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(回答先: 小沢氏、招致拒否を伝達へ=対立激化不可避−民主(時事ドットコム) 投稿者 赤かぶ 日時 2010 年 12 月 17 日 10:40:00)
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20100213kakuei%20cia3.htm
角栄、小沢、CIA(3)
(角栄氏と中国そして立花隆氏)
2010年2月13日
宇佐美 保
先の拙文《角栄、小沢、CIA(1)》、《角栄、小沢、CIA(2)》同様に、朝日ニュースターの番組「週刊鉄学」並び『田中角栄 封じられた資源戦略(山岡淳一郎著 草思社 2009.11.2発行)』を引用させて頂きつつ書き続けたく存じます。
テレビ番組中、武田鉄矢氏は、次のように発言しました。
日本が独自で外交で、個性を発揮し中国に近づくと、なんだか知んないけど、国内では必ず汚職事件がどうという。
田中角栄さんの場合も、又、現代もそういうことが起こっているぞ!
この発言を受けて松原隆一郎氏(東京大学大学院教授)は次のように発言されました。
この本の表紙にも若き日の小沢さんが、田中さんの後ろに写っている。
私は、お二方のご見解に頷かざるを得ませんでした。
とても残念なことです。
今の不況にあえぐ日本を何とか支えてくれているのは中国の購買力ではありませんか?!
そして、中国からの観光客の更なる増加に期待をかけている私達ではありませんか?!
その大事な中国との国交を復活させてくれたのは、角栄氏ではありませんか!
この件に関連する山岡淳一郎氏の記述を引用させて頂きます。
とかく田中角栄は、日本列島改造論の印象が強く「内政の人」と見られがちだが、総理に就任すると「外交」へ軸足を移した。政治生命をかけて「日中国交正常化」の難事業に当たった。田中は、断絶した日中関係を正常に戻し、戦争状態を終わらせなければ日本の将来は危うい、アジアの緊張緩和と経済圏の確立には日中の関係修復が必須だと考えた。軍事、経済両面での対米依存に危機感を抱いていた。
しかし、中国、米国とも、田中が「自主外交」に走りだそうとすると、強烈な牽制球を返してきた。
この年の初め、中国の周恩来首相は、「日本が中華人民共和国を中国唯一の政府と認め、台湾との外交関係を断つならば、戦争賠償の要求を放棄する。台湾との通商関係は黙認する」と述べた。これに対して、台湾とつながりが深い岸・福田派の自民党議員はいきり立った。日本は台湾と「日華条約」を結んで戦争終結や賠償放棄をうたっていた。
「反共」を国是とする米国は、台湾と「米華相互防衛条約」を結び、軍事的に中国に対抗している。
台湾との断交は、親米・親台派の国会議員にはがまんのならないものだった。
このような情勢の中、角栄氏は中国に向かわれました。
九月二十五日、田中は北京に降り立った。周恩来首相との初回の首脳会談は和気藹々と始まり、好調に滑り出したかにみえたが、交渉は、その夜の晩餐会でつまずく。田中が挨拶のなかで「わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、わたしは改めて深い反省の念を表明するものであります」と述べ、人民大会堂大広間の雰囲気は一瞬にして凍りついた。……具体的な数字をかみ締めながら並べ、いかに多くの中国人が殺我されたかを語りだした。田中は、驚き、まったく口を挟めなかった。
周が語り終えるのを待って、田中は、言った。
「だから、わたしは、こうして北京ヘヤってきたのです。あなたが東京へこられたのではなく、わたしが、やってきたのだ」
田中の眼を直視していた周は小さくうなずき、それ以上、追いつめようとはしなかった。ここで角栄は、いいわけをくり返すのではなく、とっさのジョークで切り返した。緊迫した状態で冗談をいうのは度胸がいる。
「わたしも陸軍二等兵として、中国大陸に来ました。いろいろ大変なご迷惑をおかけしたかもしれません。しかし、私の鉄砲は北(ソ連)を向いていましたよ」。田中はノモンハン事件でソ連と対峠したことをジョークに変えた。その当時、中ソ関係は冷えきっていた。周はぷっと吹き出しそうになつた。
もはや外務当局が用意したトーキング・ペーパーなど何の役にも立たなかった。首脳どうし、精魂をこめた言葉をぶつけあう。緊張の極限で、田中は語りかける。
「隣人どうし、垣根がこっちに出っ張っているとか、いないとかでもめるのはよしましょう。明日から仲良くするためにここに来ました。わたしには日本にも敵がいます。それをかいくぐって、ここに来たのです。もしあなたと話がつかなかったら、日中関係は向こう何十年も救えません。言葉の揚げ足をとるのではなく、本題の議論をしましょう」
周恩来が腹を据えた。だが、「戦争状態の終結」「台湾問題」をめぐって事務レベルの徹夜作業が続く。……
交渉は膠着状態に陥った。田中は外交関係者のいないところで、ひとりごちた。
「これほど反対するのなら、もう帰るか……。だが、帰ったら、完全に切れてしまう。十年、二十年、日中は……止まる。おれは死ぬる覚悟できたんだ。帰るわけにはいかんな」
秘書官の小長は、命がけの外交とはこういうものか、と感じた。
毛沢東のひと言で流れが変わった。周と田中の衝突を眺めていた毛が、急に田中との会見を設定し、「もうけんかはすみましたか。けんかをしないとダメですよ」と水を向けた。
交渉は共同声明に結実する。
一九三七年から続いていた日本と中国の戦争状態は、ここに終止符が打たれ、国交が樹立された。
……
キッシンジャーは、まさかこんなに早く日本が中国と国交を回復するとは予想していなかった。
「最悪の裏切り者」と吐き捨てた。ニクソンは十一月の大統領選を勝ち、二期目に入った。
太平洋を挟んで、田中もニクソンも栄華の極みにあった。だが……花の盛りは短い。年が明けると、世界の秩序は石油を軸に猛烈なスピードで変化するのであった。
ここでの引用中の角栄氏の“わたしには日本にも敵がいます……おれは死ぬる覚悟できたんだ”の言葉の背景として、私は、山岡氏の次なる記述を思い浮かべるのです。
「昭和の妖怪」の異名を持つ岸は、ファーイースト石油をインドネシアからの政治資金の還流に使った、といわれる。インドネシア側の首領は、プルタミナ総裁、イブン・ストウであった。このスマトラ生まれの小柄な軍人は、スカルノ時代から石油界に食い込み、メジャーと渡り合って、力を蓄えた。……ファーイースト石油を通じて、岸とストウはがっちりとつながっていた。
この既得権者のスクラムに猛然と突っかかったのが、国士を自任する田中清玄(筆者注:角栄氏の資源外交に協力)だった。……当時晴玄はバンコクを活動拠点にしており、反スカルノ派のインドネシア人亡命者をタイ、マレーシアに百人ちかく送り込んでいる。晴玄はポハンに西ドイツの国防大臣を紹介し、西ドイツの武器が独立政権に流れた、といわれる。
こうした動きがスカルノと親密な岸らの怒りを買った。岸と巣鴨プリズン仲間の児玉誉士夫の指令で、六三年十一月、晴玄は丸の内の東京曾舘前で東声会組員に狙撃された。三発の弾丸が命中し、内臓に九か所の傷を負った。聖路加病院に搬送された清玄は、医師十人がかりで腸を手術台の上に広げられ、十時間かけて丹念に傷を縫合されて一命をとりとめる。この銃撃事件は衆議院予算委員会でも取り上げられ、背後関係が質された。政府は「暴力団取り締まりの強化」を唱え、うやむやにした。
清玄は、語っている。
「あの時、児玉はもう一度、岸の独裁政権を作ろうとして、河野一郎並びに米国のCIAと組んで動いていた。岸は戦前からの軍をバックにした強権主義者の頭目で、害毒の最たるものだった。軍部的なものの復活ですよ。この動きを一番妨害したのが僕だった。それで佐藤栄作さんや山口組の田岡一雄組長から『児玉が君を狙っているから用心した方がいい』と言われていたんです」(『田中清玄自伝』)
……
中国には「最初に井戸を掘った人を忘れない」との言い伝えが残っているようですが、このように恐ろしい事態を招く人物が日本に存在していた中、 日中国交回復を“死ぬる覚悟”で行った角栄氏への感謝の気持ちを私達は抱いているのでしょうか?!
ここで、先の拙文《角栄、小沢、CIA(1)》にも記述しましたが、『週刊鉄学』の番組の冒頭での武田鉄矢氏の発言を思い出します。
私は正月歯を食いしばって(山岡氏の著作を)読みましたが、「金脈田中角栄に対するフィルターがかかってしまっており、山岡氏からグラグラ揺らされるんだが、その意見は聞きたくない!とこの本を遠くへ放り投げ、“立花氏は立派な人だ、「金脈」を書いたんだぞ!ジャーナリストの鑑なんだぞ!”との自分の持っている角栄像と、角栄の身を切るような外交に於ける立場の苦しさとに余りにも大きなギャップがあり、読むのが苦しかった。
なかなかの衝撃の書でした”
そして、
この武田氏の発言“立花氏は立派な人だ、「金脈」を書いたんだぞ!ジャーナリストの鑑なんだぞ!”の立花隆氏は、
1974年(昭和49年) 『文藝春秋』に「田中角栄研究〜その金脈と人脈」を発表し角栄氏を首相の座から引き摺り下ろす役割を演じました。
しかし、この立花氏が書かれた角栄氏の「金脈」に関しては、多くのマスコミ人は承知の事実であったとの話も聞きました。
ところが、山岡氏は、次のように(一部が、先の拙文の重複しますが)書かれ『田中角栄 封じられた資源戦略』を私達に提供して下さいました。
政府内では「資源外交」という言葉自体が、長く封印されてきた。資源ほしさに外交などしようものなら、政治生命を断たれる、と政治家たちは怖れた。かれらは囁きあう。
「資源外交は危険だ。田中角栄のようにアメリカの逆鱗に触れて、潰される」
ならば、田中が、いつ、どんなふうに動いて、それがアメリカの何を刺激して反感を招いたのか、と問うと、はっきりとした答えは返ってこない。
「インドネシアの石油に手をつけたせいだ」「いや、ウランだ」「CIAにやられた」「北海油田だし「シベリアの石油だ」……と断片的な噂が飛び交うばかりだった。
情緒的な封印は、そろそろ解いたほうがいいだろう。田中の金権支配や闇将軍ぶりを持ち上げるつもりは毛頭ないが、かれが総理大臣としてとった行動は後世に語り継がれるべき重みをもつ。その結果がどうであれ、刑事被告人のまま世を去った田中の落ちた偶像のイメージですべてを塗りつぶすのは史実を歪めることになりはしないか。人間は失敗を通してこそ経験知を高められる。
そもそも戦時中に全国五〇社に入る土建会社の社長だった田中が、政界に飛び込み、住宅政策を足がかりに出世の階段を駆け上がり、資源へと突っ走ったのは、なぜか。
「わたしが総理のときには、資源外交に最大の力を入れたよ」と角栄は述懐している。資源を目指した深い動機とは、いったい何だったのか。
角栄氏の「金脈」のごとく「資源外交は危険だ。田中角栄のようにアメリカの逆鱗に触れて、潰される」が周知の事実であったなら、山岡氏ではなく立花氏こそが真っ先に「角栄氏の資源戦略」に関する著作を私達に提供して下さってしかるべきと存じます。
ところが立花氏は、「ロッキード事件」では、『朝日ジャーナル』誌上で「ロッキード裁判批判を斬る」を連載し、角栄氏に追い討ちをかけたのです。
しかし、山岡氏の「ロッキード事件」への記述は次のようです。
田中を政治の表舞台から追い落とし、裏支配へ向かわせたロッキード事件は、いまなお多くの謎が残されている。
たとえば金銭の受け渡し場所が、英国大使館裏の路上に駐車したクルマのなか、公衆電話ボックスの前、ホテル・オークラの駐車場……というのは、関係者のアリバイと照らして不自然だ。ロッキード社からの工作資金三〇億円の過半が政界の黒幕である児玉誉士夫に流れているにもかかわらず、そのルートはついに解明されなかった。そればかりではない。七六年二月の米上院の多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード副会長だったアーチボルド・C・コーチャンと東京駐在事務所元代表のジョン・ウィリアム・クラッターの証言で事件が発覚したにもかかわらず、かれらは免責された。裁判所は、コーチャンらの嘱託尋問調書を証拠として判決を下した。手続きは違法性を帯びていた。のちに最高裁自身が、それを認めることになる。田中は「見ず知らずのコーチャンなる者の証言で、しかも反対尋問もさせないで、なぜこんな目にあわなければならないのだ」(木村喜助『田中角栄の真実弁護人から見たロッキード事件』)と言いながら、死んでいった。
ここでの記述の「ロッキード社からの工作資金三〇億円の過半が政界の黒幕である児玉誉士夫に流れているにもかかわらず……」の児玉氏は、先の引用文中の「岸と巣鴨プリズン仲間の児玉誉士夫の指令で、……、晴玄は……狙撃された」の児玉氏であり、又、「免責された人物の嘱託尋問調書を証拠として判決を下された」のでは、私達は安心して生活できません。
(下種私が、米国のある筋から
“日本の要人を失脚させる為に、多額の金銭と免責を条件としての嘘の証言”を、
強要されたら首を縦に振るでしょう)
なのに立花氏は(『週刊現代(2010.2.6号)』「小沢一郎逮捕へ私はこう読む」立花隆と宗像紀夫(元東京地検特捜部長)の対談中で)次のように発言されております。
私は今回の事件をロッキード事件にたとえると、まだまだとば口にすぎないと思っているんです。ロッキード事件でも、はじめ田中角栄(元首相)は外為法違反で逮捕され、「別件逮捕だ」とか、「形式犯罪で元首相を逮捕すべきでない」などという批判が猛烈にあった。しかし結果的には、検察は5億円の授受を立証し、受託収賄罪で有罪(一、二審)に持っていったわけでしょう。
今回もまだ事件全体の広がりというか、構図が見えないところで特捜部批判をしてもあまり意味がないと思いますね。
立花氏は「検察は5億円の授受を立証し」と語っていますが、どのように立証したと言うのでしょうか?
更には、『週刊現代(2010.2.13号)』には、「「検察は知っている」伝説の特捜検事(注:堀田力氏)が明かす」の記事が載っていました。
私はかつてロッキード事件のとき、米国での証拠収集を担当しました。その捜査に着手する前のことです。検事総長や次長、東京高検の検事長、担当の刑事部長ら総勢釣20名が、一堂に会する「御前会議」が開かれました。
通常、御前会議は、ある事件を起訴するかどうかについて、検察全体として意思決定をする場です。したがって、ロッキードの捜査に着手するかどうかを話し合ったことじたい、極めて異例でした。
当時の布施健検事総長と神谷尚男東京高検検事長は、その席上、「起訴できなかった時の責任は我々がとる」と悲壮な決意を表明した。普通、検察の上層部が「もっと慎重に捜査をしろ」と言うことはあっても、怯む部下に「やれ」と言うことはありません。それだけ、検察は徹底的かつ全面的に捜査する覚悟をした、ということです。
今回、東京地検特捜部の対峙する相手が、田中角栄元首相同様、政界の最高実力者の小沢(一郎)さんである以上、いまの樋渡利秋検事総長も、布施さんと同じような心境を抱いていると思います。
私は「起訴できなかった時の責任は我々がとる」との見解に対して、不信感を抱きます。
先ずは、「責任は我々がとる」とは一体どういうことなのでしょうか?
職を辞せばそれで住むと言うのでしょうか?
今回の小沢一郎氏の場合では、起訴できませんでしたが、「樋渡利秋検事総長も、布施さんと同じような心境を抱いていると思います」との「樋渡利秋検事総長」はどのような責任を取られたのでしょうか?
たとえ辞職されても、一度抱かされてしまった小沢一郎氏に対する不信感は、私達日本人全員の心の中からは拭い去ることは出来ません。
(何故なら、私は、今回の山岡氏の著作を読むまでは、田中角栄氏は金脈で汚れた金に汚い政治家との認識を抱き続けていたのです。そして、又、武田鉄也氏も然りだった筈です。そして、更には、多くの日本人も!)
更に不思議なのは、検察は「起訴出来たらそれで良し!」との認識を持っていることです。
この事は、「起訴出来たら、裁判では有罪率99%」と認識されているからでしょう。
恐ろしいことです。
更に加えますと、『週刊金曜日(2010.1.29号)』には元検事の郷原伸郎氏(名城大学教授 弁護士)が「小沢の「罪」とは何か」との次のような記事を載せておられます。
……石川議員の逮捕前から行なわれている本件に関連する報道によると、水谷建設が国発注のダムの工事受注の謝礼として五〇〇〇万円を小沢氏側に渡したと元会長が供述しており、それが検察捜査の最大のポイントになっているようだ。
……
水谷建設元会長の供述の信用性には重大な問題がある。同氏の贈賄供述で立件された佐藤栄佐久前福島県知事の汚職事件では知事の弟が経営する会社の所有する土地を水谷建設が時価より一億七〇〇〇万円高く購人することで「一億七〇〇〇万円」の賄賂を供与したとの事実で現職の知事が逮捕・起訴されたが、一審判決で賄賂額は七〇〇〇万円に削られ、控訴審判決では「賄賂額はゼロ」という実質的に無罪に近い判断が示された。水谷建設元会長の贈賄供述のほとんどが否定されたに等しい。
また、同氏が脱税で実刑判決を受けて受刑中であることからすると、仮釈放欲しさに検察に迎合する動機も十分にある。このような供述を今回の一連の事件の核心的供述として扱うのは極めて危険だ。
このようにして「佐藤栄佐久前福島県知事」は政治生命を奪われましたが、検察はどのような責任を取るのでしょうか?
更に、水谷建設がらみです。
『週刊金曜日(2010.2.12号)』に佐藤優氏と小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」をめぐる事件では、水谷建設から裏金5000万円を受け取ったとして追及された衆謙院議員の石川知俗氏との次のような会話が紹介されていました。
翌二月六日(保釈された翌日)、筆者(佐藤優氏)は石川知裕氏と面談した。……
石川氏が、どうしても理解できないと繰り返して筆者に尋ねたのが、水谷建設幹部の裏金の話だ。
石川「一〇日を過ぎた頃から、担当の検察官の他に(特捜)副部長の取り調べが始まったんです。訊かれるのは水谷建設から君は五〇〇〇万円をもらったんだろうという話だけです」
佐藤「何か物証を示して追及してくるの」
石川「物証は示されませんでした。
ただ、検察は、水谷建設から僕に五〇〇〇万円が渡ったと決めてかかっているんです。僕は絶対にもらっていません。何で事実でない供述を検察は要求するのでしょうか」……
この石川議員は民主党を追われ彼も政治生命を失う危険にさらされています。
ところが、朝日新聞(2010年2月12日)には、「ロッキード事件「中曽根氏がもみ消し要請」米に公文書」との記事が載りました。
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。……
更に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次の記述があります。
中曽根康弘は自著で、事件当時のジェラルド・フォード政権の国務長官であったヘンリー・キッシンジャーが東京に来た際、『ロッキード事件をあのように取り上げたのは間違いだった』と中曽根に語り、「キッシンジャーはこういうことはやるべきでなかったと反対したらしい」と記述している。さらに同著では「ロッキード事件の原点は角栄の石油政策にある」とも述べている。
更に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、キッシンジャー氏に関して、次の記述があります。
大学院在学時には指導教授であったウィリアム・エリオットの庇護を受け、世界各国の有望な若手指導者をハーバード大学に集めて国際情勢について講義や議論を行なうサマー・セミナーの幹事役となり、国内外にその後のワシントン入りにもつながる人脈を形成した。日本からの参加者としては、中曽根康弘元日本国首相(当時衆議院議員・改進党所属・当選4回、1953年参加)などがいる。
このような記述、又、山岡氏の今回の著作を読んでいますと、イラク戦争勃発時に、米国側からの次のようなメッセージを思い出します。
日本の戦後の民主主義はCIAの傑作であって、イラクにも日本同様な民主主義を構築する。
これに対して、
日本の多くの知識人は、“日本は戦争前から民主国家であった”と反論されておられましたが、
米国側が築いたのは「CIAの傑作としての民主主義」だったのだ!
と思わざるを得なくなります。
そして、拙文《角栄、小沢、CIA(1)》にも引用させて頂きましたが、番組中の次の松原氏の発言。
小泉さんは田中さんの大掃除を、田中派を追い出すと言うのが彼の構造改革であり、小泉さんの目的だった。
そして、ここで田中角栄的なものがなくなったので日本は世界に出ると言うのが、普通、世の中で言われている公式のストーリーなんですが、本当にそうだったんだろうか?
この「田中さんの大掃除」を“自民党をぶっ壊す!”と掛け声を上げつつひとりで奮闘した元首相小泉純一郎氏の力の源は、何だったのでしょうか?
更に、書き加えさせて頂きますと、番組中、
“食料は国内で作ることが出来ても、資源は作れない!”
と発言もされておられました。
以上3通の拙文は、「最初に井戸を掘った人を忘れない」の感謝の思いを、遅蒔きながら、今は亡き田中角栄氏に捧げたく存じ、山岡氏の著作から引用させて頂きつつ、書き続けました。
(追記)
私が、近くの本屋さんに『田中角栄 封じられた資源戦略(山岡淳一郎著)』を買いに行ったら、“在庫がありません”でした。
昨年の11月に3冊入荷し、1冊売れ、12月には残りの2冊を返品したそうです。
なんと悲しいことではありませんか!
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