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石原都知事は、マンガ・アニメ規制法の成立後、「日本人の良識だ。子供にあんなものを見せられるのか」と述べた。
■青少年条例、可決(毎日新聞)
【要約】すでにマンガ・アニメは規制の対象だったが、さらに規制の枠を広げる条例が15日、都議会の民主・自民・公明ほか多数によって可決された。
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法案が可決された後、石原慎太郎は「日本人の良識だ。子供にあんなものを見せられるのか」と述べたと記事にあるが、ほかに、「(規制は)大人の常識だ、親の願いだ」とも喋った。これが典型的な差別発言であることに気づいた人も多いだろう。石原慎太郎は差別的な体質を持っている。
差別とは何だろう。
と問えば、実際に差別と戦っている人々にとっては、いろいろ複雑な問題もあるかと思われる。しかし、あえて単純化すれば、同一の価値観を押し付けるところに差別は発生するのだ。チベット族の虐殺は、中国共産党の一党独裁による差別だったように。
たとえば大手出版社・塾企業によって導入された偏差値は、全国の高校生を釣鐘型の偏差値曲線のどこかに位置づけ、序列化する。単に数値上で、テストの成績を効率よく処理しただけだろうか。いや、そんな単純な価値観ではない。
全国の高校生を序列化する、という単純な同一価値観のもとに上と下が生じる。この当然の事実は保護者や生徒たちの内面をも支配し、上下、優劣の差別観を生み出す。上下、優劣にかかわらず、保護者も生徒も、この差別観の捕囚になる。その序列のなかで、少しでも有利な位置を手に入れるため、夜遅くまで金持ちの息子や娘は塾に通う。優秀な家庭教師につく。大手出版社・塾企業が導入した偏差値は、日本の高校生を差別化して生贄とする、大手出版社・塾企業の壮大なプロモーションである。
この弊害は各所に現れている。まず高校のローカル色とでもいえそうな、自主性が奪われる。教師たちの自主性に任せれば、その授業内容や進度にあうようにテストも作成されるだろう。授業の文脈のなかに、テストも位置づけられるのだ。大手出版社・塾企業がおこなう全国一斉テストは、この文脈を基本的に破壊する。教師たちは自分の授業を、全国一律に規格づけされた「教育内容」にあわせて計画せざるをえなくなる。
こうして教師は、生徒たちの隠れた才能を発見するチャンスを見失う。ここでいう「隠れた才能」とは、ほんとうなら80点でも取れるのに実際は20点だった、とかの残念な実力不足を意味していない。そうではなく、たとえば、いつまでも縄文から弥生に切り替わった時代にこだわり、それを自分で調べて考えているような能力である。たとえば磁気の神秘的な性質にこだわり、それを自分で調べて考えているような能力である。自分(たち)の感情と行動にジャスト・フィットする物語を、マンガやアニメ、小説で表現したいと模索している才能たちのことである。
このような能力は、偏差値教育のなかでは切り捨てられる。見えなくなる。だから「隠れた」才能なのだ。なぜなら偏差値教育とは、大手出版社・塾企業の儲けにどれだけ寄与するかを問う、単一の価値観のなかにあるからだ。こうして日本は、優秀な頭脳の未来性を切り捨ててきた。多様な才能を見失ってきた。歴史的には、恣意的な同一価値観のもとで、能力の差別化がおこなわれてきた。
こんな教育システムだから、ラサール高出身の政治家がバカに見える理由も納得できるというものだ。ラサール高は、いまでも東大や京大、北大などの医学部、法学部の合格者を多数だしている有名な私立高校である。卒業生は、現代日本の指導的な立場を独占しているといえなくもない。その日本が、思考力を失い、国際関係のなかでダッチ・ロールしているのだ。単一の価値観を押し付け、国民を序列化するのは国家的な罪悪である。
ここで、石原慎太郎の発言にもどろう。
「日本人の良識だ。子供にあんなものを見せられるのか」
「(規制は)大人の常識だ、親の願いだ」
この発言は、床屋談義、パーマ屋談義のレベルである。こんなレベルで済むのなら、特別な政治家など不要だ。問題は、知事職にある政治家が、このレベルにあることである。しかも、民主・自民・公明の議員たちも賛同した政治の構図にある。
「良識」「常識」「願い」
この言葉の意味を知っておくべきだろう。これら漠然とした、内容も根拠づけもない言葉は、もちろん石原の思想の欠如(といって悪ければ床屋思想)を語っているのだが、同時に都民、国民にたいして、単一の価値観を押し付けようとしている点に現代的な意味がある。この青少年条例が全国規模で根付いたら、表現の自由をかかげて反対する者は、そのうち国民の名を使って「国賊」「非国民」呼ばわりされるだろう。こうして次々に、マンガ・アニメだけではなく表現の一般が、石原の信念である床屋談義的な「良識」「常識」「願い」のもとに序列化されるのだ。自分の作品を棚上げして、よい、悪いと序列化されるのだ。表現の優劣が序列化され、表現と表現者が差別化されるのだ。
石原の思想的な欠如など、どうでもいい。そんなこと、わかりきっているのだから。しかし少数の権力者、またはその下請けによる「良識」「常識」「願い」の押し付け社会が、どれほど怖いものであるかを想像するべきである。それを21世紀の幕開けとしては、やがて日本の青少年たちを差別の深みで不幸に陥れることになるだろう。
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