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http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5151
坂本龍馬の「船中八策」をはじめ、戦後の歪んだ歴史教育ではあまり重視されない「日本の知」が、李閣下の口からはあふれんばかりに飛び出してきました。
閣下は今でも日本政界と交流を保ち、たびたび訪日されています。
台湾の発展に尽くし、アジアにおける微妙な立場を信念と戦略をもって乗り越えてきた経験からか、日本のことが日本人以上によく見えている、そう感じるインタビューでした。
【台湾で新渡戸稲造の「武士道」を教える】
李登輝 李登輝学校では、思想哲学から科学技術などを研究し、心の改革などを推進しています。とりわけ日本の内閣府が専門重視に赴く中で、私は教養教育、リベラルアーツの重要性を認識し、台湾の歴史、道徳、家庭教育の実践などに力を入れています。
そこで私は新渡戸稲造の『武士道』を解題し(『「武士道」解題』)、公(おおやけ)と私(わたくし)の問題を李登輝学校の教えとして台湾でも深く展開しております。
私の思う指導者の条件というものは何かというと、結局ここですよね、「公と私」。そして誰もやらないことを自分でやる、と同時に、信仰を持ちなさい、自分は権力だとそういうことを考えてはいけない。
そして人民を可愛がりなさい、人民に対して嘘をついてはいけない、誠(まこと)をもって人民に相対する態度が必要です。
このように考えたときに、最近の日本の指導者はどうですか。私に言わせると内閣総理大臣、本当に人民のこと、国のこと、将来のことを考えながらやっていこうとする人は、あまりなかったなあ。
【国を変えようとするときに官僚は必ず反対する】
公選によらず根回しで決めていく。官僚政治が主体になってね。官僚はものすごく頭が良くて、いろんな法律を作りますがね、国を変えようとするときには反対ばかりしている。
私が台北市長になったときに、こういう話がありますよ。
台北市の農村では農民が絶えず家を修築したいと言っている。だいたいあそこらへんの農家は100年くらいの歴史があるんです。そんな古い家には窓もない、便所もない、風呂場もない。
若い子は絶対住まない、みんな山を下りて都市に住んでいます。そうすると農村では誰も働かないのよ、年を取ったじいさんばあさんばっかりで。これが私のふるさと、私の生まれた場所です。もう潰れかかっている。
ああいうようなところは家を建て替えてあげなくちゃならないんだが、私がそれをやると言ったら建築管理處は、いままでの所有主全員の捺印が必要だと言うんです。
【官僚を通さず進めた結果、台北は綺麗な町に】
考えてみてください、100年の歴史の中でいったい、どれだけの持ち主が関わっているか。不可能ですよ、絶対。ほとんど死んでしまって残っているのはいまの人だけなんだから。
こういう官僚の作った法律をどうすべきか。私がやったのは、建築管理處には一切関係させず、協同組合に話して協同組合のそれぞれの区域の農家に申請書を出させました。
そして35種類の新しい設計図をあげて、どんな改築をしたいか選ばせた。だから建築家に設計を依頼する費用がかからない。そして申請書は建築管理處ではなく台北市の建設局に持ってこさせました。
建設局では書類を受け付けたら整理して市長の私のところへ持ってくる。そして私が直接許可証を出すわけです。
1200戸の許可を出しましてね、それは結局、建築管理の規則を破っているわけです。間違っているというなら訴えたらいいじゃないかと言いましたが、結局彼らは何もできず、台北市の近郊はいま、ものすごくきれいな家が出来上がっていますよ。
【アイデアは日本の大学教授の論文】
これは私の考えだけじゃなくて、日本のNIRA(総合研究開発機構)の雑誌にある大学教授が書いた論文があって、「農村の将来の発展の方向は観光事業と結びつける必要がある。観光事業と結びつけるには農家の改善をやらなくてはならない」というところをヒントにね、誰もやらないから私がやりましたよ。
いま私、その近くに住んでおりますがね、家の前を通りかかるといつも呼んでくれてね、いらっしゃい、お茶をどうぞどうぞ、とね。そういう関係ができているんだよ、そこの農民とは。
同じようなことは繰り返しあるんですよ、台湾に。法律でできないいろんなことをやったのは、蒋(経国)総統のとき。日本では池田(勇人)内閣時代に『農村は変わる』を書いた並木(正吉)さんという人がいました。
あれはだいたい日本の農村の労働力が減って老人人口が上がり始めた頃でしょ。日本にはこういういい例がたくさんあるんだが、それを総合的にやっていく指導者がいない。困るのはこれなんだ。
日本全体の問題がここの、指導者がいないということに懸かっているというのは、例えばアメリカが何か言えば「Yes, Yes」と言いなりでしょ。日本人としてアメリカに対して好意的に深く話し合う人がいないんだよ、怖くて怖くてアメリカに言い切らないんだよ。
【第1は憲法の修正、第2は教育基本法の修正】
日本はアメリカに対して思い切って話をすべきなんだ。これだけアメリカの国債を買ってアメリカの経済を助けてきたんだから、日米同盟のあるべき姿を検討しましょうと言うべきなんです。
そのときいちばん大事なのは、憲法修正をやることです。第2には教育基本法の修正。憲法修正と同時に、これからの日本をどうすべきかということを教育から変えていかなくてはならない。
戦後、アメリカは軍事力が世界一大きいし政治力もあるからアメリカの主導で連合国で国際連合をつくり、次にブレトンウッズ協定でGATT(関税および貿易に関する一般協定)を作った、いまのWTO(世界貿易機関)です。それにIMF(国際通貨基金)。
ところがこの4つの組織はうまく運行していません。アメリカの一部分の金持ちや資産家とか投機屋、ことにウォールストリートの連中がでたらめをやっている。
グリーンスパンが最近初めて、昔の政策は間違っていたと言ったように、これは明らかに間違っている。こんな問題が起きるのはIMFが機能していないからですよ。
いまオバマが金融機関に対して規制を強化しているでしょ。この連中に制限を加えたり法律を作って規制したりしないと、本当のお金じゃないお金が世界を回って途上国のお金を吸い回るんです。
【プラザ合意は米投資銀行の陰謀?】
例えば1985年のプラザ合意で日本は1ドル250円から150円まで引き上げろと圧力がかかった。
日本円が250円から150円に上がったらどうなるか。世界的ないわゆるスペキュレイションがありますよ、外国人が日本円をどんどん買いますよ。
お金をたくさん持ってる人間が日本円に投機して、日本からどんどん買いますでしょ。それを日本銀行はオープンにしてどんどん入れた。だから1985年から1991年は日本のインフレーションすごいでしょ。
そしてインフレーションのためにみんなが銀行からお金を借りて投機事業をやる、投機事業をやると勝ったり負けたりして、負けてお金が払えなくなると銀行の不良債権が増えて、結局1991年にバブルが弾けるわけよ。
いまでは1ドル85円で利息がゼロ、これで日本の経済は立ち行きますか? お金を持ってる年寄り連中はお金をパンツの中に入れて銀行に持っていかない、利息がないんだから。
【アメリカの言いなりになった日本をよく見ている中国】
そして日本は米国債を買って結局アメリカの負債を背負った形になってしまっている。これじゃ日本の経済どうするのかという問題になりますよ。
こういう状態を1991年のバブル崩壊から10年間、2002年から2003年頃少しよくなったかと思ったら2008年に銀行の大きな金融問題が起き始めて、また日本はたいへんな状態になった。
こういう状態を中国は知っているんですよ、アメリカの言いなりになって日本がひどい目に遭っていることを。だからアメリカが人民元を引き上げろと言ってきても、引き上げるどころか不動的に一定の範囲に収めている。
プラザ合意では台湾にも圧力がかかりました。86年にアメリカが1ドル40圓を25圓まで引き上げろと言ってきた。台湾はアメリカに対して毎年、輸出で150億ぐらいの貿易黒字を出していたから。
このとき私はまだ副総統でしたけど、蒋経国総統に15カ条の建議書を上げました。その中の1つの建議は、普通の商業銀行に外貨を預けられる預金制度を作ることでした。
【商業銀行に外貨のまま預金させた】
外国が台湾元をどんどん買いにくる、その外貨を中央銀行に持っていかせず外貨のまま商業銀行にとめておく。そうするとお金が外貨でとまっているし利息も外貨。台湾ではインフレーションは起こりませんでしたよ。
1997年のアジア通貨危機でも台湾は何も起こりませんでしたよ。なぜかというと簡単なことで、そのときは1ドル28圓だったのをどんどん下げさせたんです。
当時台湾は売ってばかりでした、2週間で200億売ったんだな。中央銀行の総裁が困っちゃってね。行政院長(首相)と財政部長(財務大臣)、中央銀行の総裁を自宅に呼びました。
総統は中央銀行の政策の監視をなかなかできるものじゃないんです。それで私が彼らに話したのは、政策の話をするんじゃないんだと、まずお互いに考え方を変えましょうと。
まずお金というのは何に使っているかと聞きました。いままでお金は支払いのときのアカウントユニットとして存在していた。このアカウントユニットそれ自体をいつも確実な数字に収めておけば、国はインフレーションにならなかった。
【お金はアカウントユニットから商品に変わった】
これは昔のことなんだ、金本位制度の時代はそうだった。いまは金本位制度は捨てられた。だからいまの貨幣というのは何だ、いまは商品だよと言いました。
お金でお金を買ってるでしょ。デリバティブとかへんてこなファンドを作って、それで世界が動いているでしょ。
アメリカのいろんな債権ね、最後は債権にして売り回って、そんなものを買って結局2008年のリーマン・ショックでものすごい打撃を受けたんでしょ。
私はそのとき、お金はモノだから、お金でお金を買うんだから、為替レートを28圓に収めることはないよ、どんどん落とせ、34〜35圓まで落とせと言いました。
実際そこまで落ちていって、そして台湾はなんともありませんでした。こういうことは非常に弾性的に考えなくちゃならないことなんですよ。
【大筋を決めてから討論させる】
この会議の後で建議を出させてね、部長とか副総統とかいろんな人間を全部集めて全員で討論したんです。もちろん最後の結論は私が出して、結論を出した後で持って帰りなさいと、いまの結論を持ち帰らせて、それを修正して行政院で発表させた。
そうすると、それは総統一人の考えじゃなくて、財政部長が出してきた政策ということになるんです。そして安全会議で決まったものになる。
それは私が責任を逃れるというのではなくて、部下に権限を与えることなんです。彼らの考え方、全員が一致した考え方を持ったということなんです。
もう1つ、私が総統のときにしたことをお話ししましょう。
1990年の9月21日に大地震が起こったでしょ(台湾集集地震)。この大地震は私「救災日記」というのを書いて、これはPHPで日本語に翻訳されました(『台湾大地震救災日記』)。
100年ぶりの大震災に直面して何をしたか
「救災日記」の内容を言いますとね、9月21日の台湾大地震は100年内のいちばん大きい地震で、この大地震が起きたときは夜中の1時47分でしたけども、私はまだ寝ていませんでした。台北でひどく揺れた。
すぐ私ね、侍従長にこの地震はどこで起こっているか、どんな程度か、どんな状態か調べてこいと、と同時に参謀総長にこの状態を知らせろと指示を出しました。
1時間足らずですぐ電話がきて、これは日月潭の西(南投県集集鎮の)ふたつの山の間が震源地であると。それが分かったから命令を出しました。参謀総長に、明日の朝6時に軍隊を全部派遣しろ、各村に指揮所を置け、そしてそこから救済に当たれ、被災者を救いなさいと。
そのとき私は総督府に顔を出す予定だったんです。それから災害地に出発する。ところが総督府の前に来たら、これじゃあ時間が遅れるということで、直接松山(台北松山空港)に行って飛行機に乗って台中に行きました。
そこから車で現地へ向かったんだが、道が崩れていて入れない。それでヘリコプターに乗り換えて被害の中心地を見に行ったわけです。
【小池百合子から神戸の仮設住宅を寄付するとの申し出】
いろんなところを見て回って、死者は2300人という報告だった。(台湾行政当局の最終発表では、死者:2,415人/負傷者:11,306人/行方不明者:29人)
2300人を処理するにはどうしても3日間はかかるということでした。しかし3日間のうちに死者をうまくおさめないと、9月で暑いからたいへんなことになってしまう。
その夜に小池百合子が電話してきてくれました。そして私に神戸の仮設住宅を1500戸あげたいがどうだと言う。たいへんに嬉しいことです。翌朝すぐ小渕(恵三)総理と話をしてくれて、結局1000戸くれるということになりました。
翌日私は、東勢というところに昔陸軍病院があった場所を整理して、軍隊の主導で仮設住宅を置くように命令しました。
3日間の間に死者をうまく全部処理しましたよ。棺おけが足らないから軍隊から戦死者を入れる袋を借りてきて棺おけの代わりにしたり、台中だけじゃ焼き場が足らないから台南とか遠いところの焼き場まで持っていったり。
【現金を持って被災者に配り歩いた】
こういうことを3日間やった後で、今度は被災者の救済に取り組みました。初めて緊急法というのを作ってね。すべての法律を排除して、この方法で被災者を助けなくちゃいけないという緊急法というのを作ったんです。
ところがこんなことをやってもね、いざとなったら行政面で迅速にできないんだ。政府は被災者の救済に2000億のカネを出すことを決めたんだが、その2000億のお金がいつ人民の手に届くか。2〜3カ月もかかるんですよ、だいたい。
そんなに待っていられないんだよ。田舎ではいますぐお金がほしくて、何かやらなくちゃいけない。だから私がお金を持って行きました。だれのお金かというと、国民党のお金ですよ。
1郷鎮に200万圓、地震の被害の小さいところは100万圓ぐらい。それを侍従長に持たせてね、行く先ごとにこれで道の整備から死んだ人の供養からいろんなことに使いなさいと渡していきました。
小さいカネだけどね、とても助かるんですよ。2000億というお金は大きなお金だけど、いつ降りてくるか分からない。
【阪神淡路大震災をテレビで知った日本の総理】
あのときは台湾は政府が多すぎてね、中央政府から省政府から県政府、それから田舎の郷鎮役場、こう長たらしいことをやっていたんでは、いつお金がいちばん必要な下の役所に行くか分からないんですよ。
こういうようなときに、いちばんいい方法、速い方法を使ってね、それに全部変えたんだ。
最近、江口(克彦)さんが台湾に来たときに、日本の神戸の地震のことを聞きました。彼が参議院に当選したから招待したんですよ。
彼が言うには、あのとき村山(富市)総理はテレビで初めて地震のことを知って、これから会議をやりますと言ったというんだな。これじゃダメなんだよ。
(続き);
第3回「台湾と日本で新しいアジアの時代をつくろう」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5152
第1回「台湾は日本が近代国家に育てた」
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/5149
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