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http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20091222/202377/?P=1
一時の人気にかげりの見える鳩山内閣だが、11月11日から9日間の日程で行われた行政刷新会議による「事業仕分け」は、国民にも評判が高かった。今年の新語・流行語大賞の年間大賞こそ「政権交代」に譲ったが、「事業仕分け」もトップテンに入った。 まさに民主党政権の思惑どおりの結果になったのだが、わたしは事業仕分けの中継を見ていて、正直なところ暗い気分になってしまった。 事業仕分け自体を否定する気はないが、ものすごく乱暴だなというのがその印象だったのだ。 例えていえば、古代ローマ時代のコロッセオ(円形闘技場)で行われた公開処刑のようである。コロッセオは格闘技が行われたことで知られているが、罪人の公開処刑も行われたのだ。その残酷なイベントは、当時のローマ市民を熱狂の渦に巻き込んだという。事業仕分けに熱中する国民の様子に、そのシーンが重なって見えてしかたがなかったというのは言い過ぎだろうか。 結局、それだけの大騒ぎをして、予算から削減できた金額は7000億円弱である。3兆円の目標には遠く及ばなかった。 そのニュースを聞いて、わたしの頭に1つの考えが浮かんだ。 「政府に近い重要な法人が、今回の仕分けの対象から外れていたじゃないか。あそこを仕分けすることこそが、日本経済にとって必要なんじゃないだろうか」
今回の事業仕分けが、徹頭徹尾、経済合理性で貫かれていたというのは間違いない事実である。仕分け人たちは事業の効果を数字で示せと迫り、それができなかったものはバサバサ切られていた。 だが、世の中には数字で示せない事業だってある。いや、むしろ示せない事業のほうが多い。 切られたもののなかには、障害者の自立を促す予算もあったし、小さな赤ちゃんを抱えているお母さんが気軽に外出できるようにするための予算もあった。 障害をもっている人たちが社会に参加するための支援というのは、経済効果はたいしたことはない。 赤ちゃんを産んだお母さんが、たとえばデパートでおむつを替えるスペースをつくってもらうために、財団が補助を出すというのは経済効果なんてほとんどない。 でも、そうした点を国として支援するというのは、政治の責務ではないか。それは、経済効果だけで測る話ではないだろう。
そう思って見ると、仕分け人の人選があまりにも偏っていたことに気づく。 仕分け人のうち、国会議員は小沢幹事長が減らしてしまったために、たったの7人しかいなかった。それを補ったのが56人もの「民間有識者」である。 そこに名を連ねているのは、道路関係四公団民営化推進委員会委員を務めた川本裕子早稲田大大学院教授、小泉政権下で政府税調の会長だった石弘光放送大学長、リクルート社出身で新自由主義を信奉する教育者である藤原和博東京学芸大客員教授をはじめ、高橋進日本総合研究所副理事長、翁百合日本総合研究所理事、ロバート・フェルドマン モルガン・スタンレー証券経済調査部長など、小泉構造改革を陰に日向に支えた「構造改革派」の人たちである。 小泉構造改革に異を唱えていた人は誰も選ばれていない。だが、民主党は小泉構造改革はダメだといって選挙を戦ったのではないか。 民主党政権が誕生した背景には、小泉構造改革がもたらした過酷な格差社会への反省があったはずだ。それなのに、ずらりと構造改革派の人を並べる神経が、とてもわたしには理解できない。
確かに、構造改革派の彼らは、バッサバッサと切り捨てることが得意中の得意だから、仕分け人には適任かもしれない。反構造改革派の人たちに任せたら、よくも悪くも、こんなえげつないやり方はできなかっただろう。予算を削減するためには、悪魔の手も借りたかったのだといわれれば、そうかもしれない。 だが、事業担当の官僚に対して、仕分け人が矢継ぎ早に厳しい質問を投げつけ、予算の削減や凍結、廃止の結論を打ち出していく姿は、冒頭で述べたように、あたかも官僚に対する公開処刑のように見えた。 わたしの知り合いの役人も、毎日のようにテレビに登場しては、さらし者にされていたが、彼らはけっして悪人ではない。なかにはひどい役人もいるが、全員が悪いわけではない。むしろ、あそこに出てきた人は、普段国民のために一生懸命に働いている人たちである。 ところが、テレビでもインターネット中継でも、問答無用で極悪人のように描いていたのはどうもいただけない。口達者な仕分け人たちが、そんな彼らを問い詰めて、予算をバサバサ切っていく様子を見て、「ああ気持ちよかったな」と感じる社会は、けっして健全ではないと思うのだ。
百歩譲って、公開処刑同然であっても、事業仕分けによって効率的に予算が削減できればいい。だが、利権の世界はそんなに甘いものではない。 わたしも、役所にいたことがあるので、予算編成の仕事をよく見てきたし、実際に担当したこともあった。 その体験から言わせてもらえれば、本当の利権の部分は、あんなわかりやすい形で出てくることはないのだ。必要な予算の中に、悪い役人たちがそっと巧みにすべりこませるのである。1事業あたり、たった1時間の持ち時間で、無駄が暴露されるような馬鹿な予算のつくり方をするわけがない。 では、どうすれば利権を排除して無駄が削減できるのかといえば、役所なり公益法人なりにべったりとはりついて、徹底的に事業の実態を調べて、役人や利用者にインタビューを重ねるのだ。すると、1年ぐらいしたところで、「ああ、こういうふうにインチキを隠していたのだ」ということがわかってくるだろう。 本当はそれだけの時間をとらなくてはならないのだ。そう考えると、今回はパフォーマンスが最大の目的だったと言ってよいだろう。ある意味で小泉劇場と同じことを狙ったのではないか。
さて、ここからが本題である。 事業仕分けによる削減額は3兆円が目標だったが、結局浮いたのは1兆7000億円。だが、このうち1兆円近くは、基金や特別会計などの埋蔵金返納が占めている。この分は1回限りのものだ。 さらに、その後の農業共済費やスパコン関連費用の復活もあって、これだけの荒療治をしたにもかかわらず、結局予算から削減できた金額は6770億円にとどまってしまったのである。 一方、今年度の税収は36兆円台の見通しである。前年度と比べると実に9兆円も落ち込んでいる。 1990年度には60兆円もあった税収が、36兆円台にまで激減した最大の理由は、先進国のなかで、日本だけがデフレ経済に陥ったからである。 事業仕分けで大騒ぎして7000億円弱の節約、かと思うとデフレのおかげで9兆円もの税収減。このバランスをよく考えなくてはならない。もちろん、予算の無駄遣いはいけない。だが、財政悪化の最大の原因は、予算の無駄遣いよりも、圧倒的にデフレに伴う税収減なのだ。 その現実を、民主党はきちんと認識しているのだろうか。
デフレの最大の原因は、このコラムで繰り返し指摘しているように、日本銀行の金融政策にある。 リーマンショックにはじまる金融不安でも、日本は傷が浅かったはずである。それなのに、ここまでの景気悪化を招いたのは、日銀の怠慢といっても過言ではない。 来年の事業仕分けは公益法人を対象にするということだが、いの一番に事業仕分けの対象にしなければならなかったのは日銀ではないか。 彼らはとんでもない豪華社宅に住んでいて、都銀よりも高い給料をとり、リストラの心配もない。では、大変な仕事をしているかといえば、そんなことはけっしてないのだ。 日銀の業務というのは、次の3つしかない。 1.政府の銀行 1の業務は日銀である必要はない。そもそも日銀は支店が少ないので、政府は一般の都市銀行を代理店にしており、通常は一般の銀行に業務を委託している場合が圧倒的に多い。 しかも、政府の銀行といっても、あくまでも中央政府の銀行ということだ。地方政府、つまり都道府県や市町村は日銀を使えない。逆をいえば、民間の銀行で十分なのであって、日銀でなくても大きな問題はないのだ。 2の業務は、確かに一般の銀行ではなかなかできるものではないが、その仕事の内容といえば事務作業をするだけであって、複雑なものではない。日銀の代わりに政策投資銀行に新しく部門をつくってもいいし、新しい公的金融機関をつくってもいい。 3の業務は、日銀だけでなく政府も可能であって、いわゆる政府紙幣を出すことができる。日銀が役に立たなければ、第二日銀をつくって競争させるというアイデアもありうる。
思えば、ここまでデフレが進んでしまったのも、政府が日銀に大きな権力を持たせてしまったことに遠因がある。 というのも、政府に金融政策を任せると、どんどんと札を刷りたがるために、インフレになる恐れが強い。そこで、インフレを警戒するあまり、政府は金融にタッチしないという決まりになったのだ。 日銀法の改正によって、政府による日銀総裁の罷免権もなくしてしまった。そのおかげで、日銀は絶大な権力を手にしてしまい、今度はデフレ方向への暴走がはじまった。 こうした問題を根本的に解決しない限り、財政が健全化することは期待薄であろう。さすがに、政府のデフレ宣言を受けて日銀も少しはまずいと思ったのか、今のところは政府の言うことを聞いているふりをしてるようだ。 だが、日銀の対策は、前々回の「デフレ対策として日銀券を増発して株式を購入せよ」でも述べたように不十分である。 日銀を本当に廃止するかどうかは別として、白川総裁に対して、一度「事業仕分けをするぞ」と脅しをかけるくらいは、してもいいのではないかとわたしは思っている。 |