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画像です。部分的ではありますが。…「天皇陛下は江戸城跡でなく京都に・・・」亀井氏が発言
http://www.asyura2.com/10/senkyo76/msg/859.html
投稿者 新世紀人 日時 2009 年 12 月 28 日 20:30:24: uj2zhYZWUUp16
 

ユーチューブの画像が出ています。
しかし後ろの三分の一程度の所から亀井氏発言は始まっています。
それまでは谷垣氏の鳩山氏への批判とかなんとかといった有様です。

「天皇陛下は江戸城跡でなく京都に・・・」亀井氏が発言(09/12/27)
http://www.youtube.com/watch?v=rLojGRzhrng&feature=fvhl

興味深い事に、わざと出さなかったのであろうと考えられるのは天皇陛下の亀井氏への御返事である「京都が好きです」との部分です。
亀井氏はここで陛下がその様に言われた事を語っているはずなのです。

各メディアはこれについての記事を出していてそれほど大きな違いはありません。
あるメディアは、亀井氏は「陛下は黙っていた」と書いていたのですが、その後に記事を訂正し、陛下のご発言を載せています。


参考として幾つかのメディアの記事を出しておきます。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091227-00000048-mai-pol
<亀井担当相>「天皇陛下は京都か広島に」と会話内容明かす
12月27日20時58分配信 毎日新聞

 国民新党代表の亀井静香金融・郵政担当相は27日、テレビ朝日の番組で、天皇陛下との会食の際、「権力の象徴だった江戸城に今もお住まいになるのは、お立場上ふさわしくないのではないか。京都か、(亀井氏の地元の)広島に(お住まいになれば)」と話しかけたことを明らかにした。亀井氏はテレビ出演後、記者団に対し、陛下が直接の返答を避け、「京都が好きです」と答えられたことも明かした。

 閣僚が天皇陛下との会話の内容を明らかにするのは極めて異例。やり取りのあった会食は24日の鳩山由紀夫首相と閣僚らによる宮中昼食会とみられる。亀井氏は27日、記者団に対し、皇居移転に言及した自らの発言について「明治期に幕府の権力の象徴の跡に入られたことが、その後の歴史で、政治利用みたいな形になってしまった」と説明した。

 番組で同席した自民党の谷垣禎一総裁(衆院京都5区)は「京都では(明治維新の際に)陛下は『ちょっと行ってくる』とおっしゃって東京に行ったままになっている」と語った。

 ノンフィクション作家の保阪正康さんは「(閣僚が所管事項を天皇陛下に報告する)内奏ではないが、現職閣僚が陛下との会話を明らかにすることに軽率さがある。陛下には反論権がなく、我々も亀井氏の話が正確か、判断する根拠がない」と指摘。その上で「現政権は皇室問題についての基本的な考え方を説明すべきだ」と注文した。

 内奏の場合、内容が外に漏れることは天皇の政治利用につながるとの指摘があり、口外しないことが原則になっている。1973年に増原恵吉防衛庁長官(当時)が昭和天皇のお言葉を引き合いに、政府の防衛力増強を合理化するような発言をし、閣僚辞任に追い込まれた例がある。【田辺一城】 最終更新:12月27日22時27分


http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20091228AT3S2700E27122009.html
「京都か広島にお住まいを」 亀井氏が天皇陛下に
 国民新党代表の亀井静香郵政・金融担当相は27日のテレビ朝日番組で、24日の皇居での天皇陛下との昼食会で「権力の象徴であった江戸城(跡)に住むことは立場上ふさわしくないのではないか。京都あるいは(亀井氏の地元の)広島に(移っては)」と伝えたことを明らかにした。閣僚が陛下との会話の内容を明かすのは極めて異例だ。

 亀井氏は記者団に「明治に幕府の権力の象徴のお城に入ったのが間違い。その後の歴史で政治利用みたいな形になっていった」と指摘。陛下は「京都は好きです」とお話しになったとも語った。(27日 22:23)


http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_date2&k=2009122700080
「お住まいは京都、広島に」=陛下との会話明かす−亀井氏

 亀井静香金融・郵政改革担当相は27日のテレビ朝日の番組で、天皇陛下と言葉を交わした際に「権力の象徴であった江戸城(跡の皇居に)にお住まいになるのは、お立場上ふさわしくないのではないか」と語ったことを明らかにした。
 閣僚が陛下との会話の内容を明らかにするのは極めて異例。亀井氏は24日の宮中午さん会で陛下と会った際、「恐れ多くも陛下に、『こういう権力の象徴であった江戸城(跡)にお住まいになられるのでなく、京都か広島に(お住まいになれば)』と一方的に申し上げた。陛下は黙っていた」と述べた。番組終了後には記者団に「(陛下は)『京都好きです』とは言っておられた。広島が好きですとまでは言われなかったけど」と語った。
 また、亀井氏は番組で司会者に「天皇陛下とは日本人にとって何か」と問われ、「象徴であり、かつ元首だ」と答えた。ただ、亀井氏は「(憲法には)元首という規定はないけど。天皇という存在が日本を代表しておられるという意味では象徴だ」とも述べた。
 この発言に対し、社民党党首の福島瑞穂消費者・少子化担当相は同じ番組で「憲法上、元首だと言明するのは違う」と指摘。共産党の志位和夫委員長も「憲法で元首というのは無理だ」と批判した。(2009/12/27-21:40)


〔転載以上〕

天皇についての憲法の規定については、
徳川慶喜が大政奉還の時に西周[にしあまね]に起草させた『議題腹稿』の天皇の扱いは大変に優れていて、明治憲法は勿論、現行憲法よりも優れています。
それは天皇についての本質的理解が明治政府よりも遥かに高かった事に起因しています。
天皇を諸侯と人民の国家に対しての独立的存在と看做し、その地位を保全する扱いとしているのです。
『議題腹稿』においては天皇への「本質規定」は書かれてはいません。
しかし慶喜達の中においては彼らの本質認識は確かに存在していました。
それは不十分なものではあったでしょうが、明治国家のそれよりは遥かに正しいものであったのです。
天皇は近代国家における絶対王政下の専制君主ではなく、立憲君主制下の国王でもありません。
欧州における存在としてはむしろローマ法王に似ていると言えましょう。
勿論、本質的には違います。
しかしながら似た存在形態であるローマ法王のイタリアに於ける国家内国家としてのバティカンに似たものを徳川慶喜が構想した事は明治憲法や現行憲法よりも遥かに優れた事であったのです。
以下に、それについて詳しい論文を転載します。


http://chinachips.fc2web.com/repo5/051217.html
☆ 大統領になり損ねた将軍〜大政奉還の真実 ―――― 2008/10/03
                        原著 2000/03/07

慶応3(1867)年10月14日、徳川第15代将軍・慶喜は、自らの持つ政権の
返上を朝廷に申し出、翌15日、朝廷がこれを受理しました。世にいう「大政
奉還」です。

これによって、建久3(1192)年、源頼朝が征夷大将軍(一般的には単に将軍と
呼ぶ)に任ぜられ、幕府を開いて以来、約700年続いてきた「幕府政治=武
家政治」は終焉を迎えたのです。

しかし、最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還の向こうに見据えていたもの、それ
は、彼なりの戦略に基づいた「新たな政権」への布石だったのです。

というわけで今回は、最後の将軍・慶喜が描き、そして潰え去った「新たな政
権」について書いてみます。

まず、第一に知っておいて頂きたい事、それは、慶喜は「大政奉還」後も依然
として政治の中心に居続けたということです。決して大政奉還によってお役御
免=お払い箱にはなっていないのです。

それが証拠に、10月24日、慶喜が提出した「将軍職辞任の上表」は朝廷に
よって却下されているのです。----慶喜が実際に将軍職を辞任したのは12月
9日の「王政復古」の大号令の時。

確かに朝廷は、
「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断
を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護せば、必ず海外万国と並立するを得ん」
と書かれた「大政奉還の上表」は受理しました。

しかし、朝廷が政権を武家=幕府体制)に委ねてから既に700年もの歳月が
流れているのです。今更、将軍=幕府)から政権をヒョイと手渡されても政治
の実務に全く関与してこなかった公卿達には、どうしたら良いのか、どこから
手を付ければ良いのかすら分からなかった筈です。

つまり朝廷にとっては、ある意味で慶喜の提出した「大政奉還の上表」や「将
軍職辞任の上表」は、甚だ迷惑な事だったのです。

さて「大政奉還」によって政権を朝廷に「返上」した筈の慶喜ですが、実は彼
自身、何一つ失ってはいないのです。例えば当時の列強諸国の認識動向です。

慶喜は将軍に就任して以来、列強諸国から「日本の皇帝= Emperor」として承
認されていました。その彼が、12月9日の王政復古の政変による幕府廃止に
伴い、将軍職を辞任(というよりも更迭)させられた一週間後の12月16日、

大坂城(大阪城)に各国公使を引見した際、慶喜は引き続き「自分自身が日本の
主権者である」旨を宣言しており、公使達もそれを支持していたという事実で
す。

更に重要な事は、「大政奉還」にしろ「王政復古」にしろ、朝廷=薩長主体の
新政府には、発足当初、日本を統治する何らの実力もなかったという事です。

大政奉還を受理した朝廷は、国家の重要案件や外交問題の処理については「衆
議を尽くす」事、その他の案件については「召しの諸侯上京の上、御決定これ
あるべく」として、諸大名に対して朝廷から上京命令が発せられたのですが、

譜代大名=徳川家直系家臣)の多くがこの命令を辞退(無視)し、朝廷より賜っ
た官位を返上しようとした事実です。

つまり、彼ら譜代大名にとっては、徳川家こそが自分達の主権者であり、外様
である薩長が主体の新政権=朝廷)に指図を受ける筋合いはない、と考えた訳
です。ーーーだからこそ上京命令無視・官位返上という挙にでたわけです。

これが意味するものは、例え将軍職(列強諸国がいうところの「エンペラー」)
を辞したとしても、慶喜が「日本の主権者」である事実に何ら変わりがなかっ
たということです。

そして、その慶喜が最終的に目指したもの、それは将軍に代わる新たな地位、
すわなち「日本国大統領」の座だったのです。

「日本国大統領」

慶喜は、自らの政治顧問である西周[にしあまね]に『議題腹稿』を起草させて
います。これはいうならば「憲法草案」といえるものでした。(以下、概要)

『議題腹稿』に見る徳川慶喜の新国家構想
┌----------
・政府の権=行政権:

政府の首長は「大君=大統領」と称し官僚の任命、全国の行政権を行使する。
また、藩政=地方自治体の政治については「議政院=国会」で議決された法律
に抵触しない限り、各藩=地方自治体に任せる。

・朝廷の権=天皇権:

天皇は「議政院=国会」において議決された法律を追認する。朝廷警備軍=近
衛師団)は「大君」直領及び各藩から石高に応じて一定人数を割り当てて編成
し、士官以上は政府より派遣する。
また、武器携帯者は天皇の直領である山城国(京都府内)への入国を禁止する。

・大名の権=立法権:

立法機関として上下両院から成る「議政院=国会」を設置し、法律・予算の議
定、外交・和戦等の重要案件を協議する。上院は大名、下院は各藩一名ずつの
藩士によって構成する。
上院議長は「大君」の兼任とし、両院会議において決定しない案件の裁決権と
下院の解散権を有する。

・軍事の権=軍事権:

軍事権は当面の期間、諸大名に任せる。ただし情勢が安定した後は政府が全国
の軍事権を接収統轄し、軍事統帥権は「大君」に帰すものとする。
└----------

この中に謳われている「大君」こそ、慶喜が将軍職に代わって新たに狙ってい
た地位なのです。確かにその名称は将軍の対外的呼称であった大君=タイクー
ン:Tycoon)と同じです。

しかし『議題腹稿』に定義されている新たな大君職は行政府の長であり、立法
府の長であり、尚かつ軍最高司令官をも兼任する強大な権限を有しており、そ
れはさながら、古代ローマ皇帝(元首:Princepsプリンケプス)か、アメリカ合
衆国大統領(President プレジデント)といったところでしょうか。

そして、それを可能にする素地が実際にあったからこそ、慶喜は「大政奉還」
の挙に打って出、将軍職を辞任しても何ら臆することがなかったのではないで
しょうか。

「列藩会議」

慶喜は、徳川宗家の持つ強大な軍事力、前将軍という知名度、そして列強諸国
から依然として「日本の主権者」として認知されている事実を最大の武器に、

朝廷が諸大名を招集して開催するであろうこの列藩会議において、政治の主導
権を掌握し、『議題腹稿』に則って「大君」=事実上の「日本国大統領」に推
戴される事を狙っていたのでしょう。

しかし、歴史の歯車が狂い、戊辰戦争において朝敵の汚名を受け、遂に日本国
初代大統領の座を掌中にする夢は潰え去ったのです。その後、日本は薩長土肥
主体の明治新政府が成立、時をおいて内閣、そして議会が開設されていくので
すが、

私は、慶喜の思惑通り事が進み、例え『議題腹稿』に沿った新国家が成立して
いたとしても、我々の知る歴史とそれ程違った体制になったとは思えないので
す。

発足当初こそ大名主体だったとしても、時が経てば当然の事ながら民主化され
たでしょうし、天皇も現在の地位である「日本国民統合の象徴」として定着し
た事でしょう。

要は、明治維新というある種の革命があったかなかったか、改革が急進的だっ
たか漸進的だったかの違いでしかなかったのではないでしょうか。

もし歴史に「if」が許されるのであるならば・・・そう考える時、慶喜が目指
した新国家の「その後」の歴史が実際にどのように推移していっただろうか?
と知りたくもあります。

                        = この稿おわり =
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――┘


〔転載以上〕

「天皇の直領である山城国(京都府内)」との考えはバティカン市国のようであり優れています。
優れてはいますが、現在に生きる私には承認は出来ません。
天皇の国家に対する独立性は考えて保障されるべきとは考えてはいます。
国家と天皇の存在の間に隙間がなく縛り付けられていては天皇の独自性は保障されないからです。
しかし、国家内国家を造る事ではこの問題に適切な対応は出来ない。
欧州文明を導入する為の止むを得ない打開策としての意味しかありません。
この問題は微妙なテーマなので、ほんのサワリだけを止むを得ず、本質的な御理解を各自が進めていただく為の「消化剤(胃薬)」として提出しただけです。
天皇問題に私自身は手を触れて論及を進める積りは全くありませんので誤解なきよう。


亀井氏、天皇は江戸城より京都に 昼食会で進言 … さすが亀! 面白い事を言う。天皇の御返事も味わい深い。
http://www.asyura2.com/10/senkyo76/msg/802.html
投稿者 新世紀人 日時 2009 年 12 月 27 日 16:32:35: uj2zhYZWUUp16

 2 81 +−  

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コメント
 
01. 2009年12月28日 23:13:38
天皇制は廃止。伊勢神宮で神官でも神様でも営んでいればよろしい。

02. 2009年12月29日 01:39:06
京都ではなく長崎にお住まいになられたら良いかと、ロザリオを忍ばせておられるようですから。

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