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2010⁄12⁄29(水) 08:00
『国民の生活が第一。』に「。」がつく理由
小沢先生が「挙党一致で『国民の生活が第一。』の政治を実現するために」という声明文を発表しました。
小沢先生がわざわざ「。」で止める「国民の生活が第一」という言葉にこそ核心があると思います。
2009年の5月11日に、虚構の「西松事件」によって小沢先生が民主党代表を辞した時の声明文「挙党一致をより強固にするために」を見ても、「国民の生活が第一。」と「。」で止めています。これは癖ではなく 小沢思想 が込められています。
丸は円です。丸で止めるというのは 完結 ということです。それがすべてだということです。初めであり終わり。阿吽の呼吸である阿と吽、アルファとオメガだということです。つまり 国民に初まり国民に帰結する という君民共治の思想です。
大君も国民であり、大君は民と共にある国民の中心です。それが日本の神話です。
正義の味方の「特捜神話」をはじめ、国民をリードしていくはずだった「官僚神話」は偽りの神話でした。
「偽りの神話」は催眠術のように国民の目を覆って来ました。国民の考える力を根こそぎ奪って来たのです。
考える力とは合理のロジックだけではありません。合理を超えた目に見えない「何か」を直感する力です。超越性や普遍性と呼ばれる天の感覚です。その感覚を生活に引き寄せ、天と地を繋げるリアリティが物語になります。古事記や日本書紀という歴史の物語は合理で捉えると荒唐無稽に見えますが、目に見えるイメージの背後にある「天の感覚」を思い出すための道しるべです。物語は天地を繋げる媒体です。
この感覚を日本人は「おかげさま」や「ご縁」という言葉で感謝して来ました。信仰や神など意識せずとも自然に「何か」に謝意を感じて来たのだと思います。
この お蔭様の感性 を壊したのが官僚機構です。
「天に神様はいない。地上の俺たちが神なのだ。だから我々官僚が天皇を管理する」と自己神格化した官僚機構が140年間も日本を支配して来ました。明治政府は神仏分離、廃仏毀釈の政策を実行し、多元的で寛容な神仏習合の精神文化を破壊したあげく、官僚機構が大君に軍服を着させて世俗化させ、イメージ操作をしながら日本を支配して来たのが戦前の姿です。天皇機関説を批判しながら国体明徴を叫んでいた者も大君をかついで内ゲバをしていただけのことです。私はそのように捉えています。
換言すれば、自己のうぬぼれを権力によって正当化して来た暴力装置が官僚機構です。この歴史が現代に反復しているので危険なのです。危険だからこそ彼らを救わなければならない。官僚を救済しなければ我々が危険だという逆説です。
政治家の国策捜査から一般国民の冤罪事件まで、次々と捜査機関の不正が明らかになって行くなかで、小沢先生は「本来の神話に立ち還れ」と言っているのだと思います。
高天原では稲を作り、機を織り、争いがあっても和の共生社会が営まれます。小沢先生は生産の哲学と助け合いの思想に立ち還れと言っているのだと思います。
問題を乗り越えていくヒントは天にある。天の感覚を取り戻せば地上の問題は修正される。「天と地の回路を塞ぎ、分断する官僚機構」の催眠術を解いてくれたのが小沢先生であり、それが彼の天命なのだと思います。
それが丸止めの「国民の生活が一番。」です。
本来なら国家権力などに頼らず、社会の側から共生社会を作るのが理想です。しかしここまで新自由主義と貨幣信仰が蔓延してしまうと閉塞感を抜け出せません。
政治の力で修正するステージに入ったということです。そして国民は「小沢の民主党」に託したのです。さらに「鈴木宗男の外交力」に託したのです。それが官僚と官報の力で破壊されました。
小沢先生は、官報や官僚は本来国民に奉仕する「公僕という司」だということを国民に教えてくれました。
奉仕は贈与なので、ほんとうに善い「司」に対しては、国民は感謝をして必ず返礼します。納税もするし新聞も買います。真実を伝えるテレビなら見るのです。
官僚機構が「国民の生活が第一。官僚は二番。官報は三番。」という国民への畏敬を発見すれば閉塞感は消えてなくなります。今起きている社会問題の根本原因は、この順番が転倒していることにあるのです。
逆から言えば、「一番」である国民が責任を取るということです。国民が選んだ政治家が責任を取るならば、選んだ我々も責任を負う。嘘つきの政治家を見抜けなかったのは国民の責任です。官僚の謀略や官報の情報操作によって攻撃される本物の政治家を支えてやれなかったのは我々国民の責任です。国民の痛みが分からぬ菅直人を陶片追放出来なかったら我々の責任だ、ということです。
そして痛めつけられて病んだ国民を、まだ闘える国民が助ける。官僚支配を修正するということはそういう闘いだと思います。
菩薩は国民を救うために対話します。死んだ同志が皆そうであったように小沢先生は菩薩になろうとしている。犠牲は無駄ではない。小沢先生は未来の命の礎になろうとしている。そしてその責任は同胞の国民も負う。声明の中にある「国民」と「同志」への呼び掛けはそういう意味だと思います。
小沢先生の声明によって、菅政権と自民党の滑稽さが浮き彫りになりました。この声明は可視化の弁証法です。
追い詰められた菅直人は無条件出席を求めることで「国民の生活は最後。とにかく血祭り」という本音を国民に見抜かれてしまいました。
自民党は仙谷や馬淵のパージに執着しながら「国民の生活より選挙が大事」だという本末転倒な姿をさらしてしまいした。
虚構の「政治とカネ」というオモチャで国民不在のゲームに興じる政治家の姿を可視化したのです。
しかし、小沢先生がもっとも国民に可視化したかったことは、このように菅直人と自民党がハブとマングースのように戦うことで、官僚機構が安全地帯で温存される「システム」です。国民の代表が無意味な政争に明け暮れると、なぜか官僚と官報が儲かるシステムです。
換言すれば、政争の仕掛け人は官僚機構だという手品のカラクリです。政治家のコメントも官僚のコメントも、いったい誰が編集して流すのでしょうか。小沢先生はこの催眠術のトリックを声明で可視化したのだと思います。
真理は具体的な姿で現れます。逆から言えば真理は行間と背後に隠れています。小沢思想は言葉の内側に暗示が埋め込まれています。小沢先生は見えない者にも語りかけるからです。見えない者には見えない言葉が伝わります。
最後に小沢先生の声明を添付します。
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「挙党一致で『国民の生活が第一。』の政治を実現するために」
私はこれまで、菅代表及び岡田幹事長から、自発的に政治倫理審査会へ出席するよう要請を受けてまいりました。それに対し、私は、政治資金に関する問題はすでに具体的な司法手続きに入っており、三権分立や基本的人権の尊重という憲法上の原理原則からいえば、立法府の機関である政倫審に出席する合理的な理由はない、ただ、私が政倫審に出ることで、国会運営が円滑に進められ、あるいは、選挙戦においても国民の皆様の支持を取り戻すことができるということであれば、政倫審に出席することもやぶさかでないと、繰り返し表明してまいりました。
そうした中で、先般、民主党の最大の支持母体である連合から、挙党一致の体制で難局を乗り越えるよう、強い要請を受けました。また、国民の皆様、同志の皆様にも、多大なご心配をおかけしていることを、大変申し訳なく思っております。これらのことを総合的に考え、私は政治家の判断として、来年の常会において、政倫審に自ら出席することを決意致しました。
具体的に申し上げます。
第一点目として、常会において私が政倫審に出席しなければ国会審議が開始されないという場合、すなわち、私が出席することにより、予算案の審議をはじめ、国会の審議が円滑に進められるということであれば、常会の冒頭にも出席し、説明したいと思います。
第二点目は、私が政倫審に出席するかどうかということが、国会審議を開始するための主たる条件ではないということであれば、国民の生活に最も関連の深い予算案の審議に全力で取り組み、その一日も早い成立を図らなければなりません。
したがって、私はこの場合には、予算成立の後速やかに政倫審に出席したいと考えております。
平成22年12月28日
衆院議員 小沢一郎
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