★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK77 > 519.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
http://www.asaho.com/jpn/index.html
テレビでそのシーンが流れるたびに、目をそむけた。昨年12月10日、大挙して中国を訪問した民主党国会議員たち。その数143人。胡錦濤主席と握手して、ツーショットにおさまる。胡錦濤は笑顔をたやさず、全員と同じことを繰り返した。「挨拶するな、名刺も出すな」「最初から前を向いて行け!」という山岡賢次国対委員長の仕切りと差配のもと、胡錦濤の前にピョコンと飛び出し、手を握り、正面を向いてニッコリ。一人あたり3秒。テレビには、議員の尻を押して急かす「楽屋裏」までしっかり映っていた。09年総選挙により劇的な政権交代が起こったわけだが、それをもたらした新人議員たちの喜々とした表情を見て、少々情けなくなった。これでは、タレントとの記念写真におさまるミーハーと何ら変わりはない。そこに立っているのは「ヨンサマ」などではなく、中国共産党総書記、中央軍事委員会主席、国家主席なのである。政治家なら、「記念写真」の政治的効果にもっと敏感であるべきである。 思えば、かつて東欧ルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領と笑顔のツーショットを撮り、「ルーマニアは平和愛好国なんです」とまで持ち上げた政治家(故人)がいた。1989年12月にチャウシェスクが射殺されて独裁政権が倒れ、旧ソ連まで消滅するや、「巨悪の崩壊、諸手をあげて歓迎する」とやって、その豹変ぶりに、大いに驚かされたものである。一般論だが、外国指導者との「ツーショット」もまた政治的に機能し、歴史の審判にさらされることがある。民主党の議員たちは、その種の写真をホームページに出すなどしてはしゃがないことが肝要だろう。 この民主党議員訪中で思い出したのが、自民党時代の「陣笠議員」という言葉である。大物政治家に仕え、陳情の世話や、委員会での採決要員として使われる。頭の「数」が重要になる議員のことである。「全国民の代表」(憲法43条)という言葉がむなしく響く。143人のなかには優秀かつ有能な人がいることは、私も知っている。だが、厳格な「議員統制」のため、そうした人たちの顔が見えない。いまの民主党の党内構造は、昨年11月の「直言」でも指摘したように、「ミヘルスのいう政党寡頭制的構造をつくり出し、それにフーコー的世界を加味した奇妙な状況」にある。これでは、「民主集中制」よりも遅れた、単なる「非民主集中制」ではないだろうか。 政権交代が起きてから、国会の機能低下が著しい。まず、所信表明演説に対する与党幹事長の演説がなくなった。本会議の場で政府に対して、与党の立場で注文をつける。これが「政府・与党一体」ということで廃止された。だが、その一方で、12月16日、与党幹事長自らが首相・閣僚と面談して、「これは国民の声である」といって、「マニフェスト」の変更を求めた(『毎日新聞』09年12月17日付)。大変唐突な印象を与えるもので、これが首相のリーダーシップ欠如のイメージを広め、支持率低下に連動してしまった。与党と政府の立場がそれぞれ、国会での議論にさらされる。これを与党幹事長が拒否したところから、すべてが歪んでいった。 この間成立した重要な法案についても、一体、その審議はどこでやっていたのかと思われるほど、国会が見えない。地方からの陳情も、民主党幹事長室が一元的に仕切っている。超党派の「議員連盟」も禁止され、問題意識をもった議員たちが党派の枠を超えて協力しあい、議員立法を作っていく営みも停滞している。与党議員は、ただ国会の多数を維持するための「頭数」、いわば「党兵」(Parteisoldat)と化したかのようである。少なくない議員が、こうした状態をよくないと思っているはずである。この状態はいつまで続くのだろうか。 09年総選挙において、多くの国民の「自民党を選ばない」という投票行動によって、現在の政権が誕生したことを忘れてはならないだろう。いつの間にか、自民党政権時代との連続面も目立つようになった。そんな「マニフェスト違反」をここで書く暇はない。そもそも私は「マニフェスト」には懐疑的だった。むしろ重要なことは、かの自民党政権ですらやらなかった重大な変更が、国会法改正という形で行われようとしていることである。その一つが、内閣法制局長官の国会答弁の禁止である。 かつて指摘したように、「政治主導」の方針は、小沢一郎民主党幹事長が自由党時代に出した「日本一新11法案」にその原点があると言っていいのではないか。11法案のなかには、「国民主導政治確立基本法案」もあった。「官僚が国会審議や議員の活動に口を出すことを禁止し、政治家自身が政策を立案・決定する本来の制度に改め」る。行政機関職員と国会議員との接触制限も定められ、違反したときは懲戒処分の対象となる。すごい内容である。さらに、「内閣法制局廃止法案」。小沢氏は1989年の自民党幹事長時代から、一貫して内閣法制局を敵視してきたが、これには彼の「信念」に近いものを感ずる。アフガニスタン国際治安支援部隊(ISAF)に自衛隊を参加させるには、内閣法制局長官の国会答弁を禁止し、最終的にはこの組織を廃止しようというのだろうか。 そもそも内閣法制局とは何か。その所掌事務については、内閣法制局設置法3条3号で、「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること」と定めている。内閣法制局が国会において憲法解釈を示す根拠はここにある。 「(内閣法制局は)行政府としての憲法解釈は最終的に内閣の責任において行うものであるが…、行政府による行政権の行使について、憲法を始めとする法令の解釈の一貫性や論理的整合性を保つとともに、法律による行政を確保する観点から、内閣等に対し意見を述べるなどしてきた」(2003年7月15日・内閣衆質156第119号伊藤英成君提出「内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書」)。 内閣法制局長官の答弁の性格は、法的には、法制局の憲法解釈を内閣が聴き、内閣が最終的にその憲法解釈を適当と認めて採用し、内閣が法制局長官を通じて自らの憲法解釈を示すというところにある。だから、「内閣法制局が憲法解釈を独占してきた」という物言いは、法的に見れば妥当ではない。内閣は、常に自らの責任において、内閣としての憲法解釈を示してきたからである。法制局長官の口を通じて答弁するか、閣僚の口を通じて答弁するかは、表現方式の違いにすぎない。かりに国会法改正が実現して、長官答弁が禁止されても、これまでと極端に変わるわけではないだろう。ただ、現行制度においても、内閣が法制局の意見を無視して、独自の憲法解釈を行うことは十分あり得ることである。 現行制度においても、内閣が法制局の意見を無視することは排除し得ない以上、問題の核心は、政治機関である内閣が法律専門家である法制局の意見を事実上どれだけ尊重するつもりがあるのかにかかっている。 法制局長官の答弁禁止がもつ制度的な問題点は、端的に言えば、その答弁が行われていれば、内閣が法制局の意見をどの程度尊重しているかを国会がチェックできるにもかかわらず、それができなくなってしまうというところにある。 「行政府としての憲法解釈は最終的に内閣の責任において行う」としても、内閣がどのような憲法解釈を採ってもよいということにはならない。行政の最終的な憲法解釈権の所在の問題と、憲法解釈のあり方の問題とを混同してはならない。内閣が好き勝手な憲法解釈をすることができるのであれば問題であろう。 この点で、第二次橋本改造内閣の官房長官、村岡兼三氏(日歯連の闇献金事件で有罪判決確定したが、一貫して無罪を主張)の答弁は重要である(1998年5月8日第142国会衆議院行政改革特別委員会)。 「内閣法制局は、内閣がその職務として憲法第72条に基づき法律案を国会に提出し、または憲法第73条に基づき政令を制定することとされていること、及び国務大臣がその職責を果たすに当たり憲法の尊重擁護義務があることにかんがみ、法治主義の観点からこれらが適切に行われることを確保するため、法律専門家としての立場において内閣を直接補佐することを主な任務としている」 ここで、内閣法制局の存在意義として、法治主義や国務大臣の憲法尊重擁護義務の確保を挙げている点が注目される。内閣が法制局の意見を尊重しないで、独自の憲法解釈を行った場合には、国務大臣の憲法尊重擁護義務違反の問題も生じるだろう。 国会が内閣の憲法尊重義務違反の責任を問うためには、日本が抽象的違憲審査制を採用していない以上、法制局の意見を、国会が直接聴取できることが前提になる。もし国会での法制局長官の答弁が禁止され、法制局の意見を国会が直接聴取できない状況が生まれるならば、国会は、内閣法制局という法律専門家の意見を踏まえた上で内閣についてチェックすることができなくなってしまう。国会のコントロール機能の低下を招くという意味で、大きな損失と言えよう。 次に、政府が憲法解釈を変更することができるか否かという問題がある。 行政府の憲法解釈は最終的に内閣の責任において行うという建前からすれば、内閣が法制局による憲法解釈を変更することはあり得る。問題は、解釈変更がどこまで認められるかである。内閣による自由な憲法解釈は、法治主義や国務大臣の憲法尊重擁護義務の観点から問題であるが、憲法解釈それ自体の性質論からも、単なる政策的必要性から憲法解釈は変更されるべきものではないだろう。この点で、次の答弁は重要である。 第134回国会1995年11月27日参議院宗教法人等に関する特別委員会・大出峻郎内閣法制局長官答弁 政府委員(大出峻郎君)「…政府による憲法解釈についての見解は、このような考え方に基づき、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものと承知をいたしており、最高法規である憲法の解釈は、政府がこうした考え方を離れて自由に変更することができるという性質のものではないというふうに考えておるところであります。特に、国会等における論議の積み重ねを経て確立され定着しているような解釈については、政府がこれを基本的に変更することは困難であるということでございます」 第140回1997年2月28日国会衆議院予算委員会大森政輔内閣法制局長官答弁 政府委員(大森〔政〕君)「…私が法解釈の変更は困難であると申しましたのは、特に9条に関する政府の解釈と申しますのは、憲法の基本理念の一つである平和主義という国の基本的なあり方に係るものでありまして、長年の議論の積み重ねによって確定し、定着している考え方、解釈というものを、政策上の必要性によって変更するということは困難ではないかということを申し上げたわけでございます」 長年にわたる議論の積み重ねとその定着は、憲法解釈を変更する際の高いハードルとなり得る。集団的自衛権行使の違憲解釈についても、1954年以来の「自衛力合憲論」を軸とした政府解釈の根幹に関わるため、それを行使合憲とは簡単にはできない。安倍晋三内閣のとき、仲良しの有識者を集めて、集団的自衛権行使の4類型が検討されたことがあったが、法制局の立場からすれば、「行使」の合憲解釈はのめるものではなかった。安倍内閣が自壊して、解釈変更を求める力学はやや減少したか見えるが、ここへきて、国会答弁禁止という形で、正面突破の動きが急である。 12月7日、民主党、社民党、国民新党の与党3党の幹事長・国対委員長は、国会改革法案について、通常国会で成立を図ることで合意した。その内容は、(1)政府参考人制度を廃止し、官僚の答弁を禁じる、(2)政府特別補佐人から法制局長官を外す、(3)政治家同士の国会論戦を行う衆参委員会とは別に、行政監視を目的とした「新たな場」を設け、官僚や有識者から意見を聴取する、というものである(『朝日新聞』09年12月7日付夕刊)。この「改革」で国会法のどの部分をいじるのかと言えば、69条2項と71条だろう。 69条2項: 71条: 国会法の規定は、閣僚を補佐するために内閣法制局長官を出席させる権限を内閣に認めたものである。つまり、もっぱら内閣の利益・便宜のための制度である。だから、法改正をして内閣法制局長官を削ることについては、内閣が自らの利益・便宜を放棄するということにとどまるので、そのこと自体を問題にすることはむずかしい。 法制局長官を使う、使わないは内閣が決めることであり、現行法の運用でも、必要ならば答弁をさせないという選択肢をとれないわけではない。内閣として「政治主導」のデモンストレーションをしたいのであれば、法改正をしなくても、法制局長官を国会に出席させなければよい。それをいきなり、国会法という重要法律の改正を前面に出して押し切ろうというのは拙速というよりも、「剛碗」を見せつけて、無理に官僚を威嚇したいだけなのか。 なお、「政府特別補佐人」から内閣法制局長官のみを削除することをどう理由づけるか。人事院、公正取引委員会、公害等調整委員会については、内閣からの独立性が高い機関(いわゆる独立行政委員会)であり、これらの機関の長を出席させることには意義がある。これに対して、内閣法制局は、「内閣に内閣法制局を置く」(内閣法制局設置法1条)とあるように、内閣官房と並んで、内閣を直接に補佐する行政組織の一つという位置づけである。だから、内閣に置かれた機関については内閣が責任を持って答弁するとして、法制局長官を削除しても、法的に問題にすることは容易ではない。 これに対して、国会法71条から法制局長官を削除することには、多分に問題がある。委員会中心主義をとる日本国会の場合、委員会での審議から内閣法制局長官を除外する改正については、国会の内閣に対するコントロールの観点から、大いに問題がある。従来の政府委員制度は、憲法63条(国務大臣の議院出席)の趣旨を拡大し、政府委員も出席義務の対象者とすることで、国会が内閣の責任を追及する手段とする側面があったことも見逃せない。 官僚側の論理からすれば、専門的・技術的な事柄については、素人の政治家をかませて荒っぽい答弁をさせるよりも、直接官僚に答弁をさせた方がより正確なものとなり、審議が充実するし、野党側にとっても政府を追及するための正確な情報を引き出すこともできるということになろう。現行の政府特別補佐人・政府参考人制度も実際上は従来の政府委員制度と同様の機能を果たしているものであることから、政府特別補佐人から内閣法制局長官を除外することは、行政の憲法解釈という極めて重要な問題について、国会が内閣の責任を追及する手段の一つを放棄することになるのではないか。 例えば、現行制度であれば、仮に内閣が内閣法制局の意見を無視した憲法解釈を採用した場合、国会が国会審議の場において法制局の意見を直接問いただし、内閣の憲法解釈と法制局の解釈を比較し、検討することができる。だが、法制局の答弁を禁止すると、法律問題の専門機関の意見を聴取することができなくなり、国会による行政に対するコントロールが弱まることになる。憲法63条との関係で直ちに問題となるわけではないが、国会の内閣に対するコントロールの手段をあえて国会自らが捨てる必要もないだろう。国会自らが内閣を追及する武器を捨てなければならない「政治主導」というのは、一体、誰の、何のためのものだろうか。 連立与党3党の合意事項の3点目にある、「政治家同士の国会論戦を行う衆参委員会とは別に、行政監視を目的とした『新たな場』を設け、官僚や有識者から意見を聴取する」についてはどうだろうか。これは、社民党に合意させるための「落とし所」だが、国会の衆参委員会において法制局長官が答弁をしなければ、「国会における審議」の意味がない。「新たな場」として、制度の外側で語っても、それがどこまで重視されるのか疑問である。法制局長官が登場するのは、国会(特に委員会)の審議であるべきである。 なお、一般にはあまり知られていないが、実は法制局は3つ存在する。注目を浴びている内閣法制局のほかに、衆議院と参議院にそれぞれ法制局がある。議院法制局である。その長は「長官」ではなく、「局長」と呼ばれている。2つの議院法制局については、国会法131条1項に、「議員の法制に関する立案に資するため、各議院に法制局を置く」と規定されている。法制局長も国会の委員会で答弁を行ってきたが、それは、憲法の解釈や法律問題等について、「議員が意見をまとめるための参考として述べるものであって、内閣法制局の長官等が内閣の意見として述べるのとは異なる」(浅野一郎・河野久〔ともに元参議院法制局長〕編『新・国会事典(第2版)』有斐閣、2008年170頁)。 議院法制局は、内閣法制局のように特定の解釈を組織として採用するのではなく、それぞれの議員が法制に関する立案を行う際にその補佐をする機関だから、憲法解釈についても、最終的には個々の議員の判断に委ねることになる。議院法制局職員の答弁は、依頼議員の憲法判断を前提とした意見であり、議員に代わって成り立ちうる解釈の一つを示しているにすぎない。組織として固有の憲法解釈を採用しているわけではない。例えば、同じ委員会において、法制局長は、違憲説に立つA党の補佐をすると同時に、合憲説に立つB党の補佐をすることもあり得る。議院法制局は、あくまでも議員の法解釈を補佐する、いわば「黒子」に徹するのであり、議院法制局が議員を差し置いて法解釈のイニシアティブをとることは本来予定された姿ではない。 したがって、目下の国会法改正の動きを見る限り、当面、内閣法制局長官の答弁禁止にとどまるようだが、議院法制局職員の答弁が禁止されたとしても、議員法制局のこれまでの仕事に実質的な影響が及ぶということは考えにくい。議院法制局長の答弁禁止は、「政治主導」のデモンストレーションという政治的意味以上のものではないように思われる。 そもそも民主党の「国会改革」の狙いはどこにあるのだろうか。『読売新聞』2009年11月5日付「スキャナー」欄は、小沢流国会改革の「ネタ元」が「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)の提言(09年11月4日)にあるとしている。「提言」の射程は国会での官僚答弁の禁止にとどまらない。政府参考人の廃止、委員会の定数削減、定例日の撤廃、さらには、国会の会期制を見直して「通年国会」化をはかろうとしている。これにより、内閣が提出した法案が野党の「日程闘争」により「時間切れ、廃案」となることを阻止できるし、内閣提出法案が確実に成立することになる。国会審議の活性化を旗印にしているが、国会運営に内閣がコミットできるようにすることが最大の狙いだろう。これが果して、憲法が期待する国会や内閣のあり方なのかは、クェスチョンをつけておこう。 まもなく通常国会が始まる。内閣法制局長官の国会答弁(本会議、委員会)を禁止する国会法改正案も上程されるだろう。「脱官僚依存」がこうじて、過剰かつ過度に官僚を退ける不自然な政権運営が目立つ。さらに国会法を改正してまで、法制局長官の国会答弁を禁止しようとする。これぞ、歪んだ「政治主導」の象徴と言えるのではないだろうか。拙速な国会法改正を中止して、国会の活動を真に活性化させる方向での国会改革に取り組むべきだろう。 【付記】 『毎日新聞』2009年12月26日付12面(オピニオン欄)の「闘論」において、「内閣法制局長官の答弁制限」というテーマで、曽根泰教慶応大教授と並んで私の見解が紹介されている(政治部記者の聞き取り取材)。ただし、肩書のところに、「広島大学助教授を経て 04年より現職」とあるのは誤解を招く。私が早大に着任したのは1996年である。毎日校閲部が、最も新しい肩書からカウントする「毎日スタイル」にこだわり、このような表記になったものだ。正確には、「広島大助教授などを経て、1996年より早大法学部教授、2004年の組織改編により現職」となる。なお、早大の「学術院」なる組織改編については、国立大の独立行政法人化と時期的に重なり、「大学の変貌」の一つのあらわれである。これ以降、早稲田の伝統だった学部自治が縮減し、理事会が教学事項にやたらと口を出すようになった。当時の法学部はこの改編に反対したので、「学術院教授」なる肩書を使うことについては複雑な思いがある。個人的には、名刺にごく最近まで「法学部教授」と表記していた。『毎日新聞』を読んで、「04年から」という記述にオヤッと思われた方のために、長文になったが補足しておきたいと思う。 |