と反論している。
当時、マスコミは検察の応援団よろしく、ステレオタイプに「ダミーと知っていて、違法献金をした」と報道した。世論はマスコミの報道を信じ、検察の思惑どおり、小沢を民主党代表辞任に追い込んだのである。今回、検察側の証人が真っ向から検察の主張を否定した。この記事は、朝日は目立たないところのベタ扱いだった。マスコミは「我々は検察に踊らされているのではないか」と疑念を抱かないほど劣化しているのだろうか。
27日に初公判が開かれる厚生労働省元局長の郵政不正事件で、大阪地検特捜部の取調べで「上司の指示」と供述していた上村被告が、「上司の指示はなかったと」と証人尋問で証言するとの情報もある。事実であれば、元局長は無罪である。特捜は脅し、すかしで自白を強要して、事件をでっち上げるのである。
読売は17日の社説で「検察批判の前に説明を尽くせ」と非難している。私はあえて読売に問いたい。「読売は小沢や民主党を批判する前に、なぜ、検察が描くシナリオを補強するために、特捜提供のリークを連日、垂れ流し、全面的に特捜に協力したのか」?「鉄板にキリで穴をあけるような血みどろの努力をしているので、リークではない」(読売社会部長・溝口烈)という見え透いたうそは通用しないことを知るべきである。
朝日は社説で「首相も党も一丸の異様」と本音をあからさまにした。たしかに、党大会はある意味では「異常」だった。それは、「改革」を進めようとしている鳩山内閣という行政機関の一部でしかない検察が、「改革」の牽引車・小沢を政治的に抹殺し、「改革」を阻止しようとしているからである。特捜は、 8月30日に敗れた旧権力のイヌとして政権交代阻止の一翼を担っていた。それがそのまま鳩山政権内に居すわり、「反改革」策動を継続していたのである。この事実は明確にしておく必要がある。
党大会以上に異常なのはマスコミである。特定の、明確な政治的意図を持って、国家公務員法100条(秘密を守る義務)を平然と踏みにじる検察に、何の疑問も脅威も感じないで、連日、各社が競い合って特捜の意図を代弁する報道を流し続けるのは戦時中の従軍記者と同じだ。卑屈な奴隷根性である。特捜の前身が、戦前戦中、「悪魔」と恐れられ、「蛇蝎」のように嫌われた特別高等警察(特高)であることを忘れたのだろうか。
■「壊し屋小沢」は何を壊したいのか
ところで、特捜が身体を張って守ろうとしている「旧権力構造」を考察してみよう。
小沢一郎が進めている改革は、民主党議員の認識をはるかに超えて、壮大で、奥が深い。
143年前、日本の統治者は「将軍」から「天皇」に代わった。「天皇制」下で官僚は「天皇の官僚」と位置づけられ、実質的な支配者になった。都道府県知事は、いまでは選挙で選ばれるが、64年前までは、警察権を握り、特別高等警察(特高)の元締めである「官庁の中の官庁・内務省」が、高等文官試験に合格した内務官僚を官選知事として全国に派遣し、「人民の箸の上げ下ろし」まで監視する中央集権体制を確立した。「天皇制」に批判的な者はもとより、戦争に反対する者、あるいは批判的な者は特高警察の厳重な監視下に置かれた。私の友人の許婚者は、特高がでっち上げた、架空の「横浜事件」で逮捕、投獄され、拷問死した。一方では、「泣く子と地頭には勝てぬ」という江戸時代に培われた「お上」に、権威と権力、法的根拠を与え、庶民は「お上」の意のままになった。
日本の統治者は敗戦によって、憲法上は「天皇」から「国民」になり、「天皇の官僚」は「全体の奉仕者」になった。しかし、マッカーサーは官僚のしたたかな抵抗を受け、戦前の「高級官僚制度」を温存し、彼らは戦前の権威、権力をそのまま引継ぎ、許認可権を行使して、日本の政治、経済、国民生活など全ての分野を支配する「陰の統治者」になった。法律の大半は官僚が立案し、成立までのすべての根回しも官僚がした。法案を決める閣議では大臣は盲目的に決裁をするだけ、国会は法案をあげる(注:法案を可決すること)てんぷら屋である。政治家は、法案作成、成立に主体的に関わっていないので、庶民生活がどうなろうとほとんど責任を感じないし、官僚には責任をとる気は毛頭ない。誰も責任を取らない不思議な世界である。さらに、中央官庁は、県や市など全国の自治体に役人を「出向」させて上下の関係をつくり、他方、行政指導という裏技を使って自治体を支配している。そればかりではない。独立法人、公益法人、経済団体、企業など経済から教育、文化、福祉にいたるまで、あらゆる分野に補助金と利権を餌にして「高級官僚」を天下りさせ、中央官庁の意向を「中央」が指示・命令することなく、一般庶民の見えないところで「あうんの呼吸」「暗黙の了解」で統治する「闇の支配体制」をつくり上げた。中央官庁の課長クラスになると、大企業の社長に、行政指導という名目で指示できる立場も与えられている。天下りは全国に張り巡らされた目に見えない官僚支配網の血液であり、栄養剤である。また、年末に繰り広げられた各省庁への「陳情合戦」は「高級官僚」こそ国政の実質的な最終決定権者であることを国民に思い知らせるものであった。日本社会は今日においてなお「お上の顔色を見て判断する、主体性のないムラ社会」である。
小沢が壊したいのは、「官僚支配」と日本人の心に沁みついている「お上」意識である。
公務員制度改革、補助金制度廃止、官僚答弁禁止、天下り禁止、地方主権など、小沢改革は官僚支配のネットワークをずたずたにする。その結果、利権を失う者は猛烈に抵抗する。それが対立の基本的な構図である。単なる権力争いではない。「革命」対「反革命」の対決である。「小沢と検察、怨念の対決」とはやしたてるマスコミは、箸にも棒にもかからない「権力の走狗」であり、歴史的大転換を意図的に矮小化しているのだ。
鳩山政権は、検察が最も恐れている取り調べの模様を録音・録画する「可視化法」を制定する方針である。また、原口総務相は、新聞社がテレビ会社の株の所有を制限付きで認めているメデイア集中排除原則を改め、テレビに出資することを全面的に禁止することを明言した。親(新聞社)子(テレビ)関係を認めていれば、親子が共同して、情報を一定方向に集中させるのは容易である。情報をコントロールして世論を「検察はつねに正義」に誘導している現在のマスコミのあり方は、戦時中、軍部と結託して国民を戦争に駆り立てた朝日、読売、毎日新聞などと同じ穴の狢である。アメリカではニューヨークタイムスやワシントンポストなど新聞社は配下にテレビを持っておらず、テレビのはしゃぎすぎや間違いを冷静に伝える役割をはたしているのである。ところで、なぜ、マスコミが検察に協力するのか。昨年、週刊誌やTHE JOURNALで明らかにされたように、公取法違反の疑いがある「押紙制度」など経営にかかわる問題で、検察に急所を握られているのではないか、と邪推したくなる。また、検察とつるんで、情報をリークしてもらい、それによって社内の出世街道を駆け上がる旨味が忘れられないこともあるだろう。
なぜ小沢一郎だけが攻撃の矢面になるのか。それは、「小沢だけ」が怖いのだ。自民党に留まっていたのでは理想とする国民主体の政治は出来ないことが分かり、自民党を脱党して17年、一貫してぶれることなく、いかなる非難中傷にも弁明せず、仲間に裏切られてもめげることなく、お世辞も言えない不器用な男が、満身創痍になりながら、突き進んでゆく姿に「本物の革命家」を見たのだ。アメリカから事前の了解をとらずに中国と国交回復し、エネルギーでアメリカに首根っこを抑えられるのを嫌って独自の資源外交を展開した田中角栄総理が、アメリカの逆鱗に触れ、脚本・アメリカCIA、演出・日本検察、主演・東京地検特捜部の、今では無罪が定説になりつつあるロッキード事件で抹殺されたことを思い起こすのである。アメリカは、今回も「扱い難い、独立心の強い小沢」(アメリカの高級週刊誌TIME)の失脚を、密かに期待しているのではないだろうか。
「雨の猛きを見て竜の大なるを知る」という言葉がある。福沢諭吉が「独立自尊の精神」を訴えて110年である。私は、微力ながらも全力で、日本が初めて経験した「無血革命」を守り抜きたいと決意している。