http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/600.html
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1.
夫婦強殺の裁判員裁判で死刑求刑、否認事件で初(読売オンライン 2010年11月17日)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20080605-2766128/news/20101117-OYS1T00794.htm
鹿児島市の高齢夫婦殺害事件で、強盗殺人罪などに問われた同市三和町、無職白浜政広被告(71)=写真=の裁判員裁判の第10回公判が17日、鹿児島地裁(平島正道裁判長)であった。検察側は論告で犯行の残虐性などを強調し、死刑を求刑した。裁判員裁判での死刑求刑は東京、横浜地裁に次ぎ3例目で、否認事件では初めて。判決は12月10日に言い渡される。(後略)
2.
宮崎の家族3人殺害、死刑求刑 裁判員裁判5例目(朝日ドットコム 2010年11月25日19時39分)
http://www.asahi.com/national/update/1125/SEB201011250011.html
宮崎市の民家で今年3月、同居の家族3人を首を絞めたりハンマーで殴ったりして殺害したとして、殺人と死体遺棄の罪に問われた無職奥本章寛被告(22)=同市花ケ島町=の裁判員裁判が25日、宮崎地裁(高原正良裁判長)であった。検察側は「極めて残虐で、身勝手な犯行」として死刑を求刑。弁護側は「動機の背景に同情の余地がある」として、死刑回避を求めて結審した。
裁判員裁判での殺人事件としては被害者が最多の3人で、死刑求刑は5例目。起訴内容に争いはなく、家族内での殺人事件の量刑を裁判員がどう判断するか注目される。判決は12月7日。
検察側は論告で、死刑選択が許される基準として最高裁が1983年に示した永山基準に沿って、「冷酷で非常に悪質な犯行」と指摘・・・(後略)
3.
福岡2女性殺傷、被告に死刑求刑 弁護側は強盗未遂主張(朝日ドットコム 2010年11月26日23時31分)
http://www.asahi.com/national/update/1126/SEB201011260062.html
福岡市で2008年に女性2人が殺傷された事件で、強盗殺人などの罪に問われた無職野地卓被告(25)=同市中央区=の公判が26日、福岡地裁であった。検察側は「卑劣で残虐な通り魔的連続凶悪事件」として死刑を求刑。弁護側は、殺意がなく強盗未遂罪にとどまると主張して結審した。判決は2月2日の予定。
検察側は論告で、死刑選択が許される基準として最高裁が示した永山基準に沿って「金銭欲求を満たすためには、落ち度のない他人の命を奪っても構わないとの自己中心的な犯行」と指摘・・・(後略)
1は全面否認事件、3は被告人の刑事責任能力(妄想性人格障害)が争点になるそうです。
また1、2の事件は裁判員裁判の対象、福岡の事件は対象でないようです。
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まさに次から次へ、です。真に憂慮すべきことではないかと思います。
宮崎、福岡の事件ではどちらも、「検察側は・・永山基準に沿って・・」、とあります。
これについて、安田好弘弁護士がつとに指摘しています。
↓
『年報死刑廃止08』【犯罪報道と裁判員制度】−安田好弘弁護士の話抜粋
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/40c49ceba57087ced321d423647c7bf2
(ブログ「来栖宥子・午後のアダージォ」より)
2.光市事件最高裁判決の踏み出したもの
僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。
それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。
ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。
具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
(引用おわり)
つまり、本来の「永山基準」(イヤな言葉ですが)では死刑は回避が原則であって、ゆるされるのは真にやむを得ない場合のみだ、というものであった。
ところが(光市事件最高裁判決で)それが変わってしまった。ある一定「基準」に達すれば死刑が原則、それを回避するには特別な理由が必要、となっているというのです。
見てみます。
↓
(永山事件最高裁判決 1983年7月8日)
死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。
(光市母子殺害事件最高裁判決 2006年06月20日)
死刑は,究極のしゅん厳な刑であり,慎重に適用すべきものであることは疑いがない。しかし,当審判例(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁〔注:上記永山事件最高裁判決〕)が示すように,『死刑制度を存置する現行法制の下では,犯行の罪質,動機,態様殊に殺害の手段方法の執よう性・残虐性,結果の重大性殊に殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき,その罪責が誠に重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には,死刑の選択≪をするほかないものといわなければならない≫。』
(引用おわり。〔注〕、二重カギ、二重カッコは投稿者のものです。)
安田弁護士はこれを、裁判員はこの逆転した論理を基準に説諭される、それに対して裁判員が、死刑回避の「理由」を見出し主張するのは容易なことではない、というのです。
下級審の裁判官自身にとっても容易ではないでしょう。
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私(投稿者)は、犯行時18才以上の少年の事件の扱いについても同様な、立脚点の微妙な移動があるのを感じます。
↓
(永山事件最高裁判決)
原判決が本件犯行を精神的に未熟な実質的には一八歳未満相当の少年の犯した一過性の犯行とみて少年法五一条の精神を及ぼすべきであると判示しているのは、右の環境的負因による影響を重視したためであろう。しかしながら、被告人同様の環境的負因を負う他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人していることを考え併せると、環境的負因を特に重視することには疑問があるし、そもそも、被告人は犯行時少年であつたとはいえ、一九歳三か月ないし一九歳九か月の年長少年であり、前記の犯行の動機、態様から窺われる犯罪性の根深さに照らしても、被告人を一八歳未満の少年と同視することは特段の事情のない限り困難であるように思われる。そうすると、本件犯行が一過性のものであること、被告人の精神的成熟度が一八歳未満の少年と同視しうることなどの証拠上明らかではない事実を前提として本件に少年法五一条の精神を及ぼすべきであるとする原判断は首肯し難いものであると言わなければならない・・。
(光市事件最高裁判決)
少年法51条(平成12年法律第142号による改正前のもの)は,犯行時18歳未満の少年の行為については死刑を科さないものとしており,その趣旨に徴すれば,被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことは,死刑を選択するかどうかの判断に当たって相応の考慮を払うべき事情ではあるが,死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえず,本件犯行の罪質,動機,態様,結果の重大性及び遺族の被害感情等と対比・総合して判断する上で考慮すべき一事情にとどまるというべきである。
(引用おわり)
つまり、18才以上の少年にたいして18才未満の少年に死刑不適用とする少年法51条の趣旨を及ぼすべきか、についてです。
前者では、それを一般に否定はしないが、当該事件はその具体的事情に照らしてその趣旨を及ぼすべき場合でない、とします。すなわち具体的事情によっては、少年法51条の趣旨を及ぼすべき場合のあることにもなります。
これにたいして後者では、被告人少年の年齢は「相応の考慮を払うべき事情ではあるが」、犯行の他の諸要素とあわせて「考慮すべき一事情にとどまる」として、具体的に踏み込んだ考察がされていない。すなわち、年齢はつねに他の諸事情と並ぶ一要素であると一般的に措定されてしまっているといえます。
このたびの石巻の事件(11月25日仙台地裁)では、判決文が明らかでないが、報道からは後者に近いように感じます。
↓
(判決は)「年齢も『相応の考慮をすべきだ』としつつ『結果の重大性などから死刑回避の決定的な事情とまでは言えない』と述べた。」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101126k0000m040078000c.html
これについては毎日新聞11月26日社説が、永山事件判決から光市事件判決への変化としてとらえています。
↓
毎日jp 社説 2010年11月26日 2時32分
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20101126k0000m070127000c.html
(前略)
少年法は、18歳未満の犯罪に死刑を科さないと規定する。また、最高裁は83年、永山則夫元死刑囚(97年執行)の判決で、死刑を選択する場合に考慮すべき9項目の基準を示し、犯行の態様や被害者の数などと並び被告の年齢を挙げた。
・・・・・・
だが、山口県光市の母子2人殺害事件で、2審の無期懲役判決を破棄した06年の最高裁判決が、従来の適用基準より厳罰化の方向に踏み込んだと指摘されている。
最高裁は、犯行の悪質性を強調したうえで、事件当時18歳だった年齢について「死刑を回避する決定的事情とはいえず、考慮すべき一事情にとどまる」との判断を示したのだ。
光事件では、広島高裁が08年、やり直し裁判で元少年に死刑を言い渡した。現在、上告中だ。
今回、判決は「年齢は死刑回避の決定的事情とはいえない」と指摘した。これは、06年の最高裁の判断を踏まえたものとみられる。
(後略)
もっとも社説の結論は、「今回の判決が、少年事件の裁判員裁判の厳罰化の方向を示すと一概に評価することはできないだろう。」とされている。
この結論は、永山事件判決から光市事件判決への変化を前提に、後者との比較において今回の石巻の事件の判決(仙台地裁)について述べられたものだ。
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最後に、長年、少年事件に取り組んでいる元判事井垣さんの談話。するどい怒りが感じられます。
↓
石巻の3人殺傷:死刑判決 理解まるでなく、心底がっかり−井垣康弘弁護士/宮城
神戸家庭裁判所で約6000人の非行少年を担当した経験のある井垣康弘弁護士は、判決について、「『残虐な』人格に育て上げたことに対する理解がまるでなく、極度にゆがめられた『人格』も少年院での数年の育て直しで更正可能なことも分かっていない」とし、「心底がっかりした」と批判した。
井垣氏は、「弁護団に元家裁調査官などの少年司法の実務家が加わるべきだった」と強調。その上で「犯罪者に対し厳罰で臨む制度を維持し、死刑も活用しようとし続けているわが国自体の『残虐さ』を指摘せざるを得ない」とした。(毎日新聞 2010年11月26日 地方版)
(上記は、ブログ「来栖宥子・午後のアダージォ」より)
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/5b831cf8941a581de3b04fa3e4caafe9
このブログから学ぶこと多く、引用させていただきました。
(なお投稿者は、上の全記述を通じて「永山基準」なる表現を使いましたが、かかる「基準」にも、永山事件判決そのものにも、批判さるべきところがあると考えるものです。)
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