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いきなりフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用で申し訳ないが、義士達の討ち入りについての概略説明はどれも余り変わらないだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%A9%82%E6%B5%AA%E5%A3%AB
赤穂浪士(あこうろうし)とは元禄15年12月14日(1703年1月30日:2007年の暦と一致)深夜に旧主浅野内匠頭長矩の仇(一般的に仇と言われることが多いが、浅野長矩は殿中抜刀の罪で切腹になったのであり、吉良義央に殺されたわけではないので仇ではない)である高家吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した元赤穂藩士大石内蔵助良雄以下47人の武士である。
さて、12月4日とは旧暦に直せば今月(1月)28日の事であり、新暦1703年1月30日の新暦を当てはめれば1月30日となり2日の違いが出るだけである。
義士達への思いを表明したり、また浅野公や吉良公への想いを表明したいならば、早い方がいいのではないか。
しかし新暦の昨年12月4日をそのまま当てはめては余りにも実態とはかけ離れる。
気候がまるで異なるのである。
あるブログにてこの事件について浅野公と家臣達の尊王思想を動機とする観点から斬新な論及を行った作品が提出されていた。
大変に優れたものと観て感服致したしだいであった。
今回のこの論及が更なる参考になるかどうかはわからないが、徳川幕府の実態について余り気がつかれて来なかったことを探りつつこの事件に隠された意味があったのではないかと考えるものである。
さて、この事件は人々(日本人)を感動せしめてきたようだが、実態はなにやら判らず不可解である。
私は子供の頃から、この不可解なところが気に掛かり、世間の大人たちが集団でこれまたなにやら不可解に感動している様を見て異様な印象を受けていたのである。
毎年の年末になると映画とかテレビとかでこのテーマが流れ、人々とくに男共が感動?する。少年達や子供達もそれに同調する。
ウンザリだった。
私の周りでは合理的解釈を試みようとする大人たちが多かった。
曰く、「大石が江戸家老を務めていれば吉良に対し巧く対応して賄賂も多く送って主君が虐めを受ける事がなかったはずだ」。
とか、
「浅野公が家臣思いだったので、家臣達は敵討ちをしなければ気が済まなかったのだ」と語っていた。
悲劇として語っていたのである。
しかし、今考えれば、これらはいわゆる時代劇の典型であり、
現実の投影、
つまり、姑の嫁虐め、職場の上司の部下虐め、客の横柄、そのた諸々の恨みつらみの感情を年末に吐き出す精神衛生上の役割を果たしていたのではないのか。
江戸時代のにおいても庶民の鬱憤晴らしとして大いに役立ったのではなかろうか。
さて、本題に戻る事にしよう。
表題に、
「徳川幕府は実は”新田幕府”」と書いた。
これは詳しく言えば、
「源氏の新田末裔を担いだ、三河奥地の南朝方残党豪族達を土台とする幕府」と言う事である。
であれば、当然ながら尊王思想が高いと推測しなければならない。
これはある意味では鎌倉幕府に似ている。
しかし正反対の性格を持つ。
どこが似ているか?
北条氏をはじめとする平氏が源氏の末裔である頼朝を担ぎ上げて、朝廷の命によって平氏政権を打ち倒した上で打ち立てた政権が鎌倉幕府であり、北条氏は頼朝の血筋を隅に追いやって実権を握り続けたのだった。
源氏の新田も足利も平氏の北条幕府により北関東の山の麓地域に追いやられていた。
ところが、
徳川幕府では、南朝方残党豪族達ははじめから最後まで自分達は先にはたたず、新田即ち徳川の家を盛りたてて日の当る処に置いたのである。
次に徳川が実は新田である事について書かれたものの幾つかを紹介したい。
http://www.net-you.com/toshogu/yurai.html
徳川氏発祥の地の由来
徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。
また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。
東照宮の創祀
寛永16年(1639)天海大僧正は徳川家康公から御下命されていた長楽寺を臨済宗から天台宗へ改宗復興。三代将軍家光公は先祖の遺徳と当地方の守護神として、二代将軍秀忠公造営の日光東照宮奥社(神廟=多宝塔 ・唐門・拝殿)を移築。本殿は新築し、東照宮を勧請された。同21年(1644)10月11日には正遷宮が盛大に斎行され、同年12月には群馬県下の神社でも高禄の200石の御朱印が寄せられた。以後、大小15回による社殿の修復は幕府の財政により賄われて来、世に 「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と俗謡を生んだ。
The origin of Serada Toshogu:
Ieyasu Tkugawa was born in 1542. He unified Japan after about ten decades of
civil war and he laid the foundation for long period of peace.He passed away
in 1616 at the age of 75 years old.
The second shogun, Hidetada, built two of the Toshogu shrines in the kuno-
mountain and Nikko-mountain areas. Ieyasu was buried in kuno-zan Toshogu shrine
and his body was later moved to Nikko Toshogu shrine, as was written in
Ieyasu's will.
In 1644, the third shogun, Iemitsu Tokugawa, transferred the old shrine
buildings and treasures from Nikko Toshogu shrine to Serada. He dedicated them
to Ieyasu in praise of his natural virtue and to recognize Ieyas as a
protective god of this area. Because Serada is the birthplace of the Tokugawa
family, it has been said that,"If you want to see Edo. Please come to
Serada...."
※Edo was the previous name for Tokyo.
詳しくは、由来書「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」をお求めください。
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo04.htm
賀茂探求(4)徳川家康と賀茂神社
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written by Lumi on 00/04/29 20:52.
さて、京都の賀茂神社といえば「葵祭り」、徳川家康といえば「葵の紋」で
すが、これは関係あるのでしょうか?
実は大いに関係があるんですね。
徳川家の先祖は家系図によると下記のようになっています。
八幡太郎・源義家の孫に義重という人がいた。義重は群馬県の世良田に館
を築き、新田庄を領して新田姓を名乗った。この義重の子の義季は得川郷
に住して得川姓を名乗った。
その後、建武の中興の折り、新田一族の新田義貞は後醍醐天皇に付き従っ
たため一族は足利幕府に睨まれることとなった。このため義季から8代目
に当たる人・得川有親もこの地にいれなくなり、息子の親氏とともに遊行
僧となり、長阿弥・徳阿弥と名乗って諸国を放浪した。
やがて親子は三河国加茂郡に流れ着き、ここで酒井五郎左衛門に保護され
て、親氏は婿になって広親という子供をもうけた。この酒井家は後に徳川
の四天王になる酒井家であり、酒井忠勝は広親から8代目の子孫である。
しかし、この親氏の妻が早く亡くなったため、親氏は更に同所の松平太郎
左衛門の家の婿になり、泰親という子供をもうける。徳川家康はこの泰親
から8代目に当たる。
そういう訳で、酒井家というのは実は徳川からすると本家筋に当たる訳です
が、この三河でもうひとつ重要なのがやはり四天王のひとつ、本多家です。
三河という名前は一般に、豊川・矢作川・男川の3つの川が作る地域という
意味とされていますが、もうひとつ「御川」あるいは「神川」から来ている
という説があります。そしてこの御川というのが神の山・賀茂神社の御神体
となっている山から流れ出している川だという訳です。
三河を代表する川というからには、この御川は矢作川のことと思われるので
すが、実はまだこの「神の山」と対応する賀茂神社の特定ができていません。
愛知県で賀茂神社というと豊川の流域の豊橋市にある加茂神社があり、その
そばには神山古墳まであります。この加茂神社は家康が長篠の戦の前に必勝
祈願をしたりなど、深く信仰した神社です。
が、この神社は天平年間に京都の賀茂別雷神社より勧請して創建されたもの
なので「三河」の名前の由来になるわけがありません。もっと古い神社がど
こかにないと「御川→三河」説は証明できません。
一方の矢作川は知多湾から岡崎市・豊田市のそばを通り、西加茂郡と東加茂
郡を分けるように流れ、源流はいったん岐阜県に入ったあとで愛知県に舞い
戻って、茶臼山(1415m)付近になります。しかしこの流域に大きな古い神社を
見つけることができません。
閑話休題。
ともかくも、御川→三河説があるくらいに、やはり三河の地というのは賀茂
神社に関わりが深かったようで、更に松平家が栄えた地自体が、昔賀茂神社
の神領であった地区だったようです。そしてその賀茂神社の神官の家柄が
徳川四天王のひとつ、本多家でした。
この本多家も賀茂神社由来の葵紋を使っており、松平家は初めのころ、この
本多にならって、或いは賀茂神社のご加護を受けるという意味もあり、葵を
家紋として使用しはじめたようです。
後に、天下統一をしてから、他の諸家で葵を家紋としていたところが徳川に
遠慮して家紋を変更した中、本多だけはこの葵紋を使用し続けました。
ある時、徳川家康が本多正信に「あの家紋を譲ってくれないかな」と言った
所、家康にタメグチを利ける数少ない一人である正信は「それはおかしなこ
とを。徳川家は元々新田一族。本来なら新田の一つ引両をお使いになるのが
よろしいのでは。本多は賀茂神社に仕える身にて神社の神紋たる葵を使って
おります」といって頑として譲らなかったと言われます。また異説ではこの
時「茎までは譲れません」と言ったため、徳川の葵は茎の無い葉だけの葵紋
になったともいわれます。
いづれにせよ、この徳川の世で本多家だけが堂々と葵を使うことができるよ
うになったようです。
そういうわけで、結局、徳川家の葵紋も、賀茂神社から来ていることになり
ます。
http://www.mb.ccnw.ne.jp/hisao11/page.10.html
(U-1)4章 松平親氏から徳川家康まで
親氏
徳川の先祖は松平親氏であることは分っているが、徳川氏の主張は親氏が新田義重の孫世良田頼氏の八代目であり、家康は親氏から九代目に当たるとする。世良田氏は徳川郷に居たことがあり、徳川を名乗っていたので家康は徳川氏であると主張する。家康の祖父清康は世良田清康の発給文書を残しており、この頃から新田氏との関係を主張していることは明らかだがその前は明確ではない。作り話説が有力だが本当かもしれない。しかしどちらであっても家康を含め松平代々の努力は評価でき、その積み重ねが後日の徳川時代を作り上げたものである。室町初期親氏が新田一族であれば足利に追われ諸国を流れていた話は合うことである。流浪の時宗僧親氏は徳阿弥と名乗り西三河坂井の豪族の所に立ち寄り、娘との間に酒井広親をもうけたが娘は死し広親は後松平の有力武将になり徳川の名家酒井氏となった。親氏は坂井を出て東方豊田市山中の豪族松平氏の連歌会に加わり、当主に見込まれ婿となった。当主となってから1394年砦を作り、「こんな山猿の生活に甘んじるのか」と人々を励まし領土を広げ天下泰平を祈願した。又慈悲の心が深く領内の道を開き、飢え凍えている人を助けたと言う。それを施行した24人衆の道具や当時作られた石橋が現存している。又神社,仏閣を領内に作っている。
泰親・信光・信忠・清康
二代目泰親は松平から南下岩津城・大平城を陥し三代目信光は三河平野まで下り、安祥城を手に入れ西三河を平定、四代から六代信忠にかけては安祥城を確保、七代清康に至り1524年岡崎城を手に入れ以後之を本城とした。
広忠から竹千代(家康)へ
清康は三河一国を支配するまで勢力を大きくしたが尾張まで手を広げた時、守山攻めで近臣に25歳の若さで殺された。八代目広忠は10歳で松平の力は弱体化し、東は今川、西は織田に侵食され広忠も近臣に殺された。九代目竹千代は織田信秀から今川義元へとたらい回しにされた。岡崎に残された臣下は農作業で食い繋ぎながら、竹千代への忠誠を忘れず再起の備えを密かに行ったと言う。義元の所で竹千代は苦難の内に成長し、義元の先兵武将として上洛の途上義元は1560年桶狭間の戦いで討たれ開放された。家康は岡崎城を回復、以後織田信長と同盟を結び勢力を伸ばし信長の死後、秀吉と争い互角であったが臣下として仕え実力は削がれず実質対等であった。秀吉の死後1603年征夷大将軍として江戸に幕府を開き1614〜1615年大阪の陣で豊臣の勢力を一掃し260年の安定した江戸時代を作った。
衰退と没落
中期以降幕府に緩みが生じ旗本の士気が低下したが、反対勢力や不平分子の発生で政治に不安が生じた藤原・北条・足利のようなことは無かった。しかしそれらの時代と全く異なる状況が生じた。英・仏・ロシア・アメリカが東洋に進出し、清国は英・仏と交戦敗北し一部領土を取られる事件が生じていた。我が国にもロシア・アメリカが修交をもとめるなど江戸幕府の手法では処理出来ない状況となった。この問題については次ぎの章とU部西ヨーロッパの発展と科学でふれる。
親氏の功績
徳川の成立の前には長い苦難の努力が在って可能となった。 中でも重要なのは新田の子孫かどうかは関係なく親氏が流浪の身でありながら野心を持ち続けたことである。通常その様な苦境が続けば目先生きてゆくことに甘んずるのが殆どである。中臣藤原・頼朝・北条・足利いずれも程度の差こそあれ豪族の身分であった。親氏のような気力があったればこそ長期の努力が報いられ徳川の成功に繋がったのである。
天下を制する者は常により下から障害を乗り越え上昇した者に与えられる。上に在る者には気力が生じにくいが、下から乗り越えるには気力が必要でそれが天下を制する力になる。これは普遍的な現象であるが、下から障害を越える過程で殆どは諦めて沈み残る者は非常に少ない。親氏はまさしく非常に少ない人間の一人である。
page.11.html U-1 5章 明治維新の長州と会津 へ
index.html 目次 へ
以上、徳川が新田末裔であると論じたものを紹介した。
勿論、批判的な論文も多いわけでむしろそれが主流であった時代もある。
征夷大将軍は源氏でなければならないので源氏の末裔をでっち上げたというものである。
つぎに若干に批判的なものを紹介するが、そこに吉良家について触れた部分がある。これは大切であると考えるから記憶に留めて置いて欲しい。
http://homepage1.nifty.com/sira/matudaira_serada.html
松平氏と世良田氏
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0.はじめに
松平氏出身の徳川家康は、自分を新田氏(新田義貞の一族)の末裔であると称していました。新田一族の世良田親氏が三河松平郷(現・愛知県豊川市)の在原信重の婿になり、松平親氏と名乗ったのが家康の先祖であるというのです。
世良田(せらだ)や徳川というのは、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)の郷名です。鎌倉時代には、世良田や徳川という名字を名乗る新田一族もいました。新田氏ファンの私としては、家康が本当に新田氏の末裔なのかどうかにたいへん興味をひかれ、その周辺のことがらを探ってみました。以下は、その結果をまとめたものです。
勢いでまとめたものなので、つっけんどんな文体になっていますが、書き直すのも面倒なのでそのままアップロードします。御容赦ください。
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1.新田世良田系図
十四世紀に編纂された系図集、「尊卑分脈」から世良田氏関連の部分を抜粋すると次のようになる。
(系図は中略…新世紀人)
新田義重の子に徳川義季がおり、その子に徳川(得川)頼有と世良田頼氏がいた。頼有・頼氏兄弟の時代、新田氏の惣領は新田義兼の孫、新田政義であった。しかし政義は、寛元二年(1244)、京都で大番役勤仕中、許可無く出家して京都を引き払い、それをとがめられて所領を没収されてしまった。それ以後、幕府への出仕は世良田頼氏が勤めている。吾妻鏡に新田三河前司、三河前司頼氏とみえ、長楽寺文書に前三河守源朝臣頼氏とみえるのが世良田頼氏である。しかし、この世良田頼氏も、文永九年(1272)、二月騒動に連座して佐渡に流されてしまい、それ以後、惣領権は新田政義の孫、新田基氏に戻る。新田基氏の孫が新田義貞である。
世良田氏は、一時的にしろ新田氏の惣領を勤めたこともある新田氏の有力な一族であった。
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2.松平氏の系図
尊卑分脈に名前のみえる世良田満義は、元享3年(1323)、嘉暦3年(1328)、元徳2年(1330)に、世良田長楽寺に寺領を寄進している(長楽寺文書)。このことから、満義は鎌倉時代の最末期に世良田氏の当主だったことがわかる。
松平氏の系図では、世良田満義以下を、
【満義−政義−親季−有親−親氏−泰親−信光−親忠−長親−信忠−清康−広忠−家康】
と、つなげている(泰親を親氏の弟とする系図もある)。南北朝の戦乱の末に時宗の僧となった世良田親氏(徳阿弥)が、三河松平郷の在原信重の婿になり、松平親氏と名乗って松平氏の祖となったという。家康が世良田ではなくて「徳川」と名乗ったのは、世良田親氏の祖父の世良田親季が、一時徳川郷に住んで徳川親季と名乗ったからだという。しかし、これらの話をそのまま信じる人は、現在ではほとんどいない。
系譜を家康からさかのぼって見てみる。
まず家康の祖父の松平清康については、大樹寺(愛知県岡崎市)に清康が建立した逆修供養塔の棟礼に世良田二郎三郎清康と書かれており、また、世良田清康と署名された清康の発給文書も残っている。これらのことから、松平氏は、遅くとも清康の代から世良田氏との関わりを主張していたことが確認できる。
系譜中の人物で、家康の先祖の松平氏として実在が確認できるのは信光からである。その一代前の松平泰親については、信憑性の高い史料は残されていない。この松平泰親は、浪合記ではただの金持ちとして登場して、新田一族との関わりを示す記述はみられない。
系譜上、新田世良田氏と松平氏を取り持つ位置にいるのが世良田親氏である。現在のところ(たぶん)私しか主張していないのだが、実は、新田一族の「世良田親氏=徳阿弥」は実在したらしい。(これは、間違いでした。次の節の末尾のリンクを御参照ください。)
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3.実在した世良田親氏
江戸幕府の奥儒者、成島司直(なるしまもとなお)が幕末の天保四年(1833)に改撰した「改正三河後風土記」に、次のような注目すべき記事がある。
近頃享和二年壬戌二月、武州多摩府中時宗称名寺竹林の中より、掘出したる碑に、世良田氏徳阿弥親氏、応永一四月廿日と有、官より令し、其地に籬を結廻し、樵采を禁ず。其子細は詳ならずといへども、附して参考に備ふ。
「最近、享和二年(1802)に、武蔵国多摩府中の称名寺の竹林の中から、『世良田氏徳阿弥親氏 応永一四月廿日』と書かれた碑が掘り出されたが、幕府の命令で立ち入り禁止にしてしまった。詳細はわからないが、何かの参考になるかもしれないので一応書いておく」ということ。
「世良田氏徳阿弥親氏 応永一四月廿日」と書かれた碑が掘り出されたというのは成島司直が若い頃のできごとなので、その時の騒動を実際に成島司直が見聞して書いたものと考えられ、この記述は信憑性が高い。幕府があわてて人目につかないようにしたことといい、幕府の奥儒者となってからも成島司直に詳細がわからなかったことといい、徳川幕府にとって、よほど都合の悪い物だったとみえる。幕府の公式見解では、家康の先祖の親氏(徳阿弥)は、三河の松平郷の在原信重の婿養子になったことになっており、立派な墓も松平郷につくられていたので、徳阿弥親氏が武蔵国で葬られていてはマズイのは当然である。成島司直にも詳細がわからなかったところをみると、掘り出された碑は幕府によって闇から闇へ葬られてしまったのであろう。
このように世良田親氏(徳阿弥)は実在したらしいのだが、この「実在の世良田親氏」と松平氏との関係は不明である。というか、無関係とみた方がよさそうである。
というわけで、「松平氏と世良田氏は無関係」という結論で終わりそうなのだが、ことはそれほど単純ではない。
(1999/08/24補記:称名寺で掘り出された「世良田親氏の碑」は現存しており、明かな偽碑であるとの情報をいただきました。この碑からは、親氏が実在したかどうかについては何も言えないようです。詳しくは、こちらを御覧ください。)
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4.家康の系図は如何にして整えられしか
家康が自分の家の系図を整えた経緯については、近衛前久が子の信尹に宛てた書状からうかがえる(渡邊世祐「徳川氏の姓氏に就いて」)。それによると、家康はまず、従五位下・三河守に叙任される直前の永録九年頃、吉田兼右が見つけ出した徳川系図をもとに系図を整えている。
この時兼右が見つけ出した系図は徳川氏(源姓)のものではあるが、途中で藤原姓に改姓した奇妙な家のものだったという。そのためか、三河守叙任後の家康は、公式文書には藤原姓で署名している。その一方で、同時期に安房の里見義康に宛てた誓書では、家康は里見氏と同姓であることを主張している(安房里見氏は、新田義重の子里見義俊の子孫であるといわれていた。もちろん源姓)。
このように、一方で新田源氏であると主張しながらその一方で公式文書には藤原姓を使っていたことが、松平氏の出自について著しい不信感を抱かせる原因となっており、家康が新田氏の末裔と称したのは任官に際して家柄を飾るための単なる方便だったのだろうという現在の定説の根拠となっている。
近衛前久の書状によれば、家康はさらに、征夷大将軍に任じられる前にも、吉良家から得た系図をもとに新田義国以来の系図を整えており、その際に、藤原姓から、「素志の筋」(本来の希望)である源姓に戻したという。
家康が系図を整えた経緯を明らかにした渡邊世祐の論文が大正時代に出版されてから、家康が自分の家が新田源氏であると主張していたのは官位を受けるための方便であり、松平氏と世良田氏は実際は無関係であるということがほぼ定説になった。しかし、論文が出た当時は、家康の祖父の清康が世良田清康と称していたことは知られていなかった。のちにその事実が明らかになったことで、松平氏の世良田氏へのこだわりは、単に任官に際しての便宜のためという以上の、根の深いものだったことが明らかになっている。
そのような目で近衛前久の書状を読み直してみると、家康が源姓を本来の希望(素志の筋)としていたことや、藤原姓を使っていたのは入手した徳川系図に律儀に従っていたためだったことが伺え、定説とは逆に、家康の主張は一貫して「松平氏=新田源氏の末裔」(新田氏の末裔の系図を使うためなら藤原姓を使うのもいとわない!)であったと見ることも可能である。
松平氏が世良田氏にこだわった理由は、現在ではまったくの謎である。「浪合記」では、世良田政義の子の世良田政親が松平郷に隠れ住んだということが記されている。それに類したことが実際にあり、それが松平氏が世良田氏にこだわる原因になったのではないかというのも、仮説としては成り立ちうると思う。
と、このサイトの「浪合記」の宣伝をして、この稿は終わり。
【参考文献】
「新訂増補国史大系 尊卑分脈」吉川弘文館
「新田氏根本史料」千々和實編、国書刊行会
「改正三河後風土記」桑田忠親監修、秋田書店
「徳川氏の姓氏に就いて」渡邊世祐(渡邊世祐「日本中世史の研究」(六盟館)所収。初出は、「史学雑誌第30編第11号、大正8年11月7日発行)
「新編岡崎市史」
「徳川家康」笠谷和比古(新人物往来社「歴史読本」1996年5月号)
(この論文の転載は以上…新世紀人)
「征夷大将軍に任じられる前にも、吉良家から得た系図をもとに新田義国以来の系図を整えており、」とあり、ここに吉良家が出てくる。
吉良家は足利の系統であり、足利に追われて流浪した新田残党の末裔である徳川とは異なり、源氏の系図とかルーツに詳しかった事であろう。
この事がもしかして吉良殺害から断絶にいたる道についての一つの伏線をなしていた可能性は考えられるかもしれない。
さて、私が徳川幕府を、
「源氏の新田末裔を担いだ、三河奥地の南朝方残党豪族達を土台とする幕府」なのではないかと考えるのは、
その様に考えると、幾つもの説明不十分な事柄についてほぼ説明できるのではないかと考えるからである。
先ず、徳川を支えた側近の豪族(後には大名)達の結束力の高さである。
これは結社性とでも言えるほどのものであった。
彼ら豪族達は南北朝動乱の折、南朝方に立った者達であったようだ。
南北朝動乱においては南朝方も北朝方(足利方)も夫々が全国的なネットワークを形成した。
しかし、足利幕府が固まるにつれて南朝方の全国的なネットワークは寸断され、夫々が孤立化した。
そのせいで、孤立的な後南朝の抵抗が続いたり、終戦後の熊沢天皇の登場も起こり、幕末の明治天皇の大室寅之助すり替え疑惑も生じた訳である。
新田の末裔を迎えた三河奥地の豪族達は、始めから末裔と連絡があったと考えられ、末裔を迎えるには「足利幕府に代わる新田による幕府を打ち立てるべし」との結束した意志を整えていたのではないだろうか。
そうでなければ、末裔のアジテーションに従っただけでその後も奮起し続けたとは考えられない。
「落ちぶれた乞食坊主がやってきて田舎豪族を煽動してやがて子孫が幕府を開いた」では説明は付かないだろう。
始めから計画的、それは南朝方残党の再起を図っての幕府樹立の計画ではなかったのか?
それゆえに征夷大将軍を勤めるに足る頭領としての源氏血筋の新田の末裔を向かえ、末裔も大いに努めたという事ではなかろうか。
さらに徳川幕府が打ち出していた南朝正統論を裏付ける事にもなる。
水戸光圀が編纂を始めた「大日本史」では南朝正統論を唱えている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
大日本史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(前略)
寛文12年には編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転し、「彰考館」と改めた。史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、特に南朝関係の史料を広く収集している。また、光圀は日本へ亡命した明朝遺臣である朱舜水を招聘し、彼らより歴史の正統性の意味を諭された。特に、南北朝時代の南朝方武将楠木正成の忠誠心を朱舜水に示唆された(そもそも日本の正史にとって、北朝と南朝のどちらをとるのかは最大の選択「本朝の大事」だった)。さらに、北畠親房の『神皇正統記』の影響を受けており、林羅山父子が執筆していた歴史書『本朝通鑑』の草稿に、大和民族(日本人)を「呉の太伯の末裔である」という記述を発見して憤慨したという。
延宝4年(1676年)6月には神武天皇から後醍醐天皇までの本紀が清書され、天和年間には『新撰紀伝』104巻として完成するが、光圀は南北朝合一の後亀山天皇期まで扱う必要性と内容上の不備を感じ、同年には彰孝館に総裁を置いて機構を改革し、新館を新築して史館員も増員させ、国史以外にも詩文集など編纂事業が拡大していった。光圀は元禄3年(1690年)に西山荘へ隠棲すると、国史以外の各種事業を停止して本紀の完成を促進させ、元禄10年には「百王本紀」として完成させる。
(後略)
この様な南朝と楠正成の扱いは南朝方の思考が存在しなければ有り得ない筈であり、であれば、徳川幕府を北朝系の朝廷を奉った政権と扱う事は実態に反するのではないのか?
むしろ、南北合一後の朝廷を奉るとの立場だったのではないだろうか。
さらに徳川幕府を支えた服部半蔵の伊賀流忍者との関係も楠氏(南朝方)と服部氏との関係を介して説明できるのではないか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%B0%8F
楠木氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(前略)
なお、昭和37年(1962年)、三重県上野市(現・伊賀市)の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀、服部氏族の上嶋元成の三男が猿楽(能)の大成者である観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。上嶋家文書の真偽をめぐって学界では意見がわかれ、概ね否定的見解が主流であったが、後にその記載内容を裏書きする古文書が兵庫県揖保郡揖保川町新在家の豪農であった永富家(元楠木同族会顧問 鹿島建設株式会社会長鹿島守之助の生家)から発見され、この系図は江戸後期の写しであっても、古本を書写したものであることが証明された。[1
(後略)
これを見ると楠家と服部家との近い関係が窺われ、服部半蔵の伊賀者達が徳川幕府と協力関係を持った理由が南朝方という共通項であった可能性が窺われるというものだ。
南北朝動乱においての新田と足利の確執についてその始まりを太平記に記した箇所がある。
どの程度の実態把握であるかは不明であるが、それを紹介しておく。
http://www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html
(前略)
足利殿東国下向の事附時行滅亡の事
鎌倉を逃げ出した足利直義は、途中駿河国の入江荘の地頭入江左衛門尉春倫の好意で、矢矧宿に陣を取つて、京都へ急使を立てた。
京都では足利宰相高氏を討手に向ける事に決定し、勅使を立てて此事を高氏に仰せ出された所、高氏は征夷将軍の位と関東八箇国の管領とをお許し下された上、直ちに軍勢の恩賞を行ふ事に差支へがないならば、直ぐさま朝敵を退治致しませうとお答へ申上げた。天皇はこれを無造作にお許しになられたが、征夷将軍の位は関東が静まつたならば、其功によつて與へよう、関東八箇国の管領となる事は大体差支へないとおつしやられて、綸旨をお下しになられた。其上恐れ多い事に天皇の御諱の一字を下されて、高氏の「高」を「尊」の字に改めさせられた。
そこで尊氏は直ぐさま関東へ下り、弟の直義と一所になつて、五万余騎で鎌倉へ向ひ、途中で迎へ討たうとしてゐた相模次郎時行の軍勢を攻め破り、またたく間に関東は平定した。
註
(一)鬣。
(二〕大臣。
(三)龍逢は夏紂の桀王を諫めて斬られ、此干は殷の紂王を諫めて斬られた。
(四)殷の兄弟の忠臣。
(五)衛士の詰所。
(六)授戒の法師。
巻 第十四
新田足利確執奏状の事
足利宰相尊氏は相模次郎時行を亡ぼし、関東が静まつたからといつて、まだ宣旨も頂かないのに勝手に足利征夷将軍と名乗つてゐた。又関東八箇国の管領となる事は天皇から御許しを得てゐると、今度箱根、相模河の合戦の時忠義のあつた人々に恩賞を與へ、以前新田義貞の一族の人々が頂いてゐた関東の領地をすべて取り上げ、これを自分の一族の者や家来達に分け與へた。義貞はこれを聞いて怒り、其代りに自分の領地である越後、上野、駿河、播磨等にある足利一族の領地を取り上げて、自分の家来達に與へたので、新田と足利とは、ここに確執を生ずるに至つた。
所が今度尊氏は、相模次郎時行を亡ぼして関東を平らげてから、謀叛の企てをしてゐろといふ噂が天皇の御耳に入つたので、天皇はひどくお怒りになられて、公卿達と御相談の結果、関東へ人をやつて様子を聞き糺さうとしてゐられた所へ、尊氏から新田義貞を討ち亡ぼしたいといふ奏状を捧げた。これを聞いて義貞も亦、尊氏の弟直義は兵部卿親王をお殺し申した上、天下を奪はうとしてゐる、この際是非尊氏を討ち亡ぼしたいといふ奏状を奉つた。
そこで天皇は公卿達を集めて御相談をせられた所、坊門宰相清忠が、
「今少しの間待つて、関東の噂が事実か否かを確め、然る後に尊氏の罪を定めるべきである。」
と申上げたので、皆それに賛成した。其処へちやうど大塔宮の御世話をしてゐた南の御方が鎌倉から帰つて来られ、宮の最後の有様を目に見るやうに申上げた。又四国や西国の者から、足利尊氏が下した軍勢催促の教書(一)数十通を御覧に入れたので、いよ/\尊氏の謀叛は疑ふ余地がないと、一の宮中務卿親王を関東の管領に任命せられ、新田左兵衛督義貞を大将軍と定め、諸国の大名達をそれに副へて、足利討伐に向はしめられる事になつた。
節度使下向の事
新田左兵衛督義貞は朝敵追伐の宣旨を賜はつて、兵をひき連れて宮中に参内した。宮中では中儀(二)の節會を行はれて、義貞に節刀(三)を下された。義貞はそれをうけて二條河原へ押し出し、尊氏の宿所である二條高倉へ軍勢を向け、鬨の声を三度あげ、鏑矢を三本射させて、中門の柱を切り落した。これは嘉承年間義親追伐の例によつたものだといはれる。
さて義貞は一の宮中津卿親王を戴き、弟の脇屋右衛門佐義助を始め、源氏の一族及び他家の大名達六万七千余騎を東海道より、又一万余騎を東山道より、同時に鎌倉へ攻め寄せようと勇み立つて京都を出発した。
鎌倉では左馬頭直義を始め、仁木、細川、高、上杉らの人々が尊氏に向ひ、
「敵に要害の地を通過されては、如何に防戦しても勝てますまい、急いで矢矧、薩●(「つちへん」+「垂」)山の辺へ馳せ向つて防ぎませう。」
と云つた所、尊氏は、
「百分は長年の望みであつた征夷将軍の職につき、位は従上三品となつた。これは自分のわづかな功による事ではあるが、天皇の厚恩でないものはない。恩を受けてそれを忘れるのは人の道ではない。今天皇が御怒りになられた理由は、兵部卿親王をお殺し申した事と、諸国へ軍勢召集の教書を出した事との二つである。この二つはどちらも尊氏のした事ではない。此事を詳しく申しひらきをしたならば、御怒りも必ず解けるであらう。貴殿達はとにかく各々身の処置をつけられよ。尊氏は天皇に向ひ弓を引き矢を放つ事はしない。それでも尚罪の御許しがないならば、出家して天皇に対し不忠の考へを持つてゐない事を、子孫の為に証明するつもりだ。」
と、顔色を変へて云ひ放ち、内へ入つてしまつた。
かうして一二日過ぎた所へ、新田の軍勢が三河、遠江まで近づいたといふので、上杉、細川らは左馬頭直義の所へ行き、長相談の結果、尊氏は鎌倉へ残して置き、直義を大将として打ち向ふ事に決した。其処で直義は二十万七千余騎の軍勢をひきつれて十一月二十日に鎌倉を出発し、二十四日に三河国矢矧の東の宿に到着した。
矢矧、鷺坂、手越河原闘ひの事
(後略)
以上な訳で、徳川幕府の新田氏との関係がただならぬものであり、南朝方の系統であった可能性についても程度の差はあれ御理解いただけたのではないだろうか。
足利幕府を直接的に滅ぼしたのは織田信長であったが、信長については本能寺で死んだとされて資料も残されたものが少ないと考えられるが、実は彼についても南朝方との繋がりを指摘する声も多い。
信長と家康とは同盟関係が深かった。
桶狭間合戦において今川が討たれた時に家康は今川勢についていたが慌てて岡崎城に逃げ帰ったとされている。
しかし、今川が足利の系統である事を考えた時に、桶狭間合戦において既に家康は信長と内通していて桶狭間での今川滅亡に手を貸した可能性すらあるのではとさえ疑っている。
その後、今川から迎えた妻とその間にもうけた我が子を死に追いやった動機も新田と足利の絡みから説明できるかもしれない。
いささか暗い方向に流れて行ったが、もしもそうであれば残念である。
さて、ようやく吉良上野介についてである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE
吉良義央
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吉良 義央(きら よしひさ)は、江戸時代前期の高家肝煎。『忠臣蔵』の敵役として有名。幼名は三郎、通称は左近。従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。吉良上野介と呼ばれることが多い。本姓は源氏(清和源氏)。家紋は丸に二つ引・五三桐。
なお、義央の読みは従来「よしなか」とされていたが、愛知県吉良町の華蔵寺に収められる古文書の花押などから、現在では「よしひさ」と考えられている。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 出自
1.2 名門の家柄
1.3 松の廊下の事件
1.4 最期
2 評価
3 備考
3.1 義央以外の高家衆
3.2 江戸っ子と田舎大名
3.3 吉良と大石の親戚関係
4 伝記
5 吉良義央を題材とした作品
6 吉良義央を演じた役者
7 脚注
8 関連項目
生涯 [編集]
出自 [編集]
寛永18年(1641年)9月2日、高家旗本吉良義冬(4,200石)と酒井忠勝の姪(忠吉の娘)の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸にて生まれる。一説によれば、陣屋があった群馬県藤岡市白石の生まれともされる。義冬の母が高家今川家出身であるため、今川氏真の玄孫にあたる。継母は母の妹。
弟に東条因幡守義叔(500石の旗本)・東条織部義孝(切米300俵の旗本)・東条隼人冬貞(義叔養子)・東条織部冬重(義孝養子)・孝証(山城国石清水八幡宮の僧侶・豊蔵坊孝雄の弟子)の5人がいる。妹も2人おり、うち1人は安藤氏に嫁いだ。
承応2年(1653年)3月16日、将軍徳川家綱に拝謁。明暦3年(1657年)12月27日、従四位下侍従兼上野介に叙任(位階が高いにもかかわらず、上野守でなく上野介である事については、親王任国を参照)。
万治元年(1658年)4月、出羽米沢藩主上杉綱勝の妹・三姫(後の富子)と結婚。この婚儀は美男子であった義央を、富子が見初めたとの逸話もあるが、確実な資料からは見出せない。『上杉年譜』は「万治元年3月5日、柳営において老中酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋列座のなか、保科正之から三姫を吉良上野介へ嫁がせるべき旨を命じられたことを千坂兵部が(綱勝に)言上した」と幕命による婚儀と記している。また、吉良氏が古くからの婚姻関係によって扇谷上杉氏の血を引いており、二男四女(長男吉良三之助、次男吉良三郎、長女鶴姫、次女振姫、三女阿久利姫、四女菊姫)に恵まれた(ただし次男・三郎と次女・振姫は夭折)。
名門の家柄 [編集]
万治2年(1659年)から父とともに出仕する。部屋住みの身分ながら、家禄とは別に庇蔭料1,000俵が支給された。
寛文2年(1662年)8月には、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西天皇の謁見を賜る。以降、生涯を通じて年賀使15回、幕府の使者9回の計24回上洛する。
寛文3年(1663年)1月19日、後西上皇の院政の開始に対する賀使としての2度目の上洛の際、22歳にして従四位上に昇進している。24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら使者職を行っていた事は、高家としての技倆が卓越していた事を表している。優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。
寛文4年(1664年)閏5月、米沢藩主上杉綱勝が嗣子なきまま急死したために改易の危機に陥ったが、保科正之(上杉綱勝の岳父)の斡旋を受け、長男三之助を上杉家の養子(のち上杉綱憲)とした結果、上杉家は改易を免れ、30万石から15万石への減知で危機を収束させた。綱勝急死は義央による毒殺説が存在するが、これは上杉家江戸家老千坂兵部らと対立して失脚した米沢藩士福王子八弥の流言飛語で、信憑性は乏しいとされている。
以後、義央は上杉家との関係を積極的に利用するようになり、たびたび財政支援をさせたほか、3人の娘達を綱憲の養女として縁組を有利に進めようとした。長女鶴姫は薩摩藩主島津綱貴の室、三女阿久利姫は交代寄合旗本津軽政兕の室、四女菊姫も旗本酒井主膳忠平の室となっている(鶴姫は綱貴に離縁され、菊姫も死別するが、のちに公家大炊御門経音の室となって1男1女を産む)。
寛文8年(1668年)5月、父義冬の死去により家督を相続する。時に28歳。
延宝8年(1680年)閏9月、高家の極官である左近衛権少将に任官し、天和3年(1683年)3月には大沢右京大夫基恒、畠山飛騨守義里とともに高家肝煎に就任した。
また、長男綱憲の上杉家入り以後、嫡男は次男三郎だったが、貞享2年(1685年)9月1日に夭折。綱憲や幕府とも協議の末、綱憲次男の春千代を吉良左兵衛義周と改名させて養子とし、元禄3年(1690年)4月16日に江戸鍛冶橋の邸宅へ迎え入れた。
元禄11年(1698年)9月6日、江戸の大火により鍛冶橋邸を焼失し、のち呉服橋にて再建する。皮肉であるが、この大火で消防の指揮をとっていたのは浅野であった。
松の廊下の事件 [編集]
元禄14年(1701年)2月4日、播磨赤穂藩主浅野内匠頭長矩と伊予吉田藩主伊達左京亮宗春両名が、東山天皇の勅使である柳原資廉・高野保春・霊元上皇の院使である清閑寺熈定らの饗応役を命じられた。その際、義央は指南役に任命されたが、義央は朝廷への年賀の使者として京都におり、帰途に体調を崩して2月29日まで江戸に戻らなかった。この間、2度目の饗応役であった浅野は過去の経験をもとに饗応準備をしていたが、かつてとは変更になっていることもあって手違いを生じていた。ここに擦れ違いが生じた、と見る向きもある。
3月14日午前10時頃、城内大廊下にて浅野から額と背中を斬りつけられた。浅野は旗本梶川頼照らに取り押さえられ、義央は高家品川豊前守伊氏・畠山下総守義寧らによって蘇鉄の間へ運ばれた。外科医栗崎道有の治療のおかげで命は助かり、額の傷は残らなかった。その後、目付大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、浅野を取り調べた目付多門伝八郎の「多門筆記」によると、吉良は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心と相見へ申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている。浅野は激怒した将軍徳川綱吉の命により、即日切腹となった。
3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出したが、旧赤穂藩士との確執が噂され、近所の阿波富田藩蜂須賀家などからも懸念されたため、8月、幕命により吉良家は松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に移された。当時の本所は江戸の郊外とされる辺鄙な所であった。名門の吉良家がこのような辺鄙な所への屋敷換えされたことで、幕府は吉良家を見捨てた、もしくは逆に討ち入りをさせたかったという説が根強くある。
また、この屋敷替えに合わせるように、8月21日、大目付の庄田下総守安利(浅野長矩は罪人であるとして庭先で切腹させた人物)・高家肝煎の大友近江守義孝(吉良義央腹心の部下)・書院番士の東条織部冬重(義央の実弟)など、義央に近いと見られた人物が「勤めがよくない」として罷免されて小普請編入となっている。
一方、作家井沢元彦は、「浅野のような男を饗応役として推薦・承認した責任を取らされたのではないか」と、人事選考の失敗が原因で吉良一派が懲罰的処分を受けたとの見解を示している。
さらに、屋敷替えに富子は同道せず、上杉家の芝白金の下屋敷へ移っている。討ち入りを懸念して妻の身を案じたため、また、富子が「浅野も腹を切ったのだからあなたも切ったらどうです?」と言ったため不仲になった、新屋敷が狭くて大勢の女中を連れることができないため等、諸説があって定かではない。
12月11日、義央は隠居願いを提出した。高家肝煎に復帰できる見込みもなく、世論に押された幕府から処罰が下る前に先手を打ったものとも見られ、即座に受理された。養嗣子吉良義周が家督を相続。義央は隠居となり表高家に列した。
元禄15年(1702年)7月に浅野大学長広が浅野本家に預かりとなった。吉良は茶会を12月4日に計画していたが、当日は将軍綱吉が柳沢吉保邸に訪問するために14日になった。この情報は茶人山田宗偏を通じて、宗偏の弟子脇屋新兵衛(その正体は47士の1人大高源五)につかまれていた。元筆頭家老大石内蔵助は討ち入り日に決定した。
最期 [編集]
14日深夜、大石を始めとする赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入った。義周はじめ吉良家臣らは防戦にあたるも、義央自身は炭小屋に隠れた。赤穂浪士たちは吉良の捜索にあたったものの、容易に見つけることはできなかった。吉田忠左衛門や間十次郎らが、台所横の炭小屋から話し声がしたため、中へ入ろうとするや、皿鉢や炭などが投げつけられ、2人の吉良家臣たちが斬りかかってきた。切り伏せたあと、奥で動くものがあったため、間十次郎が槍で突いた。義央は脇差で抵抗しようとするも、武林唯七に斬り捨てられた。享年63(満61歳没)。
なお、吉良家の戦死者は小林平八郎・清水一学・新貝弥七郎・鳥居利右衛門・須藤与一右衛門・左右田源八郎ら17名(一説に16名)。重傷者は山吉新八郎ら23名。それ以外の家臣は戦意を喪失して戦わなかったようである(討ち入った浪士たちは口々に「五十人組、百人組」等と叫び、大人数での討ち入りであると見せかけようとしており、米沢藩邸に急を知らせた吉良邸近所の豆腐屋も、「赤穂の浪人およそ百五十人ほど討ち入り」と伝えていたという)。
華蔵寺にある墓吉良家臣たちは幕命により上杉家が管理するが、綱憲は勇戦が認められた7名のみを召抱え、戦わなかった家臣はすべて追い払っている。奮戦者としては小林と清水が有名だが、「大河内文書」によると大した活躍はしておらず、一番活躍したのは山吉新八郎や新貝弥七郎など上杉家派遣の家臣達であったという。なお、近松行重が池に斬り落とされているが、この近松の相手をしたのも山吉新八郎であったとされる。
吉良の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられたあと、箱に詰めて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へ送り返し、家老左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。二人の連署の署名がある吉良の首の領収書を泉岳寺が残している。先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が首と胴体をつなぎ合わせたあと、菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名「霊性寺殿実山相公大居士」、享年62。
この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが、大正期に万昌院と改めて中野に移転に伴って墓も移動し、現在は史跡に指定されている。
評価 [編集]
黄金堤忠臣蔵の「悪役」として有名な義央の評価は芳しくない。しかし、領地三河国幡豆郡では、貞享3年(1686年)に築いた黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から名君とされ、地元では慕われている。吉良町には赤馬という郷土玩具が存在するが、これは義央が赤馬に乗って領内を視察したのを機に作られた玩具だとされる。
もっとも、義央は領地を殆ど訪れた形跡がないことから(領地に入ったことが確認されているのは僅か一度のみ)、地元での評価は汚名を着せられた領主に対する同情によるところが大きいと思われる。
吉良には浅野内匠頭以外の饗応役にも、いわゆるいじめを行っていたという逸話が多く残っている。しかし物語としての『忠臣蔵』が成立した後に、物語のイメージから後世に創作された可能性も高いので、注意が必要である。
元禄11年(1698年)、勅使饗応役となった亀井隠岐守茲親は義央からいじめを受け、耐えかねた茲親は家老の多胡真蔭にもらしたという。真蔭は主君を諫める一方で、密かに金遣役を呼んで納戸金一箱を取り出させ、茶菓子のなかに入れて手土産として吉良邸へ持参した。主君の無礼を詫びたうえ、指導引き回しを懇願して帰邸。翌日より茲親への態度が急に優しくなったので事なきをえた、という話が津和野名産の茶菓子源氏巻誕生の逸話として残っている。しかしこの逸話の初出は、大田南畝(蜀山人)の「半日閑話(1768〜1822年)」であり、さらに桃井若狭之助(亀井茲親)と加古川本蔵(多胡真蔭)のエピソードが登場する『仮名手本忠臣蔵』(1748年初上演)の後に書かれているので、後世の創作の可能性が高い。『仮名手本忠臣蔵』に登場する桃井若狭助と加古川本蔵は茲親と多胡をモデルにしたものであと言われているが、実際には逆で、架空の桃井と加古川のエピソードが先にあり、後から実在した茲親と多胡を当てはめた可能性が高いであろう。 [1]
なお、浅野が刃傷に及ぶ前、加藤遠江守泰恒(伊予大洲藩主)や戸沢下総守正庸(出羽新庄藩主)が日光法会中に受けた義央のいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよと諭した逸話が、冷光君御伝記(誠尽忠臣記よりの情報としている)や義人録(広島藩士御牧武大夫信久の証言として)などに記されている。
上杉家家臣たちからの評価も芳しくなかった。出納帳には「上野介殿江」という項目が設けられ、吉良家の買掛金や普請は上杉家が持つのが恒例となっていた。呉服橋の新邸も上杉家から支出されている。江戸勘定須田右近は米沢の重臣にあてた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と書き遺している。そのため、近年の忠臣蔵を扱ったドラマの中には上杉家江戸家老の色部又四郎安長が「金食い虫」吉良を消すため策動したものであるかのように描くものもある。真偽は不明だが、上杉家にとって吉良の存在は、上杉鷹山による藩政改革まで藩財政を窮乏させる要因のひとつになった。
更に事件が朝廷に伝わった時、東山天皇の嬉々としていた様子が関白近衛基熙の日記に記されている。幕府の方針を忠実に実行しただけとはいえ、吉良は幕府による朝廷抑制政策の通達役に立つことが多かった。そのため、天皇もまた吉良に含むところがあった事が推測される。
茶人としての義央は、茶匠千宗旦の晩年の弟子の一人であり、『茶道便蒙抄』を著した茶人山田宗偏などとも親交を持っていた。「卜一(ぼくいち・上野介の上の字を二分したもの)」という茶の号を持ち、卜一流を興していた。
備考 [編集]
義央以外の高家衆 [編集]
刃傷事件があった元禄14年(1701年)、吉良は高家肝煎の地位にあったが、当時高家肝煎は吉良を含めて9人いた。吉良以外では畠山民部大輔基玄(従四位上侍従)・大友近江守義孝(従四位下侍従)・品川豊前守伊氏(従四位下侍従)・京極対馬守高規(従四位下侍従)・戸田中務大輔氏興(従四位下侍従)・織田能登守信門(従五位下侍従)・畠山下総守義寧(従五位下侍従)・横瀬美濃守貞顕(従五位下侍従)である(元禄14年当時)。吉良・畠山・大友の三人が高家肝煎職だが、なかでも吉良は高家肝煎職の最古参であり、且つ唯一の左少将であった。高家筆頭と呼ばれているのはこのためである。
江戸っ子と田舎大名 [編集]
吉良が浅野に「田舎大名」などと言った根拠はない。ただ、吉良も三河国(愛知県)に領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。吉良も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地にアイデンティティを持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地にアイデンティティを持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。
吉良と大石の親戚関係 [編集]
吉良と大石の二人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。吉良から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明。
(後略)
所謂、虐めがあったかどうかは判らないのだが、そもそも高家としての吉良上野介の行いに徳川幕府として不満が存在した可能性は考えられる。
水戸光圀(1628から1700)はこの事件(1703)の数年前まで活きていたのであるし、浅野匠守は若い大名であるから徳川幕府の新田南朝方系統の尊王論を抱いていたならば足利残党の吉良上野介による勅使への接待方についてそもそも疑問と不満を抱いていた可能性もあるのではないか。
そうであれば、吉良への刃傷は実は突発的なものではなく、踏み込んで考えれば殺害を始めから目指したものであった可能性も考えられ、義士達の討ち入りと称されるものは、「敵討ち」などではなく、主君が仕損じた事を家来達が代わって成し遂げたという事なのかもしれない。
殿中での刃傷沙汰は、古代に似たものがある。
中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿への誅殺である。
もしかして浅野匠守はそれに倣ったのかもしれないが、私は幕府内において吉良家追放の意志がどこかに存在した可能性をも疑っている。
赤穂藩の家臣の全部が討ち入りに参加したとすれば藩同士の合戦ということになる。
それで代表としての47人が行って他の者達も実は支援していたのではないのか。
しかしながら、新田幕府としての徳川幕府であったとしても新田の出自を出来る限り表に出さなかった事などから、様々な謀略を用いて政権を持続させた事はあり、その事が不徳となり西国諸藩による討幕運動を幕末の危機において招くにいたり、その思想的支柱の土台として役割を水戸藩の尊王思想が果たした事が皮肉である。
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