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2010年12月07日
9月8日、最高裁は民主党代表選の最中、突然のように鈴木宗男前衆議院議員の刑を確定させ、これを受けて検察がすかさず収監の手続きを行った。幸か不幸か、食道に悪性腫瘍が見つかり、同氏は暫く収監の時期を遅らせざるを得なかったが、12月6日に収監された。
鈴木氏の事件が国策捜査であり冤罪だと評価する筆者としては忸怩たる思いなのだが、如何ともしがたい。早々に刑期を終え、無事帰還し、更なる政治活動に邁進される事を心より願う。たしか公民権停止期間もあるので、即議員活動は出来ないだろうが、彼ほどのキャラクターと馬力があれば、在野においても充分な政治活動が行える人物と考える。再びあのムネオ節を聞かせて貰いたい。
鈴木氏の判決が確定した二日後の9月10日には、大阪特捜部の大不祥事に発展した村木厚子事件に“無罪判決”が言い渡されている。無関係といえば無関係だが、同氏の上告棄却と村木無罪判決には、民主党代表選の結果が判明する前に、面倒な問題は片付けておこうと云う最高裁事務局(日本の裁判所のシナリオを作成支配している事務局)の思惑があったような気がする。
まして、仮に小沢一郎が代表選に勝った場合には、政治的プレッシャーを受けるに違いないと最高裁事務局が判断した結果と推察する。これとは別に、民主党代表選当日に検察審査会の「幽霊議決」が出たことも、最高裁事務局と検察庁の関与が疑われる
一昨日のコラムでも言及したが、我が国の刑事司法制度及び組織の信頼度は相当酷いものである。公民権停止も含めれば、一人の小沢一郎と政治的に良好な関係を持つ鈴木宗男氏の手足を縛ることは有効であるし、これ以上検察や裁判所への追求言論を続けて貰いたくないと云う最高裁事務局の意志を感じる。
過去にまで遡って特捜検察が扱った事件全体に国民の意識が向かわないように、最高裁事務局と最高検は必死の作業を行っていると云う事だ。
我が国の刑事司法の核をなす検察官と裁判官へのリクルートは、司法研修所における成績優秀者並びに安全牌な人格の持ち主をセレクトするようだ。その所為かもしれないが、法律には精緻しているが、生身の人間としての経験が乏しく、無味簡素な人間性を形成し、また上に対して従順であり、上昇志向だけが人生の価値観になっている者が多いようだ。
また、法律に携わる人生を送ると云う事は、無理からぬことだが、相当の範囲で法律の枠内で生きること、考えることを強いられる。この点は、高級官僚にも言えることで、前例主義に陥るのである。司法の場合なら判例主義になるのである。つまり、或る程度の自由裁量は認められるが、定められた範囲から逸脱することを許されない思考経路を持ち、人間的にも保守的にならざるを得ない運命にあるものなのだ。
このような人間達が集団をなした組織に、自ら改革せよなどと馬の耳に念仏を唱えることは愚の骨頂だ。彼等は、改革するだけの力量はあるのだが、出来ないようになっている。改革を唱えた時点で、組織の異端として貶められるようになっている。彼等は現実主義者なのだ、理念や理想で動けない人間であり、組織であると断言しておこう。
理念の強い政治家や理想主義者を忌み嫌う傾向がある。或る意味で畏れてもいる。特に政治家に対する評価が極めて低い。評価が低くても致し方ない政治家、政治屋が多いだけに筆者としても頭を痛める部分である。
しかし、民主主義国家が行政の職業人や司法の職人に支配されて良いわけではない。やはり、主権在民を実現させるのが民主主義だ。その為には、どうしても政治が主導して、国家の舵取りをすべきである。
この舵取りを政治家などに任せていたら、船が山に登り出すと云う不安が多くの国民の中にも存在する。我が国に対する米国支配は歴然たる事実だが、その支配は巧妙で狡猾なものだから、文字を読まずテレビに洗脳された国民層には、荒唐無稽な言葉にさえ感じられるものだ。
また、多くの日本の支配層に対しては、米国はそれなりの隷属黙認料を支払っているので、文句は出ない。又その日本の支配層のおこぼれに与かっている国民層も多いので、米国支配による利益配分はそれなりに機能している。
この米国支配の善悪や損得を生活人として肌で感じることは殆ど不可能だ。国民が自らの意志で真実の情報を求め動かない限り、その情報は入手できない。10年前に比べれば、自助努力で米国支配の情報は入手できるようになったが、一般的市民権を本当に得たとは言い難い。やはり、新聞テレビのマスメディアが報じる情報に真実を求めるので、広く知れ渡る状況にはない。マスメディアが真実を報道する気になれば、出来るのだが、それこそ彼等のポジショニングがそれを許さない。
故に、国民は常に歪曲、拡大解釈、曲解な情報に晒されるのである。 結局、国民が自ら目覚めない限り、米国支配は継続されることになる。米国支配の継続は、日本の真の独立はあり得ないし、普通の国にさえなれない。勿論、正しい民主主義が根づくこともない。
09年に起きた政権交代も、有権者が真の民主主義とか、真の独立とか、そんな大仰な理念に基づいて選択選挙をしたのではないのかも? と云う疑念が強く感じられる。
それもその筈だ、政権選択して与党となった民主党が完全に二分化しているのだから、本来の政権交代を期待したと云うより、宝くじを買うような淡い期待に過ぎなかったと評価するのが賢明だろう。
鳩山由紀夫前首相の稚拙な政権運営が小沢一郎を内閣から排除した時点で頓挫していた。多くの主たる閣僚が新人首相を舐めてかかったのだから、継続する筈がない。あの時点で、何故鳩山が小沢を排除したのか、その意図を鳩山は語っていないが、それこそが民主党の重大な欠点なのである。
さらに、鳩山の後を継いだ菅直人の政権は、小沢排除が主たる目的の内閣なのだから、もうどうにも手のつけようがない。筆者があまり菅政権を叩かないのは、叩く価値すら認めないからだ。
ただ、民主党の混乱を観察していて、我が国の政治にとって外交防衛と云うものが、最も際立った選択基準の一つだと云う事が見えてきた。小泉純一郎が勝ち誇ったように「日米同盟の大切さを知っただけでも、政権交代した意味がある」なんて事を口走っていたが、それこそが課題なのである。
日本の選択は「隷米」か「親米」かと云う選択肢が突きつけられている。「隷米」は何処までも属国・敗戦国であり、世界的に独立国家としての正式な地位を与えられることはない。それでも、それなりに“のんべんだらりん”と生きては行けるだろう。ただ、米国の衰退以上に衰退する覚悟は必要になる。
「親米」は「親中」であり「親露」であり「親アジア」でもある。この場合米国の衰退から受ける影響は一定の範囲で収まるが、あらゆる面で自主独立の精神と行動が求められる。
この自主独立の精神の延長線上に小沢一郎の政治理念が繋がっている。だから筆者は彼の理念を支持する。小沢一郎が今後どれだけの政治手腕を発揮するかどうか未知数な部分もある。権力闘争で勝ち抜けるかどうかの不安要素もある。しかし、彼の理念は永遠に支持出来る。
ここまで平和ボケし、テレビに洗脳された日本人に、自主独立の心構えが出来、「欲しがりません独立するまでは」と云うレベルに達することは、容易だとは思えない。本来であれば、このような選択肢をマスメディアが国民に伝えるべき義務があるのだが、到底それを望める状況にはない。
微力ながら、日々このようなコラムを書き続ける原動力を提供してくれた小沢一郎に感謝する。また、その政治理念を強く支持する。
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