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[Compliance Communication] (09年12月25日)
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第80回コンプライアンス研究センター定例記者レクでの発言概要
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12月18日に開催したコンプライアンス研究センター長定例記者レクでの郷原センター
長の発言の概要をお送りします。
[テーマ]
◎「今後のICT分野における国民の権利保障等の在り方を考えるフォーラム」第1回会合について
◎小沢氏秘書大久保氏の政治資金規正法違反事件の第1回公判(12月18日pm13:30〜)につい
て検察側冒頭陳述、被告人・弁護人側の意見陳述等
【12月18日記者レク概要】
http://www.comp-c.co.jp/pdf/091218reku.pdf
2009.12.18
第80回定例記者レク概要
名城大学コンプライアンス研究センター長 郷原信郎
一昨日、総務省で、放送行政の在り方等を検討する「ICT権利保障フォーラム」の第1回の会合が開かれました。また、今日は、東京地裁で、民主党小沢幹事長の秘書の大久保氏の政治資金規正法違反事件の第1回公判がありました。今日は、この二つをテーマにお話したいと思います。
まず、正式名称「今後のICT分野における国民の権利保障等のあり方を考えるフォーラム」についてですが、名称だけからはいったいどういうことを、どういうふうに議論していくのか、あまりイメージがつかめないまま、第1回会合を迎えたのですが、参考資料だけが席上配られているだけで、特に説明もなく、最初から座長が、自由にディスカッションしてください、と言って会議が始まるという、これまで、お役所で開かれる委員会や審議会にはないパターンの会合でした。そういう形で自由に意見を出してもらう中で、今後の議論すべきポイント、アジェンダを確定していこうという考え方なのだろうと思います。
とりあえず、アジェンダの案として出されていたのが、この「放送報道の自由を守る砦が必要とされる背景」ということで、放送事業者による自主的な取り組み、BPO、行政の対応の現状と諸外国との比較というものでした。これが1つのメインのテーマであることは間違いないと思います。そして、もう1つ、「コンテンツを含む知的財産にかかる推進のあり方」という、産業振興的なテーマもアジェンダとして含まれています。こういう問題を取り上げることについては若干異論もあったところでした。
放送行政に関連する私のこれまでの活動は、このメインのテーマ、放送事業者による自主的な取り組みの現状の評価とか、BPOの現状と評価というようなところと関連しています。これまでTBS『朝ズバ!』の問題を追及してきましたし、国会の委員会でもきびしいことを言ってきました。おそらく、そういう私が、そういう観点から放送事業者のコンプライアンスの問題をガンガン言ってくるだろうと予想されていたからだと思いますが、私方からそういうことを言う前に、オブザーバーの民放連の広瀬会長が、放送法3条を守るべきで行政が放送に介入すべきではない。だから、今のBPO中心の枠組みでいいんだというような意見を言われて、BPOを批判している私の名前まで出してきました。また、その後、BPO検証委員会の委員の立教大学の服部教授からも、私の名前が出されたので、ちょっと私の方も黙っているわけにはいかなくなって、この点についての私の意見を言わせて頂きました。
放送法の3条はたしかに重要な規定で、放送の自由を確保する、行政の介入を排除しないといけないだけど、それは、まったくその通りだと思うのですが、しかし、放送法の3
条を尊重するためには4条がきちんと機能しないといけない。真実に反する放送が行なわれたというような指摘があったときに、放送事業者側がきちんと自助努力で、自主的に放送に関する問題を明らかにして、何か真実に反することがあったら、訂正放送を行なうという、その4条の枠組みが機能していて始めて、放送法3条の行政からの介入の禁止が生きるのだ、という意見を言わせていただきました。
結果的に、私以外のメンバーからも、最近の放送をめぐる具体的事例を検証すべきだという意見もたくさん出されたこともあって、今回のフォーラムの第1回の会合の中で、放送事業者の自律性、自主性によって放送の真実性、客観性、公平性などを確保していくことが、今のBPO中心の枠組みの中で期待できるのか、という点が今後議論すべき重要なポイントになったことは間違いないと思います。
広瀬会長は、放送事業者も新聞も同じメディアなんだから、言論に行政が介入してはならないということを言われていましたが、それはまったくちがうと思います。放送メディアというのは、公共の電波を独占的に使用している。そして、電波を使用できることによって、それだけで、自分たちの放送を相当な数の視聴者の目に触れさせることができる立場にある。そして、それが自由競争原理に委ねられ、視聴率に応じて収益につながるということになれば、他の大切な価値、放送の真実性、客観性、公平性、など守られるべき社会的な価値が損なわれるという、放送メディア独特の問題があります。そういう面では、新聞、週刊誌などと放送行政の問題を同列に論じることはできません。
私は、けっして放送事業者に対する行政の介入を強化すべきだという考え方を持っているわけではありません。
今回のフォーラムの資料の中の、海外の放送番組に関する規律と日本との比較についての表もお手元にお配りしてあると思いますが、それを見ても明らかなように、日本は放送番組についての規律が非常に弱い、基本的に弱いということが言えると思います。フォーラムでの私の最初の発言でも言ったように、電波法という、まさに電波というリソースの配分に関して、物的な設備を作って、電波を飛ばすこと自体に関する規制を行う法律で、総務省に、放送の内容に関する法律である放送法違反に対して免許の停止や取消という強い権限が与えられているだけです。
電波法というのは、法律の目的のここにも書いているように、公平に電波という資源を配分する、使用を認めることを目的とする法律で、基本的には違法な電波を飛ばしちゃいけないという規制が中心で、まともな使い方をしてる電波局とか、電波の発信者が急に免許を取り上げられるということはないわけです。要するに、電波を発信するという行為の問題であって、放送の内容の問題ではないわけです。一方、放送法というのは、放送というものがいかに社会の要請に応えるよう、いかに公正に真実性、客観性が満たされ、なおかつ放送の自由が確保される、言論の自由が確保される、ということを目的としています。そういう放送の内容面についての規定です。だから、もともと全然主旨が異なるわけです。
ですから、実際には、放送法違反に対して電波法に基づく権限が行使されることはほとんどあり得ないので、実際には、法律に基づかない警告や注意のような行政指導が行われているだけです。そういう意味では諸外国の制度と比較すると、放送の内容、放送番組についての規律が非常に緩いということが言えると思います。
では、そのように、放送内容に対する規律が緩いことがいいのか、悪いのかといったら、私はそういう枠組みでうまくやっていけるのであれば、それは大変良いことだと思います。日本が諸外国と比べて、放送番組に対する規律は緩いが、その反面、放送事業者の自主、自律というコンプライアンスがしっかり守られている。だから公的な規律は緩くても良いというのであれば、それは非常に歓迎すべきことだと思うんです。しかし、現実はそうではなくて、むしろ、今の日本の放送メディアに対して、社会全体、国民全体が放送内容を信頼をしているとは到底言えない状態です。むしろ、放送事業者のコンプライアンスという面では重大な問題があると言わざるを得ない状態にある、と言えるのではないかと思います。
そういう面で、何らかのかたちで現状を変えていかないといけない、いかに放送内容や番組に関して問題が大きいのかという現状を認識して、何らかの措置をとっていかないといけないこと自体は否定できないと思います。私はその何らかの措置というのは、できるかぎり放送事業者側の自主的な措置として行なわれるべきだと思っていますが、放送事業者側の自主的、自律的コンプライアンスが期待できないということになると、諸外国のような公的な規律を強化するという議論が出てくるのも致し方ないところだろうと思います。
問題は、じゃあ、どういう方向で今後考えていくべきなのかということです。これを今後フォーラムでも議論していくことになるわけですが、そういう面でも、今回の第一回の会合でも、フォーラムのメンバーの方々からいろいろな意見が出されました。
例えばフリージャーナリストになられた黒岩さんの発言です。今回のフォーラムが終わった時点で各メンバーに配布していただいた、我々の機関誌の『コーポレートコンプライアンス19号』の「メディアの倫理を問う」の中に掲載している、週刊朝日の山口編集長と私との鼎談の中でも黒岩さんが発言されているところなんですが、「視聴者の目というのがあって、そして、視聴者からいろんな情報とか、いろんな指摘が得られるということが、放送事業者を律していく、番組を作る側を律していく、非常に重要な要素なんだ」ということを、黒岩さんが、今回のフォーラムの会合でも発言されていました。私もまったくその通りだと思います。そういう視聴者との間の健全なコラボレーションというのが、放送事業者にとって、放送の質の向上とか、真実性、客観性、公平性を確保していく有力な、重要な手段だと思います。
ただ、問題は、どこのテレビ局の、どこの番組もそういうバラエティ番組なども含めて、そういうような視聴者との健全なコラボレーションが可能な体制になっているのかというと、けっしてそうじゃないわけです。この鼎談の中でも私が指摘しているんですが、2005年の総選挙の前にも、その後、不二家問題などで私がいろいろ問題にすることになる朝のバラエティ番組の中で、新聞の政治部の論説委員の人が「もし民主党が過半数をとっても、参議院が過半数でないから、法律も予算も通らない」というような発言をしたわけです。これは、明らかに間違いです。参議院が過半数とってなくても、衆議院で過半数とれば予算は通るわけです。その間違いを指摘しようと思って、そのテレビ局に電話をしたのですが、番組の担当者につながらないのです。要するに10時以降じゃないと、番組の制作局の方には電話をつながないということになっていて、急ぎの電話だと言ったら、防災センターにつなぎましょうか、という話になるわけです。
そのような体制では黒岩さんが言われるような視聴者側からの情報や指摘は活用しようがない。むしろ、そのテレビ局の場合は、そういう情報を活用しようとする姿勢すらないのではないかと思えます。
やはりそういう視聴者からの情報や指摘をきちんと機能させていこうと思えば、やはりテレビ局側の体制が重要になるわけです。そういうことも含めて、テレビ局の側の自主的な取り組みをどうやって高めていくのかということを中心に議論していくことができれば、今回のフォーラムも充実したものになっていくんじゃないかと思います。
そして、そういった面での努力を行っても、どうしてもカバーできない悪質な、意図的な、そういう真実に反する番組が放送されたとか、内容的に非常に問題がある放送が行なわれて、それが放置されているというようなことがあったときには、何らかの措置、それもできるだけ公的な介入ではない、自主的な、放送業界全体でのサンクションを機能させていく、そして、行政の介入というのは、その後の、最後の最後の手段と考えるのが筋ではないかと思います。
そういう意味で、今のBPO検証委員会の枠組みはまったく不十分で、放送事業者の自主的な取組みが機能しているとは到底言えません。
確かに、「バンキシャ!」の問題ではBPO検証委員会が勧告を出しています。しかし、この機関誌の中でも書いているように、この「バンキシャ!」の問題は、たまたま別の犯罪で情報提供者なる人物が逮捕されたという偶然的な事情があったために、全部明らかになってしまったということでBPOも動き出したわけです。そうじゃなければ、たぶんああいうことにならなかったでしょう。そういうときだけとことんきびしい措置になって、BPOも勧告を出す、テレビ局は訂正放送までやる、しかし、そういう偶然的な事情がなくて、テレビ局側が「取材源の秘匿」を振りかざして、言い逃れできる場合は、BPOがそこに斬り込んでいくことはないというのが現状です。
その言い訳が明らかに不合理じゃないかという場合でもそうです。クッキーとチョコレートと混同したというような子供じみた言い訳を丸呑みしてお終いです。そいう状態ではBPOによって自主・自律のコンプライアンスがきちんと機能しているとは到底言えないのではないかと思います。BPOはもっと放送事業者側の対応のプロセスに立ち入っていくべきではないか、ということを言いたいということなのです。
原口大臣がおっしゃる、「言論の砦」としてのアメリカのFCCのような独立行政委員会
のような組織を作ることについてですが、大臣は、この機関誌の中の服部教授と私との鼎談の中では、委員の公選ということも考えてもいいんじゃないかということも言われています。しかし、こういう専門機関に関して委員の公選が本当に適切かというと、ちょっと違うかなという感じがします。私はそういう意味でFCCという組織を作る必要があるのかということ自体に関しても原口大臣とは若干意見を異にしています。私はそれよりも前に、まだやるべきことがいろいろあるんじゃないかと思っています。
例えば、先ほどもお話しした電波法と放送法の「歪み」の問題です。その電波法の所管官庁の総務省が放送法もなんとなく所管しているというのが今の状況で、そこの歪みを改めていくためには、FCCのような新たな組織を作るしかないというんであれば、それはそれで考えないといけないかもしれません。しかし、そういう組織のあり方というのは、次の問題なんじゃないか。それよりもまず、法律の歪みを是正して、放送に関するいろんな問題に関して放送事業者の自主的な取り組みを機能させ、その外に業界としての何らかの緩やかなサンクション的なものを導入して、最後に公的な権限みたいなものが、本当に最後の最後の手段として出てくるという体系をしっかり整えることが先決ではないかという感じがするんです。
独立行政委員会というものに、あまり過大な期待をするのは、若干危険なような気がします。それは私のもともとの専門分野である独占禁止法の分野で公正取引委員会が、最近いかに政治的に動いているかを見れば明らかだと思います。あの小泉改革の中で、竹島公取委というのがいかに政治性を帯びたか。それを考えると、独立行政委員会は、人選如何によって非常に危険な面も持っていると言えると思います。そこで、まずは何をやるべきなのか、どういうかたちで国家、公的な介入が許されるのか、というようなところをしっかり考えて、そして、それと適合するような組織のあり方を最後に考えるということが必要なんじゃないかと思います。
この問題については、今後も、フォーラムで積極的に発言していきたいと思いますし、総務省に関しては私も顧問という立ち場もありますから、このフォーラムの進め方に関しても、私なりに意見を言っていきたいと思っています。この記者レクでも、フォーラムの場での議論についてコメントしていきたいと思います。
次に、今日の小沢氏の大久保秘書の公判の件なんですが。私もなんとか検察側、弁護側の冒陳を入手して読んだのですが、時間がなくて、まだ弁護側の冒頭陳述はよく読めていません。ただ、少なくとも、検察側の冒陳を読むかぎり、検察側の立証のあり方には非常に問題があると考えています。
本件の争点は、大きく言えば2つあるわけです。1つは違反の成否の問題。そもそも今回の大久保氏の起訴された事実が政治資金規正法違反にあたるのかどうか。そのうちの1つは、これは法解釈上の問題、そもそも寄付者というのは資金の提供者のことを言うのか、外形的な行為者のことを言うのかという、法解釈上の問題と、それと、あとは事実としてのダミー性……西松建設のOBが代表を務める団体がダミーだと、実体がないと言えるのかどうかという問題。それから、それを仮にダミーだとした場合でも、それを大久保氏が認識していたのかどうかという問題、有罪か無罪かという違反の成否に関しては、この3つの問題点があると言えるだろうと思います。
そして、もう1つが、偏頗な捜査じゃないか。公平性を欠く捜査じゃないか。悪質性、重大性がないのに、他の事件をほっておいて、これだけねらい撃ちにした不当な捜査・起訴じゃないかという点、つまり情状面の問題、事件の評価、悪質性、重大性の問題です。これがもう1つの大きな問題だと思います。
つい先ほど、冒頭陳述の表現を入手したので、弁護側の冒陳はまだよく読めてないのですが、やはり弁護側もそういった悪質性、重大性がない、そして偏頗な捜査だと。だから、公訴権の濫用だ、公訴提起が無効だという主張を最初にしているようです。そこは1つの重大な本件の争点だと思います。
そこで、違反の成否の問題についてはちょっと置いといて、先に、悪質性、重大性の問題に関してお話ししたいと思います。
検察側がその悪質性、重大性を何によって立証しようとしているのかと言ったら、冒陳を見るかぎりでは、まさにキーワードである“天の声”です。天の声、要するに小沢事務所側がその特定のゼネコンの公共工事の受注を了解する、了承する、そういう天の声を出すことによって、その特定のゼネコンが談合受注できるということです。談合受注と寄付との間に対価関係がある。要するに談合で受注させてやった見返りに寄付を受け取ったという見方、事実関係を検察官が主張しているわけです。
工事を受注させてやる、そういう便宜をはかってやった見返りに政治献金をもらうということであれば実質上、贈収賄的な臭いがするということになります。そういうような構図として、この事件をとらえようとしたのは今回が初めてではなくて、西松建設側の公判、5月に始まった国沢社長らに対する公判の中でも、検察は、そういう見方を前面に打ち出した冒頭陳述をやったわけです、天の声、天の声、というのを強調して、「西松建設にとらせてやる」というような言葉まで出して、大久保秘書が公共工事の受注について深く関わった、あたかも公共工事の受注が政治献金の見返りであったかのような内容の冒陳を行なったわけです。それが、マスコミの報道ではあたかも事実であるように、大きく取り上げられて、天の声、天の声という言葉が新聞の見出しでも躍ったわけです。
じゃあ、その西松建設の国沢社長に対する判決の中で、この点がどう認定されたのか、というと、結局、この点について裁判所は、そういう検察の主張はほとんど認めていないんです。公共工事の受注に影響力を持っている秘書らとの関係を良好にしたいというような気持ちが動機になっていたと言っているだけです。そして、の寄付は公共工事の受注と対価関係に立つものではないということまではっきり言って、検察側の「天の声」の主張を排斥しているわけです。しかし、そのことは、あまり十分に報じられていません。最初の、あたかも天の声というのがさも事実であるように大々的に報じられたのに、その後、
判決でそういう主張に対して否定的な認定が行なわれたことが報じられていないのは、非常に問題なんじゃないかと思っていたのですが、今回、検察官の冒陳を見ると、驚いたことに、またしてもそういう表現をして冒頭陳述で主張してきているわけです。表現とか中身は少し違いますが、談合受注とその寄付とが対価関係にあるかのような主張を繰り返しているのです。どういう証拠関係によって、こういうような立証が行なわれようとしているのか、私には詳しいことはわかりません。しかし常識的に考えると、あの5月、6月の公判の段階で、西松建設側は全面降伏状態で、どんな証拠請求しても証拠採用に同意するという状態ですから、思いっきり立証できたはずのあの公判ですら立証できなかった、裁判所に認めてもらえなかったことを、今回また蒸し返して、冒頭陳述で主張するというのは、いったいどういう考え方なのか、私にはちょっと理解できないところです。
大久保秘書が特定のゼネコンとの間で具体的な工事の受注について話をしたということはたしかにあるのかもしれません。しかし、私が検事時代にいろんな公共工事をめぐる腐敗の事案にかかわった経験から言うと、公共工事をめぐる談合構図というのは、けっして単純なものじゃない。いろんな情報交換、いろんなやり取りが行なわれる中で、チャンピオンが絞り込まれていくものであって、ある場面で、ある政治家の秘書が、「よし、とらしてやる」と言ったから、それだけポンと一回で決まってしまうような、そんな簡単なことだったら、業務屋さんたちは苦労しないです。そこで政治家の秘書とゼネコンとの間で具体的な工事についての話があったかどうかということと、実際に談合の場でどのようにして受注者が決定されたかということとは、次元がちがう問題なのです。
ですから、特定の政治家の秘書の発言というのが、談合の場で考慮されたかもしれない。影響力を持ったかもしれないけれども、それは別の次元の問題であって、直接対価関係を持つというようなことではない。あまり失礼なことをしていると、けしからんということで排除されるかもしれない、ということを恐れて、挨拶はしておく、献金はしておくということはあったかもしれません。しかし、そうだとしても、それによって受注が確実になるというようなものではないのです。
大久保氏の今回の犯罪事実に関して言えば、大久保氏がそこでゼネコン業者との間で何かやり取りをした、会話をしたということはあるかもしれないけども、そのことと談合でどこがチャンピオンになったということとは、まったく別の次元の問題です。だから、裁判所も、寄附受注との対価関係はないというふうにはっきり言っているわけです。
それでも、あえてまたこういうような立証を主張してこようとするというのは、私はもう刑事裁判の目的をちょっと逸脱してるんじゃないかという印象を持たざるを得ないですね。むしろ、5月、6月のときと同じように、天の声、談合受注と言ったら、また新聞が書いてくれるんじゃないか。新聞に書いてもらうことを、それを意図して、それによって世の中に自分たちが摘発した事案はやっぱりそれなりに悪質で、重大なものだったということをアピールしたいがために、そういう主張をやっているようにしか思えないですよね。だから、そんなことに世論操作みたいなことに利用されるマスコミであってはならないし、そういうことで簡単にやすやすと世論誘導に利用されるということであれば、それこそ先ほどから言っている放送メディアのコンプライアンス……放送メディアだけではなくて、そういうメディアとしての本当の社会的な価値そのものが問われることになるんじゃないかと思います。
その点は、裁判員制度との関係で非常に問題なんじゃないかと思うのです。
職業裁判官は関連性の希薄な証拠や主張にはあまり影響されません。職業裁判官だったからこそ、西松建設の事件では判決で検察の主張は正面から否定されているわけですが、素人の裁判員だったら、その心証には重大な影響が生じます。そう考えると、裁判に関する報道に対してはものすごく慎重でなければいけないわけで、検察官が冒頭陳述などで主張していることがいったい、この刑事事件にとってどういう意味があるのか、裁判員の心証に不当な影響を与えるものではないのか、今回の事件であれば国民に不当な印象を与えるものではないのか、ということをしっかり考えて、理解した上で、報道していくという姿勢が重要なんじゃないかと思います。
もう1つの違反の成否の問題ですね。こちらの方は前から、この場でも問題を指摘しているところでして、政治資金問題第三者委員会の報告書の中でも詳しく問題を指摘していますから、今さら詳しく述べる必要はないかもしれません。
重要なことは、違反の成否の問題は西松公判では実質的に審理されてないということです、少なくともダミー性の認識など大久保氏側の事実についての認定は行なわれていないし、しかも西松公判では西松側がベタ認めで、全面降伏ですから、裁判所としては敢えて無罪にするという選択肢は事実上ない。そういう意味では、まだ裁判所の判断は示されてないということです。違反事実、違反の成否に関してはまだ裁判所の判断が示されていないわけですから、今回の大久保公判というのは、違反事実のところが、まさに全面的に問題にされるべきで、一方の悪質性、重大性の問題については、既に西松公判で勝負がほとんどついているということです。それなのに、執拗に「天の声」ストーリーによって悪質性・重大性を立証することにこだわるというのは、検察の立証の在り方としておかしいと思います。私はそういう検察であってほしくない、フェアな立証を行う検察であってほしいというのが率直なところです。
そういう「天の声」について述べられているゼネコン関係の調書の証拠請求に弁護側が同意して証拠採用されるという話を事前に聞いていましたが、それは調書の内容が事実だとか、争いの余地がないという意味じゃなくて、おそらく、いろんな政治的な配慮もあって、できるだけ早く公判を終結させたい、そして、主たる争点は違反の成否なんだから、そこをしっかり判断してもらいたいということで同意したということだろうと思います。あまりに関連性が希薄なのでそんな立証は刑事事件の認定上意味がない、西松公判と同様に、裁判所もほとんど問題にもしないはずだということで、証人尋問で時間がかかるのを避けようとして同意したのかもしれないですね。
しかし、問題はマスコミの報道の在り方です。たしかに、今回のような検察の立証の在
り方というのは、裁判所はほとんど問題にしないと思います。もちろん違反の成否にも量刑にもまったく影響しない。ただ、検察の狙いがそれをもって世の中に対して、こういう天の声だとかなんとかかんとかということをアピールすることだけにあるとすると、マスコミの側がそれに乗せられてはいけないと思います。そういう検察の主張が西松公判で完全に否定されている、ということを、私は今お配りしている日経ビジネスオンラインの「無条件降伏公判でも認定されなかった天の声」という論考の中で詳しく書きましたし、そもそもその天の声ストーリーというのがまったく実態に反しているということも、その前の「『天の声』というのはいったいどういう意味なのか」という論考で書いたわけです。このあたりを改めて読んでいただければ、今回の検察の冒陳がいかにおかしいのかということは理解していただけるのではないかと思います。
弁護側の冒陳は、まだぱらぱらっとしか読んでないんですが、やはり実体がダミーじゃなかったということは詳細に反論しています。私も第三者委員会の報告書の中でも指摘しましたけれども、そもそもボーナスの上乗せ、上乗せと言いますが、それは政治団体の会費支払いと全然対応してないのです。しかも、会員になることも会社の業務命令じゃなくて、担当役員が全国の支店を回って、勧誘して回って、それに対して応じるかどうかは任意だったということです。西松公判の検察の冒頭陳述では、「裏金化した」とか、まったく会員としての実体がないような書き方していたわけですが、さすがにそういう認定は無理だということで検察側の冒陳のトーンも少し下がっているんじゃないかと思います。その点に関しては弁護人の冒頭陳述が詳しく問題を指摘しているようです。違反の成否について、こうやって正面から弁護人が争っているわけですし、私もこの点に非常に問題があるということをかねてから言ってきたとおりです。無罪という可能性も十分にあると思います。