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リーク報道は新しいジャーナリズムなのか?
■面白い情報はリークから
ここのところ、興味深い報道の多くが何らかの「リーク」によるものだ。
もちろん、その筆頭は連日のように新たな重要事実が報道されるウィキリークスだ。米軍ヘリからの民間人への銃撃映像は衝撃的だった。各国首脳への赤裸々な酷評も、報道価値に多少の疑問があるとしても、外交の現実を垣間見させてくれる面白さがあった。決して、報道価値ゼロの内容ではない。
アフガン政府に対するアメリカのクラスター爆弾使用要求や、情報機関に対してアメリカ政府が国連職員や海外外交官に関する個人情報収集を指示したといった、政府の逸脱的行為に対する報道は、権力のチェックを行うべきジャーナリズムのアウトプットとして本来高く評価できるものだ。
ウィキリークスによる秘密文書大量公表を「情報版の911テロ」とテロになぞらえる向きがあるが、政府の非合法行為に関わる情報公開の本質はむしろウォーターゲート事件に近い。ウィキリークスが情報の門を開けたという意味も込めて「ウィキ・ゲート事件」とでも名付けたらいいのではないか。
我が国でも、公安警察の人権侵害的とも思える活動が情報流出の形で明らかになった。また、その行動に対して賛否両論があるとしても、尖閣諸島沖での中国漁船と我が国巡視船の衝突の映像は一海上保安官の動画ネット投稿によって、多くの国民の目に触れることになった。
日頃はインターネット嫌いで、ネットの情報には責任を伴った信憑性が乏しいなどと述べることの多いテレビ局が、「sengoku38」の投稿による映像を繰り返し長時間放映する様子は、報道における主役の交代を象徴しているようにさえ思われた。
アメリカでさえニューヨーク・タイムスといった主要メディアがウィキリークス発の情報を無視できないし、他人の情報を報じることを割合恥じない日本のメディアは、連日ウィキリークス関連の情報を報じている。
一方、日本の新聞、テレビは、よく見るほどに相変わらず記者クラブ経由の官製情報が中心だし、与野党共に緊張感を欠く、政治家の「いかにもありそうなこぼれ話」的な観測記事などを読んでもさっぱり面白くない。リーク情報と既存メディアを、善悪は別として、コンテンツとしての魅力で評価すると、話にならないくらいの大差で前者の勝ちだ。
■リークの善悪に揺れる世論
一方、リーク情報に関する善悪の判断については、我が国でも、外国でも、人々の間に迷いがある。
尖閣沖の動画を投稿した海上保安官に関しては、彼の行動こそ愛国的だと賛美する声もあれば、一定の武力をも持つ海上保安庁の公務員が職場のルールを逸脱していることを戦前の軍部の暴走になぞらえて危険視し、これを厳しく処断すべきだという議論もある。
ウィキリークスに関して、アメリカ国民は、今のところかなり批判的だ。民間調査会社ゾグビーが行った調査によると「ウィキリークスは安全保障上の脅威だと思うか」という質問に対して77%が肯定的に答えている。
米政府としては、「海外で働く米兵の安全」を脅かす可能性があることを強調して、反ウィキリークスの世論を喚起したいはずだ。世論が十分に批判に傾いていない段階でジュリアン・アサンジ氏の逮捕等の表だって強権的なウィキリークス潰しに出ると、追加でさらに致命的な情報が流出する可能性もあり、政権に批判の矛先が向かう可能性がある。
クリントン国務長官は、「ウィキリークスの情報公開には偏向が含まれている可能性もあるので注意すべきだ」という微妙な言い回しでウィキリークスを牽制している。これは、「権力のチェック」がジャーナリズムの重要な機能の一つであることを踏まえた、慎重な物言いだ。単に「違法行為だ」と批判の声を上げた、我が国の前原外務大臣と比較すると、思慮と悩みの深さには大人と子供くらいの差がありそうだ。
■大事な論点は複数ある
ことを善悪の判断に限っても、リーク情報問題には、複数の論点がある。「ウィキリークスは、いいのか悪いのか?」といった大雑把な問題だけを立てると、肝心な問題を幾つも見落とすことになる。
肝心な問題とは何か。
ウィキリークスの問題でいうと、ウィキリークスが外交機密に当たる情報を公開していることよりも、そもそも情報が漏れるような体制であった米政府の情報管理責任の方が遙かに大きな問題だ。機密情報に関して、こんなに間抜けな管理がまともなはずがない。
米政府はウィキリークスに対する圧迫を強めるだろうし、今後、アサンジ代表が逮捕・訴追される可能性もある。情報提供者に対して違法行為を教唆しているという点での非倫理性が、確かにウィキリークスにはある。しかし、そうした情報収集行為はそもそも既存のジャーナリズムが行ってきたことでもある。その正否を、目的の善し悪しを含めて、社会的に判断してきたのが、アメリカの伝統だった。
圧倒的に非があるのは、国務省をはじめとするアメリカ政府だ。アメリカの国益が損なわれ、海外の米兵が危険に晒されたのだとすれば、その第一の責任は、ウィキリークスよりも、アメリカ政府にある。本件に関しては、クリントン国務長官が引責辞任して当然だと筆者は思うのだが、さて、今後の推移はどうなるのだろうか。
我が国の公安警察の情報流出も大問題だ。当局は、流出した情報が自らのものであることについて曖昧にしたまま、自らを被害者として、情報漏洩のルートに関して捜査を開始した。
捜査すること自体は良かろう。しかし、真の被害者は、個人情報を不当に晒された人達なのだ。警察当局は先ず自分たちの非を認めて、被害者の救済に全力を挙げるべきだ。もちろん、情報の管理責任も問われるべきだし、過去及び現在の公安情報収集活動自体の適切性も検証されるべきだ。
もちろん、情報漏洩者の法律上の問題は別個に存在する。これは、否定できないし、無視すべきではない。但し、社会の倫理の問題としては、彼らの行為が正しいのか否かについて、情報の内容、告発の目的などの点も含めて総合的に評価すべきだろう。
いかにも野暮だが、あえて箇条書きにまとめると、
@ リークの対象になった政府その他の行動の正否、
A 上記を公開し晒す行為の公益性、
B 情報の取得と公開にあたってルールを逸脱することの罪の軽重、
C リークがなかった場合の既存メディアの行動、
といった複数の論点があり、全てが個々に重要だ。
日本の既存メディアは、行為の主体(「sengoku38」にしても「ホリエモン」にしても「小泉純一郎」にしても)の善悪を一方に決めつけて、全て「善い」か「悪い」の文脈で物事を伝えようとする傾向があるが、こうした短時間のテレビ番組的な決めつけでは、問題を的確にとらえることができない。
尖閣沖の問題で考えると、以下のような整理になろう。
@ そもそも事実はどうで、何が問題だったのか。特に、独自のルートで中国と裏交渉したといわれる日本政府の行動は適切だったのか。
A 衝突のビデオを国民一般に知らせることに公益性はあるか。
B 情報を流した海上保安官の行為をどの程度悪い逸脱行為だと見るか。
C 海上保安官が情報を公開しなかった場合に代替的な事実を知るための手段があったか(論理的には、「一般国民に事実を知らせる必要はない」という議論もあり得る)。
情報を流出した海上保安官への社会的評価は、A、B、Cを総合的に評価することによって決まるものだろう。AやCだけを評価するのはアンバランスだし、少なくとも海上保安官は身分的に自由意志が認められていない奴隷のような存在ではないのだからBだけで総合的に「悪い」と決めつけるわけにはいかない。当たり前の話だ。
■日・米メディアのちがい
リーク問題の推移を見ると、我が国の既存大手メディア、端的にいって記者クラブ所属のメディアのあり方について考えざるを得ない。
記者クラブに所属し、政府や自治体から、便宜を受けると共に情報の提供も受ける我が国のメディアについて考えると、そもそも「ジャーナリズムとしての権力のチェック」を期待することが非現実的だ。
彼らは、一つには記事を広く且つ高く売りたいビジネスの従事者だし、社内で評価を受け出世するにはどうしたらいいかと悩む一サラリーマンにすぎない。この点を踏まえると、彼らにとっては、取材源である政府その他と対立しない方が、仕事もやりやすいし、社内で出世もしやすい場合が多かろう。記事のジャーナリズム的価値よりも、社内出世や年金、退職金などを重視して、入手した事実の報道に自主規制が掛かる記者個人は、特にメディアでも長期雇用が前提で、給与水準も(年金も)悪くない我が国では「普通」だろう。彼らに、純粋なジャーナリズム的価値観を期待するのは愚かだ。
メディアの人々がネットの情報との対比でよく問題にする、会社や媒体の信用や、ひいては記者の信用と生活を懸けた記事の信憑性は、記者クラブがはびこる我が国の場合、むしろジャーナリストが権力のチェックを行えないことの理由になっている。
そして、近年、主にネットの普及によって、大手メディアから情報を発信できる人でなくとも、重要情報を持った個人は、その情報を広く一般に周知する手段を持つようになった。
この際重要なことは、職業ジャーナリストだけが特権階級として、情報を公開し世に問う権利を持っているのではないということだ。
新聞記者などの取材にも、公務員に対して情報の漏洩を教唆する行為が含まれる。しかし、その行為に対する最終的な評価は公益性等の報道の目的を含めて総合的に評価される。ウィキリークスであっても、sengoku38であっても、ごく一般の一個人であるとしても、最終的な善悪が問われるのは、こうした文脈においてであるべきだ。もちろん、情報発信先の範囲が広いことに対しては、相応に大きな責任が伴うことも、大手メディアの記者と全く一緒だ。
残念ながら、日本にはまだウィキリークスのような情報発信者は存在しないが、ジャーナリズムは一部の既存メディアの独占物ではない。
それにしても、多くの優秀な人材を擁し(←皮肉も少しありますが)、多大なコストを掛けながら、記者クラブに依存したメディアの流す情報の何とツマラナイことだろうか。このツマラナさは、現実に対して大きな影響力を持っている。
http://diamond.jp/articles/-/10365
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