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「無知は罪なのである」といわれる。
では、市民とは、あるいは国民とは、大衆とは、
無知という罪を生きているものなのか?
一方で「無知の知」という言葉がある。
ひたすら無知を生きる英知があることをいうのか?
松阪まさお市議会議員が最新のブログで諫早湾干拓問題、開門調査についての、
「市民の無知」を嘆いている。
例によって全文転載させてもらう。
転載責任 みちばたの蝶:井ノ子俊一@長崎県島原半島
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http://mmatusaka.exblog.jp/15676869/
2010年 12月 28日
ホームページ悪戦苦闘
肝心の『島原市議松坂まさお公式ホームページ』の更新がおろそかになっているので、今日は頑張って更新してみた。報告書『青草子』の10号、その一つ前の9号と、アップしていなかった。
9号を読み返してみて、まだ通用するとの確信を得ている。皆様も是非再読なさってください。イサカンの理解がいまいちの方是非お願いします。
しかしそれにしても、インターネットの情報量はものすごい。なのに何故『諫早湾干拓』の真実は伝わらないのか??
調整池の水位は海抜マイナス1メートルに保たれている。
つまり、マイナス1メートル水位を保つために本明川などから流れ込む水量は調整池の外に出さなければならない。
締切り堤防道路の真ん中で大きなパイプからポンプで排水を続けている。しかしその水量では追いつかない。よって南北の排水門は干潮時に(外の水位がマイナス1メートル以下の時に)開かれ大量の水が流出している。
そんな情報もインターネットで仕入れることが出来る。この件については松坂ブログだけでも十分に入手できる。(新土佐日記で『調整池』を検索すれば、50件以上ヒットする。)
なのに何故、多くの市民は、閉められている排水門は開けてはいけないとか、開けるべきだとか、騒いでいるわりに、毎日の開門についてはまるで知らない。
今回多くの市民と話してみて、市民の無知に驚いている。市川海老蔵の親の名前や阿木ナントカというタレントさんの彼氏の名前は知っていても、阿久根市民の声も、有明海漁民の(本当の)声はなかなか知られることがない。(情報は公開されているが、伝わらない。)マスコミにも責任の一端はあるが、最後に苦しむのは無知な市民だ。
数年前、島原市議会で「開門の請願」を論議したことがある。その際、自民党の議員が「開門はダメ、海が汚れる」と言っていた。「今も水位調節のために日々開けているではないか。」と説明すると、「そんなはずはない、あそこは一度も開いていない!」と・・・
議員のくせに基本的なことも理解をしていない、島原市議会のおバカな実態を知って驚いた。ところがバカは島原市議だけではなく、諫早市議にも長崎県議にも山のように居た(居続けている。)。この頃は議員ゆえに(役人に操られて)知らないのだと確信するようになった。却って市民のほうが理解がある・・・と。
しかし、深く入り込むと実は市民にも情報は伝わっていない。伝わっていても大きな誤解が横たわったままだ。何度も何度も繰り返して情報発信していくしかないのだと思い知る。
開門して、調整池に海水を導入すると、干拓地の土壌に「塩水がしみ込んで来る。」というデタラメ情報は今も根強い。長崎県は、このデタラメ情報を発信した張本人なのに、100%デタラメではないことが証明されるまではデタラメと言えないこともないなどと、しらばくれる。
はやく、松坂のホームページは信頼できる情報の宝庫だとの地位を築かなくてはならない。それにしてもこのデジタルな機械だの仕組みだの、苦手である。悪戦苦闘である。
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転載終了。
いかに情報発信しても、確信的に無知を生きている人に届くのだろうか?
真実に至る道の険しさを知らず、疑り深くはあっても、いつの間にか「意見」を持ってしまっなているひとびと。その意見は、どこか心の奥深くに無知を、おのれの知的怠慢さを自覚しているが故に、ことさら頑ななものになってしまうのかもしれない。
頑なな意見が世を覆うとき、知の誠実が踏みにじられるのだろう。
ひとびとに語りかける君よ。
君はどれほどに無知でないというのか?
無知を自覚し沈黙する君よ。
世界はいつまで君の沈黙を許してくれるだろうか?
意見をもたされることへの恐怖はないか?
いつの間にか無知の自覚を、罪の意識を、
麻痺させられてしまうことへの恐怖はないか?
生活者の知が、強固であるとすれば、
そこにむき出しの「生への強靭な意思」があるからだろう。
ではいつの日から、生きるための座標軸がなくなってしまったのか?
座標軸のなさを知っているものを、侮蔑するだけでいいのか。
まず、無知をこそ畏敬することではないか。
そのうえで、信頼に足る堅固な知が敬愛されていくだろう。
語り合うための座標軸を形作っていくために。
憎むべきは、無知ではなく、知的不誠実そのものなのだ。
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