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かつてトヨタは日本人の誇りであり、いつビッグスリーを抜いて世界一になるのかと皆が固唾を飲んで喝采したものだ。
戦後日本の高度成長を支えた“モノづくり”の原点であり、日本の“希望”でさえあった。
そこには、豊田英二という古武士がいた。
アメリカ国務省、財務省であろうが、日本の通産省であろうが、反骨精神旺盛であり理不尽なことには断固闘い、堂々と正論を主張した。
労働争議にも誠実に対応して、苦労の末に社員との信頼関係を取り戻した。
【転載開始】
「豊田英二語録」豊田英二研究会編 小学館文庫(1999年初版本)より
○〔役所からやめろと言われることはない〕
筋道の通らないことは断固として譲らない英二は、昭和32年、ディーゼル車の販売に待ったをかけた通産省に噛みついた。通産官僚にも、英二は信念を、曲げはしない。
英二は、通産省にも「噛みついた」が、その約5年後にはなんとアメリカの国務省と財務省にも噛みついた、いや、文句を言いに行った。
その状況を先に少し報告しよう。「トヨタは朝鮮特需で再建の糸口をつかんだ。ストライキのときは月産960台を基準に再建計画を練り、人員もそれに合わせた。ところが、計画がスタートした矢先に米軍からトラックの大量注文がきた。(略)米軍からは朝鮮戦争が終わったあとも37年まで10年以上買ってもらった」(『決断・私の履歴書』)
ところが、37年になって急に米軍は買い付けをやめた。ジャパン・バッシングの法案がアメリカの議会で通過した。それは「米軍は米国製のトラックを買うべき」で、「日本のトラックを買ってはいけない」という法案だった。
英二は怒った。
たまたま、アメリカを訪問中の英二は急遽、予定を変更して国務省、財務省に文句を言った。「契約したものを予告もなしにキャンセルするのはおかしい」と。
将たるもの、このくらいの気概はほしい。英二に喝采、である。
そして、通産省だ。この役所、昔も今も、横暴で生意気な官僚はいるものである。あるときは産業振興しろと言い、またあるときは「待った!」をかける。英二が怒るのも無理はない。
トヨタは32年からディーゼルトラックを売り出した。これがもめた、のである。「というのは、ディーゼル車はすでにいすゞ自動車が手掛けており、何もそこへトヨタ、日産が参入しなくてもいいだろうという話だった。そこで通産省に呼び出され、『トヨタはディーゼル車の販売をやめなさい』と言われた。私は『役所からやめろと言われるいわれはない。トヨタは通産の反対があっても売り出す』と言い切って帰ってきた」(『決断・私の履歴書』)
胸がスカッとする英二の啖呵だが、役所が民間企業に「やめろ!」はない。通産省は英二のほかにも気骨ある経営者から、何回も抗議されているはずだ。そんな通産省やアメリカ国務省などにへつらいすぎる若手の経営者は、少しは英二を見習うべきではないか。
「もう役所を頼りにしない」
などと言って、自由貿易の大道を歩む、堂々たる経営者の出現が待たれる。p-243
【転載終了】
豊田英二氏は「日米自動車問題は、お互いが技術で切磋琢磨してビジネスに徹して、それで勝ち負けが決まるなら、自由貿易の結果として納得せにゃしょうがない。最終的には、手を抜いたやつが負けるんだから」と、英二は「技術で切磋琢磨してビジネスに徹しろ」と、まず言った。
そして、「でも、今の日米間の貿易問題は、そうではないんです。アメリカの力で押し切ろうと、こういうことだから。アメリカの力といっても、技術でもなければ、ビジネスでもない。変な力だけが前面に出てきちゃう」と、さらに厳しく批判したという。
また、経営者として行ってはならないその第一は「従業員をあざむいてはならないこと」。
「貧しさから人間を救うのはこれしかない」と織機の開発に全力を傾けた佐吉からの伝統である家族的な人間関係を重んじてきたトヨタの伝統を取り戻した、という。
トヨタよ、どうした! 中興の祖豊田英二最高顧問が築きあげた創業精神はいずこへ。
用心棒にと元検事総長の天下りを受容れ、悪徳ペンタゴンと癒着して反骨精神を売り渡してしまった。
その子会社が知的障害者を無知に付け込んで最低賃金以下で働かせ労働基準局に摘発されたという。
無論、内部留保を蓄積することは必要である、企業の社会的責任の第一義は倒産させないことである。しかし、問題はその蓄積の方法だ、自己目的化した権力意思により労働者を切り捨てることが道理だというのか。
積善の家に余慶あり、である。
「道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は寝言である」二宮尊徳
「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり、沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」平家物語
終身雇用制とは単なる一制度ではなく、日本の伝統精神である“万民幸せの願い”から醸し出された叡智だ。
『社員の幸福なくして企業の繁栄はない』のだ。
会社の本義は、断じて株主の投機の対象などではない。実業を旨として、社会にお役に立って喜ばれ、物心両面で社員に幸福になってもらうものである。
それが、王道だ。
●本当の自殺者数は、年間18万人!!(植草事件の真相掲示板)
投稿者:禅の和尚 投稿日:2009年12月 6日(日)23時34分44秒
http://9123.teacup.com/uekusajiken/bbs/4271
●MyNewsJapan:トヨタ系のファインシンター、最低賃金以下で障害者を違法雇用
投稿者:林 克明 12/18 2009
http://www.mynewsjapan.com/reports/1175
●(新版)温情判決≪介護のはなし≫(認知症の母親殺害事件) 動画
http://www.youtube.com/watch?v=QLjXRMoM7Ec
【転載開始】
○〔アメリカが自由貿易を謳うなら「301条は率先して直します」と言わにゃおかしい〕
昭和56年5月に、日本側の譲歩でひとまず決着した日米自動車摩擦。その矢面に立っていた英二は、名誉会長の現在も、その舌鋒は鋭く、的を射ている。
英二の主義主張のなかには、必ず「自由」という言薬がある。この「自由」ともうひとつ、英二に確固としたものがあるとすれば、それは「反骨」ということになるだろう。
つまり、理不尽なこと、筋道の立たないものとは、断固闘うということだ。
とくに、日米自動車摩擦のなかの“スーパー301条”に関しては、アメリカ側の経営者のなかにも、「この301条はおかしい」と言う人がいるくらい、おかしなものだ。
英二は、「アメリカが唱えた自由貿易にしろ、WTO(世界貿易機関)にしろ、自国の利益のみを考える今のアメリカの主張はすべてを瓦解させかねないものだ」(『日経ビジネス』平成7年7月31日号)と言う。
「日米自動車問題は、また最近、何かがちゃがちゃやっていたようですな。お互いが技術で切磋琢磨してビジネスに徹して、それで勝ち負けが決まるなら、自由貿易の結果として納得せにゃしょうがない。最終的には、手を抜いたやつが負けるんだから」と、英二は「技術で切磋琢磨してビジネスに徹しろ」と、まず言った。
そして、「でも、今の日米間の貿易問題は、そうではないんです。アメリカの力で押し切ろうと、こういうことだから。アメリカの力といっても、技術でもなければ、ビジネスでもない。変な力だけが前面に出てきちゃう」と、さらに厳しく批判を行う。
〔世界が注視しているんだから〕
昭和56年5月の自動車摩擦では、通産省の自主規制案どおり、対米乗用車輸出は168万台の抑制に終わった。日本の過度な輸出の超過はこれ以後も摩擦のタネとなってアメリカの、ある意味では理不尽な怒りを買い続けることになる。
しかし英二は、アメリカの自動車産業界とも太いパイプを持っている。GM社とは小型車の共同生産交渉の開始を、輸出規制の翌年、57年3月から行っている。常識的には、大ゲンカをしている本人同士がすぐ握手などはできないものだが、英二はそれもやってのけている。
『日経ビジネス』(平成7年7月31日号)では、さらに「アメリカが本気でWTOの精神を世界に広めたいなら、アメリカ通商法301条みたいなものは、自分たちのほうで何とかしてもらわにゃ困るわけですな」とたたみかけ、この項の言葉(「アメリカが自由貿易を謳うなら……」) となる。
そして、「(略)ところが現実には、301条を盾に交渉をやっておるわけですからね。しまってあるだけならまだいいんだけれども、実際に振り回しておるんだから。
今後、例えばWTOがアメリカに不利な結論を下すようなことがあった場合、それが本当に通るんだろうか。世界中が注目しておりますよ。そこでまた、301条を振り回さん、という保証は何もないんだから」
日本人の経営者でも、英二のように、筋道を立てた批判を率直にできる人はあまりいない。もっともっと、英二に、率直な意見を言ってもらいたいものだ。
〔30年前にも、トヨタは叩かれた〕
そうしたアメリカの身勝手さは、「実は、今から30年ほど前からそんな兆候があった」と、英二は語っている。
「忘れもしない昭和36年の初め、アメリカで米国自動車技術会(SAE)主催の国際会議の何千人も人が集まったパーティーの席上で、GMのゴードン社長(当時)が登場して、すごい勢いでぶちあげた。『今、ヨーロッパと日本がアメリカのマーケットに狙いを定めて、インベード(侵略)してきている。ここに集まった技術者の諸君は一致団結して、日本車や欧州車を海のなかに叩き落としてやれ』とね」
英二は、日本の自動車技術会の会長である。それもSAEからの招待である。壇上に上げられたうえに、ここまで誹讃された。「当時はまだ、日本の実績がゼロに近いのに、欧州車と一緒にしてもらえたのはありがたかったのですが、フォードの創業者の孫のヘンリー・フォード二世と握手したときに、アメリカは大人げないのでは?と、チクリと言った。フォードさんいわくで、乗用車ではそうだが、トラックではトヨタは3位。無視はできない、と言うんだ」
実際に、英二が後で調べると「4位だった」そうだが、無茶なことを押しつけるアメリカときちんと議論できるのは、英二くらいなものだろう。
「技術とビジネスする」自由に競争する姿勢は、英二の生き方の原点である。p-34
○昭和25年、組合に対して「トヨタ再建のために人員整理を認めてほしい」と言う英二たち経営陣に、撤回を求める声が続出した。当時を回想し、企業の本質を英二も説いた。
昭和25年、英二が常務取締役に就任する前後の団体交渉は殺気立っていた。それもそのはずで、前年の12月に、労使は「貸金カットはしかたがないが、人員整理は行わない」という覚書を締結した。しかし、それは双方にとって「甘かった」。つまり、トヨタは人員を整理しなければ倒産という危機的な事態に追い込まれていたのである。
そのため、態度を硬化させた組合は、ストライキに打って出た。英二も、組合との交渉に挑んだ。以下は、その模様の一部を伝える。
「首切りの是非をめぐるこの公開討論会、広場に事務机を三つほど並べた上に両者が向かい合って立ち、周りを組合員たちが取り囲む。広場にあふれた組合員は、建物の屋根にのぼって二人のやり取りを注視する。野次、怒号が乱れ飛ぶ異様な雰囲気だ。
大勢の組合員をバックにした長谷川(龍雄、後のカローラの初代開発主査)に対し、孤軍奮闘の英二は一歩も譲らず、〈もしこれが反対の立場だったら…〉と、その放胆さに圧倒される思いだった」(『開発ナンバー179A カローラの道』碇義朗著)
ところで、「企業は血も涙もない経済原則で貫かれているのだから……」という、英二の発言(『決断・私の履歴書』)は、経営者のロジックばかりをドライに表現したものではない。英二はあくまで、感情的になって激高した「一部」組合員に対して、感じたままをさらりと述べたにすぎない。
また、組合員のなかには、英二の誠実なこころを理解している人も多くいた。その証拠と言っては妙だが、会社再建案を受諾する覚書に調印した組合の発言を読めば、それは理解できよう。
「…われわれは今まで危機突破のために努力してきた。会社のやることは鬼のようだとも思ったが、その交渉相手の一人ひとりを憎んだわけではない。そうしなければならなかった社会情勢を悲しむのみだ。これからは首切りを出さぬよう、会社もありったけの精力を傾けていただきたい」(『創造限りなく トヨタ自動車50年史』トヨタ自動車発行)
会社の「都合」ばかりを前面に出さない、とはつまり、トヨタの経営陣や英二の地道な交渉が実を結んだのであろう。なぜかと言えば、英二が役員会で以下のような発言をしていることを、組合員たちは漏れ伝え聞いたのではあるまいか。
〔従業員をあざむいてはならない〕
その英二の発言とは、労使が裁判所に和解のために提出した『仮処分申請』の不備を発見したある役員が、「これで争議はコナラの勝ちだ」と小躍りしたのを見て、英二は怒った。
「いかに争議に勝つか負けるかの重大な瀬戸際であろうとも、わが社の組合員、従業員を裏切り、欺まんする以外の何ものでもない。そんなことをしたら、仮にこの争議に勝ったとしても、必ず従業員の会社への信頼感をなくし、禍を将来に残すに決まっている」(『利益日本一の経営 豊田英二』針木康雄著)
〔労使の信頼関係が定着するまでに10年かかった〕
労使関係の基本は相互信頼である、と英二は言う。むろんこの思いは、英二だけのものではなく、トヨタで働く社員と経営陣全員の気持ちといえる。
人間が人間を信頼する。
英二は、そのことをつくづく感じざるを得なかっただろう。同じ職場で働き、同じ目標のために働いていた人間同士がいがみ合う。こんな不幸は金輪際、二度と起こしてはならない、英二はそうこころに誓った──。
英二の前項の発言からわずか2か月後、トヨタを揺るがせた労働争議は、昭和25年6月に一応の終結をみる。
しかし、その代償は大きかった。創業者社長の喜一郎の退任である。
「ここにいたって、喜一郎は辞任を決意する。『人員整理はしない』という組合側との約束を守れなかったことに対するケジメの意味もあった。6月5日、2月に常務になったばかりの大野修司を残して、社長、副社長・隈部一雄、常務・西村小八郎のトップが正式に辞任した。そのころには従業員900人が退職を申し出ていたが、首脳陣の退陣によってその数は一挙に増え、7日には1760人に達して当初の予定1600人を突破した。どちらの勝利とも言えない。結局は落ち着くところに落ち着いたといった形で、さしものトヨタ争議も急速に終結に向かった」(『利益日本一の経営豊田英二』)
当時は日本の社会全体が貧しかった。トヨタでも労使間のゴタゴタは続き、昭和28年6月から8月までの55日間は貸金引き上げの要求が続いた。25年の争議のあと、組合との話し合いの場として「経営協議会」を設置し、社長はもちろん全役員が出席するものであったのだが……。
それにしても、豊田佐吉以来、家族的な結びつきで知られるトヨタが、英二が語るとおり、信頼関係の回復に「10年かかった」とは、一度、崩壊した信頼を取り戻すのは容易ではないのである。
「英二さんは、その当事者として本当に努力をしていました」と、戦前からのトヨタマンの中村健也(初代「クラウン」開発主査)は証言する。
「英二さんは実に率直に組合と腹を割って話をしていましたよ。経営の不手際が続き、誠に申し訳ないという気持ちが表れていて、組合員のなかには英二さんを尊敬する人間まで現れた。もっとも、私とすれば賃上げで、自動車を開発する資金が不足するんじゃないか、とそればかりを心配していたんですが」
『労使宣言』誕生
苦汁の時代から10年が経過して、昭和37年2月、トヨタに『労使宣言』が調印された。その『労使宣言』の最後に、こう書かれている。
「われわれは、ここに自動車産業の公共的使命をさらに自覚し、目前に迫る自由化を有効適切な対策により乗り切り、日本の産業と国民経済の生成発展に協力し、日本のトヨタから世界のトヨタへ輝かしい栄光を獲得すべく、会社、組合ともに相たずさえて努力することを誓う」
経営者として行ってはならないその第一は「従業員をあざむいてはならないこと」と英二はトヨタ最大の危機、25年のストライキのなかで思いを語っている。それまでは家族的な人間関係を重視していたトヨタの伝統を、不景気と戦後の人心の混乱がぶち壊してしまった。その無念さは英二がもっともよく知っている。
佐吉が発明に持てる力のすべてを投入した理由を思い返してみよう。「貧しさから人間を救うのはこれしかない」とばかり、織機の開発に全力を傾けたではないか。
『労使宣言』が結ばれたことで、英二は佐吉からの伝統を取り戻した、そう考えていい。
しかし、この『労使宣言』の誕生、人間同士の信頼の回復に「10年もかかった」。 経営者、英二が、貴重な経験をとおし、また一つ大きくなった。p-50
「豊田英二語録」豊田英二研究会編 小学館文庫(1999年初版本)より
【転載終了】