http://www.asyura2.com/10/senkyo101/msg/723.html
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■[自戒的妄想]『ゾンビ(新自由主義)vs幽霊(人間のための自由原理)』間に横たわるバカの壁
<注記>お手数ですが、当記事の画像は下記URLでご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101210
【プロローグ動画】Lara Fabian - Broken Vow
[http://www.youtube.com/watch?v=ogpeU3s8U2I:movie]
【プロローグ画像】仙台・光のページェント、ア・ラ・カルト
[f:id:toxandoria:20101210140515p:image]
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【エピソード1】[12/4国民より早く総ゾンビ化して『亡霊と対話できる政治家』がいない日本の危機、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101204]へのコメント&レスの転載
(01. 2010年12月04日 09:33:02: Ej0cudfyKw)さま to toxandoria
こういう観点でもウェブボットとか面白いですね。
toxandoria to (01. 2010年12月04日 09:33:02: Ej0cudfyKw )さま
おっしゃるとおりだと思います、アカデミズム総がかりで、ゾンビではなく<幽霊・亡霊>の意味を探って欲しいものです。
(03. 2010年12月04日 12:44:47: B7aG6HA2Ps)さま to toxandoria
以前読んだ本、小田光雄著『〈郊外〉の誕生と死)』で、”ゾンビ”とは消費者の隠喩である、とか言ってましたな。とすると、コジェーヴが「歴史の終焉」の後の、人間の「動物化」と言っていた<消費者>=「アメリカ的ライフスタイル」との絡みでは、どのように言えるのでしょうか?
また、「歴史の終焉」(コジェーヴを介したヘーゲル解釈)との絡みでは、どのように言えるのでしょうか?
toxandoria to (03〜04 B7aG6HA2Ps)さま
ゾンビとはいえ、それに世代交代があり得るとしても、『ゾンビ』が永遠に死を意識できぬのに対し『亡霊』は死者の残り香の如きもの(歴史・文化の世代間継承の謂い=人間のための自由原理)ですが、フェノメナルな意味の『亡霊』(人間のための自由原理を求める意志)は死を意識する生身の人間の中にこそ存在します。
米国型ライフスタイルが、その新植民地主義(米国流リバタリアニズムを淵源とするネオリベ・ネオコン的発想による自由・平等のための聖戦行動)の賜物であるとすれば、紛れもなく日本が米国の植民地であるが故に、アメリカン・スタイルの郊外型ショッピングセンターに集う消費者は『ゾンビ』(ただし、彼らの倫理観の是非を問うべき問題ではなく、彼ら無辜の人々のゾンビ化を押し進めるネオリベ思想こそ糾弾されるべき)です。
また、ネオリベ型資本主義(新植民地主義)は「人間の内外の生態空間」を全方位から攻略・浸食し、その触媒機能と母体空間(生命体の胎盤&揺藍機能)までをも根こそぎに捕捉・消費しようとします。
そして、これらのことごとくが市場原理の捕食ターゲットとして狙われていることを思えば、コジェーヴの「歴史の終焉」における人間の『動物』化(このレベルでは未だ生命体であるが・・・)すら甘い予測に見え、現実は死を意識できぬ『ゾンビ』化へ進むと思われます。
(06. 2010年12月04日 19:47:34: uLiReJ83b29) to toxandoria
>『亡霊』は死者の残り香の如きものですが、フェノメナルな意味の『亡霊』は死を意識する生身の人間の中にも存在します。
ナルホド、とすると、ある種の<集合的無意識>と考えた方がいいのかな?
>ネオリベ型資本主義は「人間の内外の生態空間」を全方位から攻略・浸食し、その触媒機能と母体空間(生命体の胎盤&揺藍機能)までをも根こそぎに捕捉しようとします。
それは、我が問題意識に照して、実に良く解かります。
冷戦の終焉と殆ど符節を合わせるようにして出て来た「利己的な遺伝子」(R・ドーキンス)の言説に接して、我が学生時代に猖獗を極めた構造主義のいう「人間の死」ということが、具体的な恐怖として感じたことを思い出します。
問題意識を共有する同志として、貴殿の言説を注視していきましょう。
【エピソード2】不均衡進化論の卓抜な仮説、ゾンビと人間の間に横たわるバカの壁を超克する生命意志(フェノメナ)の可能性が含意すること
たまたま、発生生物学者・古澤満氏の新刊『不均衡進化論、Disparity Evolution』(筑摩書房)を読んだので、連想・妄想したことを以下に纏めておく。
・・・・・・・・・・
カントの『純粋理性批判』ではないが、菅民主党政権は基本的に現実の多次元性(上位⇔下位次元の揺らぎ=人間の生命と国民感情の在り処、実相)への理解が徹底的に欠落(大きなバカの壁が存在)しており、その<ゾンビ蛹(ネオリベのさなぎ)⇒ドラキュラ(ゾンビ癌化)>への面妖な変態振りは、あの小泉ネオリベ政権のハチャメチャ暴走ぶりと酷似してきた。
因みに、古澤満氏によれば、上掲書の中でカントは「一次元の情報は一次元の現象でしか規定できない」としている。これは、例えば“一本のレール上を同じ向きに走る二台の新幹線・列車の位置を入れ替えるには、線路をループ状(二次元)にするか、車体そのものを起重機で吊り上げる(三次元)など、次元を上げる以外に方法はない”ことを意味している。
ともかくも、ここまで混迷を深め、傲慢(ゾンビ=論理的自我方向への過剰デカルト的設計主義にのぼせ上ったあげく新自由主義の押しつけマシン)化して「無辜の国民」(ゾンビ成分と幽霊成分が浮動・共存しつつ現実を生きる生命的存在)を大いに犠牲にしてしまった以上は、0次情報・次元(現実)レベルについての発想転換ができない菅民主党政権は、懲罰的意味でも、もはや自滅するしか道はないと思われる。
つまり、それは、この菅直人・小泉純一郎ら市場原理主義者(米国ネオリベ・シンパ)らの大失敗の原因が、無辜の国民(ゾンビと幽霊(世代間で継承されるべき歴史・文化の象徴であるとともに、人間のための自由原理を求める意志を持つフェノメナ的存在)両成分の混合・共存的存在たる生身の人間)のことごとくを<マネーゲーム経済の道具>と見立てる愚かさ(致命的バカの壁を背負うこと)にあると考えられるからだ。
本来は、国民の殆どを、喩えるならば<多細胞生物における幹細胞(受精卵)>に見立てるべきなのだ。仮に、個々の国民が<比喩的意味での“幹細胞(≒受精卵)化”>するならば、やがて彼ら一人ひとりが一騎当千と言わぬまでも、皆がそれなりに棲み分けつつ経済社会の役に立つ大きな活力源へと成長(有用な個々の五臓六腑へ分化)し得る筈だったのだ。
しかし、米国型ネオリベ政策の亜流政策(実は米国・新植民地政策の尖兵の仕事)では、菅・小泉ら市場原理主義ゾンビたちが望むとおりに、国民が総ゾンビ(超マネタリズム経済装置の画一化された使い捨ての小道具)化するのが当然だ。
そして、かくの如く菅・小泉ら市場原理主義ゾンビらが望む通りに国民が総ゾンビ(超マネタリズム経済装置&少数派実効権力層の小道具&奴隷)と化した暁には、それでもなお未練がましく国民国家を維持せんとする限り、<全国民を養うに必要なだけ超マンモス化した中央集権型の巨大政府(ゾンビ異常生命体と化したマネー量産装置と、それに寄生する実効権力層を養うため必要な“巨大五臓六腑”に相当する中枢財政処理装置)>が再び求められるのは必定だ。
それは<小さな政府>を標榜する菅・小泉ら市場原理主義者たちの決定的誤謬の行く末(日本崩壊とユートピアならぬディストピア到来)の恐るべき地獄絵図の実相だ。結局、それは、小さな政府を目指しつつ神の手(超自由原理主義、市場原理主義)に全権を委ねた結果、神ならぬゾンビ大王の軍門に下り、幽霊(人間の歴史・文化・生命の支えとなる国民・市民意識の世代間連続性、つまり人間の生命活動のための自由を求める意志)が絶滅するという大バカ政治なのだ。
いま、米国型自由原理主義に追い詰められたEU(欧州連合)が、ポーリッシュ・モデラティズム(シュラフタ民主主義、ポーランド型自由原理)へ真剣な眼差しを向けつつあると伝えられているが、そのポーランド型自由原理は、同じ自由原理でも新自由主義(≒リバタリアニズム)とは全く異質である。
米国型自由原理(ネオリベラリズム、リバタリアニズム)の特徴は、二者択一・弱肉強食のいわば「旧来型ダ―ウイニズム(適者生存をセントラル・ドグマとする進化論)」の一種である。一方、ポーランド(シュラフタ)型自由原理(ポーリッシュ・モデラティズム)の特徴を短く言えば、それは一回性の歴史経験の中でシュラフタ階層(現代的意味では中間エリート・指導層)が発見した「対世界&対生存&対生態環境の意味での相対的中立戦略」ということだ。
そして、先ず、このポーランド型自由原理(ポーリッシュ・モデラティズム)が分子生物学者・木村資生氏が説く「進化論上の中立変異説」(参照⇒http://www.nig.ac.jp/museum_080501/evolution/C/bunsi-02.html)に相似であることに注目すべきだ。そのうえ、ポーランド型自由原理の発想が、伝統進化論に潜在してきた、世代間の生命継承・持続に有効なもう一つの戦略と見なすことが可能な、発生生物学者・古澤満氏の『不均衡進化(Disparity Evolution) 』の仮説に、酷似することにも驚かされる。
木村資生氏は<たんぱく分子・遺伝子レベルでは“中立という、もっとも自由な世界が存在する>ことを説いている。例えば、その「中立的な意味での自由原理」は、遺伝子の間を埋めるイントロンなどのジャンク遺伝子(ゲノム全体の95%を占める)の“表面的に見る限り、一見では何の役に立ちそうにもない<ゆとり=無駄> ”でこそ体現されていると言うのだ。
これは、リバタリアニズム&マネタリズムの暴走が投機マネー拡大の欲望を満たすため「人間の生存条件たる生態空間=生命の生命たる所以を支える自己言及的意味での内面空間も含む」まで全方位から根こそぎ攻略・浸食し、エンドレスに生命を紡ぐための触媒機能と母体空間(生命体の胎盤&揺藍機能)までをも根こそぎに捕捉し、更なる投機マネーのタネに換えようとする全ゾンビ化戦略(完璧なデカルト的設計主義のセントラルドグマ)の世界に追い込まれているのとは大違いな、もう一つの、本当に人間のためになる自由原理があり得ることを見事に傍証している。
因みに、古澤満氏の『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説の要点を纏めておくと、次のようなことだ。
【参考動画】DNA Replication Process
[http://www.youtube.com/watch?v=teV62zrm2P0:movie]
生物が進化する途上での変異の大部分は、DNA複製の過程で生じる。そして、一本のヒストンに巻きついた二本のDNAがほつれ(ほどけ)て複製されるとき、「二本の鎖」のうち一方は連続して複製される「連続鎖」となるが、もう一方は複製酵素の特異性で連続鎖と同じ方向へ鎖を伸ばすことができないので、断片状に複製されたもの(岡崎フラグメント)が結合されて一本になり複製が完成することになり、これは「不連続鎖」と呼ばれる。
このうち、「連続鎖」は変異の発生が極めて小さく、つまり保守的である。一方、「不連続鎖」は「連続鎖」合成に比べてDNA複製プロセスがかなり複雑になるため作用する酵素の種類数も多くなり、それだけ変異の発生可能性が大きく、つまり革新的であるということになる。そして、変異の発生が比較的大きいが環境変動のない場合には変異発生の小さい「連続鎖」側により現状が維持(保守)・継承される。
他方、もし大きな環境変動が発生した場合には、変異発生が大きい「不連続鎖」側で変動に合わせる形で<変異の閾値>を作用させて問題の解決を図る(本源部分も保守しつつ変異に併せた全体の進化プロセスを次世代へ繋ぐ)ということになる。詳細は省くが、「変異の閾値」とは遺伝情報が存在し得る一定数値の範囲のことで、変異がこの閾値を超すと遺伝情報は融解し<カオスの海>に沈む(アダムスミス又はネオリベ流の市場原理の如き自然選択、つまり神の手に委ねられるため制御不能で大きなダメージを受けるか死を意味する)ことになる。
しかし、古澤満氏は、そう簡単に遺伝情報が<カオスの海>に沈む訳ではなく、自然選択(神の手)の役割とともに、木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中立進化説)、あるいは「不連続鎖」側での<変異の閾値>を作用の可能性が重要だとする。そして、古澤満氏は、この「不連続鎖」側での<変異の閾値>の作用を『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説と名付けた訳だ。
この『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説を正確に理解するには、古澤満氏が種の進化過程における遺伝情報の流れ方について想定した二つのモデル、「均衡変異モデル(従来型ダ―ウイニズムのセントラルドグマ)」と「不均衡変異モデル(Disparity Evolutionの根幹)」の違いを知る必要があるが、余りにも煩瑣になるので、ここでは説明を省かざるを得ない。
ともかくも、古澤満氏は『不均衡進化(Disparity Evolution) 』のことを「元本保証された多様性の創出」とも称していることに注目すべきだ。これを平たく表現すれば、「保守すべき価値感および人間としての最低限の権利、歴史・文化、自然・生態環境、モノ、情報などは確実に守りつつ、大きな環境変化にも耐え得る革新性を何時でも発動できるように常時スタンバイすべきであり、又そのようなスタンバイを可能ならしめる知恵をメンバー間で共有し、かつ若者・子供・子孫等へ確実にそれを継承することが肝要」だということになる。
更に、忘れてならないのは木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中立進化説)だ。それによれば、既述のことだが、その「中立的な意味での自由原理」は、遺伝子の間を埋めるイントロンなどのジャンク遺伝子(ゲノム全体の95%を占める)の“表面的・外見的に見る限り、一見では何の役に立ちそうにもない<ゆとり、言い換えれば無駄、無能力、遊び、ノンセンス>の部分“に体現されていると言う現実があることだ。
驚かされるのは、ここで古澤・木村両氏が説明する進化論についての新たな可能性を暗示するニュー・セントラルドグマが、あの「ポーランド型自由原理」にソックリ重なるように思われることだ。たしかに、「ポーランド型自由原理」には一種のアリストクラシー的・エリート主義的な側面があるので、一部の方々からは“ソレは民主主義ではなく保守・反動だ、toxandoria は守旧派か保守反動派へ退行・退化したのではないか”との御指摘があるようだ。が、自分では些かなりとも“進化”した(幽霊というコトバが含意する、フェノメナとしての生命意志なるモノの理解へ一歩でも近づけた)のではないかと思っている。
ともかくも、よく考えてみて欲しい。ドウンス・スコトウス(Johanes Duns Scotus/ca.1265-1308/参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050425)まで遡ると見なすことも可能な「絶対的に正しい人間の自由意志」を巡る議論は、あくまでもデカルト的理性(数学的観念にも似た理性)に関わる話だ。屁理屈と言っては失礼になろうが、世界で最強の知性たちのとどのつまりが米国型新自由主義とリバタリアニズムの絶対勝利(フランシス・フクヤマ的な意味での歴史の終わり)だというのでは、それは余り褒められることではないだろう。そのうえ、過半以上の国民にとっては「絶対的に正しい自由意志」の是非を巡る議論などは殆ど無縁なことであり、全宇宙の真を表すとされるオイラーの恒等式(下記)が、いくら美しかろうが、大多数の無辜の国民にとり、それは殆ど無縁なことではないのか。
だからこそ、その意味で大方の国民層は“無辜”な存在なのだ。しかし、その意味での“無辜”という現実は、木村資生氏の「中立的な意味での自由原理」(中立進化説)に依れば、DNA複製の過程における非常に有意で見事な進化論的戦略ということになるのではないか。この観点からすれば、「ポーランド型自由原理」が、超観念&デカルト的・超設計主義的な「新自由主義思想」の脆弱さ、非人間的な側面を補うのに余りある非常に現実的な考え方(知恵)であり科学思想であることが理解できるはずだ(ただし、この『不均衡進化(Disparity Evolution) 』仮説が科学的に真であるためには、これから更に多様な側面から、その正しさが実証されなければならないが・・・)。
【エピソード3】チャルマーズ・ジョンソン死去の報に接して/01.09.11・NY同時多発テロの昨今的意味
世界の最先端を行くアメリカ流ネオリベ型モダニズム、実は新自由主義と軍事力を光背(殆ど神憑り的な暴力(ファスケス)的絶対権力の旗印)とする新植民地主義、つまりゾンビ(民主国家の国民ならぬ米国ネオリベの論理を絶対視するまで奴隷化した人間)量産によるネオリベ型植民地支配)が、結局は<9.11の悲劇>をもたらしたとの認識に基づく自著『歴史の終わり』への反省から、フランシス・フクヤマが「真の自由とは、人間社会で最も大切にされている価値観を政治の力で守り抜く自由を意味する」と語ったとされる(出典⇒◆
http://www.kuniomi.gr.jp/togen_home/geki/iwai/bunkati.html)。
ところが、これは真に驚愕すべきことなのだが(そして、上の記事◆の筆者自身がそれに気づいているか否かは確かめようもないが・・・)、このフランシス・フクヤマの反省の弁は、ポーランド型自由原理の意味(=一般国民に対し責任を負うべき中間エリート層(ポーランドではシュラフタ精神を自覚する指導層の人々のこと)には、必然的に暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味で徹底した自由を行使する権利があるとする考え方)にピタリと重なるのだ(ポーランド型自由原理の更なる意義については下記★を参照乞う)。
★何もしたくない閣総理大臣コト、菅直人首相へ贈るパロール、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101118
★ディアローグ的論考、米国型自由原理(連帯分解・孤立型)を一気にコペルニクス的転回させ得るポーランド型自由原理(連帯持続・深化型)のユニークな意義、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101115
★点描ポーランドの風景/ヴロツワフ編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100819
そして、これは真に皮肉かつ悲劇的なことなのだが、又これほど甚大な惨劇(01.09.11・NY同時多発テロ)の犠牲を経て、漸く<ポーランド型自由原理に近い、もう一つの自由原理があり得ること>に気づいたフランシス・フクヤマ(冷戦の終結で米国ネオリベ型モダニズムの勝利を確信・盲信し、傲慢にも歴史の終焉を宣言していた!)は余りにも呑気な学者というべきではなかったのか。それに比べれば、惜しくも去る11月20日に急逝した国際政治学者で東アジア地域の専門家チャルマーズ・ジョンソンの慧眼には頭が下がる思いがする(チャルマーズ・ジョンソン逝去に関連する情報は下記を参照乞う)。
▲チャルマーズ・ジョンソン死去 アメリカ共和国最後の日々(Democracy Now)、http://democracynow.jp/video/20101122-3
周知のとおり、冷戦時代には米中央情報局(CIA)のアレン・ダレス長官の顧問を務め、ベトナム戦争を支持するなど保守タカ派として出発したチャルマーズ・ジョンソンは、後に一転して、米国の軍事主義・帝国主義の有力な批判者となった人物である。2000年に発表した『アメリカ帝国への報復』は9.11後にベストセラーとなったが、このチャルマーズ・ジョンソンの著書はアメリカの海外での軍事活動はいずれ報復を受けるだろうと警告しており、その緻密な論証による予測の的中には驚かされた。
ともかくも、日本の政治家と日本人の多くは、米国を代表する大政治学者とされるフランシス・フクヤマが9.11後にして漸く気づいた<米国型とは異なる、ポーランド型自由原理という、もう一つの自由原理があること>に一刻も早く覚醒すべきなのだ。さもなければ、“何もしたくない閣総理大臣”と揶揄されつつ、天井にへばりついたヤモリの如く、首相の座に縋りつき続ける菅ゾンビ首相の後継ゾンビたち、つまり米国仕込みのネオリベ型ゾンビらが次から次へピョンピョンと漆黒の不気味な巣穴から飛び出すのに打つ手なしの状態が永遠に続く「ゾンビ国家・日本」という(本格的ゾンビ型植民地へ“進化”する)ことになるだろう。
・・・・・・以下は、[2010-11-30 /TV・新聞・端末等「俗物教養」が騙る無目的な「知の切断」でリバタリアン・ゾンビ化する日本国民、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20101130]の[1 デカルトの自我(Je/Ich)に隷属する前意識の系譜]の再録である・・・・・
1 デカルトの自我(Je/Ich)に隷属する前意識の系譜
三十年戦争を終わらせたウエストファリア条約(1648)が、ローマカトリック教会と政治権力(絶対王権)を分離し<社会契約>説が確立するが、その契約上に推戴される王権(議員内閣制における王権)は、それでもなお超越的神の権威(虚構の権威づけ)を求め続けていた。それは、今なお「八紘一宇の美しい国」なるものを信奉・希求する勢力が日に陰に跋扈する我が国においても、未だに言えることだ。
フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序再建と領土配分を目的としたウイーン会議(1814-15)が創設したドイツ連邦諸国では封建領主の支配が続くが、社会改革で先行する当時のフランスでは「七月革命」での王政復古を経て<資本主義マネーの製造器>たるブルジョアジーの“我らこそ国家主権者なり”という民主意識(王権に対峙する『我』意識)が次第に高揚していた。
この流れの中で市民主体(国民主権)の民主主義による国家統治の要求が高まり、「パリ・二月革命」(1648)は全欧州で<民主主義を求める革命(ウイーン・ベルリンなどの三月革命)>へと拡大した。が、この流れ自体に遅れていたドイツでは、18世紀末頃から、統一国家樹立を急ぐ動向が加速してきた。
[f:id:toxandoria:20101130120622j:image]ところで、J.G.フィヒテ(1762 -1814)が『ドイツ国民へ告ぐ』(Reden an die Deutsche Nation)の講演を行った(1808)のは、丁度、その「ナポレオン戦争」(1803-1815)のプロセスでの劣勢による屈辱感が漂う(1807年のテルジット条約で領土が半減し、ナポレオンの意志によるポーランド・ワルシャワ大公国が成立した時に当る)ベルリン科学アカデミーに於いてであった(J.G.フィヒテの画像はウイキメディアより)。
そこで、フィヒテは「最もドイツ的な存在はドイツ人の最初の文化的流出(Abfluss)である言語、つまりドイツ語」だと言明した。そして、これは「我(自我=Ich)」に関する、それ以前からのフィヒテの諸考察の必然的帰結であり「起源的人間論」とも呼ばれる考え方だ。現代の視座からすれば、このような帰結は詭弁または虚構論理の結果に過ぎないと思われるのだが、その後、これがデカルトの「我想う=cogito、Je pense、Ich denke」に対応する、現代的で重要な論理としてドイツ民族主義を煽ることになる。
[f:id:toxandoria:20101130120708j:image]プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、前期哲学(消極哲学/存在とは何かが課題の時期)から後期哲学(積極哲学/存在の様態とは何かが課題の時期)へと変容する大きな射程のシェリング哲学を誤解した可能性があるが、フリードリヒ・シェリング(1775−1854)が、ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)への防波堤の役割を期待されベルリン大学へ招聘されたのは1841年で、シェリングが69歳の時であった(フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の画像はウイキメディアより)。
ヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)は、歴史を多様で合理的な因果可能性の一つに過ぎないと見る極めて客観的な立場で、この先進的な考え方はその後の「普仏戦争」(1870-71)の勝利に湧くプロイセン王国の一般的歴史解釈(プロイセンがフランスに勝利したのはプロイセン(ドイツ・ゲルマン)文化の対仏優秀性の証と見なす)に対する厳しい批判の立場を先取りするものであった。
[f:id:toxandoria:20101130120751p:image]シェリング哲学の前・後期を分ける名著『人間的自由の本質(1809)』(この本の詳細については後述)を読めば、矢張りフリードリヒ・ヴィルヘルム4世による都合のよい(シェリングの「我=Ich」には自己自身を完璧な自由意志だと見なす特徴がある点についての)シェリング解釈では?と感じられるが、それはともかくも、シェリング哲学はプロイセン王国にとって好都合なフィヒテ流の“我想う故の正統な王権(Ich denke, weil wir eine legitime Souveränität sind.)”の根拠とされた(シェリングの画像はウイキメディアより)。
フィヒテの「最もドイツ的な存在がドイツ人の最初の文化的流出(Abfluss)である言語、つまりドイツ語」だという言説は、その“最もドイツ的な存在”の部分が殆どデカルトの「我=Je/Ich」に重なると見なせるが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が誤解した(と思われる)、このシェリング哲学の文化的流出(Abfluss)についての言説は、いわば後にフロイトが名付けた「前意識」((Je/Ich)との結び付きが、無意識より強いと考えられる)を意味する、「それ(エス/das es)」の一部分に相当する概念だと言うこともできるだろう。
いずれにせよ、ビスマルク(1815 -1898)は、シェリングによって「ドイツ的なものと同一視された前意識」たる「それ(エス/das es)」を政治的な意味で見事に利用することになる。1848年の<三月革命(フランスの二月革命がウイーン、ベルリン、ドイツ諸邦各他へ伝播した)>の後に、ヴィルヘルム1世の下で首相になったビスマルクが「普仏戦争」(1870-71)の勝利と「ドイツ(第二)帝国」の成立(1871)を実現したことは周知のとおりだ。
[f:id:toxandoria:20101130120846j:image]その、ビスマルクが折りにふれて「もう一人の男(andere Kerl)」あるいは「それ(das es)」という言葉を使ったことが知られている。例えば、プロイセンがナポレオン3世を破った直後の1870年11月1日に次男宛てに書いた手紙には次のようにある。・・・私は喜んで眠りたいのに、いっこうに眠れそうにない。だが、眠らねばならない。『それ(das es)』(つまり前意識のこと)が私の中で考え、思索する・・・後、略・・・(出典:互盛央『エスの系譜』-講談社-/ビスマルクの画像はウイキメディアより)
・・・・・・・・・・
<参考>ビスマルクの「それ(das es)」が明治期以降「日本の歴史病」へ与えた影響、F.K.サヴィニーの役割
[f:id:toxandoria:20101130121020j:image:right]ビスマルクの登場に先立ち、「歴史法学」の創始者たるF.K.サヴィニー(F.K.von Savigny/1779−1861)が、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の懇請を受け「立法改革相」(実質的な宰相)に就任し、彼が逝去した1861年にはその功績を記念する「サヴィニー財団」が創設された。ここからは、今も続く法史学雑誌「Zeitschrift der Savigny‐Stifnung f. Rechtsgeschichte」(参照⇒http://www.fachzeitungen.de/seite/p/titel/titelid/1008936214)が刊行されている(サヴィニーの画像はウイキメディアより)。
たしかにサビニーの功績はこのように偉大なものであるが、サビニーの思想の根本には歴史を遡れば民族と法律が協働して法形成に参与した時代(慣習法の時代)がある”という基本があること、およびサビニーが歴史と法の関係について次のように両義的な言葉(国家の主権者は正統な国王かor一般国民か?)を残しているのを見逃すべきではない。・・・『法の素材は国民の全ての過去によって与えられており・・・途中略・・・それは国民自身の最も内奥にある本質とその歴史から生み出される』
また、もう一つ忘れてならないのは、19世紀ドイツが“真の統一国家を急ぎ模索する中で過剰なナショナリズム(民族国家主義)が沸騰した時代でもあった”ということだ。無論、この背景には、フランス革命の余波(ナポレオン戦争)とイギリスの産業革命が刺激となり、近代的な統一国民国家を急いで実現しようとする焦りの如き意識がドイツ人の中に高まったということもある。
そのように純粋な「ドイツ民族精神」の高揚とは背反することなのだが、1789年の大革命によるフランスの国民国家成立に遅れをとった当時のドイツの人々が精神の拠り所としたのが、すでに遠い昔の「ウエストファリア条約(1648)」で消滅したはずの、多民族国家たる『中世ドイツ(第一)帝国』(神聖ローマ帝国)の「栄光」であった。
しかも、このように混沌たる状況の中でこそ、偉大なるプロイセン・ドイツの法学者・宰相サビニーは、「ゲルマン民族の純血と伝統精神への激しいまでの憧憬」と「神聖ローマ帝国の栄光に満ちた国制の復権」という二つの政治的原理をアウフヘーベン(Aufheben)することで、プロイセン・ドイツのナショナリズムに新たな熱気を吹き込む「新しい国家理念の創造」に成功していた。
そして、誤解を招かぬように言わねばならぬが、この時代のプロイセン社会の中には既に「ナチズムに親和するような空気」が微かながらも漂い始めていたのである。ここで付け加えるべきは、「民族の歴史」や「民族の精神」そのものは悪でも何でもない当然の存在であり、それを<民族文化と歴史の総体>から切断して純粋培養しようとする如き政治哲学、あるいはアカデミズムの立ち位置こそが問題と考えるべきだということだ。
ともかくも、このような空気の中で、やがて1850年(国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世、宰相サヴィニーのとき)に、王権に対する「授権規範性」が意図的に排除され、「ゲルマンの純血と民族・伝統精神」への憧れと「神聖ローマ帝国の栄光」の復権という二つの根本原理をアウフヘーベンした「新しいプロイセン・ナショナリズムの熱気」(ナチズムへ向かう予兆のような空気)が仕込まれた、あの「プロイセン憲法」が制定されたのであった(1871から、ドイツ帝国の開始とともにプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝を兼ねることになる)。なんと、これは、まさにあの<1791年5月3日憲法>に象徴される「ポーランド型自由原理」(シュラフタ民主主義、ポジティヴィズム型漸進主義)の対極にある歪み切った理念ではないか!
この憲法の大きな特徴は次の3点(★)にあるが、やがて、この独特の「プロイセン憲法に潜むナチズムへ向かう予兆のような空気」が、当時のプロイセンを訪ねた伊藤博文らを介して「大日本帝国憲法」のなかに流れ込むことになる。因みに、下記の三項(★)の中で<国王(皇帝)>を<天皇>に読み替えれば、そのままで「大日本帝国憲法」の根本理念となることにも驚かされるはずだ。例えば<国王(皇帝)の大権>は<天皇の大権>と同義になる。
★国王(皇帝)の権力は神の恩寵によって授与されたもの(神権政治としての最高権力)と規定されている。
★立法権は国王(皇帝)と両議院(衆議院・貴族院)が共同でつくるものである。(見かけだけの立憲君主制)
★しかし、行政権は国王(皇帝)のみにあり、国王(皇帝)は法案の拒否権を持つ。また、国王(皇帝)は緊急勅令を出すことができ、大臣を任免する大権を持つ。(国王(皇帝)の権力はすべての政治的権力の頂点にある)
ともかくも、1882年(明治15)に伊藤博文らは、「大日本帝国憲法」(1889年公布)起草の参考とすべく、憲法事情及び西欧各国の諸制度(軍制、法制、官僚制、機密事務を扱う官房など)の調査を目的に、ある意味で、このように異様な政治的空気が満ちた時代のプロイセン王国(その国王がプロイセン・ドイツ第二帝国の皇帝)を訪ねたのであった(更に、この論点についての詳細は下記▲を参照乞う)。
▲点描ポーランドの風景/トルン・マルボルク編、2010.7(ポーランドから衆愚政治に踊る日本への手紙)、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20100912
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[f:id:toxandoria:20101130121338j:image]ところで、当記事を書くヒントを与えてくれた『エスの系譜』(講談社)の著者・互盛央氏は、結局、デカルトの「Je pense, donc je suis/cogito ergo sum」は虚妄であったと断言されている。が、toxandoriaとしては、そう断言できるかどうかはともかくとして、少なくとも、「それ(エス/das es)」の流れの一つと考えられる<リヒテンベルク→フィヒテ→シェリング→ビスマルク→ヒトラー→(リバタリアニズム)=前意識の系譜>が、一種の政治的狂気(ファシズム、一党独裁的コミュニズム、ランディアン・カルトなど)にさえ繋がり得る<政治権力の暴走>へ<従属し易いという意味での脆弱性という弱点>が伴う点に注目すべきであろうと思っている。
なお、もう一つの「それ(エス/das es)」の流れである<リヒテンベルク→フォイエルバッハ→ニーチェ→フロイト=深い無意識の系譜>は、「前意識の系譜」と異なり、脆弱性どころか非常に強靭な安定を「人間社会全体」へもたらす一種のバランサー機能(オートポエーシス的な不均衡解消作用=DNAが自己複製プロセスで見せてくれる不思議なアーキテクチャにも似た/参照⇒http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/10/post_2e60.html)を秘めているのではないかと思われる。
つまり、人間の知覚と認識領域における、確固たる自我ならぬもう一つの「それ(エス/das es)」との強いシンパシー(sympathy)が求められる場面でこそ、例えば「ポーランド型自由原理」(ポーリッシュ・ポジティヴィズム=一般国民に対し責任を負うべきシュラフタ(中間エリート層)には必然的に戦争型の暴力性(ファスケス)を潜ませる覇権的大政治権力に対し民主憲法が定める授権規範を厳守させ得るという意味での徹底した自由があるとの考え方)あるいはハンガリーのマイケル・ポランニー(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20090804/p1)らのような<東欧型英知>の出番があると言えるのではないだろうか(無論、これは東欧型に限らず、アジア型など特に従来の歴史観では周辺・辺境として片づけられてきた所に似たような役割の英知が隠れていると思われる)。言い換えれば、それは、例えば「ポーランド型自由原理」には “人間の意識の集合体としての社会構造全体”を安定化させる働きが期待できるということである。
ともかくも、フィヒテ、ビスマルクらに見られる、かくの如き<歴史病(優秀な民族・文化の帰結こそが歴史だと解釈する歴史観>がもたらした国民的熱狂こそ(しかも、既に書いたとおり、この熱病は明治期に日本へ伝播・感染し八紘一宇の美しい神を奉る日本ファシズムの淵源となった)が、ヴィルヘルム1世(前出ヴィルヘルム4世の弟)を皇帝に戴く“純血で優秀なドイツ民族国家”たる「プロイセン・ドイツ第二帝国」(ヒトラー・ナチズムへの序曲)を実現したと言えるのだ。
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