http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/805.html
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国際テロ:流出情報、出版差し止め 東京地裁が仮処分決定(毎日新聞 2010年11月29日 21時36分)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101130k0000m040094000c.html
国際テロに関する警視庁公安部外事3課などの内部資料とみられる文書がインターネット上に流出した問題で、文書を収録した書籍を出 版した「第三書館」(東京都新宿区)に対し、東京地裁(田代雅彦裁判長)は29日、出版や販売の差し止めを命じる仮処分決定を出した 。個人情報を掲載されたイスラム教徒数人による28日の申し立てに基づくもので、プライバシーの侵害を認め、個人情報掲載の公益目的 を否定した。
(後略)
「第三書館」側の主張したいところが不明だが、新聞報道にほんの少しそれをうかがわせるものがあります。
↓
流出の警視庁データ?出版、実名・住所を掲載(読売オンライン 2010年11月27日11時44分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101127-OYT1T00342.htm
出版した第三書館(東京都新宿区)の北川明社長は「警察の情報管理の甘さを問題提起したかった」と説明している・・。
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しかし、このような場合に出版、発表する側の言い分はいつも私(投稿者)にはワケがわかりません。
いくつか見てみます。
1.
まず、「石に泳ぐ魚」事件
○作者(柳美里)側−−
これに対して柳美里さん側は、文学論のような反論を展開してきました。
いわく……「石に泳ぐ魚」は純文学である。純文学は、作者の世界を呈示するものである。だから、仮に小説の登場人物に実在する人物 の要素があったとしても、それは作者の世界の存在であって、実在する人物とは別である。極論すれば、作者の実生活をそのまま書いてい ても、それが純文学である限り、現実世界とは異なる世界を書いたものなのだ。したがって、「石に泳ぐ魚」の副主人公の属性がAさんの それと同じだとしても、Aさんとは別の世界、作者の世界の存在なのだから、Aさんに権利侵害が起こることはありえない。……
○出版社の主張−−
出版社は柳美里さんとはまた別の反論をしてきました。
いわく、…「石に泳ぐ魚」のテーマは、「困難に満ちた〈生〉をいかに生き抜くか」ということである。そして、「困難に満ちた〈生〉 をいかに生き抜くか」という命題は、人間にとって普遍的で重要な問題であり、社会の正当な関心事である。テーマが社会の正当な関心事 である以上、この小説に不法行為は成立しない。……
(すみません、上記は孫引きになります。)
→ 弁護士佃克彦の事件ファイル 「石に泳ぐ魚」出版差止事件 PART3
http://www.houtal.com/journal/report/etc/010709.html
○日本ペンクラブ元会員(上智大学文学部新聞学科教授)田島 泰彦−−
(日本ペンクラブ:電子文藝館 柳美里作「石に泳ぐ魚」最高裁判決について)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/tajimayasuhiko.html
小説表現の自由と司法判断のあり方について
高裁判決が出されたとき、判決を読んで痛感したことの一つのは、小説という創造的・創作的営みに、できる限り多くの表現の自由を確保 する必要があるのではないか、ということだった。この思いは、今回の最高裁判決でますます強まった。
小説という創造活動が、少なくとも事実報道の場面より制限を受けるべきではないとすれば、報道における免責法理をより緩和して適用し 、免責の余地を広げる、差し止めは原則的に回避する、作品全体の芸術性を考慮し、権利侵害の成立要件等を謙抑的に判断するなど、表現 の自由拡大の工夫や方向が探求されてしかるべきだろう。
こういう努力を怠ると、芸術への司法権力の過剰な介入を招き、裁判官が小説を断罪することを許容してしまいかねない。最高裁に求めら れたのは小説の自由、芸術の自由の防波堤を築くこうした努力だったのではなかったか。
(この項、引用おわり)
投稿者としては、「小説という創造的・創作的営みに、できる限り多くの表現の自由を確保する必要がある」、「小説の自由、芸術の自由の防波堤を築く」といわれても、「?」という感じです。
一般的に、このような文脈でいわれる「表現の自由」には疑問を禁じ得ません。
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2.
奈良少年放火事件
ここでは、調書を漏らしたとして起訴された鑑定医よりも、「ジャーナリスト」草薙厚子の言い分が傑作です。
↓
○草薙厚子の”のほほん”事件簿 「無罪判決を確信 − 論告求刑を受けて」
http://playlog.jp/atsukokusanagi/blog/archive/200902
私は、断じて納得できません。(中略)
一番大きなことは、目的正当性です。
崎濱先生の私と講談社に対する資料提供行為は、少年の社会復帰のためであり、社会のためです。検察や加害少年と父親の弁護士が主張する「そっとしておくことで誰もが忘れてくれる」というのは大きな間違いです。だれかがふと気づいたときに、つまらない陰口で、少年がそれまでに築いた人間関係はすべて崩れ去るのです。これまで、そのような少年を数多く見てきました。
それよりも、事実によって少年自身に自分のしたことを振り返ってもらい、世間も理解する。贖罪は自分のしたことや自分のしたことが周囲の人々に与えた影響などを適切に知ることによって初めて生まれ来るもので、そうやって苦しみ悩んで更生した少年は真の理解者を得ることができるのです。そのことはインターネットのアマゾンで『僕パパ』(注:書名『僕はパパを殺すことに決めた』)に寄せられた読者の感想を読んでいただければはっきりわかります。
崎濱先生は本の内容に大いに不満を抱いているようですが、世間一般の読者の圧倒的多数は、奈良地検の強制捜査報道によるバイアスがかかるまでは、「少年の追い詰められた心情がよく理解できた」と高く評価してくれています。少年を理解し、受け止めようとする人たちが世の中に広がり始めていたのです。崎濱先生の意向は読者にしっかり受け止められていたというのが現実です。
(引用おわり)
これだけでも笑ってしまいそうですが、さらに−−
↓
○出版社及び著述家に対する法務省勧告に抗議する声明
http://www.japanpen.or.jp/statement/2006-2007/post_39.html
法務省人権擁護局は2007年7月12日、東京法務局長名の勧告「奈良放火殺人事件に関する書籍の出版について」を、同年5月に刊行された『僕はパパを殺すことに決めた』の出版元である講談社と、著者の草薙厚子氏に手交した。
しかし、その勧告を見ると、同書の著述と刊行を、一方的に「プライバシーの侵害」や「人権侵害行為」であると断定し、さらに「報道・出版の自由として許容される限度を超えている」と決めつけ、「謝罪」せよと迫るなど、表現の自由にあからさまに介入する内容になっている。
そもそも現行の制度は、どのような基準で勧告や要請等の措置が取られるかが明確ではなく、それに対する反論や対抗・救済の手段も用意されていない。過去の例を見ても、勧告等によって書籍の流通や販売が「自粛」されるなど、実質的な禁書措置になっている場合が少なくない。
表現活動や出版等において人権侵害があったのであれば、それはまず当事者間の話し合いによる解決や、事後的な訴訟による判断を待つべきである。それを、公権力が一方的に書籍の内容にまで踏み込んで判断し、要請や勧告等を行って、その流通・販売を阻害するなどということは、民主主義の基本原理である表現の自由を踏みにじるものである。
私たち日本ペンクラブは、自由な表現活動を擁護する立場から、このたびの法務省が行った措置に抗議するとともに、今後、同様の措置を取らないことを強く求める。
2007年8月30日 社団法人 日本ペンクラブ 会長 阿刀田 高
>「表現活動や出版等において人権侵害があったのであれば、・・・事後的な訴訟による判断を待つべきである。」
と来ては、ほとんど悲しくなります。
これについては多くの意見が表明されました。たとえば−−
○弁護士fujita的日々@京都問題の出版物に驚愕 −奈良少年放火事件−
http://gontango.exblog.jp/6327477/
問題の出版物を一読して驚愕。事件調書の引き写しが90パーセント、およそ著作物=著者の思想表現の結果からはほど遠い。
「執筆」の動機としては、「少年を犯行へと衝き動かしたものは、何だったのか。それを知りたかった」とある。しかし、結びには「本書を読んでくださった方には、できれば改めて家族のあり方を考えてほしい。子供は決して親の所有物ではない。そんなことに気づくだけで、避けられる「次の悲劇」があるかもしれない」とあって、拍子抜け。
そんなことが知りたかったのか。関係者のプライバシーや守秘義務との引き換えに、読者に気づいてほしかったのはその程度のことなのか。(後略)
○航海者Lv.1のページ
奈良医師放火殺人事件調書漏えい事件に思う・・・国民の知る権利と個人のプライバシーについて
http://koukaisya.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-8d27.html
次にこの調書を漏らしたことが少年のためになるとの主張(ただしこの主張は崎浜医師のもの)だが、この調書漏えいについて情報を漏らした鑑定医も著者も、少年の家族(結局父親は生き残った)や少年本人に何の意思確認もおこなっていない・・・。
殺人事件の犯人だからといって、本人の意思確認もおこなわずその調書を出版され自分がかかっていた病気とその詳細な情報を出版というカタチで公衆の元にさらされるいわれはない・・・。
○来栖宥子・午後のアダージォ
奈良の医師宅放火殺人事件 「調書本」が犯した二重の背信
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/7393bcf954031aa02ae10666596d223c
〈来栖のつぶやき〉
「僕はパパを殺すことに決めた」とのタイトル、売らんかなの底意が透けて見える。「広汎性発達障害を社会に理解してもらいたい」との 学者らしい崎浜被告の願いを草薙氏は利用した。「コピーはだめ」と繰り返す崎浜盛三被告に、「メモ代わり」と調書類の写真約2600枚を 撮影した。崎浜被告には出版すら知らされず、発達障害のくだりは申し訳程度しかなかったという。学究の熱い思いを犯罪に落とした行為 には、ジャーナリストとしての矜持など微塵も感じられない。あるのは商魂のみだ。似非ジャーナリストは「知る権利」などときれいごと を言うが、本件は親告罪である。
(この項、引用おわり)
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3.
今回の都条例問題
多くの反対声明などある中から、ひとつだけ挙げてみます。
↓
東京都青少年健全育成条例の修正改定案に反対する
http://www.japanpen.or.jp/statement/20102011/
東京都は12月の定例都議会に青少年健全育成条例の修正改定案を再提出するという。これは漫画やアニメなどの表現、インターネットや携帯電話などの電子的ツールの法的規制を通じて、青少年の育成環境から有害とされる性情報を排除しようというものだが、用語の変更等による部分的な修正は見られるものの、あいかわらず根本において、公権力が人間の内面や言論・表現の自由の領域に関与・介入することに対する謙抑的な配慮が感じられない。
表現やコミュニケーションという民主主義社会の根本にかかわる配慮や規制は、自主的・自立的に行われるべきであり、そこにおける主体的な工夫や試行錯誤が大人社会を成熟させるだけでなく、青少年が多様な価値観のもとで生きていく知恵と力を身につけるために不可欠な経験となることは、古今東西の文学が描いてきた常識である。
これまでの、また今回の改定案も、公権力がある表現を「有害」かどうかを判断することについて、何の疑念も抱いていない。しかし、言論・表現にかかわる私たちは、戦前の日本の為政者たちが青少年の健全育成をタテに、まず漫画を始めとする子ども文化を規制し、たちまち一般の言論・表現の自由を踏みにじっていった歴史を思い起こさないわけにはいかない。
また今回の修正改定案も、インターネットや携帯電話等に関し、青少年の利用を制限する責務を親たちなどの保護者に、これまで以上に広範に、画一的に求めている。
これは、本来プライバシーの空間であるはずの家庭の中にまで行政的規制を持ち込み、私たちの内面の自由、良心の自由を侵蝕するものと言わざるを得ない。
以上述べたように、私たちはこうした条例が言論・表現の自由をゆがめ、プライバシー空間にまで行政・公権力の関与・介入を許すものとして、改めて反対する
2010年11月25日 日本ペンクラブ会長 阿刀田高
>「表現やコミュニケーションという民主主義社会の根本にかかわる配慮や規制は、自主的・自立的に行われるべきであり、そこにおける主体的な工夫や試行錯誤・・・」
これがプライバシーなど他の私的利益と衝突したとき、どうするのでしょう。
私(投稿者)としては、そこに「売らんかなの底意」(来栖宥子ブログ)が混じり込んでいなければよいと思うのですが。
第三書館も、日本ペンクラブについても、皆さんどうお考えですか。
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