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湯川秀樹博士、原爆研究関与裏付け…終戦期の日記公開
反戦・平和の原点 !
T 湯川博士が、終戦の年に書いた日記の意義
(news.biglobe.ne.jp:読売新聞:2017年12月21日(木)23時40分 より抜粋・転載)
◆湯川博士が、終戦の年に書いた日記 !
日本人初のノーベル賞受賞者、湯川秀樹博士(1907〜81年)が、終戦の年に書いた日記を、京都大学基礎物理学研究所(京都市左京区)が、12月21日、発表した。
旧海軍の要請で、京都帝国大が進めていた、原爆研究に関わっていたことなどが、記されている。公的には、自ら言及することのなかった、原爆研究への関与を裏付ける記録で、当時の湯川博士の様子を知る貴重な資料だ。
公表されたのは、湯川博士が、所長だった、同研究所に残されていた、「研究室日誌」など、計15冊のうち、1945年に書かれた、3冊である。親交があった、小沼通二こぬまみちじ・慶応大名誉教授(86)が、確認した。
◆湯川博士が、原爆研究「F研究」に
参加していたことを示す !
核分裂を意味する、「Fission」の頭文字をとり、京都帝国大で進められていた、原爆研究「F研究」に参加していたことを示す、最初の記述は、2月3日で、「午後 三氏と会合 F研究相談」とある。
さらに、5月28日、「F研究決定の通知あり」、6月23日には、「F研究 第一回打合せ会」などと、記されている。
U 湯川秀樹日記:反戦・平和の原点 ! 国の行く末、感情抑え
(news.infoseek.co.jp :2017年12月21日 21時47分より抜粋・転載)
毎日新聞 :湯川秀樹が終戦した、1945年に書いた日記。6月23日には「F研究」についての記述がある=京都市左京区で2017年12月21日午後4時42分、小松雄介撮影
日本人初のノーベル賞を受賞し、敗戦にうちひしがれた国民を勇気付けた物理学者の湯川秀樹(1907〜81年)。京都大が21日公表した終戦前後の日記は、淡々とした筆致の中に、戦後に平和運動へ情熱を傾けていった湯川の原点が垣間見える。
湯川の日記は、日ごとに濃淡がある。米軍の手に落ちた硫黄島、沖縄については戦況を詳しく記録。1945年7月5日は、各地の空襲被害状況、同28日には、降伏を迫るポツダム宣言の詳細を記した。新聞などをつぶさに写したとみられる。ただ、そこには、直接的な感想などは、書かれていない。
原爆研究「F研究」についても、会合の参加者などを記述するだけ。広島原爆の投下翌日の8月7日に、「原子爆弾」について、新聞記者から、解説を求められた記述があるが、同時に「風邪気で頭痛がする」など、体調不良を記す。
一方、玉音放送があった、8月15日は「朝散髪し身じまいする」「大東亜戦争は、遂に終結」とあり、湯川博士の心中もうかがえる。
敗戦により、湯川博士を取り巻く状況が、一変した様子もうかがえる。湯川は、9月以降、原爆研究の実態を把握する、目的とみられる、米軍将校の訪問を受けた。連合国軍総司令部(GHQ)は、原爆開発に転用されるとして、京都帝大などの実験機器「サイクロトロン」(円形加速器)を破壊したが、12月に、その記述が見える。
著書によると、湯川博士は、敗戦後の数カ月「沈思と反省の日々」を送った。
そして、「週刊朝日」1945年11月号に、科学と人間性に関する、文章を寄稿し、後の反戦や平和への考えの原点を示した。
その後、米軍の水爆実験で、船員が被ばくした、1954年の第五福竜丸事件を機に、平和運動に尽力した。科学の平和利用を訴えた、「ラッセル・アインシュタイン宣言」の共同署名者となり、核廃絶を求める、科学者でつくる「パグウォッシュ会議」にも参加した。
生前の湯川博士と親交があり、日記の分析にも携わった、慶応大の小沼通二(みちじ)名誉教授(86)=素粒子論=は、「日記に加え、著作や講演録から浮かぶのは、敗戦を経た湯川博士が、『国がやることに誤りはない』という考えを捨てたことだ。
日本を代表する、科学者が残した、『歴史的文化財』として見てほしい」と話した。
【平川哲也、野口由紀】
◆戦争への忌避感を反映
作家の保阪正康さん(78):本物の知識人が、自分の意にそぐわない時代に生きたとき、どんな自己表現をするのか。湯川秀樹の日記には、知性の戦いが、見て取れる。感情を押し殺した、表現の背景に何があったのか、読み解くことで、この日記は、昭和史を解き明かす、最上級の史料となるだろう。
私的感情を挟まない表現は、言論統制された、戦時下の背景がうかがえる。一方、1945年6月1日付をはじめとする、空襲の概況や、7月28日付のポツダム宣言は、新聞記事であろう、詳細を筆写した。
そこには、写した記事への賛同や驚き、戦争への忌避感が、反映されている。
広島原爆の投下直後も、当てはまる。軍は、新型爆弾と発表したが、8月7日付は、「原子爆弾」とあり、この日を含め、3日間は、体調不良をつづった。
原子物理学者として、投下されたのが原爆と知りながら「人類の悲劇」とは、書かず、体調不良で、脅威をにじませた。
ここに湯川博士の自己表現が見える。これらをどう読み解くかで、知識人が、戦争をどう受けとめたのか知る、史料となるはずだ。【聞き手・平川哲也】
(参考資料)
T 「長崎原爆の日」核兵器禁止条約「批准を」、
田上長崎市長、政府に迫る !
(news.yahoo.co.jp:2017年8/9(水) 11:25配信 より抜粋・転載)
毎日新聞:
◆安倍首相は、広島での挨拶同様、核兵器禁止条約には、
言及しなかった !
【写真特集、平和の祈り続く、長崎原爆の日】
長崎の式典には、核兵器保有国の米露英仏中を含め、過去2番目に多い、58カ国の代表が参列した。原爆投下時刻の午前11時2分、黙とうをささげた。
田上市長は、平和宣言のほぼ半分を核兵器禁止条約に割いて、その意義を強調した。
「ノーモア・ヒバクシャ」という、被爆者の願いが、多くの国々を動かしたとし、「『ヒロシマ・ナガサキ条約』と呼びたい」と述べた。その上で、「この条約をいかに活(い)かし、歩みを進めることができるかが、人類に問われている」とし、核保有国と「核の傘」の下にいる国に対し、核抑止論に基づいた、安全保障政策の見直しを促した。
◆核兵器禁止条約を批准しようとしない、日本政府に対する
被爆者の失望は強い !
唯一の戦争被爆国でありながら、条約を批准しようとしない政府に対する被爆者の失望は強い。広島市の松井一実市長は6日の平和宣言で、政府への直接的な批判や要求は避けたが、田上市長は「核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとると明言しているにも関わらず、交渉会議にさえ参加しない姿勢を到底理解できない」と強い表現で非難した。
「条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください」と明確に批准を求めた。憲法改正の動きには言及しなかった。
◆原発偏重のエネルギー政策から転換するよう訴えた !
今年から公募となった被爆者代表に選ばれた、長崎市の深堀好敏(よしとし)さん(88)は「平和への誓い」を読み上げた。放射線の脅威を挙げて「私は『核は、人類と共存できない』と確信している」とし、原発偏重のエネルギー政策から転換するよう訴えた。
安倍首相はあいさつで「核兵器国と非核兵器国双方への働きかけを通じて国際社会を主導する」と述べたが、核兵器禁止条約には触れなかった。非核三原則は堅持を誓った。
◆長崎での原爆死没者は、17万5743人となった !
式典では、この1年間で死亡が確認された、原爆死没者3551人の名前を記した原爆死没者名簿4冊が奉安された。奉安された死没者の総数は17万5743人となった。【浅野翔太郎】
◇長崎市長・平和宣言要旨:「ノーモアヒバクシャ」
この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122カ国の賛成で採択されたのです。
私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。
しかし、これはゴールではありません。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。
ようやく生まれたこの条約をいかに活(い)かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。
日本政府に訴えます。
核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。
唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。
私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
原爆は、いつも側(そば)にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。
私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
2017年(平成29年)8月9日 長崎市長 田上富久
U 自公連立・公明党の支持母体・
創価学会・戸田第二代会長の原水爆禁止宣言 !
○昭和32年、原水爆禁止宣言を発表する、戸田第二代会長 !
◆生存の権利への脅威は“魔もの”
9月8日は「原水爆禁止宣言の日」です。1957(昭和32)年のこの日、横浜・三ツ沢の競技場に5万人の青年が集って開催された「東日本体育大会」の席上、戸田第二代会長は、歴史的な「原水爆禁止宣言」を発表しました。
戸田会長はまず「諸君らに今後、遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします」と述べ「今、世に騒がれている核実験、原水爆実験にたいする私の態度を、本日、はっきりと声明したい」「私の今日の声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、いま世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」「(この)思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信じるものであります」と高らかに宣言しました。
◆核兵器の存在自体が“絶対悪”
この宣言を発表した当時、世界は冷戦の真っただ中で、大国が軍備拡大にしのぎを削り、原水爆は人類の未来に暗い影を落としていました。戸田会長による「原水爆禁止宣言」は、“核抑止論”に代表されるような、核兵器を正当化しようとする動きや考え方に対して、仏法の絶対平和主義に基づき、民衆の生存の権利を守るという立場から、核兵器の存在自体を「絶対悪」と断じ、その完全否定を宣言したものでした。池田名誉会長は宣言がもつ意義について「宣言の核心は、原水爆を使おうとする発想の背後に隠された『爪』、すなわち、人間のなかに巣くう“魔性の生命”に、鋭くメスを入れられたところにある」とつづっています。
1979(昭和54)年、「原水爆禁止宣言」を発表した横浜の地に、その平和思想をとどめるため、創価学会戸田平和記念館が設立されました。
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