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靖国神社・春季例大祭、高市総務相・岩城法相等が参拝 !
安倍首相は真榊を奉納 !
戦前の軍国の総本山・靖国神社の信者大多数の自民党首脳・議員 !
なぜ、総理・閣僚等の靖国参拝が問題なのか !
天皇と国家と兵士を結ぶ回路を追認する事だから
自公政治家・官僚等は、対米隷属・右翼
・ペテン師・大悪政・憲法違反隠しが多い、
支持者・国民を騙すのがダントツ上手ね〜 ?
国民は、賢明にならないと無謀な戦争に
巻き込まれた戦前のように生涯騙される !
T 靖国神社春の例大祭始まる、安倍首相真榊を奉納 !
(TBS:2016年4月21日(木)9時53分より抜粋・転載)
東京・九段の靖国神社では、4月21日から春の例大祭が始まり、安倍総理は真榊(まさかき)と呼ばれる供え物を奉納しました。
靖国神社では21日から3日間の日程で春の例大祭が行われ、安倍総理は「内閣総理大臣・安倍晋三」の名前で真榊と呼ばれる供え物を奉納しました。
これまでに現職の閣僚による参拝はなく、塩崎厚生労働大臣が真榊を奉納しています。
安倍総理は第2次政権発足後、2013年12月に靖国神社を参拝しましたが、それ以降は参拝を控え春と秋に行われる例大祭で今回と同様に真榊を奉納しています。(21日09:15)
U 高市総務相が靖国参拝=春季例大祭で[時事]
(news.google.co.jp:DATE:2016.04.23 01:41 時事通信社より抜粋・転載
高市早苗総務相は、4月22日、東京・九段北の靖国神社を春季例大祭に合わせて参拝した。
高市氏は2014年9月の閣僚就任以降の春秋の例大祭や、昨年の8月15日の終戦記念日にも参拝している。
高市氏は参拝後、記者団に「国策に殉じられた方々のみ霊の安寧とともに、ご遺族の方々の健康をお祈りした。日本国を災害の苦難からお救いくださいとお願いした」と述べた。
私人としての参拝で、玉串料は私費で納めたことも明らかにした。
菅義偉官房長官は22日午後の記者会見で、韓国政府が反発していることに関し、「個人の信教の自由に関する問題だ。政府としては立ち入るべきことではないと思う」と述べた。
23日までの春季例大祭の期間中、安倍晋三首相は参拝を見送る意向で、祭具の真榊(まさかき)を奉納した。昨秋に参拝した加藤勝信1億総活躍担当相も今回は見送る方向。岩城光英法相は参拝を検討している。
[時事通信社]
V 岩城法相が靖国参拝、安倍内閣の閣僚で2人目
(news.google.co.jp:TBS4月23日(土)12時40分より抜粋・転載)
岩城法務大臣が、春の例大祭が行われている靖国神社に参拝しました。
安倍内閣の閣僚では、22日に参拝した高市総務大臣に引き続き、2人目です。
「国のために戦われ、尊い命を捧げられた御英霊に対しまして、感謝の誠を表すために参拝を致しました。あわせて平和を祈念申し上げました」(岩城光英法務大臣)
岩城大臣は、4月23日朝、春の例大祭の最終日に靖国神社を参拝しました。
参拝後、記者から周辺国から反発が予想されることについて問われ、「国のために命を捧げられた方々に対して敬意を表する、そのことは世界各国共通であり、そのあり方は、それぞれの国の伝統に従って行われるもの」という考えを示しました。
今年の春の例大祭の期間中の安倍内閣の閣僚の参拝は、22日の高市総務大臣に引き続き、2人目です。(23日10:01):TBS
(参考資料)
なぜ、総理・閣僚等の靖国参拝 が問題なのか !
天皇と国家と兵士を結ぶ回路 を追認する事だから
(www.linelabo.com:2001年9月より抜粋・転載)
松 葉 祥 一:神戸市看護大学
『週刊読書人』第2402号(2001年9月7日付)[論潮 9月]欄に掲載されたものを『週刊読書人』編集部および著者の許諾を得て転載する。
政府主催の全国戦没者追悼式は、中国
・韓国等から批判されない !
なぜ、首相の靖国神社参拝が問題になるのか。それが,〈現在〉この国の「国民」がどのような国家を作ろうとしているのかを示す試金石だからである。
小泉首相は,靖国に参拝するのは〈過去〉の戦死者に敬意を表すためだと言う。
しかし,戦没者に敬意を表すためであれば、政府主催の全国戦没者追悼式で十分である。
首相が、就任当初から,他の政治課題と並べて,八月一五日に靖国参拝を行うと繰り返し強調してきたことは,逆に〈現在〉そのことに大きな象徴的意味があることを示している。
では,首相が、靖国神社に参拝することにどのような意味があるのか。
首相が、靖国神社に参拝することに
どのような意味があるのか ?
1) 靖国神社があってはじめて,天皇と国家と兵士
を結ぶ回路が完結する
それはまず第一に,「国のために戦って死ねば神様になれるという回路」を国として認めることである(井上ひさし,『朝日新聞』八月九日夕)。
この回路があったからこそ,この国の政府は,生きながらにして爆弾になれ,魚雷になれと若者に命じ,一六・五%の命中率しかない特攻に送り込むことができたのである。
否,それは国のためではなく,〈天皇のため〉であった。
実際,靖国神社においては,天皇にとって、逆賊だった、西郷隆盛たちは、排除されているのに対して,官軍の戦没者は,「天皇のために忠死したという唯一点で,国によって神として祀られ,現人神天皇の礼拝を受けるという無上の栄誉」(『国史大辞典』吉川弘文堂)を与えられている。
この靖国神社があってはじめて,天皇と国家と兵士を結ぶ回路が完結するのである。
それゆえ靖国神社は,戦時中「軍国主義を普及徹底させるうえで,絶大な威力を発揮し,日本国民を侵略戦争にかりたてる精神的支柱としての役割を担うことができた」(同書)のである。
多くの反対を押し切って、首相が、靖国神社参拝を強行することは,少なくともこの回路を追認することになることは明らかである。
さらに,現在再び若者たちをこの回路に誘い込もうとする意図があると理解されても仕方がない。
2) 首相の靖国参拝は,「日本は紛争解決
の手段として戦争を選びもするぞ」と公言することだ !
そこから第二の意味が生じる。すなわち,首相の靖国参拝は,「日本は紛争解決の手段として戦争を選びもするぞ」(井上ひさし)と公言することに他ならない。
それゆえ,「天皇の軍隊によって運命をひどく悪い方へ変えられてしまったアジアの国々」が危機感をもつのは当然である。アジアから見たとき,靖国神社は日本の軍国主義と侵略戦争の象徴だからである。
それは,一九七八年東条英機元首相ら一四名のA級戦犯が,「昭和殉難者」として合祀されたことによって強まった。
この戦争指導者たちを神として祀る靖国神社に首相が参拝し「心をこめて敬意と感謝の意をささげる」行為は,過去の侵略戦争を肯定する立場に日本政府が立つこと,その上で現在それを踏襲しようとしていることを内外に表明することにほかならない(中江要介「総理は靖国公式参拝を決行すべきではない」,『世界』九月号)。
したがって,中国や韓国による、靖国参拝批判は、内政干渉だという主張(中嶋嶺雄「なぜ中国は反対するのか」,『Voice』九月号)は成立しない。
それが,この国の基本的な外交・軍事方針を示し,近隣諸国にはっきりした脅威をもたらすものである以上,重要な外交問題だからである。
3) 総理・閣僚等の靖国参拝は、憲法を
ないがしろにすることを意味する !
第三に,それは「わたしたちをゆるやかに束ねながら,私たちの共通の価値ともなっている」(井上ひさし)憲法をないがしろにすることを意味する。
すなわち,閣僚による靖国参拝は,どのように解釈しようが,「国および国の機関はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた憲法第二〇条に違反することは明らかである(奥平康弘「首相靖国参拝に疑義あり」,『潮』九月号)。
実際,九一年に出されて確定した岩手靖国訴訟の仙台高裁判決は,「首相の靖国神社公式参拝は違憲」と明言している。
さらに九七年四月,最高裁大法廷判決は,愛媛玉串料訴訟において,「地方公共団体による靖国神社や護国神社への玉串料等の奉納が,たとえ相当数の者が望んでいるとしても,公共団体が特定の宗教団体に対して特別の関わりあいをもつことであり,宗教団体である靖国神社や護国神社が特別のものであるとの印象を一般に与えるものであるから,憲法が禁止する国家や公共団体の宗教活動にあたり違憲」だとした。
今回の参拝は,玉串料等の奉納よりも直接に靖国神社との関わりを顕示するものであり,その違憲性はよりいっそう明らかである。
八月一五日を避けたからよいわけでも,私的参拝だからよいわけでもない。
首相や閣僚が、靖国神社に参拝すること自体がすでに違憲なのである(今回の靖国神社参拝違憲訴訟の提起に向けた準備作業が始まっている。日本基督教団靖国・天皇制問題情報センター,neco@gb3.so-net.ne.jp)。
もちろん、小泉首相は,「虚心坦懐に熟慮」したわけであるから,自らの行為がこのような意味をもつこと,また、世論の六五%が参拝を慎重にした方がよいと考えていること(『朝日新聞』八月四日),歴史修正主義の教科書が問題になった直後であること,自らの行動が平和を望む日本とアジア近隣諸国の民衆を不安に陥れ,これまで積み上げてきた中国や韓国・朝鮮との友好関係を破壊することなどをじゅうぶん承知の上で,「あえて蜂の巣に手を突っ込むようなこと」(『ル・モンド』八月一〇日)をしたのである。
そこには,憲法とくに九条を改正し,「戦争のできる国づくり」をめざそうとする彼の信念が働いているとしか考えようがない。
あるいは,もしかりに彼自身本当に戦争を望んでいないのだとしても,戦争のために重要な役割を果たした宗教施設に参拝するということが,主観的な意図を越えた意味をもつことを知るべきである。
それに,彼は死者を口実にすべきではないと井上ひさしは言う。
すなわち、死者を利用すること,とりわけその死を強制した国家が利用しようとすることは、傲慢と言わざるをえない。
古山高麗雄は、次のように述べる。「死ねば,靖国も何もない。
無です。招魂も追悼も葬式も生者の営みです。死者には何もない,霊などというものは,生者が生者のために作った観念だ」(古山高麗雄「万年一等兵の靖国神社」,『文藝春秋』九月号)。
そして,井上は,戦争の犠牲者に対して生者がなすべきことは,亡くなった人たちの家族(アジア諸国の人々を含む)への謝罪と補償をできるだけして,あとは、死者の魂をそっと静かにしておくことだとする。
そして生者は,これらの非業の死の意味を深く噛みしめながら,自分は二度とこのような死に方をしないし,他人にさせもしないと,心のうちで強く誓いながら生きていくしかないとするのである。
(まつば しょういち・哲学)
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