http://www.asyura2.com/10/senkyo103/msg/618.html
Tweet |
経済成長力が落ち込んで以来、数十年にわたりわが国の国民の無力感や脱力感が放置されたままでいる。その原因は何か、明確な答えを提示したものは誰ひとり出てこない。私はここに一つの命題を提示したい。
個人のあるべき姿とは何であるのかという根源的議論、又は正義とは何であるのか、それを行う社会はどうあるべきか、というような根源的な議論の欠如が国民の行き場を失った無力感や脱力感ではないのか。その意味では知識人と言われる人々や政治家たちは何を提示して何を議論してきたのだろう。また、そのことをメディアは国民に提示してきただろうか。
答えは「ノー」である。やってきたことは経済的にどうあるべきかという何十年も前の先進国に追いつけ、追い越せの議論から何も変わっていない。見せかけの生活の豊かさの追求の達成だけを何十年も騒いでいただけなのだ。今の若者に蔓延している孤独感や無力感を放置していれば、エーリッヒフロムが「自由からの逃走」で述べたように、大衆は他者との連帯を強く望むようになり、同時に強い指導者を望むことで、戦前の軍国主義やナチスのような全体主義国家になってしまう危険性が極端に大きくなっている。
政治や行政における税金の使われ方、すなわち社会的な分配は公正なのか、警察、検察の在り方から裁判所の判決が何に基づいているのか、正義は実行されているのかという問題まで、この国は何を根拠に物事が進められているのかという問いに、明確な答えを誰も提示していない。その無回答の積み重ねから来ている国民のいらついた焦燥感を社会は気づいているのだろうか。
我々は戦後与えられた「制度」としての民主主義を自分たちのものとして考えていない。そのために誰かがやってくれる、何かが悪いのは政治や政府のせいだという幼稚な考え方から脱却さえしていないことを自覚しなければならない。若者の無力感の源泉はここからきているのかもしれないのだ。知識人たちの沈黙はもはや許しがたいところにまで来ているし、マスコミに至っては官僚の宣伝機関に成り果てた現在、我々国民が一人一人、この国はどうあるべきかを真剣に考えない限り何も変わらない。
以上の前提から提起するものは、我々個人が何を根拠に物事を正しいことであるとするかの「正義」の考察と、それをいかに政治に反映させ、求めるべき国の在り方や子どもたちに残すべき考え方、すなわち教育という基本的な問題がどうあるべきかを議論することである。もはや功利主義だけの議論では行き詰った国民の閉塞感を打破することはできない。「普遍的な正義」の議論なくしてあるべき政治や国家を作り上げることはできない。何よりもまず実行することは民主国家の基本である「主権在民」の具現化であろう。みせかけの民主主義に騙されているすべての既存の制度を壊し、本当の意味の民主国家にしなければならない。まずは三権の実質的な分離から開始するべきだ。今年を是非ともその元年にしたいものである。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK103掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。