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2010.12.22 つい手に取った『政治とカネ』、じつは・・・
暴論珍説メモ(98)
田畑光永 (ジャーナリスト)
ご存知かと思うが、『政治とカネ』という本が出た。新書版200頁足らずの小さな本で、書いたのは元首相の海部俊樹氏。随分と直截な書名である上に、オビに「この話、墓場まで持っていくのはやめた…」とあるのに惹かれて、つい手に取った。さぞかしカネにまつわる政界の裏話がしこたま披露されているのだろうと。
ところがその期待はみごとに裏切られた。勿論、カネの話もないではない。クリーンといわれた三木武夫氏に著者は仕えたのだが、その三木氏も1972年の「三角大福」の総裁選では「実際には各派に金を配った。使い走りをしたひとりがこの私で、何人もの議員が私から金を受け取った。受領した人々が約束を守っていれば、三木氏の票はもっと伸びたはずだ。それなのに、彼らは裏切った。他派からもっと高額を受け取ったのだ」と告白している。
しかし、このときの総裁選では金が乱れ飛び、「ニッカ」「サントリー」「オールドパー」という言葉が生まれたくらいだから、著者の「告白」もべつに驚くほどのものではない。これ以外には、特段、カネにまつわる秘話といえるほどのものはない。
それでは何が書かれているか。まあ大体のところ、著者本人の思い出話である、それも自慢と弁解が半々の。著者が自民党総裁に選ばれたのが1989年8月8日、そして翌日、衆議院本会議で首相に指名された。しかし、財力もなく、派閥の領袖でもなかったこの人は当時の自民党の総理総裁選びの基準では、レースへの出場資格さえなかった。そういう人間がなぜ総理総裁になれたかといえば、リクルート事件というスキャンダルに自民党の大物たちがほとんど連なってしまったからであった。その点では田中金脈の波紋の中から生まれた三木政権とよく似ている。
そういう背景から生まれた首相だったから、自慢にしろ、弁解にしろ、それなりに興味深いものがあることも事実で、書名は詐欺っぽいが許せる範囲内ではある。争って勝ち取った椅子ではなく、担がれて座った椅子だから、担ぎ手との関係が終始問題になる。この人の場合、その大きな部分は政権の幹事長としてもっとも身近にいた小沢一郎氏とのそれであった。
そして本書の真骨頂はその小沢糾弾にある。たくさんの人名が登場するが、小沢氏については特に怨念、憤懣の深さがその筆遣いに現れている。いくつか引用してみよう。
周知の如く小沢氏は旧田中(角栄)派の幹部であった。
「田中派には、五箇条と呼ばれる縛りがあり、親分が黒といえば、白でも黒になるという、ギャングもかくやの掟がまかり通っていた。『それがいやなら出て行け』というわけだ。しかし出ればつぶされるのが分かりきっているから、みんな黙ってしまう。
どこかで聞いたような話ではないだろうか。そう、小沢一郎氏のやり方がこれとそっくりなのだ。彼は、田中氏のこのような部分だけを踏襲してしまった」(57頁)
これが著者の小沢観の総論。確かに小沢氏が政倫審に出たくないとなれば、「北辰会」(新人代議士の会)やら、「一新会」(中堅若手議員の会)やらの小沢一党が大声を上げる。
「『担ぐ御輿は、軽くてパーなヤツが一番いい』
私に関する小沢発言で、最も有名なのがこれだろう。人づてにこの件を聞いた私は、彼に直接訊いた。
『言ったのかい』
すると彼は、しゃあしゃあと、
『言った憶えは断じてない。記事を書いた記者を呼びつけましょう』
と、凄んで見せた」(101頁)
小沢は海部を頭から馬鹿にしている、とは当時、記者の間では常識となっていたことであるが、当事者の間ではこんな会話が交わされていたのだった。
その小沢幹事長は91年4月の統一地方選挙での東京都知事選に、公明党と組んで磯村尚徳氏を担ぎ、現職の鈴木俊一氏を押す自民党都連と対立、結果、磯村氏は敗れた。そこで、小沢氏は責任を取って辞職。しかし、著者によれば辞職は必要なかったのだそうだ。
「小沢幹事長は、辞める必要がない場面で逃げた。小沢一郎という政治家の『どうしようもない性癖』を、私が目の当たりにした最初の時だった」(141頁)
その後、海部内閣の後の宮沢内閣当時の1993年、小沢氏らの造反で内閣不信任案が可決され、新党ブームの中、細川政権が誕生する。
「新党ブームと政権奪取を取引したのは、間違いなく小沢氏だったが、私は、この前後の数年が、彼が本質を最も表した時期だったと思う。物事がまとまりかけると、自分の存在価値が低くなるから、つぶす。つぶすためには、横車でもなんでもゴリゴリ押して、荒れるなら荒れるでよろしい。小沢氏はそんなことを繰り返した。何かがちょっと育ってくるとゴツン、少し芽が出始めるとゴツンと叩いてしまう性癖に、『壊し屋』という異名がつけられたのもあの頃だ」(162〜163頁)
細川、羽田と続いた非自民政権は短命に終わり、自民党は社会党の村山委員長を総理に担いで政権に復帰する。そこで著者は自民党を離党し、小沢氏が幹事長に納まる新進党の党首につく。このあたり著者の言動は矛盾するが、それについての釈明はこうだ。
「小沢氏と、彼を警戒する人々との接着剤になり、政権能力のある新党を作り政治を立ち直らせよう、そう腹をくくり、私は新進党の党首になった」(167頁)
その新進党は95年7月の参院選で議席を伸ばし、著者は党首を勇退。12月に党首選が行われ、小沢氏が党首についた。
「ところがその頃から、小沢氏との確執で、党員たちが櫛の歯の抜けるように離党していった。彼の問答無用なやり方、会議に出ないこと、密室政治、人を呼び出す傲慢さ、反対派への報復人事などが原因だった。彼から人が離れていくのは、どれだけつきあっても、実感や信頼感を得られないからだ」(168頁)
そして97年末、現在の民主党・岡田幹事長と小沢氏との確執の始まりとされる、有名な小沢氏の新進党解党宣言が出る。
「小沢氏が党首二期目に入り、さあこれからという局面で、またしても″唐突に$V進党の解党を宣言した。この時、彼はいつもの純血主義で、新進党の中に旧公明党員がいると、どうのこうのと言い出して、それで結局、公明党出身勢力が離脱して行った。なぜ、あのタイミングであえて旧公明系にくさびを入れたのか、未だに私は理解に苦しむ。新進党は、文句を言わずにグッと我慢してみんなでやっていけば、いずれ政権が取れたはずだ。それなのに小沢氏は喧嘩を売った上、『このままではジリ貧になる。それなら解党だ』と極端に走ってしまった。
幹事長辞任に次いで二度目の逃亡。あれには私も、『お前、またか。おかしな奴だな』としか言いようがなかった・・・」(170頁)
新進党解党後、著者は無所属に、小沢氏は自由党を結成して党首につき、98年秋、自民党との「自自連立」に合意する。
「そんなある日、永田町の事務所に戻ると、小沢一郎氏が廊下に立って待っていた。・・・アポも取らず、しけた顔をして、秘書もなくひとりきりで。
『どうした』
と私が問うと、小沢氏は
『もう一度ご指導願えませんか。いつまでもかたくなに無所属とおっしゃらず、どうか力を貸してください』
と、実に謙虚に頭を下げた。しおらしくていつもの彼とはまったく違っていた。
人間、妙なことをされると、妙な気分になるものだ。甘いと批判されればそれまでだが、レッテル主義ではいけないし、私は、彼も苦労して変わったのだと判断した」(172〜173頁)
こうして著者は自由党の最高顧問を引き受ける。
「ところが、連立に参加して一年もたつと(2000年)、またまた小沢氏が連立離脱を言い始めた。政権が安定してきたので、存在感がなくなると考えたのだろう。・・・
『またやったな、あぁまたか』と思いながらも、私は『今度ばかりはそうするな』と説得した。けれども、『それでは相手になめられてしまう』というのが小沢氏の結論だった」(174頁)
この連立離脱によって、自由党は分裂、著者は自民党との連立に残った保守党に移り、小沢氏との縁は切れる。
「あの『壊し屋』に関わるとほとほと疲れる・・・三度、小沢一郎と交えた私の率直な感想だ。人の陣地に手を入れて、誘惑してその気にさせて、壊す。あの性癖は、死ぬまで治らないのではないか。業というか、あそこまでいくと、もう病いとしか言いようがない」(174頁)
以上が著者の小沢批判のおおよそである。政治家の言だから、そういうものとして受け取らなければならないが、節目節目の小沢氏の行動は著者の言うとおりである。考えてみればこの20年ほど、日本の政治は、あるいは政権は小沢氏に振り回され続けてきたと言ってもいいほどである。その意味ではあの人物は類まれな資質を持っており、それによる波風は今もわれわれの眼前でたち騒いでいる。それならいっそ最後までそれを貫いて見せて欲しいものだ。
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