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世川行介著『泣かない小沢一郎(あいつ)が憎らしい』同時代社刊、2010年8月30日。
もうお読みになった方もいることだろう。
私は、例の民主党代表選のさなか、この本を読んだ。そして、ああ、今回(も)、 小沢氏は敗れる、と予感した。
世川氏の小沢論は、既に彼のブログで断片を知ることができたのだが、一冊の本になって、通読する体験から、戦後日本、とくに冷戦構造崩壊後における、小沢一郎という一人の政治家の「悲劇」(世川氏)が、良く伝わってくる。
世川氏は、小泉純一郎という「新しい」都会的な父親像に対して、小沢一郎は、地方や農村といった、近代以前の伝統的な日本社会が自生させた「古い」父親像を象徴すると書いている。この対照は、たしかに、充分にうなずける。
小泉は、本質的には軽薄で無教養であるにもかかわらず、なんとなくスマートで表面的なカッコ良さ(「松下政経塾的なもの」、と呼んでもよい)によって、大衆の支持を多く集めた。しかし、国民は、その詐欺師的な振る舞いによって多大な負担を強いられたことに薄々気がつきはじめ、さらに小泉に続く、自民党総裁のデタラメさに嫌気がさして、政治権力を担う政党を交代させた。
小泉とは対照的な存在である小沢は、小泉の「力」の源泉を熟知していたようだ。しかし、彼は彼自身の政治理念と手法を基本的には変えることなく、10数年、満を持していた。だから、昨年の衆議員選挙による民主党政権の誕生は、
鳩山や菅の力によるものでは、まったくない。そのことは、小沢を排除した民主党政権(内閣)のていたらくが満天下に証明している。沖縄の基地問題の処理(対米交渉)しかり、消費税発言しかり、参院選敗北しかり、予算編成方針しかり、尖閣列島問題(対中交渉)しかり・・・。
さて、世川氏の著作に戻ろう。
この本の終末部から、約2ページ分(306~307ページ)を、やや長いが、引用したい。
・ ・・・・・・・・・
小沢一郎は、東西冷戦構造の崩れた後の十七年間を、日本再構築のために、懸命に生きた。
ありったけの見識、ありったけの政治力、ありったけの行動力を、そのことだけのために使って、十〇年五月二四日には、六八歳を迎えた。
その間、彼を讃える声は、日本中のどこからも、ほとんど聞こえることはなかった。
この十七年間のほとんどを、誹謗や中傷や嫉妬を、その頬に、その背中に受けるだけの、割の合わない政治家人生を送ってきた。
しかし、彼は、それを嫌がる風情も、それを悲しむ表情も見せず、それは自分に課した務めであるから、と言わんばかりに、たたかれても、蹴られても、時にはかすかな笑みを見せながらも、一つ一つを寡黙にこなしていった。そして小選挙区制と二大政党を基盤にした「新しい民主主義」の理想を、追い求め続けてきた。
おそらく、これから先も、小沢一郎は、この国の大半の人間から、嫌われ、憎まれ、妬まれ、戦いをすれば敗れ続けていくことだろう。
だが、黙って彼を見つめ、無言の声援を送り続けた<無言の知>に拠って生きる人々や、「国民の生活が一番(ママ)」という言葉に彼の政治への姿勢を認めた人々だけは、知っている。
六八歳になろうが、七〇歳になろうが、七五歳になろうが、この国に真の民主主義が生まれた、と、彼自身が納得する日まで、天が、もうお前の役目は終わったぞ、と宣告するまで、小沢一郎は、たたかれても、蹴られても、地べたに倒されても、何度でも、何十度でも、寡黙に立ち上がって、衣服の泥を払いながら歩み始めるだろう、ということを。
率直に言って、優れた理念のゆえに、嫌悪され、中傷され、憎悪され、排斥され続ける、小沢一郎の十七年間の姿は、平成日本の<悲劇>の象徴だった。
「小沢一郎」とは、「時代の哀しみ」の別名だった。
しかし、小沢一郎は、自分の置かれた環境を、卑下せず、嘆息せず、傲岸とののしられるほどまでに、毅然と胸を張って戦い続けた。
彼、小沢一郎が、そのように戦い続ける限り、明日、あるいは明後日、彼のその姿に勇気づけられて、「そうだ。人は、たとえ困難であっても、理想に向けての闘いを放棄してはいけないのだ」と、はるかな理想を求める戦いの場に向かって歩き出す青年や少女もいるかもしれない、と想像する時、平成を生きる軟弱な僕たちは、<日本的なるもの>と血だらけの格闘を続けてきた小沢一郎の政治軌跡こそが、平成の一すじの燭光であった事実に気がつくことだろう。
・・・・・・・・・・・・
検察や検察審査会をはじめ、立法府も行政府(内閣と官僚組織)も司法府も、あらゆるシステムが、本来の目的を放棄して、自己暴走ないし自己迷走している昨今、小沢氏が彼の政治理念と政策を実現する機会は、なかなか訪れないかもしれない。
世川氏が描く、ひとりの「悲劇」的な政治家・小沢一郎の文学的な肖像を乗り越えて、大衆であれ民衆であれ国民であれ、権力に支配され続けて来た側の者たちが、真に社会の主人になるまでの、長い長い過渡期をわたしたちも、日々小さな闘いを闘い続けてゆくことに耐えていかなければならないのだろう。
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- 投稿可能になりました。本番投稿をお願いします 管理人さん 2010/10/12 08:37:45
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