★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK76 > 724.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
昨日の記事に関連して補足したいことがあり
うろ覚えの記憶頼りではとWiki『細川内閣』を開いてみました。
調べたかったことはそっちのけ
面白いモノがあって、
結局それを持ってきました。
細川内閣(1993年8月9日〜1994年4月28日)閣僚名簿。
閣僚です。(太字:どなんとぅ)
内閣総理大臣 - 細川護煕(日本新党)
o 内閣総理大臣特別補佐 - 田中秀征(新党さきがけ)【〜1994年1月31日】
法務大臣 - 三ヶ月章(非議員)
外務大臣兼副総理 - 羽田孜(新生党)
大蔵大臣 - 藤井裕久(新生党)
文部大臣 - 赤松良子(非議員)
厚生大臣 - 大内啓伍(民社党)
農林水産大臣 - 畑英次郎(新生党)
通商産業大臣 - 熊谷弘(新生党)
運輸大臣 - 伊藤茂(日本社会党)
郵政大臣 - 神崎武法(公明党)
労働大臣 - 坂口力(公明党)
建設大臣 - 五十嵐広三(日本社会党)
自治大臣 - 佐藤観樹(日本社会党)
国家公安委員会委員長 - 佐藤観樹(日本社会党)
内閣官房長官 - 武村正義(新党さきがけ)
o 内閣官房副長官(政務)- 鳩山由紀夫(新党さきがけ)
o 内閣官房副長官(事務)- 石原信雄
o 内閣法制局長官 - 大出峻郎
総務庁長官 - 石田幸四郎(公明党)
北海道開発庁長官、沖縄開発庁長官、国土庁長官 - 上原康助(日本社会党)
防衛庁長官 - 中西啓介(新生党)→愛知和男(新生党)【1993年12月2日‐】
経済企画庁長官 - 久保田真苗(参、日本社会党)
科学技術庁長官 - 江田五月(社会民主連合)
環境庁長官 - 広中和歌子(参、公明党)
国務大臣(政治改革担当) - 山花貞夫(日本社会党)
次に政務次官です。
法務政務次官 - 佐々木秀典(日本社会党)
外務政務次官 - 東祥三(公明党)
大蔵政務次官 - 北側一雄(公明党)、中村正男(参、日本社会党)
文部政務次官 - 安倍基雄(民社党)
厚生政務次官 - 岡島正之(新生党)
農林水産政務次官 - 木村守男(新生党)
通商産業政務次官 - 遠藤乙彦(公明党)、和田貞夫(参、日本社会党)
運輸政務次官 - 二階俊博(新生党)
建設政務次官 - 伊藤英成(民社党)
労働政務次官 - 永井孝信(日本社会党)
自治政務次官 - 冬柴鉄三(公明党)
総務政務次官 - 小池百合子(日本新党)
北海道開発政務次官 - 菅野久光(参、日本社会党)
防衛政務次官 - 山口那津男(公明党)
経済企画政務次官 - 古賀一成(新生党)
科学技術政務次官 - 乾晴美(参、民主改革連合)
環境政務次官 - 山元勉 (日本社会党)
沖縄開発政務次官 - 田村秀昭(参、新生党)
国土政務次官 - 増田敏男(新生党)
如何でしょう。
なかなか趣深いモノがあると感じませんか?
太字にした部分に若干コメント入れておきます。
1)まず大挙入閣を果たした公明の選んだポスト。(ほぼ確実に"要求した"ポストです)
郵政というのは(当時)より大きいのは電波行政即ちマスメディアへの権限を持つポストということです。
総務の石田幸四郎は当時の公明委員長。
社会(山花)社民連(江田)民社(大内)とともに「党代表の入閣」を重視、
比較的軽量のポストに就いて臨機応変に対処する意味合いが強かったのでしょう。
その他の公明ポストは時間も含めきわめて戦略的です。
(党勢拡大、創価の入信者拡大に寄与しやすいポスト、対米の最前線〜人脈形成しやすいポストです)
2)第四党ながら総理の座を手にした日本新、それに官邸スタッフを独占したさきがけの存在感が群を抜いています。
実はこの2党を除く6党がまず連立合意を果たし、
この2党が院内会派を組み
自民〜非自民のどちらと組むか、決定を先送りして政策提示を行っていました。
「政治改革」に関して両者とも2党提示にかなり近寄り、膠着状態であったところで
小沢による「細川首班」の切り札提示が功を奏し
連立8党による細川政権が誕生した訳です。
ここから小沢〜武村の表裏に渡る駆け引きが展開されるわけです。
第一党たる新生党党首(羽田)の副総理兼外相というのは順当なところでしょう。
3)次官ポストに注目すべき名前が幾つか見受けられるでしょう。
二階、小池、そして鳩山!
鳩山は組閣時点で武村の側近であったのですが
先に述べた小沢とのやりとりの中で(おそらく)駆け引き自体自己目的化しているような武村の政治観と
大きな目標を見据え、そこに至る手段としてあらゆる布石を打ってゆく小沢の政治観とのスケールの違いを
身を以て認識したことと思います。
どなんとぅが、いかなる苦境が訪れようと鳩山辞任無しと断言するのは
細川内閣の興亡、
それに関わってきた各政治家の人物について
しっかりと目に焼き付けているだろう事
みじんも疑わぬ故なのです。
4)あと二人。
藤井蔵相についてはコメント不要でしょう。
もうひとりの上原康助。
沖縄選出代議士として初の大臣ポストでした。
全軍労(基地労働者により組織された労組で、復帰闘争の最前線に立っていた)を率い、
沖縄の本土復帰に向けた国政選挙に於いて初当選、以降10期連続当選を果たしてきました。
社会党〜社民党に所属し、その中でも左派グループの中心的存在でした。
その彼が大臣として国政の内部に入り
変化しました。
理想論・原則論の社民を離れ、民主党公認で11回目の立候補
しかし社民が代わりに擁立した元副知事東門美津子に敗れ、
比例区復活もならずそのまま引退と言うことになりました。
さて、話を最初に戻して、確認したかったことです。
細川政権崩壊に於いて、確かアメリカからの何らかの仕掛けがあったはずだと思い出したのです。
Wikiに次の記述がありました。
コメント抜きで転載しておきます。
9月に始まった日米間の経済問題を協議する日米包括協議でアメリカは内需拡大とそのための所得税減税を日本に求めており、
11月の日米首脳会談で細川は所得税減税を翌年実施する考えをクリントン大統領に対して示した。
このとき、次期首脳会談を翌年2月11日に開き、それまでに日米包括協議の合意を図ることも決められ、
日本側は所得税減税分を埋める財源確保の必要に迫られることになった。
2月会談は決裂します。