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本来の政治思想としての保守思想とは17世紀初頭の英国にあった近代保守主義をさしている。この中核をなす考えは、人間の思考に期待しすぎずに「人は過ちを犯すし、完全ではない」という謙虚な考えを前提にしている。また先祖たちが獲得してきた「知恵としての伝統」が慣習の中に凝縮されていると考えて伝統を尊重するし、伝統は「相続財産」であり子孫に相続させる義務があるものと考えている。従って、我々が未来へ進むためには、過去を単なる回顧主義で見るのではなく、歴史から学んだ事を必須条件とした上で、どのように未来へ進むか考える事を基本にしているのである。「保守」という言葉は決して我が国の戦前の「国粋主義」のような偏った考えを指すのではなく、もっと広範な考えに基づくものなのだ。政治思想としての保守が歴史から学ぶ事を基本にしているからには、それなりの政治的な歴史が必要である。その意味で言うなら、我が国が近代国家として歩み始めたといわれる明治時代を起点にして数えると、我が国に政治思想があると考えられる年月は、僅かに140年そこそこどころか、もっと少ない期間しかないのだ。このように短い歴史しかない我が国に「政治的保守」などと言える思想が本当にあるのだろうか。この国の学者や評論家は何を根拠に「政治的保守」という概念を使っているのか、?だらけといってよい。
一般的に自民党は保守政党と呼ばれているが、思想的には何のバックグラウンドもなく、単に戦後の革新政党と呼ばれる社会党などとの対比だけで「保守」という言葉が使われているだけであって、実態は米国一極主義の官僚と一体化した「官僚社会主義」と定義されている政党なのだ。この事実を多くの国民は正確に理解しておらず、単に政権与党としての長い歴史からだけで「保守政党」と勘違いしている。我が国の戦後に与えられた民主主義といわれるものの歴史は、たかだか65年しかない。そこに政治的思想としての「保守」が生まれる余地などあり得ないだろう。
従って「民主政治後進国」と呼ばれる我が国には確たる保守という思想もなく、海外の国々と違って民主主義というものが、長い歴史の中で祖先が血を流して必死になって獲得したものではなく、敗戦によって連合国により与えられた「制度」に過ぎないため、非常に歪んだ形で制度化されてきている。最大の問題は、最も大事にされるべき「権力の分立」の基本となる三権分立が機能していないことである。
この結果、政治主導を掲げても実態は行政府である官僚による法律の策定(閣法制度)がなされているので、政権交代をしても殆どの実権は未だに官僚の手からは離れずに存在している。日本における保守の実態は、ある意味では明治以来の官僚制度が「悪しき保守」になると言えるだろう。ここで間違えてはならないのは「官僚」という定義である。官僚は単なる公務員であり、英語でいえば「Public Servant」すなわち「公僕」にすぎない。国民は国会議員を選挙で選び、その多数を持って政治を委任する。しかし官僚は単なる公務員なのである。国民に選ばれてもいない官僚が勝手に国家を動かすような国は本当の意味の民主国家ではあり得ない。その意味で、明治以来の官僚主導による国家運営を「悪しき保守」と述べたのである。
この国を本当の意味の民主国家にするためには、この官僚による「悪しき保守」という制度を変えられるかが最も大事な点だろう。そのためにも国会議員たちの意識改革と共に、憲法に規定されるように、国会議員たちによる「国会を唯一の立法機関」として戻す事が最重要課題である。官僚による行政府での立法行為を禁止し、司法たる裁判官と行政機関である検察との人事交流を行っている「判検交流」なども法的に禁止して、実質的な三権分立を確立する必要がある。真の意味での民主国家には道半ばであることを自覚して、我々がしなければならない事は、まだ山のように残っている事を自覚しなければならない。政権交代した事をよく考えて、安易にもとの官僚国家に戻るような愚を犯さない事を祈りたい。マスコミによる世論操作に惑わされずに自らの判断をしていただきたい。
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