★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK76 > 728.html
 ★阿修羅♪  
▲コメTop ▼コメBtm 次へ 前へ
私達は、小泉構造改革で陥った過ちを再び繰り返すべきでない
http://www.asyura2.com/10/senkyo76/msg/728.html
投稿者 一隅を照らす 日時 2009 年 12 月 26 日 08:14:16: 5x4dj9mrl9SRY
 

小泉構造改革に、マスコミに踊らされて熱狂的に支持したが、私達はまた同じ間違いをしようとしているのではないか?小沢一郎氏を熱狂的に支持することは、支持する相手が違えども、冷静な判断から支持しているのとは対極にある。
民主党がだめだと言っているのではなく、一人の人間に権力を集中させると、日本のように長いものに巻かれろという国民性がある民族では、容易に独裁政治に移行してしまう恐れがある。
その時には、現在のメディアコントロールだけでなく、中国のように言論弾圧、言論封鎖、反体制派の投獄も容易に行われるであろう。
旧国鉄時代に、国労が横暴の限りをふるっていた。旧国労は、経営的センスもなく、財政破綻しても組合の権利ばかり要求してきたが、今回政権を取った民主党の中核にいる自治労は、日本を発展させることと、労働者の権利を擁護することのバランスをとった考えを採るであろうか?恐らく旧国労のような振る舞いに出るであろう。それも大きな組合を擁護するだけで、フリーターや非正規労働者は後回しにするであろう。私達に大切なことは、熱狂することではなく、政治家の行動を冷静に判断するバランス感覚であり、それがないと小泉郵政民営化の選択でしてしまった過ちと同じ過ちを繰り返すことになり、益々日本の衰退、外国の侵略を助長することになる。
小沢一郎を盲目的に信ずることは、オカルト宗教の教祖を信じることと同じである。小沢一郎氏が現に行っている行動を、客観的に判断して是非を論じるべきである。
@民主党は、外国人に地方参政権を与えるとしているが、それは小沢氏の持論である。
その件で、民主党の実質的権力者である小沢氏の真意を聞くことが重要だ。現時点でさえ日本の国力を毀損しかねない、○一教会や○○学会が日本を浸食してきている現状と、地方参政権を外国人に与えた場合、現在日本に居住している外国人や今後大量に流入してくるであろう中国人が日本の政治に与える影響を考えた場合、小沢一郎氏の真意が日本の国益を考えたことなのか、それ以外の目的があるのか見定める必用がある。また国会で採決になった場合、小泉元首相が郵政民営化法案でとった、党議拘束を行うのかどうかも問いただす必用がある。
チベットで民族大移動が行われた結果、チベットで漢民族が多数派を占めて
チベットの領土が中華人民共和国に完全に乗っ取られた状態になっている。
ひとたび法案が通り、彼らに参政権が与えられたら、中国は国家の意思の基に13億人の中国から1千万人単位の民族移動を計画することも、夢物語でなくなる。その時、通常でも自己主張の強い中国人に、穏和な日本人が対抗するすべはあるのでしょうか?あなたはやくざが、高圧的に要求してきたときはねのけることができますか?それも相手が多数派だった時は、抵抗するすべもなく要求に屈するでしょう。参政権を取得した彼らは、合法的に権利を拡大し、最後には国政への参政権も要求するのは目に見えています。
会社の乗っ取りも、国の乗っ取りも同じです。最初は静かに侵略し、突然牙をむくのが常套手段でしょう。
A予算の陳情の窓口を民主党幹事長室に一本化したが、何故民主党幹事長室に一本化する必用があるのあるのか明らかにするべきである。明らかに権力の集中化を狙った所行である。本来陳情は、政党ではなく役所の窓口にすべきではないのか?民主党以外の政党からの陳情は受け付けないというのは、中国共産党の一党独裁主義と何等かわることがなく、小沢氏の本心が2大政党制ではなく1党独裁制ではないのかと危惧します。
選挙での予算の配分を幹事長として握り、国家の予算の配分を牛耳るということは、小沢一郎氏の、完全な独裁政治に移行する前兆であり、後ろ盾に中国の影がちらついていることを考えれば、日本版北朝鮮独裁体制がひかれる可能性が現実味を帯びてきているのではないでしょうか。小泉竹中の時代よりさらに言論弾圧する恐怖政治が行われるのではと心配しております。逆に対立政党が多数を取った場合にも、同じ様に独裁政治への危険性が生じてきます。やはり日本には、小選挙区制度より中選挙区制度で多数の政党が存在できる制度の方が向いているのではないでしょうか?
B記者クラブを解放すると、選挙前は言っていたのに、いざ政権交代を実現したらその件は全く話題になっていないのはどうしてか?
C不明朗な官房機密費を明らかにするどころか、現在も不明朗なまま放置されている。
以上の件につき、それに対して、現時点で我が国の最高権力者である小沢一郎氏は、
国民が、選挙で選択した民主党の是非を判断するために、説明する義務があるのではないでしょうか?
私は、小沢一郎氏が日本を真の独立国家にして、日本の一般国民に幸福をもたらしてくれるのを期待していたが、中国訪中にもかかわらず、東シナ海の中国油田に対して毅然と抗議をしたという話は聞かないし、(亡くなった中川 昭一氏のみがその件で中国に抗議をしており、彼こそ真の愛国者ではないであろうか)権力を手中に収めることに全力投球しているようにしか見えない。
その後、小沢氏が何をしようとしているのかが、全く見えてこないだけに非常に不気味です。
郵政選挙のような過ちを、二度と繰り返さないためには、小沢氏の行動を冷静に客観的に評価することが私達日本人に求められているのではないでしょうか?さもなければ、気がつけば独裁政権で自由もなくなり、天皇陛下がダライラマのように国外へ移られる悲劇が生じるやもしれません。  

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 2009年12月26日 08:38:43
あなた、勘違いしてませんか。
マスコミは、小沢氏をこきおろしてますよ。
むしろ、小沢辞任を熱狂的に宣伝して、
踊らせようとしている。

小沢独裁とか鳩山迷走って、煽る方が、小泉構造改革熱狂を
繰り返すことになるんですよ。
よく考えましょう。

今回のようにマスコミの陰謀でつぶれた細川内閣の後に何が来たか、
思い出してください。

あなたが工作員でなければ、マスコミの異常さに気づくはずです。

”天皇陛下がダライラマのように国外へ移られる悲劇”ってどういう意味。
脈絡が全くないので、やはりあなたは扇動専門家かね。


02. 2009年12月26日 08:47:28
自治労は連合加盟ですが、連合は会費を値上げして非正規労働者の組織化のために担当者を増やすなど、非正規の組織化に力を入れていますよ。何も政労使の話し合いに自治労が出てくるわけではありませんし、現政権は公務員賃金も引き下げたではありませんか。連合内での社会主義協会の勢力はかつての総評のそれのようにあるわけでもなく、国労と対比するなどほとんど妄想ですね。

03. 2009年12月26日 09:00:19
小沢一郎

小沢 一郎(おざわ いちろう、1942年5月24日 - )は日本の政治家。衆議院議員(14期)。民主党幹事長(第9代)。小澤 一郎(おざわ いちろう)と表記されることもある。

自治大臣(第34代)・国家公安委員長(第44代)、自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首(第2代)、自由党党首、民主党代表(第6代)、民主党代表代行(筆頭・選挙担当)を歴任。55年体制後の日本を代表する政治家。「剛腕」の異名を持つ。海外では「影の将軍」「曹操」と評されている。


経歴

生い立ち

東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった父・小沢佐重喜、母・みちの長男として生まれる。父は44歳、母は42歳という高齢で生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという[5]。母・みちは元千葉県会議員荒木儀助の四女である。一郎は、みちにとってははじめて生んだ子供である。本籍地は岩手県奥州市(旧水沢市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育った。

水沢市立常磐中学校(現在の奥州市立東水沢中学校)の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。言葉遣いが東北訛りのため、なかなか級友たちの中に入っていけず、いつも教室の片隅でひとりぽつんと座っていたという。

東京都立小石川高等学校卒業後、父と同じ弁護士を目指して東京大学を志望し、2年間浪人したが断念して、慶應義塾大学に入学。

慶應での一郎のニックネームは老成していたため、“おとうちゃん”だった。青年でありながら老人のような雰囲気を備えていた奇妙な学生だったという。

大学を卒業すると日本大学大学院法学研究科へと進学した。

自由民主党時代

田中派時代

大学院在学中の1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い第32回衆院選に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、以後木曜クラブ(田中派)に所属し、田中の下で薫陶を受けた。

自民党総務局長、衆議院議院運営委員長を歴任し、1985年(昭和60年)に第2次中曽根内閣第2次改造内閣で自治大臣兼国家公安委員長として初入閣した。

竹下派時代

1985年、木曜クラブの領袖として影響力を保持していた田中に、反旗を翻した竹下登、金丸信らと共に派内勉強会「創政会」を結成。のちに経世会(竹下派)として独立した。竹下の総裁就任に奔走し日本皇民党事件の際には金丸とともに稲川会幹部の元に出向いている。竹下内閣の発足後、小沢は党・政府の要職を歴任し竹下派七奉行の一人に数えられ、官房副長官にも就任した。

第1次海部俊樹内閣では党幹事長に就任。苦戦が予想された第39回衆院選を、自由主義体制の維持を名目に経済団体連合会(経団連)傘下の企業から選挙資金300億円を集め、勝利したなどの実績から「剛腕」と称された。

1990年(平成2年)、金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。

同年8月、湾岸戦争が勃発し、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣することを模索した。「アジアへの配慮が必要だ」と反対する外務省を抑え法案を提出した(なお、この法案は野党の反対で廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律(PKO協力法)が成立)[8]。自衛隊派遣について国会で公明党の協力を得るため、東京都知事選挙で自民党東京都総支部連合会が推す現職の鈴木俊一に代わり、新人の磯村尚徳を擁立するも都連が鈴木を支援した事もあり敗北。なおこの都知事選公示直前に出馬に意欲的であったアントニオ猪木と会談し猪木を出馬断念に追い込んだがこの際に多額の金銭が動いたと一部報道で報じられた。1991年(平成3年)4月、責任を取り党幹事長を辞任した。直後に経世会会長代行に就任し、名実とともに派閥のNo.2となった。しかし、次第に金丸は小沢に派閥を譲ろうと企図するようになり、竹下との確執を深めた。

同年、政治改革法案が国会で廃案となったため、首相の海部が衆議院の解散総選挙をぶち上げたが、党内の反発を招き、海部は首相辞任に追い込まれた(海部おろし)。その際、金丸が小沢に対し後継首相となるよう命じ、金丸の意を受けた渡部恒三なども小沢を説得したが、当時49歳という年齢や心臓病(狭心症)で6月に倒れたことなどを理由にこれを固辞したとされる。だが、田勢康弘から「この逸話は実は真実ではない」[9]と指摘されており、このようなやり取りは実際には存在せず、金丸や竹下は当初から宮澤喜一擁立を目指していたとされている。

10月10日、自由民主党総裁選挙での派閥が支持する候補者を決定するため、出馬表明していた宮沢、渡辺美智雄、三塚博と自身の個人事務所でそれぞれ面談した(小沢面接)。しかし宮沢や渡辺のような当選回数・年齢も上の者(三塚は当選回数こそ小沢よりも一回少ないが、年齢は小沢より上だった)を自分の事務所に招いたことは傲慢であると批判された。このことは後々まで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられた(実際は当日ホテルの会場が満室でどこも予約できず、3人の事務所を小沢が訪ねる予定だったのだが、推薦を受ける立場の人間を訪ねてもらうのは失礼だという話になり、小沢の事務所で面談することになったという[10]。宮沢も後に『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した)。

竹下派分裂、羽田派結成

1992年(平成4年)、東京佐川急便事件を巡り、金丸が世論から激しい批判を受け派閥会長を辞任、議員辞職した(東京佐川急便事件に関しては、小沢も1993年(平成5年)2月17日に証人喚問を受けている)。後継会長に小沢は金丸に近かった渡部恒三、奥田敬和らと共に羽田孜を擁立し、竹下直系の小渕恵三を推す橋本龍太郎、梶山静六らと対立。当初中立であった参院竹下派に竹下自らが関与して小渕支持を決定。この結果として後継会長は小渕に内定した。敗れた小沢は羽田、渡部、奥田らと改革フォーラム21(羽田派)を旗揚げし、派閥は分裂した。

宮沢喜一改造内閣における羽田派の閣僚ポストは、経済企画庁長官(船田元)と科学技術庁長官(中島衛)の2つだけと冷遇された。さらに党幹事長には派閥の後継会長を巡り激しい闘争を演じた小渕派の梶山が就任したことで、羽田派は反主流派に転落した。これに対し小沢は主流派を「守旧派」と、自らを「改革派」と呼び、持論であった政治改革の主張を全面に訴えた。

こうした中で小沢は、5月20日に、著書『日本改造計画』を発表した(実際に店頭に並んだのは6月下旬)。同書は政治家の著作としては異例の70万部を超える売上を記録し、1993年を代表するベストセラーになった。自らの政策・政見を広く国民に問うもので、小沢の理念を基に官僚や専門家を中心に政策としてまとめた。

自民党離党、非自民連立政権成立

1993年(平成5年)6月18日、野党から宮沢内閣不信任案が上程され、羽田・小沢派ら自民党議員39名が賛成、16名が欠席する造反により不信任案は255対220で可決された。宮沢内閣は衆議院を解散した(嘘つき解散)。同年6月21日に武村正義らが自民党を離党(新党さきがけを結党)した。これが羽田・小沢派の議員に離党を決断させる一因となり、6月23日、新生党を結成した。小沢は幹事長にあたる党代表幹事に就任するが、党結成の記者会見を行ったとき会場に姿が見えず「党首(羽田)の陰に隠れて暗躍している」との批判を受けた。新生党代表幹事時代には番記者との懇談会を廃止し、これまでの記者クラブ中心の会見から海外メディアや週刊誌記者なども会見に参加できるようにし注目を集めた。一方、自分の意に沿わぬ記事を書いたメディアと対立を起こした。

7月18日、第40回衆院選において自民党は過半数割れし、新生党、日本新党、新党さきがけの3新党は躍進した。宮沢内閣は総辞職した(後任の自民党総裁に河野洋平が選出)。小沢は総選挙直後から日本新党代表の細川護煕と非公式に会談した。細川は自民党との連立を検討していたが、小沢から首相就任を打診されたことで非自民勢力へと傾斜した。8月9日、8党派連立の細川内閣が成立した。

細川政権下で小沢は内閣とは別に与党の意思決定機関である「連立与党代表者会議」を開き、公明党書記長の市川雄一とともに政権の主導権を握ろうとし(一一ライン)、官邸主導の政治を目論む内閣官房長官の武村正義と激しく対立した。

1994年、小沢と大蔵事務次官の斎藤次郎が中心となり、消費税を廃止し7%の福祉目的税を創設するという「国民福祉税」構想を決定した。2月3日未明、細川は突如、「国民福祉税」構想を発表し、世論の激しい反発を受けた。また、社会・さきがけ・民社各党の批判に合い、翌日、細川は「国民福祉税」構想を白紙撤回するに至った。内閣官房長官の武村は、公然と「国民福祉税構想は事前に聞いていない」と発言、小沢との対立はますます先鋭化した。武村か小沢かの選択を迫られた細川は小沢に軍配を上げ、政権の主導権を奪われた武村や武村率いるさきがけは与党内で孤立し、武村と細川の仲も急速に冷却する。一連の動きに嫌気がさした細川は、4月に突然辞意を表明した。

細川の首相辞任を受けて、小沢は渡辺美智雄との提携を企図するが、渡辺は自民党離党を決断できず構想は頓挫。連立与党は羽田の後継首班に合意した。しかし、1994年4月25日の首班指名直後に、新生党、日本新党、民社党などが社会党を除く形で統一会派「改新」を結成したため、社会党の反発を招き、社会党は連立政権を離脱し、羽田内閣は少数与党となった。

羽田内閣は1994年度予算を成立させたが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党によって内閣不信任案が衆院に提出された。当初は羽田も解散する腹で小沢も同調していたが、結局は解散総選挙を断念。6月25日に内閣総辞職し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

小沢は羽田の後継として、かつて自民党幹事長としてタッグを組んだ元首相の海部俊樹を担ぐことを決めた。海部は当時自民党政治改革議員連盟会長で、新政策研究会(河本派)代表世話人でもあった。1994年6月29日、自民党は首班指名選挙で社会党委員長の村山富市に投票する方針を示したため、海部は自民党を離党し、「自由改革連合」を結成、連立与党の首班候補となった。しかし決選投票で261対214で村山に敗れ、小沢は政治家人生において初めて野党の立場に落ちた。新生党内では小沢の責任を追及する声も出たが、旧連立与党を糾合して新・新党の結成を実現するために、小沢の剛腕が必要とされた。

新進党時代

1994年9月28日、日本共産党を除く野党各党187人により、衆院会派「改革」が結成された。また同日、衆議院議員186人、参議院議員39人、計225人の国会議員による「新党準備会」が正式に発足し、新党準備実行委員長に小沢が選出された。こうして小沢を中心に新・新党結成が準備され、同年12月10日に新進党結成大会が行われた。海部が党首となり、小沢は党幹事長に就任した。

1995年7月、第17回参院選で、改選議席19議席を大幅に上回る40議席を獲得した。同年12月に行われた党首選挙では、羽田・細川らを中心に「小沢外し」の動きがあったため、自ら立候補することを決断、長年の盟友である羽田と激突し、小沢は羽田を破り、第2代党首に選出された。しかし、この党首選挙直後に投票者名簿が破棄されるなど、選挙結果が不明瞭であったため、羽田との決裂は決定的なものとなり、党内に更なる亀裂を生じさせた。

1996年10月20日に第41回衆院選が行われ、新進党は小沢の党党首選での主張を党公約「国民との五つの契約」として消費税率の3%据え置き、18兆円減税を公約したものの、改選前の160議席を4議席減らして156議席に止まり、事実上敗北した。原則比例代表との重複出馬を禁止とし、比例区で創価学会の支援を期待し公明党系の議員を優遇したため選挙地盤の弱い若手の新党ブーム世代の議員が多数落選したため、強い反発を浴びこれが後の政局においても禍根を残す事になった。また選挙直後開票中にも関わらず深夜になるまで党本部に姿を見せず雲隠れするなど党首としてあるまじき態度を取った事も強い批判を浴びた。

総選挙後、党内に小沢に対する反発が強まり、離党者が続出した。羽田孜や細川護熙らは非主流派を構成し、1996年12月26日、羽田は奥田敬和、岩國哲人ら衆参議員13名と共に新進党を離党、太陽党を結成した。

1997年、小沢は自民党の亀井静香らと提携する、いわゆる保保連合構想に大きく舵を切った。しかし、新進党内には、こうした保保連合路線に対して二大政党制を志向する立場から反対する勢力も顕在化し、鹿野道彦は政策研究会「改革会議」を結成した。

12月18日の党首選挙で小沢は鹿野を破り再選された。この党首選に先立ち公明が次期参院選を独自で闘う方針を決定し、新進党離れが加速した。党首に再選された小沢は、純化路線を取り、新進党内の旧公明党グループ・公友会、旧民社党グループ・民友会にそれぞれ解散を要求。12月27日に小沢は旧公明党の参院議員を分党し公明に合流させるとし、新進党の分党と新党の結成を発表した。新進党内は混乱に陥り、分党を決定した両院議員総会は、混沌のうちに終わった。

自由党時代

結党・与党復帰

1998年1月6日、自由党を結成、小沢は党首に就任した。当初、100名以上の衆参両議員が集まると思われたが、結局、衆院議員42名、参院議員12名の計54名が参加するに留まり、野党第1党の座を民主党に譲り渡した。

同年7月12日の第18回参院選では苦戦必至と思われていたが小沢人気もあり比例代表で514万票、合計6議席を獲得し善戦した。参院選後の臨時国会では、首班指名に民主党代表の菅直人を野党統一候補に臨み、参院では自民党の小渕恵三を抑え菅が指名された(衆院では小渕が指名されたため、衆議院の優越の原則から小渕が首相に就任した)。 小沢は参院での野党共闘により政府・自民党を追い込む戦略であったが、菅は「政局にしない」と発言、金融再生法の制定で自民党と協力したことにより野党共闘はほころびを見せた。

1998年10月、小沢は内閣官房長官野中広務と会談、連立交渉を開始し、同年11月19日、小渕内閣との間での連立政権について合意した。そして1999年1月14日正式に自自連立政権が成立し、党幹事長の野田毅が自治大臣として入閣、小沢は5年ぶりに与党へ復帰した。この連立の間に衆議院議員定数20の削減、閣僚ポストの削減、および政府委員制度の廃止と党首討論設置を含む国会改革が行われた。また、同年発刊された文藝春秋9月特別号に「日本国憲法改正試案」を寄稿し自らの改憲論について語っている。

1999年7月、公明党が政権に入り、自自公連立政権が成立した。自民、公明両党で参院の過半数を抑えることになったため政権内部での自由党の存在感は低下した。自自両党の選挙協力も遅々として進まず、小沢は自民党総裁の小渕総理大臣に対して自自両党の解散、新しい保守政党の結成を要求した。中曽根康弘、亀井静香等は小沢の復党を認める方針であったが党内の反小沢勢力は「小沢の復党は認められない、小沢抜きでの復党は認められる。」とし小沢自身も「復党が認められなければ連立解消だ。」と珍奇ともいえる主張を行い両者は2000年4月1日、会談するが、合意に達せず、結局連立を解消した(なお、この後に小渕は脳梗塞で倒れ、5月14日に死去した)。

分裂

自由党は、小沢を支持する連立離脱派と、野田毅・二階俊博などの連立残留派に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。小沢と袂を分かった保守党は政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否。保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。

2000年6月25日の分裂直後に行われた第42回衆院選で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、(過去に小沢から酷い目に合わされたと感ずる)旧新進党や旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は当然ギクシャクしたものにならざるを得なかった。

2001年1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。なお、小沢塾は民主党との合併後は小沢個人の私塾として運営。

同年7月29日の第19回参院選では、自民党に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。

民主党へ合流

2002年、第19回参議院選挙での結果もあって、小沢は鳩山由紀夫(当時民主党代表)からの民主・自由両党の合併に向けた協議提案を受け入れた。しかし、民主党内の調整が不十分であったこと及び民主党内の小沢に対する拒否反応の為に頓挫した(なお、鳩山は代表辞任に追い込まれた)。鳩山辞任後に民主党代表に選出された菅直人によって、いったん合併構想は白紙に戻ったが、小沢は党名・綱領・役員は民主党の現体制維持を受入れることを打診し、両党間で合併に合意した。[12]

自由党と民主党の合併の直前に、自由党から13億6816万円の寄付が改革国民会議に対して行われた。改革国民会議は小沢一郎が代表を務めており小沢の関連団体である。13億6816万円のうち5億6096万円が税金を原資とする政党助成金であった。後にこの行為は問題視され、政党助成金法改正案として議論された。

2003年9月26日、自由党は民主党と正式に合併し、小沢は民主党の代表代行に就任した。11月9日の第43回衆院選で民主党は、公示前議席よりも40議席増の177議席を獲得。民由合併後、小沢が最初に提携したのが旧社会党系の横路孝弘だった。小沢と横路は安全保障面での政策を擦り合わせ、その後横路と旧社民勢力は小沢と行動を共にした。また、小沢は野党結集のために社民党へも民主党への合流を呼びかけたが失敗に終わった。経済政策では、それまでの新自由主義から「地方経済」と「雇用」の重視の方針へ転換した。

当初、小沢派になると見られていた新自由主義的な「小さな政府研究会」には参加せず、東北地方出身議員だけをあつめて「東北議員団連盟」を結成し、地域主義への転向の姿勢を見せた。

2004年5月、年金未納問題による混乱の責任を取り党代表を辞任した菅の後継代表に小沢が内定したが、直後に小沢自身も国民年金が強制加入制度になる1986年以前に未加入だったとして代表就任を辞退した(結局、岡田克也が後任代表となった)。2004年7月11日に行われた第20回参院選の後、岡田の要請により党副代表に就任した。

2005年9月11日、第44回衆院選で民主党は現有議席を60近く減らす惨敗を喫し、岡田は代表を引責辞任し、小沢も党副代表の職を辞任した。岡田の後任代表となった前原誠司は、小沢に党代表代行への就任を依頼したが、これを固辞した。

民主党代表

代表就任

民主党ポスターの張られた様子(2008年1月、広島県甲奴町)ウィキニュースに関連記事があります。
民主党代表に小沢一郎氏をはじめて選出
2006年3月31日に前原が、「堀江メール問題」の責任を取って党代表を辞任、4月7日の民主党代表選で小沢は119票を獲得し菅直人を破り、第6代の民主党代表に選出された。両院議員総会の演説で小沢は、「変わらずに生き残るためには、変わらなければならない」という19世紀のイタリア貴族の没落を描いた映画『山猫』の一節を引用し、その上で「まず、私自身が変わらなければなりません」と述べ、「ニュー・小沢」を印象づけた。

代表選後、小沢は菅を党代表代行、鳩山由紀夫を党幹事長にするトロイカ体制を敷いた。また、前執行部と次の内閣メンバー全員を残留させた。小沢は政令指定都市・都道府県の首長選挙に関しては原則として相乗り禁止の方針を打ち出した。

大半の民主党議員は、小沢の代表就任まで自民党幹事長時代はおろか、つい最近の小沢の動向すら知らず、「選挙に強い」という噂を頼り半信半疑で眺めている者も少なくなかったが、小沢が党代表に就任した直後の4月23日に、メール問題での逆風下にあった衆議院千葉7区補欠選挙で、僅差ながら勝利を収めた。半年後の9月12日の民主党代表選に無投票で再選された。

5月9日の会見で、衆院本会議を欠席しがちな理由として「食後すぐに仕事にとりかからないなど、医者の忠告を守っている」と、自身の体調管理を理由に挙げたことに関し、「議会軽視だ」と各方面から厳しい批判を受けた。また、自身の健康状態を語ったことに対して様々な憶測が流れた。9月25日臨時党大会で正式に代表に再選された後、狭心症の発作の兆候を感じたため、都内の病院に検査入院した。10月5日に退院し、自身の動脈硬化が進んでいることを明らかにした。 なお、鳩山政権では事実上の権力者である。

国会運営

民主党代表時代の小沢の国会での論戦は、前原時代の「対案路線」ではなく、「対立軸路線」で与党とは対決姿勢を鮮明にした。自著『日本改造計画』では、「過半数が賛成している案を、少数のダダっ子がいて、その子をなだめるために、いいなりになってすべてを変えてしまう」のは「少数者の横暴」だと述べている。小沢は「審議を十分に行えば」与党による採決も止むを得ないという立場を取った。一方、議員数の多さを背景に強行採決した場合には徹底抗戦や審議拒否も辞さない戦う野党の姿勢も示した。ただし、この姿勢は審議拒否を度々行うことで「充分な審議を放棄した」「与党案の成立を手助けしている」との批判を生むことがあった。

外交政策での党内対立

2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前代表である前原誠司を始めとする党内の若手から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。

小沢は「核武装の論議を是認すれば『非核三原則を守る』という言葉も国民や国際社会に受け入れられない」と指摘した。しかし、その考えに不満を持つ一部保守層などが、自由党党首時代2002年の小沢の発言である「日本は一朝で数千発の核弾頭を持てる。」と日本の核保有能力について発言したことと比較して批判した。

防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。民主党内には依然反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議に欠席した。

統一地方選、参院選

2007年4月8日に統一地方選挙(前半)が行われ、地元・岩手県の知事選挙で小沢チルドレンの代表格である達増拓也が当選。岩手県議会議員選挙でも、議席を増やし第1党を維持し、その他の道府県議選・政令市議選でも民主党は230議席(合併前の自由党含む)から145議席増え375議席に躍進した。

4月22日に行われた統一地方選挙(後半)では、市町村議会選挙で、自民党が過去最低議席数になった他、他党が前回議席を割り込む中、民主党は3割近く議席を伸ばした。

7月29日に行われた、第21回参議院議員通常選挙で民主党は60議席を獲得、参議院第1党となり、野党全体(共産党を含む)で過半数を得た。選挙開票当日は「医者からの忠告」を理由に休養を取っていたとし、小沢はマスコミの前に姿を見せなかったが、7月31日の党常任幹事会に多くの報道陣が駆けつける中で出席、小沢は公約通り衆議院議員を今後も続けるとした。また、8月に前代表・前原、元代表・岡田等が党副代表に就任し、挙党体制を構築した。

ねじれ国会

8月8日には、11月に期限切れとなるテロ対策特別措置法(テロ特措法)問題についてマスコミ公開の中、アメリカの駐日大使ジョン・トーマス・シーファーと会談した。シーファーは小沢にテロ対策特別措置法の期限延長に対する理解を求めたが、小沢はアフガン戦争が国際社会のコンセンサスを得ていないとして海上自衛隊の支援活動は認められないと主張し、反対の意向を示した[14]。8月30日にはドイツ首相アンゲラ・メルケルと会談したが、この席でも改めてアフガン戦争が国連によるコンセンサスを得たものではないと主張した[15]。結局テロ特措法は安倍内閣の突然の総辞職で、有効期限の延長が出来なくなり、そのまま失効した。

9月12日に首相辞任を表明した安倍晋三の後任となる、内閣総理大臣指名選挙が9月25日に行われ、参議院で決選投票の末に福田康夫(自民党総裁)を抑えて、小沢が指名された(小沢133票、福田106票)。なお、衆議院で指名された福田が衆議院の優越規定に基づき首相となった。なお、両院の指名が異なったのは小渕恵三内閣下で民主党の菅直人が指名されて以来、9年ぶり4度目であった。

2007年11月2日、小沢は福田と会談し、連立政権について提案があった為、意見を党に持ち帰り臨時役員会に諮ったが、民主党内の反対を受け連立を拒否した。11月4日、連立騒動の責任を取り代表辞任を表明したが、民主党内の慰留を受け、11月6日代表続投を表明。11月7日の両院議員懇談会で代表続投が承認された。

詳細は「大連立構想 (日本 2007)」を参照

その後、テロ特措法の後継の法律として衆議院に提出されていたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法案(新テロ特措法)に対する議決が行われ、民主党が多数を占める参議院では反対多数で否決されたが、2008年1月11日に衆議院本会議で与党の3分の2以上の賛成多数で再び可決・成立した。この再可決の本会議で小沢は採決直前に退席し、党内の一部や他の政党の議員から批判された。対して小沢は「前からの約束で、選挙の約束は一番たがえてはいけないものだ」と強調。大阪府知事選挙の応援があったこともあげ、新テロ対策特措法について、「国民にとっても民主党にとっても大事な法案ではない。反対の意思表示は既にしている。後は数あわせの本会議でしかない。結果は目に見えている。批判は理解できない。国民は理解してくれていると思う」と反論した。

2月29日、衆議院で2008年度予算案が野党3党の欠席のなかで強行採決された。小沢はこれに対し「信頼関係が完全に崩壊した」と発言し、強行採決をしたことで日本銀行総裁人事に影響を及ぼすのは、避けられないとの態度を示す[17]。民主党も強行採決されたのを受け武藤敏郎副総裁の日本銀行総裁への昇格を拒否する方針を決め、参議院で日銀総裁人事を否決した。3月18日、政府与党は改めて田波耕治を総裁候補として提示したが、この人事案も参議院で不同意となり、結果として白川方明が総裁に就任した。

9月22日、民主党代表選で小沢が無投票での3選を果たした。

10月23日、前日まで衆院選対策のため福岡を訪れていたが、予定されていたインド首相マンモハン・シンとの会談を、体調不良を理由に欠席、「会談の頭だけでも出た方がいいと代表にいってほしい」との鳩山由紀夫幹事長の説得も受け付けず、党役員会などの公務もキャンセルし、鳩山が代わって会談した。翌24日に公務へ復帰、衆院選対策のため青森へ出張した。

2009年5月11日、西松建設疑惑関連で公設秘書が逮捕された件で、民主党代表を辞任した。自身の後継を決める代表選挙では、側近として共にトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫を支持し勝利に導いた。

民主党代表代行

5月17日、選挙担当の代表代行に就任。菅直人が代行が多くなったことから小沢に筆頭となるよう要請し、3名の代表代行の中では筆頭扱いとなった。代表代行への就任は実に5年ぶりとなる。

第45回衆議院議員総選挙で政権交代を果たした後の9月3日、鳩山由紀夫民主党代表が小沢に幹事長就任を要請した。これに対し「代表から幹事長の就任を要請された。私は党人だから、お受けすると返事をしてまいりました」と述べ、要請を受け入れる意向を表明した。小沢の幹事長就任については、鳩山の掲げる「政策決定の内閣への一元化」に反して政府と与党の「権力の二重構造」となり、政策面で小沢の影響を排除できなくなるとの見方がでたが、これについて鳩山は「幹事長は党務だ。政策の決定は政府でやると確認した」と述べた。

民主党幹事長

2009年9月15日の民主党両院議員総会において、正式に幹事長に就任した[26]。

天皇特例会見問題について、2009年12月14日の記者会見で記者の質問に対し「君も少し憲法をもう一度読み直しなさい、天皇陛下の国事行為・行動は国民の代表である内閣・政府の助言と承認で行う事なんですよ」という表現を行った[27] が、15日に共産党の志位和夫委員長から記者団に対し「憲法で定める天皇の国事行為の中に、外国の要人と会う事は含まれていません。小沢さんこそ憲法をよく読むべきだ」と反論される[28]。また、「小沢氏は内閣に入閣していないでしょう?」との指摘もあった。

主な政治的主張

改憲論者である[29]。最初の著作である「日本改造計画」では新自由主義を主張し、1999年の「日本国憲法改正試案」では独自の改憲案を示していた[11]。たが、民主党代表に就任するとリベラル色を強めた。一方、2004年に公表した現行憲法の下での国連派遣部隊構想、さらにそれを発展させ2007年10月に公表した国際安全保障政策では、現行憲法との論理的整合性を維持しながら日本の国際安全保障政策(国連中心主義)を主張している。

改憲論

占領憲法無効論・天皇元首

サンフランシスコ講和条約で独立国として承認されたことを契機に、占領下に制定された憲法は無効であると宣言し、佐々木惣一や大石義雄と同様に、もう一度、大日本帝国憲法に戻って、それから新しい憲法を制定すべきであったと主張している。護憲派学者宮澤俊義の主張に反対し、天皇は日本国の元首と改めて位置づけ、これら護憲活動は思考停止であるとし、憲法改正論議を支援している。
参議院廃止・貴族院復活
衆議院と参議院がほぼ同等の権限をもっており、共に選挙によって選ばれることになっているので必然的に参議院まで政党化し、本来の二院制度の機能分担が停止していることを挙げ、参議院についてはイギリスのような「権力なき貴族院」の導入を志向する。勲章と称号を積極的に与え、サッチャー元首相が「サー」の称号を与えられ貴族院へ移った例を挙げ、終身議員制度を主張する。
憲法裁判所の創設
裁判の進行が遅いことを例に挙げ、訴訟法を改正し、ドイツ、フランス、イタリアなどに導入されている憲法訴訟だけを扱う一審制の裁判所新設を主張する。人選は国会あるいは内閣が指名し、私学助成金記載部分の第八十九条を改正し、地方分権基本法を制定して、東京一極集中を分散させるとしている。
皇室
日本国憲法において、天皇は日本の国家元首であると位置づけている[11]。

2009年12月12日の韓国ソウルでの講演で、天皇家について、朝鮮半島南部の権力者が海を渡って奈良で政権を樹立したとの説を披露し、「多分歴史的な事実であろうかと思っています」などと述べ、天皇の訪韓については「韓国民が受け入れて歓迎すれば可能である」と語った[30][31][32]。ただし、日本政府は2009年9月に李明博大統領に天皇訪韓を要請された際に「天皇が政治にかかわる行動はできないと憲法で規定されている」と返答している[32]。
2009年12月15日の天皇と習近平中国副主席との会見が行われるよう、鳩山由紀夫総理や平野博文官房長官に再三にわたり要請を行い「天皇の政治利用」と批判された[33]。抗弁した羽毛田信吾宮内庁長官に対しては、「辞表を出してから意見を言うべきである」旨を述べた。
詳細は「天皇特例会見」を参照


憲法解釈

内閣法制局の廃止

2003年には内閣法制局廃止法案を提出[35]。内閣法制局について「憲法解釈を確立する権限はない。その任にあるのは内閣だ」としており、2009年現在では、次期通常国会で国会法の改正行い、内閣法制局長官の国会答弁を認めないものとするとしている[35][36]。朝日新聞などからは「官僚批判の名を借りて、憲法の解釈を変えてしまおうという思惑では」「法の番人」封じではないかとの危惧がなされている。

憲法9条

「専守防衛」に徹し、憲法前文の平和主義と憲法9条の第一項と第二項は保持。第9.5条として平和のための国際協力と国連待機軍の設置を付加。自衛隊は国防に専念させる。なお、自衛権は、個別的であれ集団的であれ、我が国が急迫不正の侵害を受けた場合に限って行使。急迫不正の定義は明確にしない。

自衛隊の海外派遣

小沢は国際治安支援部隊に対しては容認しており、ダルフール紛争への部隊の参加、国連治安支援部隊(ISAF)への参加など国連中心主義を強調した。ただし、その際の武器の使用基準見直しについては明言していなかった。なお政府は、ISAF本体への護衛参加については、合憲であるとの見解をまとめている。

集団的自衛権と集団安全保障

イラク戦争型 (集団的自衛権の行使)‐ 他国が自衛権を発動して開始した戦争に参戦する有志国軍(OEF)への参加は憲法違反だとし、テロ対策特別措置法の延長にも反対した。
湾岸戦争型(集団安全保障に基づく武力行使) ‐ 国連が承認した国連軍、多国籍軍の参加には賛成。

天皇

1999年当時の論文において、天皇を国家元首として明記すべきとの主張 に対し、現憲法の文章のままでも「国家元首が天皇であることは疑うべくもない」「天皇は国家元首と位置づけられている」と述べている。


外交、防衛政策

基本姿勢

外交では、太平洋戦争に対する反省を踏まえて二つの「共生」を主張している。一つは人間と人間、国家と国家との「共生」、つまり日本及び世界の平和を確保すること、もう一つは人間と自然との「共生」、つまり日本が率先して地球環境の保全を進めることである。それ以上に重要なのは、安全保障については、日本の法律より国連決議が優先すると「世界」で述べたことである。その結果、小沢氏は多くの批判を受けることとなった(日本国民が民主主義で選択した日本の法律が、国連の常任安保理事国のせめぎ合いによる決定より劣る、という発言であったため)。
また、世界の国々、特に、中国、韓国をはじめアジア諸国と平和で自由で開かれた信頼関係の実現を主張した。具体的には、アジア外交の強化、貿易・投資の自由化、政府開発援助(ODA)の抜本的見直し等。2009年2月24日には「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ…あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う…米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と述べた。


A級戦犯、靖国神社

東京裁判は不当な報復裁判であり、A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない。しかし当時の国家指導者は敗戦責任があり、天皇陛下が参拝できるよう靖国神社から削除すべき。行く行かないは個人の自由だが、公約をし、政治信念で行くのならば8月15日に公式参拝を行うべき。ただし靖国神社は戊辰戦争の招魂社だという問題がある。小沢自身は賊軍とされる岩手の出身である。
1986年4月2日の国会答弁では「誰もが自然の気持ちで行くべきであると思う。私もそのような自分の気持ちが沸いてきた時今までも参拝してきたしするつもりである」、「国務大臣であろうがなかろうが今後も行きたい」、「A級であろうがB級であろうがC級であろうがそういう問題ではない」、「たまたま敗戦によって戦勝国から戦犯とされた人もいる」などの発言があった。
また、2008年2月21日の朝鮮日報からのインタビューでは、「靖国神社問題は日本側が大きな間違いをしている。民主党が政権を取ったら、戦争責任者を靖国神社から分祀し、韓国と中国に強力な信頼関係を築く」と述べた。


核武装

日本には数千発の核兵器を製造する能力がある(2002年)ものの、軍事的、政治的にも何のプラスにもならない。議論もしてはいけない(2006年)。党内には、核保有を認める意見や核武装を議論すべきとの意見があった。


周辺事態法について

2006年10月に北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢らトロイカ体制の見解を発表した。しかし、これに対して前原誠司を始めとする党内から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表し、安全保障政策をめぐる民主党内の対立・不一致が表面化した。

北朝鮮拉致について

「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何
人かください』って言うしかないだろ」と述べたと報道された。

領土問題

「われわれが与党になったら領土問題にケリをつける」「例えば、尖閣諸島は歴史的に見ても日本の固有の領土だ。それを明確にさせる。自公政権のように弥縫策で先送りすることはしない」と述べ、領土問題の速やかな解決を宣言している[40]。また、2008年7月15日には、 記者会見で学習指導要領の竹島問題について問われ、「教科書云々の前に日韓の考え方の差を埋めるために、しっかり話し合いをすべきだ。話し合いを避けて教科書に載せる載せないの類は順序が違う。事実上韓国が実力支配しているわけですから、それを放置しておいて俺の領土だと言ってもどうしようもないでしょう」と日本政府を批判した[41]。

チベットと中華人民共和国

2008年のチベット動乱の後、2008年4月17日の講演で、チベット問題について「中国の政権が抱える矛盾が民族問題を契機として持ち上がった。共産主義独裁の政権と政治の自由は、原理からいって成り立たない」と発言し、「共産党政権が時代の変化に応じて生き延びようとするなら、自分自身が変化しなければいけない」と中国を批判した。

防衛庁の省への昇格

防衛庁の「省」昇格に対し、自由党時代から防衛庁の省への昇格を主張していた小沢は「国防の任に当たる省庁が内閣府の一外局でしかない状態は良いことではない」と述べた。ただし、民主党内に反対の声があったため衆院安全保障委員会での防衛「省」昇格関連法案の審議は欠席した。


法務
憲法改正(憲法96条)の為の国民投票法案

与党提出の法案に反対した。その後民主党案との修正協議を経て修正与党案が成立した。なお社民・共産は法案そのものに反対した。
国民投票法案については日本国憲法の改正手続に関する法律を参照

永住外国人の地方参政権

旧植民地政策により日本に移住、戦後そのまま在住した永住外国人・その家族が日本国籍を獲得しにくい場合でも、その歴史的事情を勘案し、また地域の住民との連帯感を醸成するために地方参政権を与えるべきと主張している[43]。外国人参政権の獲得を目的に在日本大韓民国民団から支援の言葉を貰い、小沢もそれに謝意を表明し「帰化した韓国系」の投票を期待しているとの発言をしている[44]。

公務員改革

幹部職員の内閣一元管理。公務員に対しては、スト権の付与と守秘義務違反の軽減を行う。また、政官接触を自由化する。特殊法人、独立行政法人、特別会計は見直す方向。

経済、財政政策

小さな政府ではなく、「官で出来ることは官で、民で出来ることは民で」。過疎化した地方など無駄な公共事業を極力減らしていく方針。

税制

年金の特定財源化を行い、すべての年金を一元化する。1人月額6万円を支給する基礎年金と従来の保険料方式を維持した所得比例年金の2階建て。消費税は5%に維持するが、その税収はすべて全額を福祉目的税化し、基礎年金に割り当てる。しかし、消費税5%分(約13兆円)だけでは年金の基礎部分を賄えないため、必要な財源は既存予算から捻出するように努力する。13兆円では、国民の半数にしか年金が支給できないとの批判があったが、「給付する人を低所得者に限るため、13兆円で足りる」と反論した。
道路特定財源の一般財源化を行い、揮発油税(ガソリン税)の暫定税率を廃止する。2008年3月28日にはこれに関して「暫定税率を延長する必要はなく、国民生活のために還元をしたほうが良い」と主張した[45]。廃止に伴う地方財政への影響に関しては、道路特定財源の内で地方へ行くと予定されているのは9000億円であるが、そのうち市町村分の3000億円には手当てが必要であるとの見解を示し、その手当てを一般会計・特別会計の余剰金の利用や無駄の削減で市町村分へ配分することは可能だとした。

地方分権

中央集権体制から地方主権体制への移行。中央政府の権限は外交・治安などに限定し、その他の権限を地方に移譲する。また、個別補助金は官僚支配を生み利権の温床となるため廃止し、自主財源として一括交付する。財源・権限を地方に移譲することで地域経済の活性化につながる。地方分権を推進するため、市町村の300程度への集約を行う。

格差是正

社会的格差を是正する。子育て支援をし、親と同居している世帯に対して「親手当」、子供がいる世帯に対して「子ども手当」を交付する。管理職は自由競争だが、非管理職は終身雇用にする。労働法は長期安定雇用を基本とするべき。挫折した経営者・労働者の再起、再就職の支援制度を拡充する。

移民政策

自民党と財界一部に「移民受け入れ」を検討する動きがある事を受け、「まったくダメだ。現在でも『奴隷労働』と言われる非正規労働者の問題が深刻なのに。発展途上国から単純労働者を受け入れることは、一種の奴隷制度ではないか。治安問題を心配する声もあるが、それ以前に、そういう形での移民受け入れは人間の尊厳に対する冒涜であり、人道的にとても認められない。」と述べ、与党の移民政策を批判した。

教育政策

与党案とは異なる民主党独自の「教育基本法」の制定。教育予算は先進国中低位の現状を是正し引き上げる。5歳から高校まで義務教育を広げる。すべての国民に高等教育の機会を与えるため、奨学金制度を拡充する。教師などの教育職員は国家公務員として身分を安定させ、争議権を認めない。

農業政策

わが国の安全保障を確保するためには現在39%[48]に低下している食料自給率を他の先進国並みに高める。農家、農村の活力を再生するために、穀物などの主要農産物について戸別所得補償制度を導入する。トレーサビリティ制度の拡充と加工食品の原材料も含めた原産地表示の義務づけを行い、食の安全を確保する。

他党、支持母体との関係

選挙協力

思想的には保守であるが、自公政権打倒のためには共産党を含めた全野党による選挙協力も辞さないことを表明した[49]。社会党の社公民路線以来、「非自民・非共産」として、共産外しが常態となっていた野党第一党の代表としては異例の見解であった。そのため、自公からはもちろん、党内の反共主義者からの批判が見られた。共産党は現時点では「市場主義重視」の民主党の「第三の道」路線に対して自公共々批判的であるため、実現しなかった。

大連立

2007年末に取り沙汰された大連立騒動(大連立構想 (日本 2007))では、民主党が政権を取る為には、自民党と連立し、連立政権の中で民主党のマニフェストを実現して、実績と政権担当能力を示す必要があると主張した。大連立構想が立ち消えになった後は自民党との対決姿勢を強め、選挙による政権交代を目指している。
労働組合との関係
未組織労働者や市民層からの支持を増やすことで協調的に労組との関係を維持した。

小沢グループ

小沢一郎を支持する民主党のグループ。もともとは旧自由党出身の議員のみであった。合併当初は「党中党」は避けようという観点からほとんど会合なども行われなかった。その後、2004年6月に当時当選1回〜2回の議員を対象とした小沢主宰の勉強会「一新会」が発足。これ以降徐々に会合等を開くようになる。

一新会に加え、2005年秋に発足した落選者や候補者を対象とした「一新会倶楽部」に加え、2001年から続く「小沢一郎政治塾」の存在もあって選挙ごとに勢力を拡大。2007年の第21回参議院議員通常選挙で当選した新人議員の多くが加入し、党内最大派閥となった。小沢を中心に旧自由党出身の議員の結束は固いが、渡辺秀央、大江康弘のように小沢と選挙等をめぐって対立し離党した議員もいる。一方、一新会のメンバーの場合他のグループに参加しているメンバーも多く結束は自由党出身議員と比べ幾分緩い傾向がある。

政策的にはかつては右派的、新自由主義的なものが多かったが小沢の政策の変化に加え新人議員の取り込みの過程で様々な立ち位置の議員が所属したことからそういった傾向は薄れつつある。小沢同様、政策よりも選挙や政局を重視する傾向があり、政策重視を掲げる「凌雲会」や「花斉会」とは対立することが多い。

一新会 - 約20名
衆議院議員 - 三井辨雄、仲野博子、松木謙公、石川知裕、横山北斗、田名部匡代、階猛、石関貴史、武正公一、神風英男、小宮山泰子、高山智司、内山晃、菊田真紀子、村井宗明、篠原孝、牧義夫、鈴木克昌、吉良州司
旧自由党グループ - 約10名
衆議院議員 - 藤井裕久、中井洽、山岡賢次、山田正彦、黄川田徹
参議院議員 - 西岡武夫、一川保夫、工藤堅太郎、佐藤公治、平野達男、森ゆうこ、室井邦彦、広野允士
その他 - 約10名
衆議院議員 - 奥村展三、青木愛、太田和美
参議院議員 - 川上義博、主濱了、喜納昌吉、藤原良信、大久保潔重、平山幸司、米長晴信、谷岡郁子、藤原良信

不祥事
事務所費問題

2007年1月、自身の資金管理団体「陸山会」が2005年分の政治資金収支報告書に4億円を超える不透明な事務所費を計上していることが発覚した。鳩山幹事長は「(小沢から)『東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上した』と聞いており『全く問題ない』」と反論した。

また、自身の資金管理団体が10億円を超す不動産を保有し(小沢個人名義で保有)、またその一部を賃貸運用していることなどが発覚し、物議を醸した。それに対し小沢は1月の衆院代表質問で、これらの「支出の詳細、領収書、関係書類を含め公表する用意がある」とし、同じく事務所費問題を抱える自民党に対し、大臣など責任ある立場の議員に公表を迫った。

2月20日、国会内での記者会見で、東京・世田谷区に約3億7000万円の秘書宿舎を建設し、加えて不動産取引の仲介手数料や登記費用として1100万円を計上したという、2003年〜2005年の事務所費などを公開した。一方、10億円は国民の常識からかけ離れているとの批判もあるが、それだけ支援者からの寄付金が多かったということであり、また不動産を所有しても政治資金団体の財産なので問題はないと主張した。同時に、資金管理団体の小沢名義の資産を個人資産にしないという確認書を公開した。なお、陸山会の代表は小沢自身であり、この確認書は「陸山会代表である小沢一郎」と「個人である小沢一郎」の間で交わされたものになっている。

その後2007年10月9日、参院選で与野党逆転した後、初の本格的論戦で注目されていた衆議院予算委員会総括質疑の初日、「陸山会」が政治資金で購入したマンションの部屋をコンサルタント会社と財団法人に事務所として貸し、2002年から2006年の間に賃料計980万円を得ていたことが報じられた。

9日に民主党幹事長の鳩山由紀夫は「法に触れるようなことは何もしていない」とコメントし、「このタイミングで問題化させるのは政治的意図があるからではないのか」とも切り返した。また小沢代表も翌10日の記者会見で「1円単位で領収書を公開した2月時点で(メディアから)追及は全く無かった。それが半年以上も経過した今回一面トップで報じることは、政治的思惑でもって意図的に誹謗中傷した報道であると認識している」とし、これを一面で報じた毎日新聞をはじめ報道を批判するなど強く不快感を示した。なおこれらの違法性を強く否定しつつも今後不動産の売却を進めていく考えを表明した。

なお、この件を報じた週刊現代を名誉毀損で小沢は出版社を提訴。しかし、一審二審ともに小沢側の全面敗訴の判決が出され、上告をしなかったため、小沢の全面敗訴が確定している。

2009年4月13日参議院決算委員会で自民党西田議員が本件について詳細に発表したとき、民主党議員からの野次により委員会が一時中断した。

政策秘書公職選挙法違反容疑

第21回参議院議員通常選挙で当選した同党の青木愛の選挙運動員が事務所の指示を受け、参院選公示前日の7月11日、業者に依頼して選挙ポスター付きの看板設置に関する契約を1本当たり500円で千数百万円分の契約を結んだ疑いで逮捕された。印刷会社社長が警察からの事情聴取で、小沢の政策秘書に報告しその内容を掴んでいたのではないかとも取れる供述を行なった。これに対し、小沢自身は8月31日の記者会見で「選挙違反に当たるような行為は一切していないという(秘書からの)報告で、私もそう思っている」と捜査や報道を批判し強く不快感を示した。9月14日、千葉地検は逮捕した印刷会社社長らを「選挙違反にはあたるが、違法性の程度が比較的軽かった」と判断して起訴猶予処分とし、小沢の政策秘書も立件せず捜査を終結した。

「隠し資産報道」に対する訴訟と敗訴

週刊現代は2006年6月3日号にて「小沢一郎の“隠し資産”を暴く」とし、小沢氏の政治資金管理団体「陸山会」が都内などにマンション10戸、6億円以上を所有していることを報道。その全てが小沢氏名義であることから、小沢氏の「隠し資産」ではないかと糾弾した。 これに対し、小沢と民主党は、小沢一郎民主党代表(当時)に隠し資産があるとする記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の講談社と編集者らを相手に6000万円の損害賠償などを求める訴訟を起こした。 2008年6月4日、東京高裁は「記事は、マンションは個人資産といわれても仕方ない、との意見を表明し論評したもので、国会議員に対する論評の域を逸脱したものではない」と指摘、小沢氏の主張を退け、小沢側が上告しなかったことから判決が確定した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%B8%80%E9%83%8E

04. 2009年12月26日 09:06:26
これだけ長いと、アラシだろ↑。

05. 2009年12月26日 09:28:27
婆さんも、パソコンやっているよ。
もっと簡潔(簡単に潔くだよ)書いてください。
こんな長文につきあっていられない。

06. 2009年12月26日 09:48:29
俺も。これ、アラシだな。読みたくねーからパスした。 爺さん

07. 2009年12月26日 09:54:35
あまり見ないHNなので見てみると、2ch並の投稿者だった。
統一協会でチベットチベットと騒いでいた頃もあったが、まだやっていたのか。そんなに日中韓が仲良くするのが怖いのですか。米国の戦争マフィアは武器が売れなくて困るし、北朝鮮は公安とつるんでの麻薬商売、パチンコ商売がやりにくくなる。必死になるのはわかるけどね。

08. 2009年12月26日 09:58:02
07さん、なるほど。

米国・自民  = 武器商人

北朝鮮・公安 = 麻薬とパチンコ

っていう図式か。分かりやすい


09. 2009年12月26日 11:02:43
経営破たんの責任を労組のせいにするなよ。
権利の拡大は労働組合の仕事だろ。
そんなことも知らんのか?

おめーみたいなのがいるから、いつまでたっても日本人は社畜なんだよ。


10. 2009年12月26日 11:47:48
ところで、どこに小沢に熱狂してるヤツがいるの?脳内?
小沢が演説に来たらキャーキャー騒ぐオバハンやら、俺たちの小沢!みたいな旗つくって振ってるヤツが実在するか?
ありえない。
せいぜい、小沢を自民党にぶつけて自民を滅ぼしてやる!ぐらいにしか思われてないと思うが。

まぁ小泉の時のアレはどうせ、実際は草加の婦人部かなにかだったんだろうけどネ。


11. 2009年12月26日 13:34:42
いずれにしろ、悪の枢軸、良心のかけらもない、自民党を消滅させるほうが先だな。

12. 2009年12月26日 15:34:48
完全に嫌がらせ、コメントは簡潔にが常識

単に迷惑、読む気も起きない

小沢氏を知りたいときは阿修羅の読者はすべを知っている。
新たなアラシ


13. 2009年12月26日 19:09:38
<気がつけば独裁政権で自由もなくなり、天皇陛下がダライラマのように国外へ移られる悲劇が生じるやもしれません>

わたしはこの最後の文章を読んで鳥肌がたった。まさか小沢一郎がそこまでやらないと思うが、彼は何をやるのかわからない不気味さがある。

小沢一郎は韓国で講演し、江上波夫の騎馬民族征服王朝説を唱えた。

http://www.youtube.com/watch?v=YPLj86CyUkQ)←これがそのときの動画である。

自民党幹事長時代に陳情で江上波夫が国会自民党幹事長室に訪れそこで1時間ほど話したと小沢一郎は講演している。そして小沢一郎は天皇制とは韓の百済系であると言明した。

何ゆえに民主党の幹事長が今だ仮説にすぎない「江上波夫の騎馬民族征服王朝説」が正しいと国際的に表明しなくてはならないかは不思議だ。この時期に・・・

それには「東アジア共同体構想」もからんでいると思う。しかし不思議なのは何ゆえ小沢一郎が韓国で天皇制の由来を韓国南部から日本列島にやってきた騎馬民族が日本を征服し王朝を樹立した仮説が正しいと表明し、天皇制の系統は百済であると言明したのかだ。

実は小沢一郎の韓国講演とは彼が世界権力の立場にいることを国際社会で認知してもらうための決意表明であったのだと思う。

ゆえに小沢一郎が完璧な独裁者にのしあがった暁に「天皇陛下は故郷である百済があった韓国南部に皇居を建て、そこで暮らしもらったほうが天皇陛下の幸せである」などと言い出すかも知れない。

世界権力の代理人にして国際社会の政治家小沢一郎は何を考え何を裏工作しているかわからない不気味な男である。

<気がつけば独裁政権で自由もなくなり、天皇陛下がダライラマのように国外へ移られる悲劇が生じるやもしれません>
日本人なら鳥肌が立つことを小沢一郎が工作しているとしたら、恐怖だ・・・

小沢一郎は何をやるかわからない世界権力の代理人であり、危険人物だ。

わざわざ古代歴史の仮説である「江上波夫の騎馬民族征服王朝説」が正しく、天皇制の由来は百済であると表明したのは、騎馬民族のように自分が日本を征服し、天皇制に変わる新たなる王朝を樹立するので、そのときはぜひ皆様韓国の若い諸君が応援してくれという小沢一郎の決意表明が韓国講演の隠された基調ではなかったmのかと思ってしまう。

韓国との友好のためであれば、与党幹事長の政治家がわざわざ天皇制の由来が百済であるとまで講演する必要がない。小沢一郎は必要があるから国際的な場所で「江上波夫の騎馬民族征服王朝説」が正しと表明したのである。

そこではすでに日本に帰国してからマスコミが喧騒の祭りを大転回することを小沢一郎は読んでいたはずである。軽はずみで小沢一郎は講演したのではない。

小沢一郎は韓国講演で世界権力の代理人として日本を解体し日本を征服し新たなる王朝を樹立すると宣言したのだ。そのために外国人参政権の成立を急いでいるのである。小沢一郎の工作と仕掛けは早い。

韓国講演とは日本国民が混乱するように仕掛けた工作であった。彼はマスコミの喧騒祭りを最大限に利用する政治手法をもった政治動物である。

日本は小沢一郎によって土壇場に追い込まれてようとしている。小沢一郎には世界権力の代理人として長期的で総体的な日本解体戦略と日本占領戦略がすでにある。


14. 2009年12月26日 19:32:14
↑長いコメントは、ネトウヨ工作員かな。
内容がめちゃくちゃだわww。

15. 2009年12月27日 03:44:53
なんだか、推測と思い込みでものを言ってますね。江上説なんて、その後の歴史学では主流になってるでしょう。13.さんこそ、「天孫降臨説」でも信奉してるんですか?あとは、南方説ぐらいしかありませんんが、弱いですよね。

イメージや感覚、それも、占領マスゴミによって意図的に創り上げられた人物像に、日本人はほとんどが洗脳されていますよね。小沢氏は、合理的で筋が通っていますよ。

それより、小泉についてどう思うんですか?小はん致死説とか、郵政見返り1兆円リベート説とか、いろいろ情報が出てますよね。

マスゴミに非難されている人に、悪人はいないでしょう。マスゴミそのものの危険性を知らずに、よくも、「世界権力」だなどとほざけるものです。「世界権力」が最初に掌握するのは、メディアなんですよ。

まあ、そんなの、百も承知で、撹乱工作ですね。正体見たり、ですね。



  拍手はせず、拍手一覧を見る

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。