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羽田孜元首相が死去 ! 82歳、 与野党の哀悼の意 !
細川政権の政治改革とは ?
T 羽田孜元首相が死去…82歳、「省エネルック」
(www.yomiuri.co.jp:2017年08月28日13時36分より抜粋・転載)
羽田孜(はた・つとむ)元首相が28日午前7時6分、老衰のため、東京都内の自宅で死去した。
82歳だった。民進党の羽田雄一郎・元国土交通相は長男である。
羽田氏は1935年8月24日、東京都大田区で生まれた。成城大経済学部卒業後、69年衆院選で父の羽田武嗣郎ぶしろう元衆院議員の後継者として、旧長野2区から自民党公認で初当選し、連続14選を果たした。
中曽根、竹下両内閣で農相、宮沢内閣で蔵相を歴任し、小沢一郎・自由党共同代表らとともに「竹下派七奉行」の一人に数えられた。
93年6月に宮沢内閣不信任決議案に賛成して自民党を離党。小沢氏らと新生党を結成し、党首に就いた。同8月、細川内閣に副総理兼外相で入閣し、94年4月の細川首相辞任後、第80代首相に就任した。
内閣発足直前に社会党が連立を離脱したため、少数与党での不安定な政権運営となり、6月に総辞職した。在職日数は戦後2番目に短い64日だった。
退陣後は新進党、太陽党、民政党を経て、98年4月の民主党結成に参加。2012年11月の衆院解散で政界を引退した。最近は、体調を崩しがちで、自宅などで療養を続けていた。
夏場は、半袖の上着の「省エネルック」を愛用した。
U 「非常に残念。心から冥福を祈りたい」
蓮舫代表が羽田元総理の死去に哀悼の意 !
(www.minshin.or.jp:2017年8月28日より抜粋・転載)
羽田孜元総理が、8月28日午前に死去したことについて、蓮舫代表は、同日午後、国会内で記者団の取材に応じ、「非常に残念だ。素晴らしい方だった。特に『ミスター政治改革』とも言われた。
行財政改革を、私自身が追い求めてきた理由は、あの時代の、羽田先生が残された功績の印象が、大きかったからだ。心からご冥福をお祈りしたい」と語った。
羽田元総理の思い出として、「1993年に小選挙区制の導入が実現した時、私は、ニュースキャスターをしており、現場で取材していた。政治改革に関する熱い思い、特に自民党では実現できなかった、小選挙区制を導入し、2大政党制を実現したいという思いを、誰よりも持っていた方だ。
直接その活動の様子の取材、あるいは、お話を聞かせていただいたことは、私の中で政治というものがとても身近になったきっかけだった。非常に尊敬している方だ」「自ら前に出る方ではなかったが、譲らないところは、譲らない頑固な方でもあった。そうした思いを私たちも学んでいかなければいけないと思う」と述べ、故人をしのんだ。−民進党広報局−
V 羽田孜元首相の訃報に接し
(www.seikatsu1.jp:2017年8月29日より抜粋・転載)
平成29年8月29日
代 表 小 沢 一 郎
羽田孜先生とは、半世紀近い政治生活を共に一緒の目標に向かって、文字通り「スクラム」を組んで、懸命に取り組んできました。
いま、あの時の思い出がたくさん心に浮かびます。羽田先生は、本当に誰からも愛される人柄で、さまざまな局面で助けていただきました。羽田先生がいなければ、今日の私もないと言っても過言ではありません。
羽田先生と私が理想とした、いつでも国民が政権を選択できる議会制民主主義の成熟と定着は依然道半ばです。
今回、私達は大きな灯を失いましたが、引き続き先生の御遺志を胸に、この国における議会制民主主義の定着のため、全力で取り組んで参りたいと思います。
羽田孜先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
W 羽田孜元首相が死去 ! 82歳
(www3.nhk.or.jp:2017年8月28日 13時22分より抜粋・転載)
羽田孜元総理大臣が、8月28日朝、東京都内の自宅で老衰のため亡くなりました。82歳でした。
羽田氏は、長野県上田市の出身で、バス会社に勤務したあと、昭和44年に父親の後継として衆議院旧長野2区で自民党から立候補して初当選し、平成24年に政界を引退するまで14回連続で当選しました。
羽田氏は、当選同期で、現在、自由党の代表を務める小沢一郎氏らとともに田中派に所属し、その後、竹下派の結成に参加していわゆる「竹下派7奉行」の1人に数えられ、農林水産大臣や大蔵大臣などを歴任しました。
そして、竹下派の会長だった金丸元副総裁が東京佐川急便事件で議員辞職したことをきっかけに小沢氏らとともに竹下派を出て羽田派を結成し、平成5年6月に政治改革法案の取り扱いをめぐって提出された宮沢内閣に対する不信任決議案に賛成して自民党を離党しました。
そして、みずからが党首となって小沢氏らとともに新生党を結成し、翌7月の衆議院選挙の結果、自民党を下野させて、日本新党の代表だった細川護煕氏を総理大臣とする「非自民連立政権」を樹立しました。
羽田氏は、細川連立政権で副総理兼外務大臣を務め、およそ8か月で細川内閣が総辞職したのを受けて、第80代の内閣総理大臣に就任しました。
しかし、内閣の発足直前に当時の社会党が連立政権を離脱したことなどから政権基盤が弱く、戦後2番目に短い在任64日で羽田内閣は総辞職しました。
その後も羽田氏は一貫して自民党に代わる新たな政治勢力の結集を訴え、新進党の結党に参加したほか、盟友だった小沢氏と対立して新進党を離党したあとは平成8年に太陽党を結成し、平成10年1月には「国民の声」や「フロムファイブ」と合併してできた民政党の代表になりました。
平成10年の民主党の結成にも参画して、その後、幹事長や最高顧問などを歴任し、保守系のグループのリーダーとして活動しました。
民主党が、平成15年に小沢氏が率いていた、当時の自由党と合併してからは、一度は、たもとをわかった、小沢氏の相談相手にもなりました。
そして、平成22年9月に「年齢や体力に限界があるし、悲願だった政権交代も実現できた。次の衆議院選挙には立候補しない」と表明し、平成24年の衆議院選挙に立候補せず、政界を引退していました。
◆地元長野県上田市では !
羽田元総理大臣の地元、長野県上田市のJR上田駅前では羽田氏が亡くなったことを伝える新聞の号外が配られました。
66歳の女性は「連立政権で総理を務めていたことをよく覚えています。政権は2か月ほどで短命でしたが、もう少し長くやってほしかったです。一度は総理になった上田の方なので亡くなったのは残念ですが、一つの時代が終わった感じがします」と話していました。
また、49歳の男性会社員は「残念な方を亡くしました。最近はメディアにも出ていなかったので、亡くなったことを号外で知って驚きました。激動の時代のなか苦労も多かったのではないかと思います」と話していました。
◆安倍首相:「改革と協調掲げ 多くの難題に尽力」
安倍総理大臣は「羽田氏は平成6年、バブル崩壊後の厳しい経済状況や北朝鮮の核開発疑惑など厳しい内外情勢の下、内閣総理大臣に就任され『改革と協調』の政治を掲げ、多くの難題に力を尽くして取り組まれた。突然の訃報に接し、悲しみの念を禁じえない。ここに国民の皆様とともに心から哀悼の意を表す」という談話を発表しました。
◆自民党・二階幹事長:「温厚な人柄で敬愛集めた」
かつて羽田氏とともに新生党や新進党の結成に参加した、自民党の二階幹事長は、記者団に対し「政党をともにしたこともあり、思い出は深く、大変残念だ。温厚で人の意見にじっくり耳を傾けて対応する政治家で、その穏やかな人柄はみんなから敬愛されていた。羽田氏が残した政治への思いをわれわれはあらゆる面で引き継いでいかなければいけないと思っている」と述べました。
◆民進党蓮舫代表:「政治改革に大きな功績」
民進党の蓮舫代表は国会内で記者団に対し「非常に残念だ。羽田氏は『ミスター政治改革』と呼ばれていたが、私が行財政改革を追い求めてきたのは羽田氏の功績がとても大きかったためだ。みずから前に出る方ではなかったが、譲らないところは譲らない、頑固な方だった。そうした思いを私たちも学んでいかなければならない」と述べました。
◆共産党・小池書記局長「初めての共闘担った」
共産党の小池書記局長は記者会見で「民主党が発足した直後に幹事長になられて、当時の共産党の志位書記局長と野党の国会議員の共闘のために力を合わせていた。ある意味では、民主党と共産党の初めての共闘を担ったのが羽田氏だったと聞いており、心からお悔やみを申し上げたい」と述べました。
◆自由党 小沢代表:「半世紀近くスクラム組んできた」
自由党の小沢代表は、羽田・元総理大臣の自宅を弔問に訪れたあと記者団に対し「同期生で、半世紀近い政治生活を一緒の方向を向いて、スクラムを組んでやってきた仲間なので、亡くなったと聞いて『とにかく』という思いで弔問に来た。『いつでも国民が政権を選べるような与党と野党が存在しなければ、民主主義ではない』という思いで『まだ道半ばだが、羽田さんの分も含めてもうちょっと頑張っていく』と本人の前で言ってきた」と述べました。
◆細川元首相 :「何でも相談できた」
細川護煕元総理大臣は羽田氏の自宅を弔問に訪れたあと記者団に対し「同志として大きな仕事を一緒にやってきたが、政治改革法案を一緒に仕上げることができ、今もいろいろなことが思い浮かぶ。副総理として外務大臣として細川内閣を一生懸命支えて頂き、温かい人柄だったので何でも相談できる間柄だった。特に難しい連立政権だったので、各党との連携なども人柄でずいぶんカバーして頂いたところが多かった。『本当にお世話になりました』と伝えた」と述べました。
◆北澤元防衛相:「包容力ある人」
20年余り羽田氏と政治活動をともにしてきた北澤俊美元防衛大臣は「かねてから療養中だったのでいずれこのような形で別れがくると思っていたが寂しい限りだ。羽田氏は包容力のある大きな人だったのでいつの間にか人が集まりともに行動をする不思議な人で、言葉よりも存在そのもので人をとりこにしていく人だった」と故人をしのびました。
さらに羽田氏が取り組んだ政治改革について「政権交代可能な対抗軸がないと国民が主権者でも選択肢がなくては意味がないとして、どんなに不都合なことを言われても包み込むようにしてみんなの先頭を走っていた。残っている者は、羽田氏の考えを引き継いで頑張ってもらいたい」と述べました。
(参考資料)
◆細川政権の政治改革[編集]
(ウイキペディアより抜粋・転載)
当時の世論は、自民党長期政権の下での政官業の癒着構造、カネがかかり政権交代が行われない選挙システム、政治腐敗等に対する不満が高まっていた。
自民党もまた数年来、カネがかからず政権交代を容易にする選挙制度改革や政治資金規制強化などのいわゆる政治改革に取り組んでいた。
しかし党内は守旧派と後の新生党・新党さきがけ・自由改革連合などにつながる改革派に分かれて激しく対立し、結局これを実現できなかった宮澤前内閣は内閣不信任決議を突きつけられ、新生党・さきがけの離党、衆議院における過半数割れによって下野することとなった。
本来理念や政策が異なる連立与党各党は、世論の最大の政治的関心事で自民党政権が成し遂げられなかった政治改革の実現という日本新党・さきがけの条件を受け入れ、これを一致点として政権を発足させたため、細川内閣はこれを唯一最大のテーマに掲げて年内の法案成立を目指した。
細川は政治改革が年内に実現できなければ政治責任をとると明言した。
選挙制度改革について、連立政権側は、小選挙区・比例代表(全国単一)各250・2票制(小選挙区・比例各1票)の小選挙区比例代表並立制を主張。
これに対して自民党は、小選挙区300・比例代表(都道府県単位)177・1票制を主張した。
社会党の中には本音では現行制度の存続を望む議員も少なくなく、連立交渉の条件を呑んだはずの自民党もまた同様であり、審議拒否を繰り返した。小選挙区274・比例代表(全国単一)226とする譲歩案を自民党が拒否したため、与党は10月18日に元の案を衆議院で通過させた。
参議院での実質審議は11月24日にようやく始まったが、参議院は自民党と社会党の勢力が大きく、年内可決の目処は立たなかった。
連立与党各党は年明けの1994年(平成6年)1月4日にそれぞれ議員総会を開いて政治改革実現の決意を固めた。5日からの参議院政治改革特別委員会は自民党の欠席戦術にもかかわらず連立与党の結束は固く、自民党も成立を前提とした修正論議に傾き始めた。
1月21日、社会党からの造反があり参議院で法案が否決されるが、細川は自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開き、あらためて政治改革関連法案成立の機運を盛り上げた。
自民党総裁河野洋平も細川とのトップ会談に応じ、急転直下、小選挙区300・比例代表(全国11ブロック)200・2票制、企業団体献金は1団体50万円までとする妥協が成立。両者は1月29日の午前1時、共同記者会見を行った。
この合意に基づく改正公職選挙法や改正政治資金規正法、政党助成法などの政治改革四法は3月4日に成立、5年以上の年月を経てようやく政治改革は実現した。
結果的に見れば、この政治改革の実現が、細川政権のほとんど唯一の実績となったが、ここで導入された小選挙区制や政党助成金制度は、後の政治のあり方を大きく変えていくことになる。
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