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2010年12月16日
筆者は民主主義で資本主義な日本で生を受け、現在まで生きている。その上、憲法で自由主義をも認めて貰い、申し分この上ない生活を送っている。個人的生活と云う次元では、文句の一つを考えることすら難しい。
しかし、最近、心が晴れることはない。特にうつ病と疑われる症状があるわけでもない。まぁ厳密な心理検査などで、人を病人にする趣味のある精神科医にでも出遭えば「軽度の鬱傾向がありますね。一番軽いお薬出しておきましょう」などと言われるかもしれない。(笑)
どこがどのように晴々としないのかと云うと、多分日本で起きている様々な出来事を見て、そう思うのだ。そんなに多くの人々を知っているわけではないので、個々人の話ではない。あくまで、総体的な日本人に関して晴々としないのだ。
筆者の性格がひねくれているからと云う見方も可能だ。しかし、病的に斜めからしか物事が見えないほど酷くもない。勿論、その晴々としない日本人の一人として筆者自身もいる。
では日本人のどこの部分が一番気になるかと云うと、最後の世界大戦に敗北し、敗戦国となったと云う烙印が我々の頭の上に覆いかぶさっている事ではないか、とさり気に思うのである。この部分を日本人が自分たちの力で取り除かない限り、敗戦国・国際連合の敵国条項のレッテルがついて回り、国際的に独立国家として認知されない無力感があるのではないかと思うのである。
日々の生活の中で敗戦国とか、それによる不利益とか差別を感じるわけではない。
外交であるとか、防衛であるとか、国際協調とか、そういう政治分野の問題を観察する時に、つくづく、敗戦国と云う重しが、我々日本人の思考に様々な条件が突きつけられているように感じる。多くは、米国からの圧力と云う形で現れるのだが、09年政権交代を前後して、そのステルスのようだった圧力が、あらゆる局面に姿を現すようになっている。
最近の40代以下の人の中には、そんな敗戦国意識なんて全然ないし、仕事をしていても感じることはない、と断言する人々が増えている。敗戦を体験、乃至は影響を受けた層でも、その昔、そんな事があった位の記憶になっている人々もいるだろう。
たしかに、経済や科学や文化の面で、この敗戦国というレッテルが非常に大きな障害になることはない。しかし、三権(司法・行政・立法)と云う国家権力の中で、敗戦国の影響は未だに大きい。ここで特に声を大にして叫ばなくても、感じる人は感じている。
この敗戦国故の影響は必ずしも全てが目に見えるわけではない。官僚制度などは、敗戦に関わりなく明治政府から営々と続いていると云う見方も出来る。しかし、敗戦後、戦勝国である米国によって、その官吏としての矜持は変質した。戦後の経済復興が官僚の意識も変え、経済成長主体の官僚組織に変貌していった。勿論、功罪相半ばする話であり、善悪の問題ではない。
日本は国体を立憲民主主義におくわけだが、立憲の基礎となる日本国憲法が成立した経緯、そして現実的解釈の場では、我が国の三権機関を通して、「戦勝国の国益」が優先させられている。勿論、多くの宗主国からの無謀な要求の幾つかは、立法・行政・官僚組織の抵抗で戦勝国・米国が妥協することはあったが、方向性は常に民主主義の堅持と云う美名のもと、「米国の国益が優先」された。
この米国の国益と云うものが常に安定したものなら、国民もその奔流に気づき、何らかの異論が噴出するのだが、米国の国益は4年から8年のサイクルがあり一定しない。大統領が変わるたびに軸足がチェンジし、風向きを変えるので、想像以上に気づきにくい。
戦後60年、米国の国益に翻弄されながらも、戦勝国と敗戦国の支配関係は、経済・防衛の分野で、それなりに有効に機能していた。しかし、その支配・被支配関係の有効性は、東西冷戦と両国の経済成長に裏打ちされたものであった。この二つの良好な関係を維持するファクターが失われたのが現在である。
米国が日本を支配する重要なファクターが消失し、日本も隷属する大義がなくなったわけだが、戦後60年間以上続いた腐れ縁は、おいそれと離婚を申し出ることさえ憚られる如く外堀が埋められている。精々、家庭内別居を申し出てみると、夫のDVが炸裂しそうな按配になり、別居の話さえ立ち消えになりかけている。時に夫は、一人で暮らす怖さを妻に例示しながら、「だから多少の不満は甘受するのが賢明だ」と諭すのである。
しかし、この腐れ縁というもの奇妙な魔力を持っているので、麻薬依存のような症状に陥ることもある。変わらない日常と云う麻薬の怖さである。
つまり、この変わらない日常が60有余年にわたり享受した被支配国日本をかなりの部分を覆っている。国体の三権だけへの影響ではない、経済界、学界、法曹界、言論界に及び、また一般の生活者をも波及的にカバーしているのが現状だ。
将来の破綻が頭で理解できても、今日この日を生きる為に、将来不安はさておいて、60年一日の如き日常を送ろうとしているのが、今の日本であり、日本人なのではないだろうか。 このような将来不安に目を閉ざし、目の前の日常を消化する処に、筆者は日本人の閉塞感の元凶が存在すると考える。
おそらく、日本人の多くは、このような被支配国であるにも関わらず、その既得権益の中で、多くの人が一定の利益を享受し、現在も享受していると云う問題もある。この一定の利益の分配に与かっている人々が国民の半数以上に昇る現在の日本の状況は、支配国の統治が上手く作動していると云う皮肉な事実にも出遭うのである。
その分配が幾分不公平であっても、国民が現実の国家構造で利益を得ている事実は重い。その僅かであっても配分利益を失うような、国家改革を嬉々として受け入れる土壌が育っているとは言い難い現実がある。セーフティーネットから運悪くはみ出してしまった人々にスポットを当てれば、如何にも国民の多くが酷い目にあっているかのように見えるが、実は他人事として、画像に映し出された異次元の世界を眺めているだけと云う状況のようだ。
しかし、日本人の心は晴れ晴れとしていない。それが将来への不安であることはたしかだ。そして、その不安を打ち消す些細なアリバイを求め、一喜一憂しているような気がする。
人間が衣食住で生きると云う状況を一定の範囲で満足させられ、確実に来るかもしれない将来的危機に眼を閉じる状況が、今の日本の閉塞感であり、政治の混迷かもしれない。
今は大丈夫です、多分明日も大丈夫です。ただ10年後のことは不安です。でも、それを考えると憂鬱になるから考えません。筆者の社会学の真似ごと分析が正しいとは思わないが、現在の我が国を考える一つの切り口ではあるだろう。
この考えを、現在の政治の状況に合わせて考える時、あらゆる政治家はどんな切り口で、政治家としての選択眼を持つのか、極めて興味深い。特に、民主党の政治家が、どのように日本をみつめ、どのように行動するのか、今後も注視していきたい。
政治と云うもの、どうしても過程が大切になる。強烈なイニシアチブを取るにしても、プロセスのアリバイが必要だし、大義も必要になる。民主党の権力闘争は、此処2週間が山だが、ドラスティックな新党が誕生するまでには、まだまだ紆余曲折がありそうだ。
人間と云うもの、「現実と理想」「今日と明日」この繋がっているようで必ずしも連動し切れない問題がテーマで生きて死ぬのだろうか、とフト考えるのだが、皆様はどのように考えられるのだろう。
今夜は生臭い政局から一歩離れて、青春気分になっている。政局で熱く燃えている方々には、ツマラン!お話かもしれない? では、おやすみなさい
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