http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/876.html
Tweet |
@これは、「三島由紀夫ブーム」だ
これは驚異的な現象だ。三島由紀夫について書かれた本が、20冊以上出ている。復刊を合わせたら40冊以上だ。新潮文庫の三島本も売れている。「出版ラッシュ」だ。三島没後40年にして、「三島ブーム」だ。30年、20年の時よりも多い。新しい三島の姿を見、三島の予言を聞く思いだ。
11月24日(水)は野分祭があった。午後6時半から花園神社だった。多くの人が詰めかけ、会場は超満員だ。野分祭が始まって以来だろう。厳粛に行われた。40年前の衝撃が昨日のように思い出された。
式典の後は、荒谷卓先生の記念講演だった。荒谷先生は明治神宮至誠館館長。講演の前に、真剣による奉納演武が行われた。裂帛の気合いのこもった演武だった。講演は、「神道と武士道の現代的意義」。感動的な講演だった。「私は葦津珍彦先生の門下生です」という。又、自衛隊の特殊作戦隊の隊長だった。その先生から、現下の日本を踏まえ、三島の叫びについて話して頂いた。
とてもいい野分祭だった。最近は、サンルートホテルで野分祭をやっていたが、40年ということで多くの人が列席するだろう。手狭になるからと、新宿の花園神社に会場を移した。ホテルよりは何倍も広い。しかし、全国から多くの人たちが来て下さった。いくら椅子を増やしても足りない。立っている人も多かった。
地方から懐かしい人も来ていた。石川県七尾市からは布清信君が来てくれた。「生長の家学生道場」時代の後輩だ。学生時代の修行に明け暮れた日々を懐かしく思い出した。「鈴木さんには厳しく指導されました」と布君。そうだったかな。
秋田県からは元「楯の会」の伊藤邦典氏が来てくれた。僕とは子供時代からの知り合いだ。その後、学生道場に入り、生学連、「楯の会」に入る。全国学協の内ゲバの時は、私が麻布公会堂に殴り込んだそうだ。壇上で大立ち回りをやったらしい。止めに入った邦典を突き飛ばし、壇上から突き落としたそうだ。乱暴な男だ。私は記憶にない。「そんなことしたの?嘘だろう」と言っちゃった。
そうだ。映画監督の若松孝二さんも来てくれた。驚いた。来年、三島由紀夫の映画を撮る。そのこともあって来てくれたのだろう。脚本家も一緒だった。
野分祭のあとは、場所を移して、直会(なおらい)。全国から来てくれた人々の話を聞き、当時のことを思い出しました。
A三島特集だった。文化放送も朝日新聞も
この野分祭の前は、文化放送に出ました。「夕焼け寺ちゃん活動中」です。毎週水曜日にゲストで出ています。この日は、三島由紀夫特集でした。寺ちゃんは、私の『遺魂』を読んで、話してくれる。三島由紀夫、森田必勝について私は詳しく話しました。
この日は、朝から「三島」だったな。産経新聞を見たら、2、3面がぶち抜きで三島本の紹介。皆、いやでも意識する。三島本の出版ラッシュということが分かる。
文化放送では、初めに三島の「檄」を流す。自衛隊で演説した三島の声だ。実は、あの「声」は文化放送が録った。そして、文化放送だけが録れたのだ。今、文化放送は浜松町にあるが、当時は、市ヶ谷の自衛隊に近かった。すぐに飛んでいった。ただ、バルコニーの上から演説している。遠い。隊員は野次を飛ばしている。空にはヘリコプターだ。それで記者は、とっさに棒の先にマイクをつけて、高く上げ、それでやっと声を拾ったという。
「その記者は今は文化放送の社長ですよ」と寺ちゃんが打ち明けてくれた。そのことだけで社長になったわけではないが。ともかく、40年前の記者の機転で、歴史的な、貴重な音声が残ったのだ。
文化放送から急いで花園神社に行った。
朝から夜、遅くまで忙しい1日だった。
翌11月25日(木)。新聞のテレビ欄を見たら、夜9時のNHK「ニュースウォッチ」の予告に、「没後40年、三島由紀夫ブーム再来」と出ていた。実は、11月1日(月)に阿佐ヶ谷ロフトで、『遺魂』出版記念トークをやった時に、NHKは取材し、長くインタビューしていた。「11月25日までのニュースウォッチで流します」と言っていた。でも、北朝鮮の韓国砲撃事件など他のニュースが多かったせいか、阿佐ヶ谷ロフトは出なかった。もったいない。初めの方に、「これだけの本が出ています」と紹介した時は、私の『遺魂』も出ていた。(ただ、若松監督が出ていて、「来年は三島の映画を撮る」と宣言していた。これはよかった)
と言っても、この日のNHKは夜、家に帰ってから見たのだ。この日は、学校があったので、午後からずっといた。夜は雨だった。冷たい雨だった。新宿駅のスタンドで朝日新聞(夕刊)を買った。文化欄に出ていた。私の文章だ。文化欄の始めに出ている。目立つ。6段だ。かなり苦労して書いた。「自決して 40年」の朝日新聞だ。私なんかでいいのか、と思った。必死に書いた。でも本当に載るのかな、と思っていた。
「何で、お前が!」と思った人も多かったようだ。それに、北朝鮮、中国の脅威の前に、ナショナリズムに燃え上がっているこの時期に。そして三島ブームで、国中が燃え上がっている時に、「何で水をかけるのだ」という人もいる。逆に、「そんな時だからこそ、意義がある」と言ってくれた人もいた。朝日新聞に書いた私の文のタイトルは、
〈三島に負け続ける我々。
自決から40年「右傾化」の中身問う〉
だった。
三島は「愛国心」という言葉が嫌いだった。「大和魂」で十分だと言った。又、保守的な「愛国」よりも、「憂国」の人だった。核や徴兵制にも反対だった。強大な武器を持ち、それでよしとする考えが嫌だった。又、徴兵のように義務化することを嫌って、国防は国民の崇高な権利だ。それを義務化したら、崇高な権利が汚れると思った。
そうした三島の本意を理解しないで、「三島を思い出せ」「核を持て!」「徴兵制を!」と言われるのは、三島も嫌だろう。迷惑だろう。もう一度、三島の叫びを聞こう。三島を読み直そう。そう書いたつもりだ。ただ、文章が下手だから、私の真意が伝わったかどうか分からない。読んでほしい。
ネットのニュースを見たら、25日夜の「憂国忌」には例年の倍以上の1200人が集まったという。「憂国忌」の本も出ているし、やはり、「三島ブーム」だ。
三島は自決の2年前、「朝日新聞」(昭和43年1月8日付夕刊)に、「愛国心」について書いている。
「官製のいやなことば 日本は『大和魂』で十分」だ。
とても示唆的な文章だ。だって、この時は、「愛国心」が騒々しく言われてはいなかった。サッカーで、スポーツ・ナショナリズムが沸騰したのは、ずっとずっと後だ。政府が「愛国心」を言い出したのもずーっと後だ。
40年前は、「愛国心」なんて余り言ってた人はいない。盛り上がってもいない。近々、盛り上がり、危険な風潮になる。…といった予兆もない。そんな時に、かなり先んじて、「愛国心」の危険さを言ったのだ。もの凄い予言だ。だが、当時は、誰も「予言」として読まなかった。
一方、三島の自決直前には、いかにも予言的な言葉が産経新聞に載った。自決の4ヶ月前だ。「これこそが三島の予言だ」と、よく引用される文だ。「サンケイ新聞」(昭和45年7月7日付夕刊)の、「果たし得ていない約束」だ。余りに有名な言葉だ。だから、朝日に書いた時も、私も引用した。
〈私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。こまま行ったら、「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない或る経済大国が極東の一角に残るのであろう…〉
C「ノーベル賞なんか拒否する」と三島
まさに40年後の、今日の日本だ。「無機質」「からっぽ」「ニュートラル」な日本だ。つまり、先が見えていたのだ。
元「楯の会」初代学生長の持丸博氏に聞いたが、三島は未来が見えていた。アメリカでは人を信頼できず、ペットに遺産を残す人間が出てきた。日本の会社でも、人間の会話がなくなり、ペーパーを介在してしか意志が伝わらない時代になる。今なら、ネットだろう。そんな人間疎外の社会において、政治家もマスコミも、人々も、「だから愛国心を」「だから核を」…と、〈形〉だけをつくって、押しつける。そんな時代が来ると分かっていた。それに耐えられなかったのだろう。
考えてもみたらいい。三島は世界的大作家だ。文字、言葉の大切さを人一倍知っていた。言論の自由、人間の自由の大切さを知っていた。だから、「押しつけがましい愛国心」を嫌った。核や徴兵にも反対した。形だけをつくり、押しつけたら、それで〈心〉が生まれるとは思わなかった。逆だろう。核など持ったら、それで〈安心〉し、「よりかかり」、一人一人が国を守る尊い気持ちがなくなり、日本人もなくなる、と思ったのだ。
自決の4ヶ月前の「サンケイ新聞」の「果たし得ていない約束」ばかりがよく紹介され、引用される。これこそが「三島の遺言だ!」と。だって、三島は、(後になって)そう思われるように書いたからだ。だから、僕らも、まさに「三島の言う通りになった」と思う。予言者だという。しかし、僕らが、そう言うことも予言していたのだ。未来に向けての、大いなる作品を書いていたのだ。
実は、この「遺言」「予言」のさらに2ヶ月後、つまり自決の2ヶ月前だ。本当のギリギリになって、朝日新聞の取材に応じている。多分、新聞社の取材に応じたのは、これが最後なのだろう。
朝日新聞(昭和45年9月22日)だ。「日本は悪くなる」というタイトルだ。これは、いろんな人々に聞いているシリーズ「世なおし。70年代の百人」の2回目だ。つまり、100人にインタビューしているのだ。果たして、単行本になったのかどうか。ここでは、「サンケイ」の遺言的コメントをさらに、進めている。何に絶望したのか。本当はどんな日本を夢みているのかが話されている。だから、私も、今年11月25日の文章にも引用した。
「70年代をどう考えます?」という記者の問いにそう答えている。
「日本、ますます悪くなる。よくなることはゼッタイない」
どうして?
「大ウソついてるからね。敗戦というものを脱却しなきゃあ国の文化というものは成りたたない。スウェーデンごらんなさい。150年前、ロシアに負けて、それを払拭しなかったから福祉国家になっちゃった。文化の創造力がない。それでノーベル賞出しても、それもいいだろうけど、ボクの考える国ってのは、そんなもんじゃない」
じゃ、ノーベル賞をくれるといったら?
「拒否しますね」。
なぜ?
「ボクにも思うことありますからね」
あなたの考えている国って?
「想像力の煮えたっている国ですよ。一方じゃ刀をふりまわす。一方じゃ文化創造力が煮えたっている。つまり、エリザベス朝時代ですよ」
D「竜馬なんかは嫌いだ!」と…
これは実に具体的だ。こういう文化の創造力の煮えたった国が理想だったんだ。人間を形にはめて、押しつける国なんて、嫌だったんだ。
それに続いて、大江健三郎については、「才能は非常に買う」という。これは今の保守派の人々は信じられないだろう。三島は、1960年の深沢七郎の『風流夢譚』も支持し、評価している。これは、「反天皇小説」だ。それなのに、そのユーモア性、芸術性を高く買った。左右なんか超えていた。でも、理解しきれない右翼の人達は、「三島は不敬小説を支持した」「許せん」と攻撃した。三島の家にまで押しかけた。それで、地元の警察のガードがついた。
又、東大全共闘に呼ばれると、たった一人で出かけて行き、闘った。勇気がある。なかなか出来ることではない。左右を超えていた。現状をよしとする「愛国」ではない。革命的な「憂国」なのだ。
右翼や保守派の嫌いな大江を三島は、評価した。と同時に、(意外にも)竜馬は嫌いだという。今年は「竜馬」のブームなのに。自決2ヶ月前の「朝日」で言う。司馬遼太郎について聞かれて…。
「人物描写はうまいと思うけれどあのヒトの史観が好きじゃない。ボク、坂本龍馬って好きじゃないですよ」
なぜ?
「未来を夢みる人間ってボク大きらい。じぶんが一番最後だと思ってる人間にしかボク興味感じない」
未来を夢みないで?
「拒否することですよ。オマエまちがっているといいつづけることです。その拒否の形式がぼくの場合変っている。ヘンなチンドン屋みたいな服を着たりしてね」
誤解?
「ぜーんぜんかまわない。誤解をおそれるのは女性的ですよ」
龍馬は嫌いだと言っている。そういえば、森田必勝も同じことを言っていた。その頃、司馬の『竜馬がゆく』が大ヒットした。我々、右翼学生は皆、読んでいた。右翼学生だけでない。左翼学生も読んでいた。そして、感情移入し、「今は幕末だ」と思った。「オレは竜馬だ!」と皆思った。
だから、竜馬が脱藩したようにポンと飛んだ。北朝鮮へもポンと行った。非合法闘争だって、ポンとやった。右翼学生もそうだ。水たまりを飛び越すように、「合法」の枠を超えた。つまり、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が当時の左右の学生運動をつくつた。とも言える。
これに対し、右翼学生運動の中で、一部の人間は、「何が竜馬だ」と思っていた。「新撰組」の土方の方がいいや。凛々しいや、と思う人間がいた。反主流派だ!それが森田必勝だった。司馬作品では、土方歳三を主人公とした『燃えよ剣』が好きだった。皆に薦めていた。ボクも森田に薦められて読んだ。しびれた。
それで当時は、「竜馬派」と「土方派」があったのだ。右翼は勤皇だ。だったら竜馬だ。新撰組は幕府だ。朝廷に逆らった。この幕府を守ったのが新撰組ではないか。「体制の犬」だ。そう思っていたのだ。森田は、「でも、最後まで男の生き方を貫くとこがいい」と言っていた。
右翼学生には「竜馬派」と「土方派」があった。それに不思議なことに、圧倒的に多かった「竜馬派」は、皆、いなくなった。就職したり、家業を継いだり、自民党の政治家の秘書になったり…。「未来を夢みる人間」は、いつでも、どんな小さなものにも夢を見るのかもしれない。右翼学生なんかやめて、大学か、政界か、企業か…。それなりの社会に又、夢を持って生きている。
その反面、未来に夢を持たず、俺は「最後」の人間だ、と思っている人は、ずっと運動を続けた。そして運動に殉じた人もいた。それが森田必勝だ。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK100掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。