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昨年末、閣議決定された「新成長戦略」についてマスコミはいろいろな視点から批判を加えているが、本稿は現在のわが国の立ち位置を踏まえて冷静かつ正鵠を得た評価をしていると思う。発想の転換による国家の再興を念じ支持したい。
(以下、転載)
新年を迎えたというのは事実にすぎないが、年が明けたといえば、どこか「希望」のニュアンスを帯びる。
雪雲に閉ざされたところもある一方で、今朝の曙光を仰いだ人も多いに違いない。
政権交代の歴史的興奮からさめて、現実の重さばかりがのしかかる2010年のこの年は、これから先、希望が膨らむのか、落胆に沈むのか。
いずれにせよ、われわれ国民は選挙という手続きを経て、鳩山政権にこの国の舵取りを託している。前向きの批判ならともかく、むやみにその足を引っ張って得をすることなど何もない。
昨年、押し詰まって閣議決定された「新成長戦略」のなかに、行く手の薄明かりでも見つけることができたなら、少しばかりは心穏やかな船上の人でいられよう。
鳩山新成長戦略の冒頭は、深い苦悩にあえぐこの国の現状を語った。
「私たちは今、長い衰退のトンネルの中にいる。国全体が輝きを失いつつある」
これほど悲痛な政府方針の書き出しが過去にあっただろうか。「美しい国」でも、「とてつもない日本」でもない。現実の日本の姿である。
そして、ここに至った道のりを次のように振り返る。
「戦後、日本は奇跡の経済成長を成し遂げた。アメリカという目標があった。経済大国を目指すという共通目標に向かって総力を挙げた。その結果が、世界第二位の経済大国の実現だった」
米国を素直に手本としていればよかった時代。受験秀才の官僚がいかんなく力を発揮した。
堺屋太一の言う戦後「規格大量生産」の盛りには、辛抱強く、協調性と共通知識があり、個性と独創性のない人が強く求められた。
ところが「坂の上の雲を夢見て山を登り、その頂きに立った途端、この国は目標を見失った」と、鳩山新成長戦略の前文はため息をつくかのように書き綴る。
官僚支配体制の行き詰まりと、必要なはずのその変革に手をつけられないこれまでの政権。時代は移り変わり、過去の成功法則が通用しなくなっても、延々と同じことを繰り返す愚が、事態をいっそう深刻にした。
「我が国の経済政策の呪縛となってきたのは、二つの道による成功体験である」
新成長戦略はそう指摘して、呪縛となったその二つの道を以下のように説明する。
「第一の道は、公共事業による経済成長だ。戦後から高度成長期にかけて、有効だった。80年代、インフラが整ってくると、大都市の税収を画一的な公共事業で地方に配分する仕組みが、政治家と官僚による税金のピンハネ構造を生み出した。農村の雇用維持や都市との格差縮小にはつながったが、地域独自の経済・生活基盤を喪失させ、巨額の財政赤字を積み上げた」
「第二の道が供給サイドの生産性向上による成長戦略だ。選ばれた企業のみに富が集中し、中小企業の廃業は増加。国民全体の所得も向上せず、実感のない成長と需要の低迷が続いた」
自民党の公共事業重視政策と、小泉・竹中の新自由主義的経済路線を、二つの呪縛とし、「私たちは第三の道を進む」と宣言した。
「2020 年までに環境、健康、観光の三分野で100 兆円超の新たな需要を創造して雇用を生み、国民生活の向上に主眼を置く。地球規模の課題を解決する課題解決型国家として、アジアと共に生きる国の形を実現する。世界最高水準の低炭素型社会の実現に向けて社会全体が動き出すことにより、新しい需要が生まれる」
公共事業重視の「途上国型」から訣別し、「課題解決型国家」となるというビジョンがここで打ち出されている点に留意したい。
環境など、世界的課題を解決すること。そこに照準を合わせて国家経営を進めれば、自ずから世界に必要とされる国になる、ということか。
「日本が世界に先駆けて課題を解決するモデル国となることは、我が国の研究開発力や企業の体質の強化に直結する」
外需を重視すべきだ、いや内需が大切だなどと、つながっている事柄をむりに分けて考えなくとも、世界的課題を解決するノウハウを持つことができれば、おのずから内需、外需ともに盛んになるということだろう。
もちろん、これが成長戦略として十分かどうかは議論が交わされて当然だ。
朝日新聞は、経済情勢は新戦略が「夢物語」に思えてくるほど厳しいと書き、「成長戦略、急ごしらえ」と見出しを掲げた。
産経新聞は、各省から寄せ集めた政策集の域を出ない、デフレ克服の目標がない、企業支援を軽視していると切り捨てた。
それはそれで、一つの物の見方には違いない。しかし、国家戦略のビジョンが、全てに配慮した総花的な内容であっては、それこそ事なかれの官僚作文であり、誰の心に響くこともない。
カラ元気ではなく、「国全体が輝きを失いつつある」という厳しい現状認識を、物語の出発点としたことに、かすかながらも希望を感じた人が少なからずいたのではないか。
これこそが、過去の政策を全肯定する官僚無謬主義を排除して、「民」に選ばれた政治家が発するべき言葉であるからだ。
ごまかしの通用しない時代になった。政治家も、官僚も、メディアも、権力共同体内の都合による近視眼的発想では、国民に欺瞞性を見透かされる。
国民はこれまでになく真実を求めている。自分たちの税金がどう使われるかに、いまほど関心が高まった時代がかつてあっただろうか。
メディアは真実を伝えていない。そういう疑念が、ネットを中心に激しく渦巻いている。
今日、知る限りでは新聞に一行も載っていない新成長戦略の前文をこのブログに書いたのは、この前文にこそ新政権の思いが凝縮されていることを感じたという、ただそれだけの理由である。
初めて国民が選んだといっていい政権に、どんなことがあっても頑張ってもらわねばならぬという願いをこめて。
2010年元旦