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李登輝元台湾総統インタビュー / マット安川のずばり勝負 (JBpress)
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投稿者 pochi 日時 2011 年 1 月 03 日 20:05:54: gS5.4Dk4S0rxA
 

台湾は日本が近代国家に育てた
龍馬会が台湾に誕生〜李登輝元台湾総統インタビュー(1)

2011.01.01(Sat)  JBpress


マット安川 2010年ほど、この国の未来を不安に感じた年もありませんでした。政治、経済、教育、福祉、すべての分野において、日本はまだ「指針」を見出せずにいるのではないでしょうか。

 そんな焦燥感とともに、元台湾総統・李登輝さんへのインタビューをここにご紹介させていただきます。

 2010年7月末に行われたもので、番組では一部しかご紹介できませんでしたが、JBpressさんのご厚意とご尽力により、ここに全編公開することができました。

 実は李閣下とは、先代ミッキー安川との対談企画がありながら、急な不都合で叶わなかった過去があります。リベンジというわけではないのですが、日本がたくましかった時代を知る賢人に、祖国再生の知恵を授かりに行ってきました。

■ 台湾に「龍馬会」が誕生した

李登輝 坂本龍馬の「龍馬会」が台湾に出来上がります。(2010年7月21日「台灣龍馬會」が発足。李登輝氏は同会名誉会長に就任した:編集部注)

 龍馬会が台湾に出来上がるというのはね、日本と台湾との心と心の結びつきが、ここまで来ているということですよね。

 龍馬会を台湾で結成したら、(日本の「全国龍馬社中」の)橋本(邦健)会長や、高知県の尾崎(正直)知事まで来ましたよ。日本と台湾がこういう形で、中央政府だけではなくて地方や民間の団体がどんどん結びついていく。非常に大事なことです。

 私が坂本龍馬に非常な思い入れを持っているというのは、日本の明治維新と、その中で彼が果たした役割が、戦後の台湾の民主化の歴史と大きく関わっているからです。

 台湾は戦後から今に至るまで、下から上に突き上げる民主的な力が、台湾を大きく変化させる原動力になりました。

■ 「祖国の中国化」に台湾の人民が反抗

 というのは日本が戦争に負けた時、台湾は中国に返されるというようなことは言われていない。でも蒋介石政権が軍隊を連れて台湾にやって来て、「祖国の中国化」という大きな思想を持ち込んできました。

 これに対する、もともと台湾にいた人民の反発が「二二八事件」という全島的な騒動を起こすわけです。この騒動が基礎になって、台湾人の当時の政府に対する反抗が非常に強くなりました。

 二二八事件では非常にたくさんの若い人が殺戮されまして、それから後は、国民党政権が大陸で国共戦争に負けて台湾にやって来て、戒厳令を敷いて、共産主義と関係のある人とか政府に反対する人を片っ端から白色テロでね・・・。(当時、李登輝氏自身も当局の厳しい取り調べを受けている)

 昔、徳川幕府が安政の大獄であらゆる尊皇の志士を殺し始めたでしょ。吉田松陰がそのとき30歳で殺された。それと同じような時代が台湾にもあったんです。

 あのとき、勤皇、倒幕、佐幕、鎖国、開国という違った意見が散らばっているときに、坂本龍馬は一般的な日本人とは違った考え方を持って、日本の将来はどうあるべきかということを毎日考えていた。

■ 龍馬は日本人であって日本人にあらず

 私に言わせると坂本龍馬という人は、日本人であって日本人じゃないんだね。天から降りてきて日本を改造しようという使命を帯びた人間だと、私は思っています。

 彼は日本を走り回り、最終的に薩摩と長州の大連盟を打ち立てる。彼は真剣だったんだなあ。西郷隆盛と桂小五郎が会談して、これによって薩摩と長州の大連立が出来上がるはずのところがうまくいかなかった。

 坂本龍馬は西郷隆盛に詰め寄って、そこがさすがに西郷隆盛だよ、自分は間違っていたと謝るわけだ。そこでもう一度同盟の話を西郷から桂小五郎に申し入れて、今度はじっくり話をしてようやく薩長同盟ができました。

 ところがここで薩長同盟ができたということは、単にふたつの藩が同盟を結んだというだけじゃなくて、2大勤皇の藩が合併したことでほかの日本のすべての藩も味方になってしまって、ここで大政奉還への道筋が出来上がったわけです。

 薩長同盟が成功する理由はほかにもあります。というのは、薩摩と長州はそれまでに蛤御門の変や、そのほかにもいろんなところで戦っていて敵対していた。長州が薩摩に負けた理由は何かと言えば、武器がないんですよ。種子島を持っているのは薩摩だけでしょ。

■ 「船中八策」通りに台湾の政治を行ってきた

 坂本龍馬は薩摩に働きかけて、かなりの鉄砲と大砲を長州にあげたんですよ。当時は鎖国で長州は外国から何も入れられない、鉄砲もなければ大砲もない。そんなものを薩摩があげれば、それは非常な嬉しさでしょ。そこで長州も安心して薩摩を信用したわけです。

 そうやって薩長同盟が出来上がって大政奉還が完成する。でもそれだけでは終わらない。大政奉還が達成できた後、新政府は何をやるのか。

 そこで坂本龍馬が政治の建議書を書きました。長崎から京都に帰る船の中で書いた「船中八策」。

 この船中八策は1996年、台湾の第1回総統直接選挙で私が総統に当選した後、1997年にVOICEの江口(克彦)さん(PHP総合研究所前社長・現みんなの党最高顧問)が私に、おめでとうと手紙を書いてくれたと同時に、台湾の現状について船中八策を基礎にして台湾政治への意見を申し入れてくれたんですよ。

 江口さんが私に講義した船中八策に基づいた台湾の政治改革は私、だいたいその通りにやってきているんだ。台湾と中国の関係、台湾と日本の関係、台湾内部における種々の関係いろんなことにおいて、すでにこの方向で進んできたんです。

■ 台湾の政治改革も龍馬とは無縁ではない

 つまり台湾の政治改革は、坂本龍馬と無関係ではないんだ。

 1993年に司馬遼太郎さんにお目にかかったとき、このことも話の中心になりました。このとき私は「台湾人の悲哀」、西田幾太郎哲学で言うところの「場所の論理」「場所の悲哀」という話題を論じました。

 台湾でこういう近代的な発展があり得たというのは、日本との関係があったからこそだし、日本の近代化は明治維新があったからこそできたんですよ。明治維新で東西文明の融合ということが起こって、日本は近代化を進めてきたんですよ。そこから後に種々問題が起きますけどね。

 台湾の現状や日台関係をお話しするために、日本統治下の台湾がどうだったかということを日本の方にまず分かってもらいたい。それからその影響の下で台湾がどのように進んできたのか、書いてきましたので、それを読みながらお話ししましょう。

 日本統治下の台湾は近代社会に邁進、日本は台湾を50年間統治しました。この間、台湾に最も大きな変化をもたらしたのは、なんと言っても台湾をして伝統的な農業社会から近代社会へ邁進させたことです。

■ 台湾に近代工業資本主義を植えつけた日本

 また日本は台湾に、近代工業資本主義の経営観念を導入しました。台湾精糖株式会社の設立は台湾の初歩的工業化の発展となり、台湾銀行の設立により近代金融経済を取り入れました。度量衡と貨幣を統一して台湾各地への流通を早めました。

 1908年の台湾縦貫鉄道の開通により南北の距離は著しく短縮され、華南では灌漑用水路と日月潭水力発電所(現・大観水力発電所)の完成が農業生産力を高め、工業化に大きく一歩を踏み出すことができました。

 行政面では全島に統一した組織が出来上がり、公平な司法制度が敷かれました。これら有形の建設は台湾人の生活習慣と観念を一新させ、台湾は新しい社会に踏み入ることができました。

 日本はまた、台湾に新しい教育を導入しました。これは、諸外国における植民地支配とは全然違ったやり方です。

 日本は1895年4月の台湾割譲の後すぐに総督府の開庁がありましたが、7月にはすでに国語学校ができまして、そこで6人の若い先生が台湾人に日本語を教え始めました。

■ 日本が導入した教育制度で儒教や科挙の束縛から逃れられた

 その六氏先生(6人の先生)は後に土匪に殺されて亡くなりまして、その碑(学務官僚遭難之碑)がいまでも建っております。

 日本は台湾に新しい教育を導入しました。台湾人は公学校を通して、新しい知識である博物、数学、地理、社会、物理、化学、体育、音楽などを吸収し、徐々に伝統の儒家や科挙の束縛から脱け出すことができました。

 日本も明治維新のときには6000の小学校が出来上がりました。6000の小学校というのは、だいたい昔の私塾から変化したものですよ。同じようなことが台湾でも起こってきてる。

 そして世界の新知識や思潮を理解するようになり、近代的な国民意識が培われました。

 1925年には台北高等学校(高等科)が設立されました。台北帝国大学は1928年に創立され、台湾人も大学に入る機会を得ました。あるものは直接、内地である日本に赴き大学に進学しました。

■ 時間と法を守る気持ちと経営観念も植えつけた

 これによって台湾のエリートはますます増え、台湾の社会の変化は日を追って速くなりました。

 近代観念が台湾に導入された後、時間を守る、法を遵守するといった意識、さらに金融、貨幣、衛生、そして新型の経営観念が徐々に新台湾人をつくりあげていきました。

 これが50年間におよぶ日本の台湾統治の結果です。それが戦後、日本は台湾を放棄しますが、その主権を誰に渡したとは言わなかった。

 当時の中国は国民党中華民国が正統の国で、アメリカによって蒋介石が台湾の日本軍を接収しなさい、そして台湾を治めなさいという命令が下されましたが、台湾を中国にあげるというようなことは何も言っていなかった。

 このような台湾で非常に大きな変化が起きまして、1990年、私が総統になってから台湾における新しい国家建立の潮流が始まりました。

■ 国会議員は大陸の人間ではなく台湾内部から選ぶ

 その前は戒厳令から白色テロから、異様な独裁的形態で台湾は大変だった。そのうちに排日政策もありまして、日本語を使うべからず、日本の雑誌も読めない新聞も読めない、日本語の歌さえ歌えないというような状態が長い間続きました。

 これが結局、台湾人の反対に遭って、さっき申し上げたような台湾人の新しい意識が非常な変化を起こして、この下から突き上げる力は台湾内部の政治構造を変えたばかりでなく、台湾と中国の関係も変えました。

 国民党と共産党の対立、内戦状態から、国と国との関係に変わったのです。

 これが私が総統になったときの第一の考え方で、国民党と共産党の内戦を停止させる、停止させることによって国民党が台湾を治めていた臨時条項を廃止し憲法を台湾の内部から成立させる、国会議員を国民党が大陸から連れてきた議員ではなく台湾内部から選ぶ、その国会議員によって憲法をひとつずつ修正していく。

 これが私の、台湾の民主化の過程です。言うだけだと簡単そうですが、苦労しますよ。そういう状況の中で力もない、権力もない、武器もない。何もない私がこういうことをやるのには、相等の体力がなくちゃならない。

■ 仕事は真っ直ぐは危険、回り道こそ実は近道

 だから私がよく言うのに、仕事を進めるときに真っ直ぐ行くというのは非常に危ないんだ。結局回り道を取った方が問題が起こらない。それで台湾では一滴の血も流さずして、いまのような状態が出来上がったわけです。

 この民主化の過程の中で、北京政府に対しては内戦停止と同時に、中国とは対等の立場で平等、互恵、平和の関係を樹立したいと思っております、台湾は私の方で統治しておりますと、それをはっきり宣言しました。

 このような力の源は実は、日本統治時代に遡ることができるのです。

 台湾人としてのアイデンティティー、台湾意識が芽生えた後、台湾人はすでに民族自決、独立の基調を提出しました。戦後、台湾人が二二八事件の災難に遭った後この独立運動が始まり、1990年代になり国内と国外の力が交わって新国家建設の原動力となりました。

 多くの日本人が中国の宣伝や脅しによって、台湾は中国の一部であり台湾独立の条件は整っていないと思っておられるようです。

■ 台湾精神イコール、日本精神

 しかし、一度台湾に来られて台湾人の心を聞き、活気にあふれる台湾の社会を見て台湾の自由な民衆の意識を感じたならば、台湾人がなぜ新国家を建設するのか、自ずと分かっていただけると思います。

 台湾は海峡を挟んで中国と向き合っています。が、それでも台湾正名運動、国民による憲法制定、新国家建設の思潮などを敢えて唱える活力を持っております。これらは台湾精神からきているのです。

 台湾精神イコール日本精神です。台湾人は質実剛健、実践能力、勇敢、挑戦的な天性の気質に加えて、日本統治時代に養われた法を守る、責任を負う、仕事を忠実に行うなどの精神を備えています。

 これがすなわち台湾人の長所であり、窮すれば窮するほど強くなり、権威制統治の下でも台湾人としての主体意識を確立することができる最高の精神なのです。

 これが今でもずっと続いておりまして、これをいかにして、いわゆるアイデンティフィケイションに持っていくかということが台湾の課題のひとつなのです。

■ 日本の教育が台湾の礎を築いた

 それには教育がひとつ大きな役割を持っております。先ほど申し上げたように、日本は台湾に新しい教育を持ち込みました。それによって台湾は近代化を進めることができました。

 私も公学校、中学校、高等学校から内地の大学と教育を受けました。ゲーテからトーマス・カーライルから西洋文明の重要なものはほとんど学びましたよ。

 ギリシャからソビエト体制になる前のロシア、トルストイからマルクス、エンゲルスの問題、こんなことは高等学校時代に学んだようなことばっかりです。

 その中には中国のことも入っているし、もちろん日本は古事記から学んで、そういう独創的な濃い機会を得られました。それは日本の教育ですよ。

 いまの教育には、あんなものはない。いまの日本でもああいう教育はやっていない。だから日台関係は、将来教育面ではどうすべきかということが第2の問題になると私は思いますね。

(明日につづく)


国民は二の次になった日本の政治家
武士道教育に力入れる〜李登輝元台湾総統インタビュー(2)

2011.01.02(Sun)  JBpress


マット安川 坂本龍馬の「船中八策」をはじめ、戦後の歪んだ歴史教育ではあまり重視されない「日本の知」が、李閣下の口からはあふれんばかりに飛び出してきました。

 閣下は今でも日本政界と交流を保ち、たびたび訪日されています。

 台湾の発展に尽くし、アジアにおける微妙な立場を信念と戦略をもって乗り越えてきた経験からか、日本のことが日本人以上によく見えている、そう感じるインタビューでした。

■ 台湾で新渡戸稲造の「武士道」を教える

李登輝 李登輝学校では、思想哲学から科学技術などを研究し、心の改革などを推進しています。とりわけ日本の内閣府が専門重視に赴く中で、私は教養教育、リベラルアーツの重要性を認識し、台湾の歴史、道徳、家庭教育の実践などに力を入れています。

 そこで私は新渡戸稲造の『武士道』を解題し(『「武士道」解題』)、公(おおやけ)と私(わたくし)の問題を李登輝学校の教えとして台湾でも深く展開しております。

 私の思う指導者の条件というものは何かというと、結局ここですよね、「公と私」。そして誰もやらないことを自分でやる、と同時に、信仰を持ちなさい、自分は権力だとそういうことを考えてはいけない。

 そして人民を可愛がりなさい、人民に対して嘘をついてはいけない、誠(まこと)をもって人民に相対する態度が必要です。

 このように考えたときに、最近の日本の指導者はどうですか。私に言わせると内閣総理大臣、本当に人民のこと、国のこと、将来のことを考えながらやっていこうとする人は、あまりなかったなあ。

■ 国を変えようとするときに官僚は必ず反対する

 公選によらず根回しで決めていく。官僚政治が主体になってね。官僚はものすごく頭が良くてて、いろんな法律を作りますがね、国を変えようとするときには反対ばかりしている。

 私が台北市長になったときに、こういう話がありますよ。

 台北市の農村では農民が絶えず家を修築したいと言っている。だいたいあそこらへんの農家は100年くらいの歴史があるんです。そんな古い家には窓もない、便所もない、風呂場もない。

 若い子は絶対住まない、みんな山を下りて都市に住んでいます。そうすると農村では誰も働かないのよ、年を取ったじいさんばあさんばっかりで。これが私のふるさと、私の生まれた場所です。もう潰れかかっている。

 ああいうようなところは家を建て替えてあげなくちゃならないんだが、私がそれをやると言ったら建築管理處は、いままでの所有主全員の捺印が必要だと言うんです。

■ 官僚を通さず進めた結果、台北は綺麗な町に

 考えてみてください、100年の歴史の中でいったい、どれだけの持ち主が関わっているか。不可能ですよ、絶対。ほとんど死んでしまって残っているのはいまの人だけなんだから。

 こういう官僚の作った法律をどうすべきか。私がやったのは、建築管理處には一切関係させず、協同組合に話して協同組合のそれぞれの区域の農家に申請書を出させました。

 そして35種類の新しい設計図をあげて、どんな改築をしたいか選ばせた。だから建築家に設計を依頼する費用がかからない。そして申請書は建築管理處ではなく台北市の建設局に持ってこさせました。

 建設局では書類を受け付けたら整理して市長の私のところへ持ってくる。そして私が直接許可証を出すわけです。

 1200戸の許可を出しましてね、それは結局、建築管理の規則を破っているわけです。間違っているというなら訴えたらいいじゃないかと言いましたが、結局彼らは何もできず、台北市の近郊はいま、ものすごくきれいな家が出来上がっていますよ。

■ アイデアは日本の大学教授の論文

 これは私の考えだけじゃなくて、日本のNIRA(総合研究開発機構)の雑誌にある大学教授が書いた論文があって、「農村の将来の発展の方向は観光事業と結びつける必要がある。観光事業と結びつけるには農家の改善をやらなくてはならない」というところをヒントにね、誰もやらないから私がやりましたよ。

 いま私、その近くに住んでおりますがね、家の前を通りかかるといつも呼んでくれてね、いらっしゃい、お茶をどうぞどうぞ、とね。そういう関係ができているんだよ、そこの農民とは。

 同じようなことは繰り返しあるんですよ、台湾に。法律でできないいろんなことをやったのは、蒋(経国)総統のとき。日本では池田(勇人)内閣時代に『農村は変わる』を書いた並木(正吉)さんという人がいました。

 あれはだいたい日本の農村の労働力が減って老人人口が上がり始めた頃でしょ。日本にはこういういい例がたくさんあるんだが、それを総合的にやっていく指導者がいない。困るのはこれなんだ。

 日本全体の問題がここの、指導者がいないということに懸かっているというのは、例えばアメリカが何か言えば「Yes, Yes」と言いなりでしょ。日本人としてアメリカに対して好意的に深く話し合う人がいないんだよ、怖くて怖くてアメリカに言い切らないんだよ。

■ 第1は憲法の修正、第2は教育基本法の修正

 日本はアメリカに対して思い切って話をすべきなんだ。これだけアメリカの国債を買ってアメリカの経済を助けてきたんだから、日米同盟のあるべき姿を検討しましょうと言うべきなんです。

 そのときいちばん大事なのは、憲法修正をやることです。第2には教育基本法の修正。憲法修正と同時に、これからの日本をどうすべきかということを教育から変えていかなくてはならない。

 戦後、アメリカは軍事力が世界一大きいし政治力もあるからアメリカの主導で連合国で国際連合をつくり、次にブレトンウッズ協定でGATT(関税および貿易に関する一般協定)を作った、いまのWTO(世界貿易機関)です。それにIMF(国際通貨基金)。

 ところがこの4つの組織はうまく運行していません。アメリカの一部分の金持ちや資産家とか投機屋、ことにウォールストリートの連中がでたらめをやっている。

 グリーンスパンが最近初めて、昔の政策は間違っていたと言ったように、これは明らかに間違っている。こんな問題が起きるのはIMFが機能していないからですよ。

 いまオバマが金融機関に対して規制を強化しているでしょ。この連中に制限を加えたり法律を作って規制したりしないと、本当のお金じゃないお金が世界を回って途上国のお金を吸い回るんです。

■ プラザ合意は米投資銀行の陰謀?

 例えば1985年のプラザ合意で日本は1ドル250円から150円まで引き上げろと圧力がかかった。

 日本円が250円から150円に上がったらどうなるか。世界的ないわゆるスペキュレイションがありますよ、外国人が日本円をどんどん買いますよ。

 お金をたくさん持ってる人間が日本円に投機して、日本からどんどん買いますでしょ。それを日本銀行はオープンにしてどんどん入れた。だから1985年から1991年は日本のインフレーションすごいでしょ。

 そしてインフレーションのためにみんなが銀行からお金を借りて投機事業をやる、投機事業をやると勝ったり負けたりして、負けてお金が払えなくなると銀行の不良債権が増えて、結局1991年にバブルが弾けるわけよ。

 いまでは1ドル85円で利息がゼロ、これで日本の経済は立ち行きますか? お金を持ってる年寄り連中はお金をパンツの中に入れて銀行に持っていかない、利息がないんだから。

■ アメリカの言いなりになった日本をよく見ている中国

 そして日本は米国債を買って結局アメリカの負債を背負った形になってしまっている。これじゃ日本の経済どうするのかという問題になりますよ。

 こういう状態を1991年のバブル崩壊から10年間、2002年から2003年頃少しよくなったかと思ったら2008年に銀行の大きな金融問題が起き始めて、また日本はたいへんな状態になった。

 こういう状態を中国は知っているんですよ、アメリカの言いなりになって日本がひどい目に遭っていることを。だからアメリカが人民元を引き上げろと言ってきても、引き上げるどころか不動的に一定の範囲に収めている。

 プラザ合意では台湾にも圧力がかかりました。86年にアメリカが1ドル40圓を25圓まで引き上げろと言ってきた。台湾はアメリカに対して毎年、輸出で150億ぐらいの貿易黒字を出していたから。

 このとき私はまだ副総統でしたけど、蒋経国総統に15カ条の建議書を上げました。その中の1つの建議は、普通の商業銀行に外貨を預けられる預金制度を作ることでした。

■ 商業銀行に外貨のまま預金させた

 外国が台湾元をどんどん買いにくる、その外貨を中央銀行に持っていかせず外貨のまま商業銀行にとめておく。そうするとお金が外貨でとまっているし利息も外貨。台湾ではインフレーションは起こりませんでしたよ。

 1997年のアジア通貨危機でも台湾は何も起こりませんでしたよ。なぜかというと簡単なことで、そのときは1ドル28圓だったのをどんどん下げさせたんです。

 当時台湾は売ってばかりでした、2週間で200億売ったんだな。中央銀行の総裁が困っちゃってね。行政院長(首相)と財政部長(財務大臣)、中央銀行の総裁を自宅に呼びました。

 総統は中央銀行の政策の監視をなかなかできるものじゃないんです。それで私が彼らに話したのは、政策の話をするんじゃないんだと、まずお互いに考え方を変えましょうと。

 まずお金というのは何に使っているかと聞きました。いままでお金は支払いのときのアカウントユニットとして存在していた。このアカウントユニットそれ自体をいつも確実な数字に収めておけば、国はインフレーションにならなかった。

■ お金はアカウントユニットから商品に変わった

 これは昔のことなんだ、金本位制度の時代はそうだった。いまは金本位制度は捨てられた。だからいまの貨幣というのは何だ、いまは商品だよと言いました。

 お金でお金を買ってるでしょ。デリバティブとかへんてこなファンドを作って、それで世界が動いているでしょ。

 アメリカのいろんな債権ね、最後は債権にして売り回って、そんなものを買って結局2008年のリーマン・ショックでものすごい打撃を受けたんでしょ。

 私はそのとき、お金はモノだから、お金でお金を買うんだから、為替レートを28圓に収めることはないよ、どんどん落とせ、34〜35圓まで落とせと言いました。

 実際そこまで落ちていって、そして台湾はなんともありませんでした。こういうことは非常に弾性的に考えなくちゃならないことなんですよ。

■ 大筋を決めてから討論させる

 この会議の後で建議を出させてね、部長とか副総統とかいろんな人間を全部集めて全員で討論したんです。もちろん最後の結論は私が出して、結論を出した後で持って帰りなさいと、いまの結論を持ち帰らせて、それを修正して行政院で発表させた。

 そうすると、それは総統一人の考えじゃなくて、財政部長が出してきた政策ということになるんです。そして安全会議で決まったものになる。

 それは私が責任を逃れるというのではなくて、部下に権限を与えることなんです。彼らの考え方、全員が一致した考え方を持ったということなんです。

 もう1つ、私が総統のときにしたことをお話ししましょう。

 1990年の9月21日に大地震が起こったでしょ(台湾集集地震)。この大地震は私「救災日記」というのを書いて、これはPHPで日本語に翻訳されました(『台湾大地震救災日記』)。

■ 100年ぶりの大震災に直面して何をしたか

 「救災日記」の内容を言いますとね、9月21日の台湾大地震は100年内のいちばん大きい地震で、この大地震が起きたときは夜中の1時47分でしたけども、私はまだ寝ていませんでした。台北でひどく揺れた。

 すぐ私ね、侍従長にこの地震はどこで起こっているか、どんな程度か、どんな状態か調べてこいと、と同時に参謀総長にこの状態を知らせろと指示を出しました。

 1時間足らずですぐ電話がきて、これは日月潭の西(南投県集集鎮の)ふたつの山の間が震源地であると。それが分かったから命令を出しました。参謀総長に、明日の朝6時に軍隊を全部派遣しろ、各村に指揮所を置け、そしてそこから救済に当たれ、被災者を救いなさいと。

 そのとき私は総督府に顔を出す予定だったんです。それから災害地に出発する。ところが総督府の前に来たら、これじゃあ時間が遅れるということで、直接松山(台北松山空港)に行って飛行機に乗って台中に行きました。

 そこから車で現地へ向かったんだが、道が崩れていて入れない。それでヘリコプターに乗り換えて被害の中心地を見に行ったわけです。

■ 小池百合子から神戸の仮設住宅を寄付するとの申し出

 いろんなところを見て回って、死者は2300人という報告だった。(台湾行政当局の最終発表では、死者:2,415人/負傷者:11,306人/行方不明者:29人)

 2300人を処理するにはどうしても3日間はかかるということでした。しかし3日間のうちに死者をうまくおさめないと、9月で暑いからたいへんなことになってしまう。

 その夜に小池百合子が電話してきてくれました。そして私に神戸の仮設住宅を1500戸あげたいがどうだと言う。たいへんに嬉しいことです。翌朝すぐ小渕(恵三)総理と話をしてくれて、結局1000戸くれるということになりました。

 翌日私は、東勢というところに昔陸軍病院があった場所を整理して、軍隊の主導で仮設住宅を置くように命令しました。

 3日間の間に死者をうまく全部処理しましたよ。棺おけが足らないから軍隊から戦死者を入れる袋を借りてきて棺おけの代わりにしたり、台中だけじゃ焼き場が足らないから台南とか遠いところの焼き場まで持っていったり。

■ 現金を持って被災者に配り歩いた

 こういうことを3日間やった後で、今度は被災者の救済に取り組みました。初めて緊急法というのを作ってね。すべての法律を排除して、この方法で被災者を助けなくちゃいけないという緊急法というのを作ったんです。

 ところがこんなことをやってもね、いざとなったら行政面で迅速にできないんだ。政府は被災者の救済に2000億のカネを出すことを決めたんだが、その2000億のお金がいつ人民の手に届くか。2〜3カ月もかかるんですよ、だいたい。

 そんなに待っていられないんだよ。田舎ではいますぐお金がほしくて、何かやらなくちゃいけない。だから私がお金を持って行きました。だれのお金かというと、国民党のお金ですよ。

 1郷鎮に200万圓、地震の被害の小さいところは100万圓ぐらい。それを侍従長に持たせてね、行く先ごとにこれで道の整備から死んだ人の供養からいろんなことに使いなさいと渡していきました。

 小さいカネだけどね、とても助かるんですよ。2000億というお金は大きなお金だけど、いつ降りてくるか分からない。

■ 阪神淡路大震災をテレビで知った日本の総理

 あのときは台湾は政府が多すぎてね、中央政府から省政府から県政府、それから田舎の郷鎮役場、こう長たらしいことをやっていたんでは、いつお金がいちばん必要な下の役所に行くか分からないんですよ。

 こういうようなときに、いちばんいい方法、速い方法を使ってね、それに全部変えたんだ。

 最近、江口(克彦)さんが台湾に来たときに、日本の神戸の地震のことを聞きました。彼が参議院に当選したから招待したんですよ。

 彼が言うには、あのとき村山(富市)総理はテレビで初めて地震のことを知って、これから会議をやりますと言ったというんだな。これじゃダメなんだよ。

(明日につづく)


台湾と日本で新しいアジアの時代をつくろう
台湾は中国の一部ではない〜李登輝元台湾総統インタビュー(最終回)

2011.01.03(Mon)  JBpress


マット安川 李登輝閣下は日本統治下の台湾に生まれ、敗戦によって日本が台湾統治を放棄するまで「日本人」として生き、次いで中華民国の「中国人」として生きてきました。しかしその実は、「台湾経験」に裏打ちされた強烈な自意識を持つ確固たる「台湾人」です。

 混迷を深める日中関係そして東アジア情勢を、日本と中国互いの隣人として、同時に当事者として捉えられる稀有な人物であると言って過言ではないでしょう。

 船頭がどこへ向かおうとするのか一向に見えないばかりか、そもそも船頭がいるのかさえ疑われる日本は、いまこそ閣下のことばに耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

 かつて日本には国家百年の計があり、それを支える教育政策があった。ことばの端々からそのことがうかがわれたインタビューの最終回。日本への力強いメッセージが語られます。

■ 日本人はなぜ中国にぺこぺこ頭を下げるのか

李登輝 日本においては指導者のリーダーシップの不在というようなことが言われますが、アメリカが何か言うたびに「Yes, Yes」とか、ことあるごとに中国に頭を下げる必要はないんですよ。

 私が分からないのはね、いまの日本の政権を握った人たちは、なぜどの人もこの人も中国に対してペコペコ頭を下げているのか。これだけ実力のある国が・・・でしょ?

 田中(角栄)・大平(正芳)以降、この状態がクセになっちゃっている。(日本は田中首相・大平外相のときに台湾との日華平和条約を廃止し、日中国交正常化を実現させた)

 しかし考えてみれば、やっぱりアメリカは国際的に一番力があるし日米同盟もあるし、将来における西太平洋の主導権を誰が握るかという問題もある。

 やはり日本、台湾、アメリカの関係をうまく維持するように、昔のクラシカルな連中が考えるようなやり方ではなくて、自由諸国、民主主義諸国がお互いに平和的にやっていく方向で解決しなくちゃならないんです。

 日本にもそういう外交官が出てきて、アメリカとこういうことをちゃんと話し合う。それにはまず第一に、総理が非常に大事です。総理がこういう気持ちでアメリカと話し合う。

 アメリカとはそれができるはずですよ。アメリカ人は日本の文化を尊敬しているんだ。

 オバマ大統領が日本を訪れて天皇陛下に会ったとき、彼は天皇陛下に90度の最敬礼を挙げたでしょ。その後で中国に行ったときには、そんなことはやっていない。

 もともとアメリカ人の知識分子は中国に対して好意的である、これは間違いありません。アメリカ知識人の考え方は非常に中国に同調しているでしょ。

 これは中国が諸国から圧迫されてあちこち占領されていた時期、出遅れたアメリカはどこにも入っていけなかった。だから機会均等、門戸開放を呼びかけた。これが中国に対しては中国に味方すると言ったんだな。

 このような考え方が深く入り込んで、アメリカ人は中国にある程度味方をしている。

■ オバマが天皇陛下に頭を下げた理由

 そんな中で、なぜオバマは天皇陛下に最敬礼したのか。

 オバマはアメリカで大統領になった最初の黒人ですよ。黒人がアメリカでやっと大統領になれた。アメリカはすでに黒人に大統領をやらせないとうまくいかないところまで来ている。

 そのかわりオバマは苦労してきた。例えばキング牧師、私が非常に尊敬している牧師ですけどね、私がアメリカにいたときに暗殺されました。そんなふうに黒人はアメリカで苦労してきた。

 オバマは恐らく心の中では、いろんなことを考えているんですよ。その彼が天皇陛下に対して90度頭を下げたのは、私に言わせると日本文化に対する尊敬ですよ。

 天皇陛下は日本の文化を代表する、そして日本にはこういう文化がある、この文化に対するアメリカ人の、黒人としての尊敬ですよ。

 日本の新聞、雑誌、テレビはこのことについて何も言わないけれども、これを日本ははっきり知らないといけない。

 オバマの後で、習近平が日本にやって来て天皇陛下に会いましたね。ああいう若者がああいう態度を取るというのは、日本を見くびっているんですよ。それがオバマと違うところ。

 中国人の日本に対する考え方を、あんがい日本は知らないんですよ。中国人の中に深く入ったことがないから。

 私は22年間、「日本人」でした。日本の教育を受けて日本の生活に入って、軍隊にも行ったしいろんなことをやっている。

 そして今度は「中国人」として中国社会に入ると、中国人とは何か、北京政府が何を考えているか、台湾における中国人が何を考えているか、われわれには分かりますよ。

■ 習近平は日本を見くびっている

 彼らは現実的ですよ、ものすごく。

 習近平が今までどこにおったかご存じ? 福建省(大陸の台湾対岸)の主席ですよ、だから彼は台湾のことをよく知ってる。

 ものすごく現実的で、日本を見くびっていて、台湾のことをよく知っている。こういう人物が胡錦濤の次の指導者になるんです。

 こういうところでも私は、日台関係を将来どうすべきかということを考えなくちゃならないんです。

 日台関係で私が言うのは、心と心の絆を築き上げろということ。いまだんだんと、そういう状態が出てきております。台湾龍馬会もそうですし李登輝学校もそうです。

 日本においては「李登輝友の会」というのがありましてね。2006年に山口県周南の児玉神社に私が書いた扁額が納められました。友の会の支部から児玉神社に書いてくれと言うてきましてね、それで書いたんですよ。(同神社には4代台湾総督・児玉源太郎が祀られている)

 一昨年(2008年)には松島の瑞巌寺に、「奥の細道」ゆかりの土地を歩いたときに私と家内の歌った句が碑になって芭蕉の脇に建てられました。ノーベル賞をもらった以上の名誉だと思ったな(笑)

 私の現在の考えと実践を整理してみると、東西文明の融合と中華思想の精神的束縛からの解放という経験を得て、日本人と台湾人の中国からの精神的自立によって国交なき日台関係を心の絆に結びつける、これによって日本と台湾の主体性、アイデンティティー形成に寄与するという意図が働いています。

 日本が主体性を獲得するためにこれから変わらなくちゃならないのは、日本人が精神的に解放されるのが、まず第一です。

 日本はいま心理的に閉鎖状態に置かれておるんです。これは第2次世界大戦に負けたという事実が、日本人をして精神的な鎖国に入らしめている。これをなくさないといけない。

■ 台湾も無血革命の明治維新を経験した

 なくすにはどうするか。心理的ないろんなファクターを取り除く必要があります。それによって日本人が精神的に解放され、中華思想の呪縛から精神的に自立できる。

 台湾では台湾経験がこれをもたらしました。厳しい独裁政治の中で、平和的な方法で血も流さず、民主的な自由な形の政権に変えてきた。

 これはそれまでの政治学や社会学で言えば、こんなやり方でやることではない。政治改革とは、革命によって血を流して、社会をひっくり返してやるというのがそれまでの考え方ですよ。

 坂本龍馬もあまり血を流さなかった。鳥羽伏見の戦い、蛤御門とあることはあったけど、全国的な問題はほとんどありませんでした。それでも明治維新が出来上がった。

 台湾もそのようにして政治改革をやり遂げました。ところがこの経験以外に、いまの台湾には国際的な地位がない、法的な地位が与えられていない。

 だから台湾は「国」として、ほかの国との間に公式な外交を結ぶというのが非常に難しい。でもそれで私は総統として、歩き回っていろんな実質外交をやってきた。このような考え方は常識的な考え方からは出発できないですよ。

 これが私の台湾経験。この「台湾経験」というのはちょっと難しい概念だけれど、台湾における純粋経験です。

 純粋経験というのは、西田哲学の『善の研究』で言われているのは、主観と客観が分裂する以前に、見たそのものから直感を得る、主観客観を離れて直感的に物事をとらえて、とらえたこれから何かを進めてやっていく。

 こんな考え方はいまは当たり前ですがね、昔はこんなことは誰も考えていなかった。台湾経験については、東京外語大の井尻(秀憲)教授が『李登輝の実践哲学 五十時間の対話』の中で書いております。

 いま中国と台湾の間にはECFA(海峡両岸経済協力枠組協定)というヘンテコな協定があります。(2010年6月締結)

■ 台湾を中国と同一視するのは蔑視以外の何ものでもない

 イギリスが香港を放棄したとき中国はCEPA(中国本土・香港経済連携緊密化取り決め)を作って、ポルトガルがマカオを放棄したときにももう1つCEPA(中国本土・マカオ経済連携緊密化取り決め)を作って、これらは全部「一中市場」だとしました。

 ECFAで中国は台湾に一中市場に入れ、台湾も一中市場だと言っています。

 台湾は国際的にはWTOのメンバーですよ。一中市場に入るということは、台湾の主権を無視することなんだ。

 台湾と中国が1つの市場を中心にして経済協力をやっていったらば、台湾の労賃は下がります。サラリーも下がります。お金持ちはお金持ちになるが貧乏は増える、失業者が増える。

 これは台湾を非常に侮辱したやり方ですよ、台湾と中国の関係が非常に悪くなる。こんなことはやめなさいと私は言うんです。こんなことをやるよりも、ECFAを凍結してFTAをやればいい。

 FTAもECFAも自由貿易協定で同じじゃないかと言うかもしれませんが、ECFAは一中市場でしょ、「ひとつの中国」の市場でしょ。

 ところがFTAは全世界を中心にした考え方だから、台湾の主権は依然として台湾が握っている。一中市場に入ると台湾は主権を失ってしまいますよ。

 台湾がここまでやってきた、いちばん大事なものは何か。台湾は民主国家であるということです。台湾2300万人の人民が主権を握っているんです。

 いまの国民党政権は中国大陸と台湾をなんとか結びつけようと考えていますが、あと2年、2012年には総統選挙があります。総統が台湾のために働かなかったら、われわれは本当の台湾の人を総統に選びますよ。

 そういうような制度が出来上がっているのだから。台湾は民主国家なのだから。

――インタビューの最後に、日本のみなさんに一言いただけますか。

 台日が協力し合い、アジアや太平洋の新楽章をつくりましょう。

 私は、台日両国がアジア太平洋地域の自由と平和の共同戦略の促進につながり、確実に台日両国の経済、政治、軍事、文化の各領域において全面的な協力体制を強化でき、ともにアジア太平洋の歴史に新たな楽章を書き加えることができることを願っています。

(了)


 

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