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2010/11/21 07:31
ちょうどいい機会じゃね?
飯山先生がいろいろ書いてますな。
非常に参考になるのでとてもありがたいのだけど、「金王朝」の続きのほうが楽しみだったりして…。
いや、それ以上に仕事関連で楽しみにしてることがあるので、ぜひそっちにも少しだけ労力まわしてもらえないかなぁ…なんて思ってんですが(笑)。
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さて、珍しく、飯山師匠のページから一部引用。
http://grnba.com/iiyama/index.html#ws1121
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ヴェーバーは、次のように言いたいのである。ヴェーバーの意図するところは、
「 “暴力・violence” という激しい言葉でしか表現できない荒々しい物理的強制力を、国家という共同体は独占している!
国家が独占している究極の強制力こそ “暴力” なのだ!」 と。
ここでヴェーバーの意図するところは、
「国家が独占する究極の強制力は、“暴力・violence” という言葉でしか表現できない。
“force” や “power”、また “武力” や “威力” では、意味が薄くなるので駄目!」 ということである。
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これ読んで「そんなの許せるか!」なんて思ってる人がいるなら、そうとう頭弱いよね。
とくに民主主義がどうこうと言い始める連中は、アホとしか言いようがない。
いかなる国家体制だろうとまったく関係ない話でね、ついでに言えばイデオロギーも無関係。
国家が暴力を独占している事実は変わらないわけだ。
仙谷についてはまったく評価しないどころかマイナスもマイナスで、早いところ網走の塀のなかにでも放りこんでもらいたいが、まあ、こういう発言が出てきたのって、世の中が政治を考えるちょうどいい機会なんじゃないかね。
マックス・ウェーバーの思想とは少々外れ、ついでに自衛隊うんぬんからも離れて、おいらの思想において話を続ける。
軍事方面に限った話ではなく、すべての国家機関というのは、一般庶民になにかを強制するためのものであって、それを暴力装置とか権力機関とか表現することになにひとつ間違いはない、とおいらは考えている。
で、その表現を悪のように思っている脳みそお花畑な人たちが大量にいるわけだが、国家になにも強制力がないというほうがそもそもおかしいのだ。
たとえば、強制力のなにもない警察ってのがこの世に存在したとする。
その存在意義はなんだ?
どっかで刃傷沙汰が起きてたとして、それに介入して取っ捕まえて、治安を維持するような権力もなにもないなら、それこそ警察なんかに用はない。
自警団でも作って自分でやるしかねえ、ってことになるだろうし、みんな好き放題になって、国家のまとまりもなにもなくなるってわけだ。
よって、暴力装置ってものがなければ、国家とて存在しないか無意味なものになるってことだ。
これは、冷静に考えればごくごく当たり前のことだろう?
とはいえだ、こいつらに好きなようにやられてたら、国民は暴力装置の奴隷にされる。
これをうまくコントロールしなきゃならない。
つまり、暴力装置は必要不可欠だし、実際に存在するものであるということ、そして、一応は民主主義国家ということになっている我が国においては、主権者である国民が、それらを自分たちの利益になるようにうまく使わなければならないってことだ。
ものすごく単純化すれば、まさにじゃんけんの理論だが、「暴力装置は民衆を制する」「民衆は政治家を選ぶ」「政治家は暴力装置を操る」ってところか。
このことを理解しているか否かで、政治というものの考え方はガラリと変わる。
だからこそ、おいらはちょうどいい機会じゃねえかと言ってるわけだ。
まあ、あくまでもこの話は基本も基本であって、そんなに世の中単純にできていない。
それを狂わす要素が実はいくつもある。
そのなかで非常に大きな要素を占めているのが「情報(マスコミ)」と「カネ」というものだ。
まあ、このへんは同じことを何度も書いてもしょうがないので、過去ログでも読んでくれ。
なにが言いたいかって、要するに、オレたちは、一部の連中が意図的に流している膨大な情報と、カネというものの操作によって右往左往させられ、国家やら権力というものの姿を見えないように、もしくはまったく違うもののように思わされているってこと。
そんなときこそ、もう一度基本に戻って考え直すのがいいんじゃない。
で、ちょっと気づいてもらいたいんだよね。
いままさに、その暴力装置のパワーがものすごく増大しているんだよね。
つまり、じゃんけんの状態にあったはずが、いつの間にかトランプに変わり、暴力装置がジョーカーになろうとしているわけさ。
本来、国民が選んだ政治家が、その暴力装置をうまく操るはずなんだが、国民のほうを気にしながらそれをやろうとすると叩き潰される。
そして、その暴力装置自身、もしくは外側にいる何者かの意志に従って動かそうとするヤツらだけが、その手綱を握ることを許されるわけだ。
気がつけば、増税だの言論統制だの、なにやら負担と息苦しさばかりを感じる方向に動いている。
つまり、全体主義社会への流れってことだ。
そして、その社会の裏側に巨大資本がいるような状態こそ、まさに新自由主義の世界であり、何度も言うようだが、新自由主義と全体主義は、対極のように見えるだけで根っこはまったく同じなのだ。
このことに気づいている人どれだけいるんだろね?
珍しくマジメに書いてみたが、本当に頭使って考えてみたほうがいいぞ。
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