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石巻の3人殺傷:死刑判決 理解まるでなく、心底がっかり−井垣康弘弁護士/宮城 = 鹿児島、宮崎、福岡でも死刑求刑です
http://www.asyura2.com/10/senkyo100/msg/600.html
投稿者 一隅より 日時 2010 年 11 月 28 日 00:13:16: PnbUj1IYwR18o
 

1.
夫婦強殺の裁判員裁判で死刑求刑、否認事件で初(読売オンライン 2010年11月17日)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20080605-2766128/news/20101117-OYS1T00794.htm
 鹿児島市の高齢夫婦殺害事件で、強盗殺人罪などに問われた同市三和町、無職白浜政広被告(71)=写真=の裁判員裁判の第10回公判が17日、鹿児島地裁(平島正道裁判長)であった。検察側は論告で犯行の残虐性などを強調し、死刑を求刑した。裁判員裁判での死刑求刑は東京、横浜地裁に次ぎ3例目で、否認事件では初めて。判決は12月10日に言い渡される。(後略)

2.
宮崎の家族3人殺害、死刑求刑 裁判員裁判5例目(朝日ドットコム 2010年11月25日19時39分)
http://www.asahi.com/national/update/1125/SEB201011250011.html
 宮崎市の民家で今年3月、同居の家族3人を首を絞めたりハンマーで殴ったりして殺害したとして、殺人と死体遺棄の罪に問われた無職奥本章寛被告(22)=同市花ケ島町=の裁判員裁判が25日、宮崎地裁(高原正良裁判長)であった。検察側は「極めて残虐で、身勝手な犯行」として死刑を求刑。弁護側は「動機の背景に同情の余地がある」として、死刑回避を求めて結審した。
 裁判員裁判での殺人事件としては被害者が最多の3人で、死刑求刑は5例目。起訴内容に争いはなく、家族内での殺人事件の量刑を裁判員がどう判断するか注目される。判決は12月7日。
 検察側は論告で、死刑選択が許される基準として最高裁が1983年に示した永山基準に沿って、「冷酷で非常に悪質な犯行」と指摘・・・(後略)

3.
福岡2女性殺傷、被告に死刑求刑 弁護側は強盗未遂主張(朝日ドットコム 2010年11月26日23時31分)
http://www.asahi.com/national/update/1126/SEB201011260062.html
 福岡市で2008年に女性2人が殺傷された事件で、強盗殺人などの罪に問われた無職野地卓被告(25)=同市中央区=の公判が26日、福岡地裁であった。検察側は「卑劣で残虐な通り魔的連続凶悪事件」として死刑を求刑。弁護側は、殺意がなく強盗未遂罪にとどまると主張して結審した。判決は2月2日の予定。
 検察側は論告で、死刑選択が許される基準として最高裁が示した永山基準に沿って「金銭欲求を満たすためには、落ち度のない他人の命を奪っても構わないとの自己中心的な犯行」と指摘・・・(後略)


1は全面否認事件、3は被告人の刑事責任能力(妄想性人格障害)が争点になるそうです。
また1、2の事件は裁判員裁判の対象、福岡の事件は対象でないようです。

--------------------

まさに次から次へ、です。真に憂慮すべきことではないかと思います。

宮崎、福岡の事件ではどちらも、「検察側は・・永山基準に沿って・・」、とあります。
これについて、安田好弘弁護士がつとに指摘しています。
 ↓
『年報死刑廃止08』【犯罪報道と裁判員制度】−安田好弘弁護士の話抜粋
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/40c49ceba57087ced321d423647c7bf2
(ブログ「来栖宥子・午後のアダージォ」より)

2.光市事件最高裁判決の踏み出したもの
 僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。
 それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。
 ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。
 具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
(引用おわり)


 つまり、本来の「永山基準」(イヤな言葉ですが)では死刑は回避が原則であって、ゆるされるのは真にやむを得ない場合のみだ、というものであった。
 ところが(光市事件最高裁判決で)それが変わってしまった。ある一定「基準」に達すれば死刑が原則、それを回避するには特別な理由が必要、となっているというのです。


 見てみます。
  ↓
(永山事件最高裁判決 1983年7月8日)
 死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。


(光市母子殺害事件最高裁判決 2006年06月20日)
 死刑は,究極のしゅん厳な刑であり,慎重に適用すべきものであることは疑いがない。しかし,当審判例(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁〔注:上記永山事件最高裁判決〕)が示すように,『死刑制度を存置する現行法制の下では,犯行の罪質,動機,態様殊に殺害の手段方法の執よう性・残虐性,結果の重大性殊に殺害された被害者の数,遺族の被害感情,社会的影響,犯人の年齢,前科,犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき,その罪責が誠に重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には,死刑の選択≪をするほかないものといわなければならない≫。』
(引用おわり。〔注〕、二重カギ、二重カッコは投稿者のものです。)


 安田弁護士はこれを、裁判員はこの逆転した論理を基準に説諭される、それに対して裁判員が、死刑回避の「理由」を見出し主張するのは容易なことではない、というのです。
 下級審の裁判官自身にとっても容易ではないでしょう。

--------------------

私(投稿者)は、犯行時18才以上の少年の事件の扱いについても同様な、立脚点の微妙な移動があるのを感じます。
 ↓
(永山事件最高裁判決)
 原判決が本件犯行を精神的に未熟な実質的には一八歳未満相当の少年の犯した一過性の犯行とみて少年法五一条の精神を及ぼすべきであると判示しているのは、右の環境的負因による影響を重視したためであろう。しかしながら、被告人同様の環境的負因を負う他の兄弟らが必ずしも被告人のような軌跡をたどることなく立派に成人していることを考え併せると、環境的負因を特に重視することには疑問があるし、そもそも、被告人は犯行時少年であつたとはいえ、一九歳三か月ないし一九歳九か月の年長少年であり、前記の犯行の動機、態様から窺われる犯罪性の根深さに照らしても、被告人を一八歳未満の少年と同視することは特段の事情のない限り困難であるように思われる。そうすると、本件犯行が一過性のものであること、被告人の精神的成熟度が一八歳未満の少年と同視しうることなどの証拠上明らかではない事実を前提として本件に少年法五一条の精神を及ぼすべきであるとする原判断は首肯し難いものであると言わなければならない・・。


(光市事件最高裁判決)
 少年法51条(平成12年法律第142号による改正前のもの)は,犯行時18歳未満の少年の行為については死刑を科さないものとしており,その趣旨に徴すれば,被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことは,死刑を選択するかどうかの判断に当たって相応の考慮を払うべき事情ではあるが,死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえず,本件犯行の罪質,動機,態様,結果の重大性及び遺族の被害感情等と対比・総合して判断する上で考慮すべき一事情にとどまるというべきである。
(引用おわり)


 つまり、18才以上の少年にたいして18才未満の少年に死刑不適用とする少年法51条の趣旨を及ぼすべきか、についてです。
 前者では、それを一般に否定はしないが、当該事件はその具体的事情に照らしてその趣旨を及ぼすべき場合でない、とします。すなわち具体的事情によっては、少年法51条の趣旨を及ぼすべき場合のあることにもなります。
 これにたいして後者では、被告人少年の年齢は「相応の考慮を払うべき事情ではあるが」、犯行の他の諸要素とあわせて「考慮すべき一事情にとどまる」として、具体的に踏み込んだ考察がされていない。すなわち、年齢はつねに他の諸事情と並ぶ一要素であると一般的に措定されてしまっているといえます。


このたびの石巻の事件(11月25日仙台地裁)では、判決文が明らかでないが、報道からは後者に近いように感じます。
 ↓
(判決は)「年齢も『相応の考慮をすべきだ』としつつ『結果の重大性などから死刑回避の決定的な事情とまでは言えない』と述べた。」
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101126k0000m040078000c.html


これについては毎日新聞11月26日社説が、永山事件判決から光市事件判決への変化としてとらえています。
 ↓
毎日jp 社説 2010年11月26日 2時32分
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20101126k0000m070127000c.html

 (前略)
 少年法は、18歳未満の犯罪に死刑を科さないと規定する。また、最高裁は83年、永山則夫元死刑囚(97年執行)の判決で、死刑を選択する場合に考慮すべき9項目の基準を示し、犯行の態様や被害者の数などと並び被告の年齢を挙げた。
 ・・・・・・

 だが、山口県光市の母子2人殺害事件で、2審の無期懲役判決を破棄した06年の最高裁判決が、従来の適用基準より厳罰化の方向に踏み込んだと指摘されている。
 最高裁は、犯行の悪質性を強調したうえで、事件当時18歳だった年齢について「死刑を回避する決定的事情とはいえず、考慮すべき一事情にとどまる」との判断を示したのだ。
 光事件では、広島高裁が08年、やり直し裁判で元少年に死刑を言い渡した。現在、上告中だ。

 今回、判決は「年齢は死刑回避の決定的事情とはいえない」と指摘した。これは、06年の最高裁の判断を踏まえたものとみられる。
 (後略)

 もっとも社説の結論は、「今回の判決が、少年事件の裁判員裁判の厳罰化の方向を示すと一概に評価することはできないだろう。」とされている。
 この結論は、永山事件判決から光市事件判決への変化を前提に、後者との比較において今回の石巻の事件の判決(仙台地裁)について述べられたものだ。

--------------------

最後に、長年、少年事件に取り組んでいる元判事井垣さんの談話。するどい怒りが感じられます。
 ↓
石巻の3人殺傷:死刑判決 理解まるでなく、心底がっかり−井垣康弘弁護士/宮城

 神戸家庭裁判所で約6000人の非行少年を担当した経験のある井垣康弘弁護士は、判決について、「『残虐な』人格に育て上げたことに対する理解がまるでなく、極度にゆがめられた『人格』も少年院での数年の育て直しで更正可能なことも分かっていない」とし、「心底がっかりした」と批判した。
 井垣氏は、「弁護団に元家裁調査官などの少年司法の実務家が加わるべきだった」と強調。その上で「犯罪者に対し厳罰で臨む制度を維持し、死刑も活用しようとし続けているわが国自体の『残虐さ』を指摘せざるを得ない」とした。(毎日新聞 2010年11月26日 地方版)

(上記は、ブログ「来栖宥子・午後のアダージォ」より)
http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/5b831cf8941a581de3b04fa3e4caafe9

このブログから学ぶこと多く、引用させていただきました。

(なお投稿者は、上の全記述を通じて「永山基準」なる表現を使いましたが、かかる「基準」にも、永山事件判決そのものにも、批判さるべきところがあると考えるものです。)
 

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コメント
 
01. 2010年11月28日 00:25:30: bBoh3QexfI
死刑がいとも簡単に出てくるのは恐ろしい社会だ。仮に自分が被告になったらと考える裁判員はいないのか?恐るべき愚民裁判。

02. 2010年11月28日 00:49:20: hIzqzIxCU6
では何故司法が一丸と成って死刑をやりたがるように成ったのか?
不気味な事にマスコミも被害者遺族の報復感情を利用して
大衆を扇動している
私はマスコミや司法の内部に潜り込んでいる
カルト宗教の存在を疑っています

03. 2010年11月28日 00:49:21: EHT2R3fLRQ
> 01

決してそうとは思わない!
誘導するな!


04. 2010年11月28日 01:20:54: 7E0OVH9Wxg
石巻の事件は、犯人の少年が殺人の罪を着せるための子分を用意していて、
その少年を犯人に仕立て上げるために目撃者を無理に殺していたのでしたね。

05. 2010年11月28日 01:20:55: Koitx7sbCA
単なるガキ殺し
ひとり死ぬまで飼ってたって、日本経済が揺らぐわけじゃあなし。
終身刑がないのが問題だろう。

綾瀬女子高生セメント詰め殺人の犯人も、さかきばらも娑婆にでてきているぞ。
こいつらこそ、終身刑だろうが。

単純馬鹿が、嫉妬に狂って、あばれりゃ、それはそれで問題だが、そんなの隔離しておけばいいだけでしょ。単純馬鹿が、死刑が怖くて逆上するのを踏みとどまるわけでもなし。刑務官の心理的負担が多くなるだけだよ。

それとも、被害者遺族の・・・というなら、敵討ち解禁かい?それなら、自分が、犯罪者遺族なら、たま取りに行くけどね。

失われた時間は取り戻せないけど、失われた命はもっと取り戻せない。
命の大切さを言うのなら、国家による殺人は絶対に容認できない。



06. 2010年11月28日 08:30:23: Get9aY0xRA
「命の大切さ」と死刑が両立するということは
「命の大切さ」とははその時その時でどうにでもなる
いい加減な概念であるということを公式に認めるということ。
そういう社会が「命の大切さ」をいくら説いたとしても、あまり説得力はない
軽薄さ・いい加減さが常に付きまとうという矛盾

「人殺しが絶対に許されない」のなら、
「人殺し」の否定、「生きる」ことへの肯定を徹頭徹尾貫き通す以外に
何の道がある?


07. 2010年11月28日 12:36:16: 2uG0TjxM2Y
プロでない裁判員に学説・判例理論に基づいた判断を強要するのは無理がある。

それは、最初から分かっていたことのような気がするが。何の為の裁判員制度なのかがやがて問われることになるはずだが・・・。


08. 2010年11月28日 15:45:47: tXeRGquu5w
何か問題あるのか。

「考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない」から死刑なんだろ。

弁護側が説得力のある要素を提示できなければ、そりゃ死刑になるわな。

それで「理解まるでなく心底がっかり」だと。

弁護側の己の無力、説得力のなさが原因だろ。


09. 2010年11月28日 17:51:06: R5C2f0dHYg
 無実の人間がいい加減ででたらめな検察のストーリーで犯人にされ死刑求刑、それを認める裁判官達。こんな救いのない悲劇はない。
 無実の人間の気が狂わんばかりの心の叫びを陪審員の皆さんは、心眼を持って聞かなければならない。「疑わしきは被告人の利益」法治国家の人間として忘れないでいただきたい。確かな証拠がなく自供だけで死刑にされるなど言語道断。

10. 2010年11月29日 09:29:15: ZPcAyZ31J6
06に強く共感、何度も読んでしまった。

一隅さん、投稿ありがとう。ご紹介いただいた 来栖宥子・午後のアダージォのサイトへも行かれました。
この方の存在も初めて知りました。頑張っている人がいるんですね。


11. 2010年11月29日 15:59:56: tXeRGquu5w
06の妙な論理に従えば

「人を監禁して自由を奪うことは絶対に許されない」
(例えば新潟で女児が9年余り監禁された事件など)
ゆえに
「人を監禁して自由を奪うこと」を否定し
「自由を守ること」への肯定を徹頭徹尾貫き通すことによって

懲役刑や禁固刑も全て否定されてしまうことになりゃせんか。

社会の秩序を維持するには、ルールを破った者(罪人)へのペナルティ(刑罰)が必要。
犯罪者の人権が刑罰によって制限されることはやむを得ないこと。
犯罪者は報いとして自らの人権を法の定める形で失わなければならない。
さもなければ、秩序が崩れ、無法者のやりたい放題になってしまう。

「人殺しが絶対に許されない」のなら、殺人犯には然るべき刑罰を与えなければならない。
殺人罪であれば、死刑もありうる。
重い罪には重い罰が科される。殺人罪は最も重い罪である。
被害者に何の落ち度もないのであれば、最も重い罰として、死刑が相応しかろう。

「その刑罰が殺人犯の人権を制限するものであることは許されざることだ」などというのは、法秩序そのものの否定である。

06はおかしい。
何の罪もない人の命を奪うことと、凶悪犯罪者の命を奪うことを、全く同列に置いている点で。


12. 2010年11月30日 04:52:16: a4nANbovbU
>>11
殺人犯が人を殺すことと死刑は、「人の命を故意に奪うこと」という点で全く同列だよ。
凶悪犯も「人間」であり、刑事手続に必要な制限以外はすべての人権を保障される。
「人を殺してはならない」という規範は、具体的な誰それではなく「およそ一切の人間を殺してはならない」という規範だ。

>懲役刑や禁固刑も全て否定されてしまうことになりゃせんか。

詭弁の最たるものだね。
自由を奪うことと命を奪うことが天と地ほども違うから、死刑廃止が問題になっている。
自由刑は犯人の贖罪と更生の理念によって人道上是認されるが、死刑は人道上全く是認の余地がない。

死刑賛成論者も、死刑が無期懲役とは比較にならないほど苛酷で残虐な刑罰だからこそ、廃止に反対するわけだろう。
死刑も無期も大して変わらないなら、死刑でなくて無期懲役でもよいということになるはずだ。


13. 2010年11月30日 13:52:25: tXeRGquu5w
殺人犯が人を殺すことと死刑は、「人の命を故意に奪うこと」という点で全く同列、というなら。

「人を殺してはならない」という規範は、具体的な誰それではなく「およそ一切の人間を殺してはならない」という規範だ、というなら。

監禁だって同じってことになりゃせんのか。

監禁犯人が被害者を監禁することも、司法が犯人を懲役刑なり禁固刑なりに処すことも、「人の自由を故意に奪うこと」で同列ってことになりゃせんか。

たとえ刑罰であっても「およそ一切の人間の自由を奪ってはならない」ってことになりゃせんか。

自由刑は犯人の贖罪と更生の理念によって人道上是認される?

はっはっは。だったら死刑だって似たようなもんだろ。

ていうか、それじゃあ同列に置くのはおかしいということを認めてるのと同じだ。

「被害者を監禁して自由を奪うという犯罪は正当化されないが、監禁犯人に刑罰を科して自由を奪うことは正当化される、すなわち同列ではない」ということを認めてるのと同じだ。

同列ではない以上、「およそ一切の人間を殺してはならない」という規範の前提も崩れる。そもそも初めからそんな前提は存在していないのだ。

「罪のない人を殺してはいけないが、凶悪犯罪者を死刑にするのは正当化される」という規範があるのだ。死刑制度とはそういうものだ。

「刑事手続に必要な制限」の一環として犯人の生命を剥奪する。

「更正は期待できない、ゆえに死を以って贖罪する」なら人道上是認される、ってことで。

問題なし。


14. 2010年12月01日 01:56:07: a4nANbovbU
>監禁犯人が被害者を監禁することも、司法が犯人を懲役刑なり禁固刑なりに処すことも、「人の自由を故意に奪うこと」で同列ってことになりゃせんか。

もちろんそのとおり。
問題は、国家の刑罰としてどこまでが許されるかってこと。
刑罰で自由を奪うことは異論なく許されるが、人を殺すことは刑罰としても許されない、これが死刑廃止論のスタンスだよ。

これは理屈の問題ではなく、人間の生命に対する価値観、国家の刑罰の倫理性に対する価値観の問題だ。
人を監禁して自由を奪うことと、人を殺して生命を奪うことが、人道上同列なわけがない。
このことが本当に理解できないなら、死刑廃止問題を論じる資格はないね。


15. 2010年12月01日 16:44:13: tXeRGquu5w
死刑廃止派が「人を殺すことは刑罰としても許されない」と主張するのは勝手であるが。

その根拠として「罪のない人を殺してはいけないから、凶悪犯罪者も死刑にしてはいけない」などというのは、論理的に無茶苦茶、自爆としか言い様がない。
罪のない人と凶悪犯罪者を同列に論ずる時点で、法秩序の根本的な否定であり、おかしい。
論外だとツッコミ入れられて終わり。
そんな馬鹿な論拠では、死刑維持派の考えを変えさせるのは無理。説得力なさすぎ。

死刑維持派の考えを変えさせたいのであれば、もっと別のまともな論拠を示すべき。
もっとも、そういうまともな論拠を提示できるかは甚だ疑問だが。

死刑維持派は
「重い罪には重い罰を与えるべき」
「最も重大な罪を犯した凶悪犯罪者には、最も重い罰として死刑を適用すべき」
ということについて、理屈としても成り立っている、合理的であると考えている。

死刑廃止派が「これは理屈の問題ではなく」などと言ってるようじゃあ、話にならないね。

「人を監禁して自由を奪うことと、人を殺して生命を奪うことが、人道上同列なわけがない」?
そりゃそうだろ。罰としては死刑の方が自由刑よりも重いわな。
(ていうか、私はそんなこと一言も言ってないが?)

石巻の3人殺傷なんかは、最も重大な罪に十分該当するだろ。じゃあ最も重い罰の死刑でいいじゃん。
「その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合」だろ。
何が問題な訳?

「価値観の問題」?
死刑廃止派がどういう価値観を持っていようが基本的には自由だが、死刑維持派の価値観だって同様に自由だろ。

いずれにしても、国の法秩序と刑罰の制度は、国会で民主的に決めなければならんので。
死刑廃止派が多数派になれなければ死刑廃止は無理。
死刑廃止派が多数派になれるように、説得力のある主張を考えたらどうかね。


16. 一隅より 2010年12月03日 20:59:57: PnbUj1IYwR18o : EDdl3oR2Vp
投稿者です。

死刑廃止、死刑存続、どちらの立場からも、これからまだまだ意見をたたかわせるべきだと思います。
それも、>15さんのいうように、論理と説得力をともなうよう努めつつ。


私(投稿者)としては、裁判員裁判、少年、死刑というそれぞれの問題が集中的にあらわれたこの事件で、具体的に考えてみたいと思いました。

安田弁護士のいうところにしたがって、その論理を、次のようにまとめてみます。
 ↓
1.
「如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念」=永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念(上記、安田弁護士による)

この考えかた(これでは実質、死刑適用を停止するに等しい)は最高裁として採用することができないので打ち出されたのが「永山基準」
 ↓
2.
「各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択≪も許されるものといわなければならない≫。」

(これは、「やむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」、つまり「その他の選択も許される」という論理)

これを安田弁護士は、「死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ≪許されるんだ≫という理念」と表現しています。

ところが、光市事件最高裁判決でこれが変えられます。
 ↓
3.
「各般の情状を併せ考察したとき,その罪責が誠に重大であって,罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には,死刑の選択≪をするほかないものといわなければならない≫。」

(これは、「やむをえないと認められる場合には、死刑の選択をするほかない」、つまり「その他の選択はない」という論理)

これを安田弁護士は、「ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。」と表現しています。


つまり光市事件判決以降、原則と例外が逆転しているのではないか、というのが安田弁護士のいいたいことではないでしょうか(投稿者も同感です)。

--------------------

私(投稿者)の主張したいことは、こうです。
 ↓
1.
少なくとも、原則と例外をもとに戻す(光市事件判決の「基準」をやめる)。

2.
「永山基準」によるにせよ、「考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許される」というその「理念」に則る。

3.
そうすると「考えられるあらゆる要素を斟酌」するのは裁判所の責務となる。

4.
ところが、少年に対する裁判員裁判では、「あらゆる要素を斟酌」することが充分にはできない制度設計になっているのではないか。

(参照)
「浮かび上がった課題もある。五日間の公判で、少年の成育歴について、三十分程度の読み上げに終わったことだ。どのような家庭環境で育ったかなどを理解するために、家庭裁判所が作成する調査票で、成育歴が心理学的 、社会学的な視点で記載されている。社会記録と呼ばれる。今回の裁判では、その一部分が、法廷で取り調べられたにすぎない。
 これは短期審理で、わかりやすさを求める裁判員制度導入時から指摘されていた問題でもある。
(東京新聞 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2010112602000069.html


だから、井垣元判事は、「心底がっかりした」とおっしゃったのだろうと思います。


私(投稿者)は、(1)少年に、(2)死刑が適用されうるような事件を、(3)裁判員裁判の対象とすることに、三重のムリがあると考えています。
それは、物理的(時間的)無理であり、また論理的無理でもあると思います。

少なくとも、この三重の無理のある場合にはそれを改めてゆくことを考えよう、と主張したいのです。


17. 2016年6月16日 16:02:04 : LY52bYZiZQ : i3tnm@WgHAM[-9820]
元少年の死刑確定へ=一審裁判員、石巻3人殺傷―最高裁

時事通信 6月16日(木)15時10分配信

 宮城県石巻市で2010年、元交際相手の少女の姉ら2人を殺害、1人に重傷を負わせたなどとして、殺人などの罪に問われた元少年の上告審判決で、最高裁第1小法廷(大谷直人裁判長)は16日、元少年側の上告を棄却した。

 裁判員裁判となった少年事件で、初めて死刑判決が確定する。

 元少年は、当時18歳7カ月の千葉祐太郎被告(24)=石巻市=。弁護側は死刑回避を訴えていた。

 裁判官5人全員一致の意見。殺害された被害者が2人で、犯行時に未成年だった被告に死刑判決が確定するのは山口県の光市母子殺害事件(12年確定)以来となる。

 一審仙台地裁の裁判員裁判は10年11月、死刑を言い渡し、14年1月に二審仙台高裁も支持した。弁護側は上告審で、犯行に計画性がないなどと主張し、死刑回避を訴えていた。

 判決によると、千葉被告は10年2月、少女を連れ出すため少女の実家に侵入。止めようとした少女の姉南部美沙さん=当時(20)=や居合わせた友人の大森実可子さん=同(18)=を牛刀で刺殺し、姉の知人男性にも重傷を負わせた。

 
◆おことわり
 石巻3人殺傷事件で殺人などの罪に問われた被告は事件当時18歳の少年だったため、更生を図る目的から氏名の公表を禁ずる少年法の理念を尊重し、匿名で報道してきました。しかし、死刑が確定することで社会復帰の可能性がなくなる▽国家が個人の命を奪う死刑について、対象者の情報は広く社会に共有されるべきだ▽事件の結果は重大で社会的関心が極めて高い―などを総合判断し実名報道に切り替えます。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160616-00000087-jij-soci


18. 2016年11月16日 13:25:11 : GELFYFhW7Q : dV6ehkGB0uw[4]
TOCANA > 日本 > 平成生まれの死刑囚と面会、衝撃の告白 .


【死刑囚と面会】平成生まれの死刑囚が衝撃告白 ― 実は「殺人の記憶がない」石巻3人殺傷事件

2016.11.13
http://tocana.jp/2016/11/post_11453_entry.html


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