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別に特定の宗教を信じているわけではないが、仏像の中には人を浄化する力があるものが存在すると知った。百済観音はみごとなものだった。観音菩薩はあまねく人を救うためこの世に現れる。そう信じて作られたことを全身から発散しているすごい仏像である。
飛鳥仏、寺名 観音菩薩立像、像の高さ2.09m。楠の木造。
実を言うと子供の頃から何回目かの対面であったが意識してみたのは4年ほど前に奈良に別件で来た方に観光案内で法隆寺へ行ったときのこと。その時に宝蔵殿で見た百済観音の姿に激しく違和感を感じたことをはっきりと覚えている。宝蔵殿というのはただの宝物館で、それは今改めて考えるとなぜ博物館でもない寺なのにこんなに明るい所でガラスの箱に入って展示されているのかということだったのだろう。飛鳥仏の代表的な作品なのに仏像としての状態からは遠かったのだ。その当時は既に百済観音堂の建設計画が発表され建設募金の呼びかけも始まっていて私は当時はなぜそんなものを作るのか理解できなかった。あの姿からは真価が分からなかったのだ。
98年9月今回の奈良国立博物館の展示は理想的なもので東新館に、光をできるだけ押さえた中に濃い焦茶色のパネルで部屋の周囲を大きく囲んで、ぽつんと一体ガラスケースの中に入れてあった。あのほっそりとした長身の姿とほほえんだ顔と招くような右手。光背と台座からの竹の節と皮を象った支柱。ここまで残っているのは珍しい。
実は法隆寺よりは安心して見られる。それは今回は外に出ていて博物館なのだ。お客様なのだ。
百済観音は、なぜ家である法隆寺の宝蔵殿にあのような形で安置されているのか。それはこの仏像の由来からやむを得ずくるものだった。昭和初期の写真には金堂の本尊向かって左という位置に置かれていた。それが大正末期から昭和始めにかけて東京国立博物館に貸し出され奈良にはなかったのだ。返ってきてもこのような取扱。なぜこのようなことになったかというとこれが法隆寺の元からの像ではなく寺外から持ち込まれたものらしいということからだった。だから厳密にしていくと置き場所が無くなってしまったのだ。
高田法隆寺管主の説では隣の中宮寺が江戸期に荒廃して多くのものが法隆寺に持ち込まれておりその際の名簿にないものも多数有り、百済観音もそのひとつだろうということだった。法隆寺では長年虚空像菩薩像としていた。寺外から観音菩薩ではとの声が出ていた。1911(明治44)年に法隆寺の倉の中から阿弥陀如来の化仏のある冠を発見。この像のものであると思われ、寺でも観音菩薩と判定した。
なぜ仏像が造られたのか。それは信仰のためである。江戸時代に特定宗教としての仏教の信仰を失った私たちのほとんどはそれを結果として美術品として鑑賞している。多数の仏像を見ている私だがそれは当然と思ってきた。百済観音は仏像が何のために造られたのかということをまじまじと思い起こさせる。そういうすごい力を持っているのだ。
今回完成した百済観音堂は「流浪の仏に安住の地を」というキャッチフレーズのもとに造られた。でもここもガラスケースの中のようだが、どんな形になるのだろうか。心配している。
http://tokyo.cool.ne.jp/nara_hakken/bunkazaijisya/980920kuzarakannon.htm
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- 投稿可能になりました。本番投稿をお願いします。 管理人さん 2010/12/19 03:18:57
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