http://www.asyura2.com/10/senkyo101/msg/601.html
Tweet |
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20101207/253934/
2010年12月8日
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長のリコール(解職請求)の賛否を問う住民投票が12月5日に行われ、リコールが成立した。新聞各紙は「強権市長」「独善的な市政運営」などと書き、竹原氏が非常に手前勝手で市長としてふさわしくなかったという内容で報じた。
激しく闘う市長と市議会
しかし、私は住民投票の結果を見て驚いた。竹原氏解職の賛成票が7543、反対票が7145。つまり、結果は僅差で、竹原市長を支持している市民が半分いることを知ったからである。
リコールをめぐる動きは名古屋市でもあった。河村たかし市長が市議報酬を半減する条例案を提出するなどして市議会と激しく対立。市長の支援団体「ネットワーク河村市長」は市議会の解散をもとめた市民の署名を10月4日に名古屋市選挙管理委員会に提出した。署名はリコールが成立する数を大きく上回る46万5000人に達していたが、無効が多いという理由でリコールは成立しなかった。
これらを見て私は、自治体では激しい闘いが起きているのに国会では全く見られないのはなぜだろう、と改めて疑問を持った
揚げ足取りばかりで中身のない国会
前回も書いたが、今日本が抱えている問題について、与党民主党も、野党である自民党も公明党もまともな議論をしようとしない。12月4日に閉幕した臨時国会において、自民党からも公明党からも「ノー」という言葉が出てこなかった。
繰り返しになるが、2010年度予算は歳入が37兆円、歳出が92兆円とアンバランスも甚だしい。企業ならとっくに経営が行き詰っているところだが、それを何とか辻褄(つじつま)を合わせようと、借金(国債発行)で44兆円、それでも足りないため11兆円の「平成の埋蔵金」まで充てている。
予算のバランスをとるためには歳入を増やすか、歳出を削減するしかない。ところが、自民党や公明党からも、そして民主党からも、歳入を増やすという意見は全く出てこない。歳出を削減するという意見も出ない。
各党の基本的な考え方はさほど違いがないものだから、国会では揚げ足取りばかりやっている。それも、やたらに声ばかりが大きくて、中身がない。それに比べると、阿久根市や名古屋市の闘いは中身が濃い。
エゴイストで主体性のない「国民」
なぜ、国会はこれほどまでに中身のない、空虚なパフォーマンスばかりを続けるのか? 私は、そこに「国民」と「市民」との違いを感じる。
国会議員が相手にするのは国民である。一方、河村氏や竹原氏は市民を相手にしている。もちろん、国民と市民とは、同一人物である。ところが、同一人物の中に、「国民」という半面と「市民」という半面がある。これが大いに違っているのではないか。
たとえば、民主党も自民党も公明党も、極めてアンバランスな予算について、歳入を増やすと言えず、歳出を削減するとも言えない。なぜか。選挙が怖いからである。歳入を増やすには、消費税率の引き上げということになる。一方の歳出を減らすのは、地方交付金、福祉や医療、教育にかける予算を削減するということである。そのどちらも言えない。言うと、選挙に負けるからだ。
「国民」とは、エゴイストで、主体性もない。国の借金が多すぎて、財政が破綻すると言われる中、国会議員が「歳入を増やすため消費税を上げる」と言うと即、「国民」は反対する。「歳出を減らすため福祉や地方への予算を減らす」と言うと、また反対である。この国民の反対を押し切れば、国会議員は選挙で負ける。
地域に密着して生活する「市民」
ところが「市民」の場合は、地方自治体という限られた地域に密着して生活している。
名古屋市や阿久根市をはじめ各自治体で財政赤字が多いとなれば、市民は赤字を減らさねばならないと主体的に考え、そして減らすためにはどうすれば良いか真剣に、積極的に考える。たとえば、その削減対象は市会議員の数であったり、自治体職員の数であったり、住民の福祉に関わる予算であったりする。
「市民」の場合は、市政や行政への監視の目が行き届きやすいのである。
横浜前市長の中田宏氏が言っていたことだが、彼が市長選に立候補したときの横浜市の財政赤字はおよそ5兆円だった。しかし、実際に市長になって財政状況を詳しく調べてみると、なんと財政赤字は7兆円を超えていたという。
中田氏は7兆円をどう減らすかを懸命に考えた。公務員の手当削減、水道事業の黒字化、建設入札制度の改革、横浜市立大学の機構改革などを行った。これには反対意見も非常に強かったが、費用を削減しなければならないと訴え、「市民」に納得してもらった。
私は、これを聞いて、「市民」は市の財政をよくわかっており、財政に対する責任も持っていると感じた。このままでは第二の夕張になる――そういう危機感を、横浜市民は市長と共有したのである
「国民的意識」から「市民的意識」に転換すべきだ
ところが、国についてはどうか。まず首相に「日本が第二の夕張になる」という危機感が全くない。そして、国会議員が「消費税を上げる」「福祉予算を減らす」と言っても、「国民」は聞く耳を持たない。逆に「消費税は下げよ」「福祉予算は上げよ」と要求するばかりだ。
どうも同じ人間の中に、「国民」と「市民」という二つの面がある。そう考えざるを得ないと私は思っている。「市民」という立場では主体的になり、責任感を持つが、「国民」という立場では主体性がなく、責任感もない。
国会はこうした「国民」を相手にしているから、やるべきことが何もやれないのではないか。
地方分権を考えるにあたって、権限を地方に持たせることを考えるのも大事だが、その前に「国民的意識」から「市民的意識」に変えることが重要だと私は考える。
しかし、そうした認識すら、今の国会議員にはない。それが大きな問題である。空虚だった臨時国家が閉幕した後、私はこのことを痛切に感じている。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK101掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。