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Nothing Ventured, Nothing Gained.
2009年12月16日 (水)
憲法秩序に反しているのは宮内庁 ― 天皇の親善外交について憲法学から考える
今日は、シリーズ化した「名誉毀損に関する正しい理解」の最終回(第5回)を前に、別の話題をひとつ取り上げたいと思います。
この問題を記事にする場合、法律のカテゴリーなのか、政治のカテゴリーなのか迷いましたが、憲法論という法律論的視点から私は意見を発信しようとしていますから、法律のカテゴリ―に入れました。
今日取り上げるテーマは、中国の副首相と天皇の会談をめぐる羽毛田宮内庁長官と小沢幹事長の批判についてです。
中国が嫌いかどうか、民主党政権を支持するかどうか、小沢幹事長が好きか嫌いか、右翼的な思想か左翼的思想かなどは別として、法律論的に言えば、結論として、小沢幹事長の発言が正しいことは明らかです。
これには2つの理由から説明が可能です。
1つは天皇が中国の副主席と会うことなどの親善外交は、憲法7条10号の「儀式を行うこと」に該当し(高橋p44)、これは天皇の国事行為であるところ、憲法3条は「天皇の国事行為に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う」と定めているからという理由です。
もう1つは、天皇の親善外交は、象徴としての地位に基づく公的行為であり、公的行為についても、国事行為に準じて内閣によるコントロールが及んでいる以上許容されるという考え方です(学説の多数説)。
いずれの説にたっても、内閣の助言と承認または内閣による民主的コントロールが存在する以上、憲法上の問題はなく、政治利用という批判はおかしな話です。
つまり、宮内庁に助言と承認権限があるのではなく、内閣に助言と承認権限がある以上、それに従うのは憲法の要請するところであって、内閣が助言と承認として、中国副主席との親善外交を天皇陛下が行ったのであれば、問題は法律上一切ありません。
宮内庁長官をはじめとして、無責任に職務を放り投げた元首相やそれ以降も無責任な首相を容認してきた自民党の議員、さらにはメディア等も、憲法の基本中の基礎知識すら欠如して、「政治利用だ」という批判をしていますが、天皇の親善外交は国事行為または公的行為として国事行為に準ずる行為ですから、助言と承認行為を政治的利用と批判するのであれば、あらゆる天皇の国事行為および公的行為が政治利用で不適当ということになってしまいます。
そもそも、国事行為は形式的・儀礼的なものといっても、天皇が象徴たる地位に基づき、内閣の助言と承認を必要とする以上、一定の政治性が帯びてしまうのは不回避的です。
例えば、環境問題の水に関わるシンポジウムに参加することでさえ、環境問題は既に政治化してしまいますから、これも政治利用ということになってしまいます。
つまり、公的行為である以上、政治性は帯びるのが当然であって、純粋な政治性のない国事行為なんてありえません。
この点、メディアやインターネット上で、国事行為の理解につき、通説である芦部説の定義のみを覚え、誤解している人が散見されます。
芦部説は、天皇の国事行為について、「政治(統治)とは関係しない形式的・儀礼的行為」と定義付けています。
しかし、この定義の重要な部分は、「なぜ、政治性が無くなるのか」という部分です。
多くの人はこの部分を見落として、内閣の助言と承認に基づき、宮内庁のルールが曲げられたから、「政治利用だ!」と批判しています。これは批判として本質を見誤っています。
この点、通説は、もともと国事行為とは、国政に関する行為であり、政治性を有する行為であるが、内閣が助言と承認を行うことにより、その結果として天皇の行う国事行為が形式的・儀礼的なものになると説明します。
したがって、内閣の助言と承認がない国事行為は、そもそも政治性を有する国政に関する行為といえます。
よって、「内閣の助言と承認に基づく、天皇の政治利用を止めろ」というのは、「国事行為そのものを行うな」という話になってしまい天皇の存在意義を否定することにつながりかねません。
また、この問題について小沢幹事長を批判する人々は、国事行為という憲法上の天皇の権能の問題と、対中国外交の是非や小沢氏の強引な政治手法に対する批判とを混同してしまっているのではないでしょうか。
私個人の意見として、小沢氏の対中国外交姿勢や永住外国人の地方参政権付与に対する姿勢、さらには説得のリーダシップを尽くさない粗雑なメディアへの対応には問題があると考えていますし、賛同しかねます。
しかし、その問題と天皇の国事行為に関し内閣が具体的に助言と承認を与えることの是非という憲法議論は、切り離して考えなければなりません。
体調不良を理由に職務を放棄し、責任も取らなかった元総理大臣のように、自分の政治思想に反するとか、自分の気に食わない外交方針であるというだけで、「政治利用だ」と薄っぺらい批判をし、内閣による天皇の国事行為に対する助言と承認の所在を宮内庁に今まで通り許そうとする方が、よっぽど天皇陛下を利己的に利用しています。
また、一官僚に過ぎない宮内庁長官が政府の決定に異議を公に唱えている点もはおかしな話です。
日本は閣僚も含め統一感がなく、バラバラのことを言いたがります。
しかし、日本よりも自由主義が浸透しているアメリカでは、行政府の政治家、官僚は、通常、大統領の決定に反する発言を公にはしません。自分の地位と発言の重みを知っているからです。自分の信念に反する大統領の政策が行われる場合には、辞任するのが通常です。
もっとも、政治家は民意を経てまたは今後経るという立場の下で、意見を言うわけですから、そうしたバラバラな意見を言うことの是非は民意により判断されれば良いでしょう。
しかし、官僚ということになれば話は違います。彼らは民意を経ていない官僚に過ぎません。
上級官僚が公に内閣の方針にあからさまに批判することは、憲法72条の定める内閣総理大臣の行政各部に対する指揮監督権に背くものであり、憲法秩序を乱す許し難い行為です。
今回を機に、内閣の助言と承認のあり方についても、宮内庁任せにせず、しっかりと内閣において、憲法秩序に従った運用をしてほしいと思います。
例えば、「君臨すれども統治せず」の理念の下にあるイギリスでは、女王陛下と首相が週に1回程度、会食をして、社会問題や政治問題、外交問題に対して意見交換します。
これらのことは一切公開されませんが、女王陛下が国民の関心事項や政治問題を把握する上で極めて重要な機会となっています。
ブレア元首相がイラクへの派兵決定をする際にも、エリザベス女王陛下と意見交換したと言われています。
確かに我が国は、象徴天皇制で、英国とは制度が違います。天皇の地位については、エリザベス女王と同じ国家元首なのか、それとも国家元首は首相なのかという議論があるくらいです(この点、学説の多数説は国家元首を首相と考えています)。
しかし、憲法3条が天皇の国事行為に関するすべての行為を内閣の助言と承認を必要と規定した趣旨には、英国型の君主制を1つのモデルとして想定していたことは否定できません。
そうであるならば、天皇の国事行為等を宮内庁に任せきりにするのではなく、天皇陛下に内閣総理大臣が週1回程度など頻繁に会って意見交換をし、国情を把握してもらうことや象徴として首相に対し考えを非公開で伝えてもらうことは、現行憲法3条が規定する内閣の助言と承認を行う上で極めて重要なことではないでしょうか。
今までの自民党が、内閣の助言と承認を事実上宮内庁の官僚に任せきりにして、閉鎖的な皇室像を作ってきたことが問題だったと私は思います。
これは内閣法制局についても同じことが言えます。
9条の解釈について、政府見解を内閣法制局が定め、それに歴代の内閣を拘束させてきています。
しかし、内閣法制局は所詮内閣の下部組織に過ぎず、彼らには一切の有権的憲法解釈権限はありません。
事実上、民意を経ていない内閣法制局の官僚による憲法解釈に歴代の内閣が拘束され、またはそれを望んてきたに過ぎません。
これほど非民主的な制度はないでしょう。
そもそも、憲法解釈の有権的な判断が唯一憲法上許されているのは司法権を司る最高裁を頂点にした裁判官のみです。
裁判官が作った判例、裁判例で示される憲法解釈以外は、政府見解や学者の学説もすべて、単なる意見に過ぎません。
そうであるならば、歴代の内閣がそれぞれ独自の憲法解釈を自由に行い、それを国民が選挙を通じて審判できる制度の方がよっぽど民主主義に即しています。
現にアメリカの政治家は、積極的に憲法判断について自己の意見を表明します。それに基づいて、有権者はその人物が公職に適当かどうか判断が可能なのです。
「政治家が自由な憲法解釈をやれば、国民の憲法上の権利が侵害されやすくなる。だから、官僚による連続性ある解釈が必要なんだ。」という反論を官僚はするでしょう。
しかし、奢りも良いところです。立場をわきまえない馬鹿げた反論です。
憲法上権利侵害が起こった場合に救済するのは裁判所です。司法権が行政権および立法権に対する抑制として存在し、違憲立法審査権が付与されていることの意義は、権利侵害を憲法の番人として救済するためだからです。
官僚の出る幕は憲法上予定されていません。
仮に司法権が、憲法判断を回避し、立法と行政の国民に対する権利侵害を容認し続けるのであれば、有権者がそうした裁判官を指名している最高裁判所の裁判官の国民審査において、彼らにNOを突き付け、失職させればいいのです。
これこそが憲法の予定した制度運用のはずです。
しかしながら、この国のマスコミはそうした憲法秩序等に対する知識を持たなければ、持とうともせずに、間違った情報と批判を垂れ流し、国民を扇動していると言っても過言ではないでしょう。
話を今回の問題に戻しますと、天皇に対する助言と承認権限が内閣にあるにもかかわらず、1カ月ルールという法的規範性のないものに依拠して、民意の審判を受けていない宮内庁の官僚が、助言と承認権限を事実上独占してきたのがおかしな話なのです。
換言すれば、憲法の規定する秩序に違反して、天皇を利用しているのは、宮内庁であると言っても過言ではないでしょう。
なお、この問題について、揚げ足取りが得意な共産党の志位委員長は、「外国の賓客との会見は国事行為ではない」と小沢氏を批判しています。
共産党はそもそも天皇制に極めて批判的ですし、一部の県連ではHP上ではっきりと、天皇制廃止の方向である言っていることからすれば、天皇の親善外交そのものがやるべきではないという発想なのかもしれません。
ただ、国事行為に当たるか、それとも国事行為に準ずる公的行為なのかという論争ははっきり言って何の意味もありません。
重要なのは、内閣の助言と承認という民主的コントロールが及んでいるかどうかです。