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野中広務氏死去 !元自民幹事長・元官房長官 !   自公連立に貢献した、野中氏 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2018 年 1 月 28 日 17:33:56: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


野中広務氏死去 !元自民幹事長・元官房長官 !

  野中氏が貢献した、自公連立の深層・真相は ?

(news.yahoo.co.jp:京都新聞:2018年1/26(金) 18:12より抜粋・転載)

◆自公連立に貢献した、野中広務氏(92歳)死去 !

元自民幹事長・元官房長官

インタビューに答える野中広務さん(2012年11月27日、京都市南区の事務所)

 京都府の地方議員を振り出しに自民党幹事長や内閣官房長官などの要職を歴任し、国政と京都政界で大きな存在感を発揮した元衆院議員の野中広務(のなか・ひろむ)氏が26日夕、京都市内の病院で死去した。92歳だった。京都府南丹市(旧園部町)出身。

 旧制園部中卒。旧園部町議、同町長、京都府議、副知事と地方自治の道を歩み、1983年の衆院補選で初当選。村山富市内閣で自治相・国家公安委員長として初入閣した後、小渕恵三内閣では官房長官、森喜朗内閣では、自民党幹事長として政権を支えた。

小泉純一郎元首相の構造改革路線とは相いれず、2003年に政界を引退した。その後も戦争体験を踏まえ、憲法改正に反対の立場から、活発に発言を続けた。昨年11月に京都市内で倒れ、入院していた。衆院当選7回。2002年に勲一等旭日大綬章。

(参考資料)

  自公政権の深層・真相は ?

(岩浪貞芳著「権力闘争の内幕」より抜粋・転載)

1 自公連立の深層・真相 !

(1)自公連立の経緯

◆鈴木棟一氏の主張

@ 湾岸支援の90億ドルが国会を通るかどうかの鍵を握っていたのは公明党だった。そこで、2月中旬、公明党への工作が集中した。峯山のもとに党員からの手紙、ファックスが殺到していた。その中には、賛成論者のものはほとんどなく、「90億ドルに反対してもらいたい」というものばかりだった。下部からの突き上げとの板ばさみに、公明党議員のスタンスは大きく揺れていたのだった。

公明党の党是とも言うべき基本的主張は、「反戦・平和、福祉社会の建設」だった。冬柴鐵三、日笠勝之、平田米男、大野由利子らのように、徹底的な平和主義者も多かった。彼らはこう主張した。「公明党は生命を尊重し、平和を追求する政党だ。その政党がいかなる形であれ、こうして武力行使にかかわるのは許せない。それが平和憲法の精神である」

このところ、公明党は都議選、参院選、衆院選と大きな選挙で3連敗していた。

そして、自民党と手を組むことで活路を見いだそうとする小沢一郎、市川雄一の名をとった「一市ライン」が、公明党を動かしていた。この2人は、竹下内閣当時、市川公明党国対委員長、小沢官房副長官の間で国対の裏折衝をして以来のコンビである。

それまでの公明党は社公民による政権づくりを目指していたが、市川は党内でも「社公民路線をぶちこわした張本人」と言われていた。市川の口ぐせは、「社会党と一緒になってなんでも反対していたら、社会党のうしろに埋没してしまう」というもの。自民党と組み、公明党の主張を取り入れさせれば、存在をアピールできるというわけだ。

A 1999年10月に自公連立が成立したが、これも竹下のシナリオだった。すでにその2年前に竹下は公明党のドンである藤井富雄に、地域振興券のアイデアを示してこう提案した、という。「公明党のほうから持ち出したらどうか」同じ年の6月、故正木良明公明党政審会長の葬儀で落ち合った竹下元首相は神崎武法公明党代表にこう提案した、という。

「これからはやはり自公だな」いずれも当時は新進党に組み込まれていた公明党を引きはがして、自民党政治を安定させる深謀遠慮であった。

◆野中広務氏の主張

公明党との連立の呼び水になったのが地域振興券だったが、両党との間ではこの他にも、少子化対策について2000億円規模の1999年度補正予算を編成することでも合意している。これは駅前保育所や企業内保育の充実を図る少子化対策で、冬柴鐵三幹事長から強い要請があったものだ。

こうした公明党への配慮や気配りが、連立に加わらない中でも国旗国家法、日米ガイドライン法などの成立について公明党が協力してくれることにつながったのである。その意味では、まず実質的な連立が先にあって、その後に形式的連立が付いてきたというのが実態に近いかもしれない。

連立の相手としての公明党は、創価学会を支持母体にしているだけあって、考え方が1つで安定している。加えて数もある。そして小渕さんも秋谷栄之助会長をよく知っていた。

99年の7月7日の七夕のことだった。

小渕さんは小沢さん、さらに公明党の神崎武法代表と連続会談を行い、自自連立に公明党が加わって自自公連立になるとの基本合意を取り付けた。神崎さんは当時、「日本の権力を正しい方向に導くためのも権力の中に入るのも1つの選択だ」と話すなど、連立に積極的に参加する方向になっていた。

これまで政教分離問題で批判してきたことについては、憲法に違反しないこと。その解釈は今後とも変わらないこと。そしてこれまでの自民党の公明党批判、創価学会批判には、情報や認識に偏りがあり、行き過ぎた攻撃があったことを認め、党とうして反省し、謝罪すること。

それを「政教分離問題についての見解」として文書化したのである。 

・魚住昭氏の主張

1994年末、市川雄一は小沢らと新進党を結成した。新進党は翌年7月の参院選で躍進したが、学会は宗教法人法の改正にからんで自民党の集中攻撃を受けて窮地に立った。最も恐れていた池田の証人喚問は辛うじて免れたものの、会長の秋谷栄之助が国会に参考人招致されたのである。

「そのころには自民党の反転攻勢にたまりかねた学会側が『市川がおっちょこちょいで馬鹿なことをやるから、こんなことになった』と言って彼を非難しはじめたんです。
市川というのは頭はいいけど、性格が激しく危ないところがありますからね。市川らに任せておいたら何が起こるかわからんというので、創価学会が直々に自民党との手打ちに乗り出した。その相手が一番手強い野中さんだった       というわけです」

それにしても、なぜ学会はそれほど野中を恐れたのか。「まあ、理由はいろいろありますが・・・・・」と言いよどんだ後で、岡本が例を挙げたのは、創価学会発行の『政教グラフ』に関することだった。政教グラフには、池田と外国要人などとの会見場面を撮った写真がたびたび掲載された。

「写真のバックには、創価学会施設にあるルノワールとかマチスとかいった有名画家の高価な絵が写っているんですが、野中さんがそれを創刊号から全部調べ上げて、学会が届け出ている資産リストと突き合わせた。
その結果、届出のない絵がいろいろあることが分かったというのです。もちろん野中さんは直接そんなことを創価学会に言ってくるわけではない。なんとなく耳に入るので、秋谷会長は『野中は怖い、怖い』としきりなに漏らすようになったんです」

後に野中が自公政権作りを成し遂げた後、有力支持者の1人が「どうやって創価学会
・公明党とのパイプをつくったんですか」と野中に聞いた。すると野中はこう答えたという。叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」と著書にしるしている。

◆平野貞夫氏の主張

私が付き合った公明党・創価学会の友人の中には、立派な見識を持つ人たちがたしかにいた。この人たちが排除されたのはなぜか。そこに、新しい日本を創ることを犠牲にしてまでも、公明党・創価学会が護らなければならない問題があったからではないか。

では、それは何か。この解明がきわめて重要である。私が推察するところ    2つの問題がある。

@「密会ビデオ」問題

まず、創価学会が非自民改革路線から離れたきっかけとして、「密会ビデオ」問題があったことは明らかだ。
もう1つは、公明党が自民党政権に参加することに積極的になるのが、長銀・日債銀などをめぐる金融危機と同じ時期であり、そのとき政治の背後にあった何かである。

第1の問題、創価学会が改革路線から離れる直接のきっかけは、某暴力団との長年にわたる「抜き差しならない関係」を象徴するビデオテープの存在だった。
このテープを材料にして、当時の自民党幹事長代理、野中広務さんは、新進党の旧公明党議員を通じて創価学会を「恫喝」したのだ。

 端緒となったのは、平成8年(1996年)1月に始まった通常国会である。この国会は、日本経済を奈落の底に突き落とした元凶である「住専問題」の処理をめぐり、大混乱に陥った。自民党のなりふり構わない行動に対して、当時の新進党は、予算委員会を「座り込み」という物理的抵抗で食い止めようとした。

そんな最中、事態打開に動いたのが、当時の幹事長代理だった野中さんであった。公明党の常任顧問の藤井富雄・東京都議らが某暴力団の組長と会い、反創価学会の自民党幹部4人の名前を挙げ、「この人たちはためのならない」といった・・・こう推測される様子を写したビデオテープを手に入れ、それを材料にして新進党の旧公明党議員に住専処理での妥協を迫ったという。

このとき、野中さんは、某暴力団の組長に「働きかけ」を行い、創価学会との調整を行ったという情報があった。上部団体の代表者と藤井都議が京都の高台寺近くの料理屋で会ったという事実を必死に追いかけていたジャーナリストのグループがあったが、残念ながら解明されていない。
しかし、私の耳には、「自公連立は某暴力団がきっかけをつくってやったようなものだ」という、某暴力団の内情をよく知る立場にいた人物の話が届いている。この一件以降、新進党にいる旧公明党の一部議員と創価学会の一部の幹部が、自民党によって牙を抜かれ、高邁な理念と理想を棄て、堕落の阪を落ちていく。

A 裏資金の隠し場所

もう1つ、公明党が自民党政権に積極的に参加する動きをするようになった背景だが、その時期が金融危機と符合することが問題だ。日本長期信用銀行(長銀)などの問題は、これらの金融機関が日本社会のマネーロンダリングの「ブラックボックス」であったことにある。

この恩恵にあずかっていたのは経済界だけではない。政界、とくに自民党の派閥、労働組合、学校法人、そして宗教法人に至るまで、裏資金を持つあらゆる団体が恩恵を受けていたので深刻であった。

私たちは法的処理をすることで、日本の暗部を国民の眼前に晒すことを主張した。しかし、労働組合を支持母体とする民主党と宗教団体を支持母体とする新党平和(旧公明党)は、自民党とともに「金融再生法」を成立させ、長銀等の法的処理を行うに至らなかった。

小渕政権は、野党の協力もあって金融危機をどうにか切り抜けるが、金融機関のあり方に対する国民の眼は厳しくなる。
これまでのように裏資金を金融機関に隠しておけなくなったわけだ。この時期、偶然とはいえ、新党平和(旧公明党)は自民党政権への参加に積極的になる。
これらの背景について、経済面からも政治面からも解明されていないことに、日本社会の不健全性が見え隠れする。

この2つの問題が、もし解明されるとしたら、自公政権の存在自体を国民は許さないだろう。

別の見方をすれば、この2つの問題(「密会ビデオ」問題・裏資金の隠し場所)を国民の眼から隠蔽するために、自公連立政権が続いていると、私は推測している。

U 自公連立前の公明党のスタンス:

政権交代で改革実現 !

◆自民党の一党支配を打破し、新政権軸を目指す !

 (石田委員長)公明党の基本路線:

1993年7月、総選挙に臨む基本姿勢について、石田委員長は「自民党の一党支配の下で、『政治腐敗が起こる 改革が叫ばれる 改革が実現しない 選挙で政権が動かない また腐敗が起こる』というような“悪循環”が何度となく繰り返され、今まさに政治不信はその極に達している。
この『“悪循環”を繰り返してきた最大の原因』は、“自民党に代わる政権の受け皿がなかった”ということであると思う」と日本プレスセンターで発言しました。

さらに、「政治を刷新して、緊張感を持たせる、また、政・官・財の癒着を断ち切るには、どうしても二つの問題が重要になってくる。

1つは“政権交代のシステム”であり、もう1つは“抜本的政治改革”だ」と主張しました。

自民党政権を打倒して、細川政権は、1993年(平成5年)8月に発足した。 非自民・非共産8党派の連立政権であり、公明党も連立した。

(1998年まで、この政権交代を目指す路線を続け、自民党・マスコミから昭和32年の大阪事件以来、迫害・誹謗中傷をうけていました。公明新聞1993年7月6日号3面)。

 ◆政権を選択できる、二大政党制をつくりたい !
 
(浜四津敏子代表):日本が構造改革のできない行き詰ったシステムになったのは、自民党一党支配の政治できたからです。これを脱却し、健全で成熟した民主主義を発展させるには、一党だけが長期に政権を握り続ける体制は好ましくありません。つまり、国民が政策・政治姿勢を判断し、「今回は、こちらの政権に日本の政治を任せてみよう」という、政権を選択できる二大政権政党もしくは二大政権勢力が日本に存在することが、中長期的に好ましいと思います
(浜四津敏子代表「公明新聞1998年8月16日号1面」)。


V 自民党の「反公明党・創価学会キャンペーン」

1998年以前、政権交代を目指していた、公明党・創価学会攻撃のため、

自民党がつくった主な組織 :1979年4月、池田第三代会長は、辞任させられた。

次第に自民党への戦う精神が弱くなり、1999年自民党と連立した。

自民党・CIAは、一次・二次宗門事件(日蓮正宗と創価学会の内紛・自民党・CIAによる分断工作)の黒幕であった !

★「創価学会等の社会的不正を糾す議員連盟」:中心者:三塚博元大蔵大臣

★「民主政治研究会」:代表:島村宜伸(しまむら・よしのぶ)元文部・農林大臣

★「憲法二十条を考える会」:代表:亀井静香・元運輸・建設大臣

★「四月会」(死学会):代表幹事:俵孝太郎(評論家)

顧問:勝部真長(お茶の水女子大学名誉教授)、秦野章(元法務大臣)、
藤原弘達(評論家)

W 自民党権力に迎合・屈服した公明党の理由は ?

魚住昭氏の主張:(魚住昭『差別と権力』講談社2004年、295〜296頁より抜粋・転載)
後に、野中広務元幹事長が、自公政権作りを成し遂げた後、有力支持者の1人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか」と野中に聞いた。すると野中はこう答えたという。
「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」と著書にしるしている

公明党は改革派から真逆の悪徳派・自民党従属に大変質した。

 

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