http://www.asyura2.com/10/senkyo103/msg/247.html
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昨日の日刊ゲンダイ(28日付け)の一面記事に次のように書かれていた。
(前略)
「今回に限ったことではありません。小沢さんと20日にサシで会った時は、1時間30分、興奮状態で『政倫審に出てくれ。あなたは協力すると言ったじゃないか!』とヒステリックに繰り返していた。面食らった小沢さんが『冷静に、冷静に』と諭しても、最後まで半狂乱だったそうです」(民主党関係者)
(後略)
この記事は大衆に政治を面白おかしく語っているのかもしれない。
しかし、全くの嘘に近い記事ではないのではないかと考えるのである。
「面食らった小沢さんが『冷静に、冷静に』と諭して…」との辺りは小沢氏の人間性ならば考え得るところである。
今まで私は忙しい政治家の二人があのようなテーマで1時間半も時間を費やす事自体が異常であると考えてきている。
では何故、時間がかかったのか?
菅が話すことが沢山あったのか? 又は、小沢氏が菅を説得しようとして時間がかかったのか?
このどちらであっても時間はかかり過ぎだ。
政治家は時間を有効に使うものだ。まともな政治家であれば誰でもそうだ。
それで唯一考えられるのは、正常な会談の有様ではなかったのではないかということだ。
会談を終えた小沢氏は「あんな菅さんをはじめて見た。興奮していた。」といった趣旨の発言をしていた。
これは何を意味するか?
深酔いした酔っ払いの相手をした人には判る事であろうが、
判断力を失って意識が朦朧とした相手を介抱する事に苦労するものである。
酔った相手は冷静ではないのであるから、しかも正常な意識ではないのであるから介抱するほかに道はない。
タクシーに乗せたり、ひどい場合には家まで送り届けたりする。
菅が熱燗(熱菅)になって沸騰してしまっているのを小沢氏が「冷静に冷静に」と言って冷まして、「ウンウン」と聞いて興奮が治まるのを待って中身のない会談を終了へと導いていったのではないかと考えられるのだ。
それで一時間半も時間がかかった。
つまり、内容には沿わない不自然な長い時間を浪費したと言う事である。
今回の立ち上げれ日本との連立模索にしても仲介者がいたとしても菅の行いは余りにも常軌を逸している。
これはあの与謝野であったからこそ受けた話であっただろう。
与謝野も時々少し狂ったような判断と行動を取る男なのであるから話に乗ったのであろう。
恐らく政界の野党も与党も菅と菅執行部の追い詰められた異常性を認知しているのではあるまいか?
であるからこそ、菅に手を突っ込むのは痴呆老人のような(そのものかもしれないが)ナカソネとナベツネだけなのではないのか。
菅一派には何も出来ないのである。
何しろ力(政権運用能力)がないのだからどうしようもない。
鳩山首相が小沢幹事長と相談の上、参院選の勝利の為に自ら身を引いて困難な役割である首相を菅に頼んだ訳であるが、その二人の意を無視して、思い違いをしてやりたい放題をやろうとしたわけである。
これは政権の意志を無視したこと、マニフェストを無視したこと、有権者国民の意思を無視したこと、であり、
権力だけを奪い取った事であり、
つまりは、
大泥暴を行った訳である。
しかし悲しいかな菅にも仙谷にも能力が無かった。枝野や野田やその他はそれ未満だ。岡田も同類でしかない。
それでストレスは総てが菅の頭脳に宿ってしまったのであろう。
私は以前に以下の投稿をした。
菅直人は足利尊氏に類する危険な権力者だ。 彼は逆賊である。
http://www.asyura2.com/10/senkyo88/msg/890.html
投稿者 新世紀人 日時 2010 年 6 月 20 日 23:15:53: uj2zhYZWUUp16
今後の菅がどの様な行動を取るかは不明である。
冷静さを欠いているのであるから、小沢氏の民主党追放という常軌を逸した目的を達成しようとしているようであるが、これは彼をますます袋小路へと追い込む事になるだろう。
この様な冷静さを失った菅と野党が連立を組んでも政権運営は旨く行かず暗礁に乗り上げる事になるだろう。
菅にとっては仙谷を更迭して横滑りさせる事は半身不随になることである。
仙谷官房長官なくしては菅首相は成り立たないだろう。
試しにやってみればいいだろう。
いずれは仙谷も菅を見限るだろう。既に心中ではかなりの部分で見限っている事も考えられる。
菅は今後は「御乱心」を深めてゆくのかもしれない。
現在の彼の異常性を見るとそのように考えざるを得ないのだ。
政権を泥棒してからの菅は一貫して異常であり、既に前から異常であった筈であり、それは国民新党亀井代表に対する無礼発言にはっきりと露呈していた。
菅以外に首相の座を預ける人材を見つけることが出来なかった鳩山氏と小沢氏は不幸であった。
今まで一貫した彼菅の異常性を考慮すれば、今後ますます異常街道を加速して驀進するものと考えられる。
彼が政権を預けられて簡単に引き受けた事そのものがそもそも異常である。
鳩山氏が退かなければならなかった普天間基地移転問題をはじめとする米国との対立緊張関係を考えれば政権運営が大変に難しく党内をしっかりと結束へともっていかなければ外憂内患に立ち向かえない事ははっきりしていた。
気を引き締めて一旦はお断わりするくらいの対応をするのが普通のあり方である。
それを簡単に引き受けたのであるから、そこは異常な野心によって引き受けるにいたり「棚ぼた」の思いで小躍りして喜んだのではないのか。
今後の彼菅の行く末を考えると、
我が国歴史上では、平清盛と足利尊氏の最後の姿に近いのではないかと考えられる。
共に異常な病気を患って死を迎えたのであるが、乱心的最後であった。
二人は人物的には菅をはるかに凌いでおり、清盛を同列に扱うには私も少しは抵抗があるが清盛政治の本質には逆賊性が高く、その意味で似た例として登場してもらう。
以下に資料的評論を紹介しておく。
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/s/%CA%BF%C0%B6%C0%B9
畏れ大き太古神
2009-11-11 10:25:01
伊勢神宮外宮の表参道の大通りから火除橋(ひよけばし:防火の為に造った堀川に架かる橋)を渡りますと、すぐ左側に手水舎があります。その反対側に木柵により囲まれた樹齢約800年の「清盛楠、きよもりぐす」が在ります。
このいびつな形をしたクスノキは、神宮の千年を超える神域内では珍しく個人名が付けられています。後世に「おごる平家は久しからず 」と揶揄された平清盛の事です。
平清盛は『平家物語』の中の中心人物であり、一介の武士から太政大臣にまで上り詰めた成り上がり者として、栄華を謳歌した人間の没落と悲惨さの象徴として語られて来ました。
平清盛が政治の中枢に入り権力を行使していた頃、天皇陛下の勅使として何度か伊勢神宮外宮に参拝をしています。
その時に入り口に在ったクスノキの枝に、清盛が被る頭巾が引っかかり落ちたそうです。この事が気に障った清盛は、部下に枝を折る様に指示したとの事でした。
伝承では木の枝とされていますが、実際には木の幹から切断して倒したと感じます。切り株から芽を出し、現在のいびつな形状に成ったと観えます。本当の樹齢は800年どころか、1200年以上だと感じます。
外宮の正体は、国土の国魂(くにたま)である国常立太神が鎮まる神域です。そこに在る神木を切り倒した訳です。その後に清盛の頭が剥げたのかは、私は知りません。しかし、一族郎党の悲惨な最期は、歴史が証明しています。
白山の石柱を神の御柱として、太古から祭事していたのが外宮の神域です。伊勢市の成り立ちは、外宮地域から始まっていると感じます。これは縄文時代の住居遺跡の発掘でも証明されるでしょう。
内宮や外宮に本殿が造られたのは近年の事に過ぎません。
外宮に本殿を造営させたのは、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)です。
雄略天皇は、とても興味深い人物です。
日本国の霊的な太古の成立背景の秘密を知っていたと感じます。この天皇が仕組んだ神仕組みにより、皇室の安定存続と国土の守護への絶対的な霊的バリヤーが仕組まれています。
雄略天皇が創建した神社が、もう1つ在ります。それが白山中居神社です。
伊勢と白山に1つずつ、自ら神社を造らせています。この2つの神社における霊的な色は非常に共通します。それは、厳格な青い透明感です。
この2つの神社には、両神社共に国常立太神の神気が今でも存在しています。神社の祭神名からは、訳が在り隠されて封印されています。この訳を知っていたのが、雄略天皇です。
白山中居神社は、古都の京都から見ますと鬼門の丑寅の方向に在ります。
封印された太古の秘神、俗に言うウシトラの金神の本拠地でも、白山中居神社はあるのです。
伊勢神宮外宮と白山中居神社を結ぶ伊勢白山道への、人民による往復参拝により、今、隠された日本の太古神が起動し始めています。
日本国を貶める様な人間は、平清盛の最後の様に成らないよう注意して欲しいものです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/5689085.html
平清盛の最後
最期
平清盛 菊池容斎画、明治時代治承4年末までには(1180年)、平氏の勢力基盤である西国においても伊予の河野通清・河野通信父子、翌治承5年1181年には豊後の緒方惟能・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。さらに東国においても平氏方であった佐竹氏などが頼朝によって討伐されるなど、反乱がいよいよ深刻化してくる。
このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部(にいたべ)親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また丹波に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに越後の城資永、鎮守府将軍・藤原秀衡に源頼朝・源信義追討の宣旨を与えている。2月26日には重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。享年64。
病状の記録から、恐らくは大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリアに罹ったものと思われる。ちなみに、当時の日本は現在よりも気候が温暖であった。清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わってしまうのである。なお、『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。これは平安時代末期の武士の感覚からはありえない遺言であり、後年の創作であるとも言われている[要出典]。『玉葉』によると、死去した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れると、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否している事から、頼朝への激しい憎悪があった事は事実と思われる。
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/kikuti3-27.htm
27. 尊氏の死
「おい、知っとるか、筑紫は吉野方に占領されたそうやで」
「おはん、無知やな。吉野方やなくて賀名生方が本当や」
「そんなつまらん問題やないで。今、京の町中は九州の宮方が百万の大軍で攻めて来るとの噂でもちきりや」
「ほんまか、そいつは一大事やなあ。将軍さまも、年貢の納め時やもしれんな」
「早いとこ家財まとめて逃げ出さなあかん。せっかく造り直された町が、また焼けると思うと、ほんまに腹だたしいわ」
「いい加減に、戦は終わってほしいわ」
京童たちの間では、菊池軍東上の噂が流行となっていた。彼らの意識の中では、奥州と九州の軍勢の強さは桁外れであって、九州軍の東上が実現した日には、足利幕府の運命も疑わしいと思われていた。
この情勢を痛切に感じたのは、将軍・足利尊氏その人であった。ほうほうのていで帰洛した一色親子から敗戦の詳しい報告を受けると、重臣たちを集めて言い渡した。
「征西府に先制攻撃を仕掛けるのだ。わし自ら九州に出陣するっ」
尊氏の決意を前に、しばし動揺した万座の中から、将軍世継ぎの義詮が発言した。
「将軍が親征する必要はございません。征西府の東上は単なる噂でありましょう。奴らに、それほどの実力があるとは思えません」
「義詮、お前は菊池一族と九州武者の恐ろしさを知らないのだ。彼らが東上してからでは手遅れになるのだぞ。叩くなら今のうちだ。ただちに動員令を発せよ。全力をあげて征西府に挑むのだっ」拳を振り上げる尊氏の見幕に、一同は沈黙せざるを得なかった。
時に北朝の 延文 ( えんぶん ) 三年、同時に南朝の正平十三年(1358)の二月、狭い京の都に、各地から続々と軍勢が駆けつけて来た。ついに、足利尊氏と菊池武光の決戦の時が到来しようというのか。ところが・・・・、
軍議の最中、尊氏は突然に体の不調を訴えると、その場に倒れ伏してしまった。すごい高熱を発している。側近の者たちが、あわてて寝所に運び込んで典医に見せたところ、背中に大きな悪性腫瘍ができているとのことであった。気丈な尊氏は、そのことを誰にも告げなかったのである。
高熱におかされ、人事不省に陥った尊氏は、切れ切れにうわ言を発した。後醍醐天皇や大塔宮に対する詫びの言葉、楠木正成や新田義貞のこと、自らの手にかけた弟・直義や、最後まで和解できなかった実子・直冬のこと・・・。
「父上の人生は、なんと苦しみに満ちていたことか・・・。父上は、なんという悲劇に耐えて来たことか」見舞いに訪れた義詮は、改めて思い知らされた。
やがて、一時的に意識を取り戻した尊氏は、枕元に座る嫡男に霞む目を向けた。「直義、わしの言った通りであろうが。あのときお前は笑ったが、どうじゃ、わしの勘は鋭いぞ」
尊氏はどうやら、息子を亡き弟と勘違いしているらしい。
「なんの事でしたかな、兄上」義詮は、涙をこらえながら相手になった。
「忘れたか、直義。菊池一族のことよ。延元のころ、大宰府でお前に言ったろう。我らの前に最後まで立ち塞がるのは菊池一族に違いないとな。ふふ、その通りになったのう」
「・・・まさに」項垂れる義詮。父のこれほどの苦しみにも拘わらず、天下は乱れたままであると考えると悲しかった。自分がしっかりしなければならぬ。義詮は、決意を新たにするのだった。
同年四月、日本史上の英雄、足利尊氏の人生はその幕を閉じようとしていた。
「義詮、頼んだぞ。なんとしても征西府と菊池氏を打ち破り、博多の港を幕府に回復するのだ」これが、尊氏の義詮に残した最後の言葉であった。
「必ずや、やりとげまする」弱々しい父の手を握り、義詮は誓った。
その翌日、最後まで天下のことを案じた尊氏は、その五十四年の波乱の生涯を終えた。
思えば、尊氏は哀れな人であった。彼自身は好人物だったふしがあるが、源氏の嫡流に生まれたばかりに時代の奔流に押し流され、本意に反する道を歩まねばならなかった。妻の実家の北条氏を討ち、尊敬していた後醍醐天皇と争い、貴んでいた朝廷を二つに割り、あれほど仲のよかった弟を殺し、実子の直冬との戦いで京都を焼け野原にした。
だが、尊氏の払った大きな犠牲こそが時代を造り、今日の日本を形成していると考えたい。尊氏の苦労は、より優れた時代のための産みの苦しみであったと信じたい。
(後略)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1429880054
足利尊氏の死因taxclookさん
足利尊氏の死因
室町幕府を作ったといわれる足利尊氏ですが、知らないことが多く死因も知らないので、教えてください。
違反報告
質問日時: 2009/8/26 11:38:55
解決日時: 2009/8/27 19:08:01
回答数: 2
閲覧数: 195
ベストアンサーに選ばれた回答sackman14141414さん
正平13年 / 延文3年4月30日(1358年)、背中に出来た癰(よう、腫物)のため、京都二条万里小路邸にて死去
享年54
癰とは細菌感染症の一種で
数本の毛が束になって細菌が感染して生じる
皮膚は赤く腫れて、疼痛を伴う。黄色ブドウ球菌が原因であることが多い(それに対して、せつは一本の毛のみの感染)
糖尿病の人に好発する
治療は、抗生物質の内服が必ず必要で皮膚切開が必要なこともある
NHKの太平記ではお灸かと思うほど大きな腫瘍にいくつもあって呻きながらも
陣中にあった姿が印象的でした
違反報告 編集日時:2009/8/26 21:57:11 回答日時:2009/8/26 21:45:48
2 81 +−
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