http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/5630.html
Tweet |
自民・二階派・宮崎衆院議員辞職へ ! 育休表明後に不倫疑惑 !
二階派の中心者・二階俊博議員とは ?
NHK等が隠す自民党政治の正体は ?
A級戦犯たちが、戦後、米国の支援で保守政党を結成 !
T 二階派・宮崎衆院議員辞職会見 !
(www.asahi.com: 2016年2月12日11時38分)
国会議員として育休を取る考えを表明した後に、週刊誌「週刊文春」で、「不倫疑惑」を報じられた自民党の宮崎謙介衆院議員(35歳・二階派関)=京都3区=が、2月12日、国会内で記者会見し、不倫の事実を認めて議員辞職する意向を表明した。
「私の不適切な行為により、多くの皆様に多大なるご迷惑をおかけしたことを心からおわび申し上げます」と謝罪した。
宮崎氏は「自分が主張してきたことと、軽率な行動のつじつまが合わない。深く反省し、議員辞職する決意を固めた」と説明した。
男性の育休推進を訴えながら、不倫をしていたことについては「男性の育休を真剣に考えてくださった方々に深くおわび申し上げる」と頭を下げ、「私に論じる資格はないが、男性の育児参加の流れが止まらないことを願う」と述べた。
宮崎氏は、昨年末、妻の金子恵美衆院議員(37)=自民、新潟4区=の出産に伴い、育休を1カ月程度取る考えを表明。「男性の育児参加を推進したい。
1億総活躍社会のためにも働く女性をサポートしていきたい」と語っていた。
だが、金子恵美議員が、男児を出産した5日後に発売された週刊文春で、宮崎氏が、金子氏の出産直前に、地元・京都の自宅に女性タレントを泊めたと報じられた。
自民党内外から批判が殺到し、党側は、離党も促していた。
下村博文・党総裁特別補佐は、「やむを得ない判断だ。政治家は選良として振る舞う必要がある。(政権への)ダメージはある」と記者団に語った。
宮崎氏が3月15日までに辞職した場合、衆院京都3区補選は、衆院北海道5区補選と同じ4月24日に実施される。
U 二階派の中心者・二階俊博議員とは ?
(ウイキペデアより抜粋・転載)
日本の旗 日本の政治家
二階 俊博(にかい ・としひろ):Nikai Toshihiro 1-1.jpg
生年月日 1939年2月17日(76歳) 出生地 日本の旗 日本 和歌山県御坊市
出身校 中央大学法学部政治学科 前職 衆議院議員秘書(遠藤三郎)
所属政党 (自由民主党→) (新生党→) (新進党→) (自由党→)
(保守党→)(保守新党→) 自由民主党(二階グループ→二階派)
称号 法学士 親族 父・俊太郎(和歌山県議会議員)
公式サイト 二階俊博事務所ホームページ
日本の旗 第9代-10代 経済産業大臣 内閣 福田康夫改造内閣 麻生内閣
在任期間 2008年8月2日 - 2009年9月16日
日本の旗 第6代 経済産業大臣 内閣 第3次小泉改造内閣
在任期間 2005年10月31日 - 2006年9月26日
日本の旗 第75代-第76代 運輸大臣 第69代-第70代 北海道開発庁長官
内閣 小渕第2次改造内閣 第1次森内閣
在任期間 1999年10月5日 - 2000年7月4日
日本の旗 衆議院議員 選挙区 和歌山3区 当選回数 11回
在任期間 1983年12月19日 - 現職 和歌山県の旗 和歌山県議会議員
当選回数 2回 在任期間 1975年 - 1983年
テンプレートを表示:二階 俊博(にかい としひろ、1939年2月17日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(11期)、自由民主党総務会長(第53代)。
親中、親韓派議員として知られる。
運輸大臣(第75・76代)、北海道開発庁長官(第69・70代)、経済産業大臣(第6代・9代・10代)、保守新党幹事長、和歌山県議会議員(2期)を歴任。学位は法学士(中央大学)。
◆来歴[編集]:生い立ち[編集]
和歌山県御坊市出身。父、二階俊太郎は和歌山県議会議員・稲原村村長・御坊造船社長。母、菊枝は当時まだ珍しかった女性医師。和歌山県立日高高等学校を経て中央大学法学部政治学科卒業(法学士)。
その後、静岡県選出の衆議院議員で建設大臣を務めた遠藤三郎の秘書となる。遠藤の死後、和歌山に戻り1975年、和歌山県議会議員に立候補、当選して2期務めた。
◆国政へ[編集]
1983年、旧和歌山2区から自由民主党公認(田中派)で第37回衆議院議員総選挙に立候補、5万3611票を獲得し、2位当選(以後、現在まで連続当選)した。
竹下派結成に当たっては、二階は、田中に対する配慮と師事していた遠藤三郎が元藤山愛一郎派に属しており、そのつながりで江崎真澄に近いことから創政会には参加しなかったが、その後、奥田敬和ら中間派が竹下派に参加したことを契機に自身も参加した。
1990年、第2次海部内閣で運輸政務次官に就任。1992年の竹下派分裂の際は、小沢一郎に同調し、羽田派に参加。
◆自民党を離党[編集]
1993年、宮沢内閣不信任決議案に賛成し、自由民主党を離党、小沢らと共に新生党結成に参加した。総選挙後、発足した細川内閣で運輸政務次官に就任する。
細川内閣での政務次官時代は社会党の伊藤茂運輸大臣を差し置いて、影の運輸大臣と呼ばれた。
◆運輸大臣へ[編集]
細川・羽田政権後、新進党にも参加し、「明日の内閣」の国土・交通政策担当などを務めた。また、小沢側近として小沢党首選出に尽力した。
1996年第41回衆議院議員総選挙で新設の和歌山3区で清和研の現職野田実を破り5連続当選(野田は比例復活したが後に連座制適用で失職)。
1998年、新進党分党後も小沢側近として自由党結党に参加。
国会対策委員長として自自連立政権樹立に動き、1999年の小渕内閣第2次改造内閣で運輸大臣兼北海道開発庁長官として入閣した。
◆保守党の結成[編集]
2000年4月、自由党の政策が実現されないと連立解消を主張する小沢と袂を分かち、野田毅らと保守党を結成し、自公保連立政権に参加。
小渕内閣を引き継いだ森内閣で留任。
同年7月、保守党国会対策委員長に就任。2001年に保守党幹事長に就任。
2002年、保守新党でも幹事長に就任したが、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙で保守新党は代表の熊谷弘が落選するなど惨敗し、自由民主党に吸収された。
◆自民党復党と党内出世[編集]
復党後、旧保守新党の議員らで新しい波(二階グループ)を結成し会長に就任。
2004年9月、自由民主党の総務局長に就任。
以後2009年までほぼ一貫して政府や党の要職の座にあり、政界再編期の離党・出戻り組の中では異例な存在であった。
2005年5月、小泉首相の意向により、自民党総務局長を兼任しながら郵政民営化法案を審議する特別委員会の委員長に就任。
郵政国会では郵政民営化法案の衆院通過に尽力した上、その後の郵政解散による第44回衆議院議員総選挙では選挙責任者の総務局長として候補者擁立などに奔走し、自民党圧勝の功労者となった。
この大勝利をきっかけに総務局長の地位が見直されて、地位向上が行われるようになった。
またこれによって比例当選議員が中心ではあるが二階派の議員数が増加することになり、二階が一定の政治的影響力を持つことになった。
総選挙での功績を買われて2005年10月に成立した第3次小泉改造内閣では経済産業大臣として入閣。
2006年9月、小泉首相の自民党総裁任期満了に伴い、安倍晋三が総裁に就任し、民主党代表である小沢一郎への対策として、自民党国会対策委員長に就任した。
2007年8月、党三役の一角である自民党総務会長に就任。その直後、自らが代表を務める和歌山県第三選挙支部について、政治資金収支報告書への未記載問題が発覚[1]。
2007年9月14日、麻生太郎幹事長の総裁選挙立候補を受け、自民党役員会にて、07年自民党総裁選中において幹事長の職務を一任された。
9月24日、福田康夫が総裁に就任し、総務会長に留任することが決まった。
2008年の福田内閣の改造に伴い自民党総務会長を退任、福田改造内閣に経済産業大臣として再任された。さらに2008年9月24日発足した麻生内閣でも経済産業大臣に再任された。
2009年8月30日に行われた第45回衆議院議員総選挙に出馬した際は、公明党の推薦も受けて9回目の当選を果たし[2]、同年10月には自民党幹事長の下に新設された自民党選挙対策局長に就任。
自身が会長を務めていた二階派は総選挙で二階本人を除く衆議院議員が全員落選し、参議院議員2名と合わせて総勢3名となったことから派閥の維持が困難となり、11月5日に全員が志帥会(伊吹派)へ合流。同日付で全員が伊吹派へ入会し、二階派は解消された。
12月に西松建設事件で政策秘書が政治資金規正法違反で略式起訴となったことを受け、
自民党選挙対策局長を辞任。
2012年12月、伊吹文明が衆議院議長就任に伴い、伊吹派会長を退任。後任として二階が同派会長に就任し、伊吹派は、二階派へと衣替えした。
2014年9月、第2次安倍内閣 (改造)の下で自民党総務会長に就任。
同時に、慣例として二階派会長を退任し、同派会長は空席となる(同派の指揮は会長代行の河村建夫が務める)。
V 自由党(小沢党首)の分裂[編集]
◆小沢を支持する連立離脱派(改革派)と、野田毅・
二階俊博等の連立残留派(自民党擦り寄り派・自民党の誘惑に屈服し、改革を放棄した)に分裂 !
2008年7月18日、北海道での第19回参議院議員通常選挙の応援演説にて
自由党は、小沢を支持する連立離脱派(改革派)と、野田毅・二階俊博などの連立残留派(自民党擦り寄り派)に分裂し、残留派は保守党を結成した(分裂の結果、自由党は衆院議員18名、参院議員4名の計22名に半減、保守党には26名が参加)。
小沢と袂を分かった保守党は、政党助成金を半分ずつ分け合うために分党を要求したが、自由党はこれを拒否した。
保守党議員は離党扱いになり、政党助成金を全く得られず総選挙を迎えることとなった。
◆小沢・自由党は、約660万票を獲得、現有議席を上回る
22議席を獲得し善戦した !
◆野田毅・二階俊博等の保守党は、7議席へと激減 !
2000年(平成12年)6月25日の分裂直後に行われた第42回衆議院選挙で、小沢人気もあり比例代表で約660万票を獲得、現有議席を上回る22議席を獲得し善戦した。
このとき、約20億円を投じたとされるテレビCM(小沢が顔を殴られる)は話題となった(一方、保守党は7議席へと激減)。
連立離脱後は野党共闘路線へ舵を切ることを余儀なくされたが、過去に小沢と対立した旧新進党や、旧社会党出身者が多い民主党を始めとした野党との関係は良好とは言い難かった。
2001年(平成13年)1月、将来の指導者育成を目指し、党内に小沢一郎政治塾(小沢塾)を開設した。なお、この塾は民主党との合併後、小沢個人の私塾として運営される。
同年7月29日の第19回参議院選挙では、自民党に小泉旋風が吹き、小沢の地元・岩手県選挙区でも大苦戦を強いられたが、僅差で勝利した。
議席数は前回と同じ6を維持したものの、自由党の比例代表は、約420万票に止まった(第18回参議院選挙より約100万票、第42回衆議院選挙より約220万票の減少)。
その後、自由党は民主党と合併し、2009年、政権交代を成し遂げ、民主党政権を樹立した。
〔参考資料〕
NHK等が隠す自民党政治の正体は ?
(1)アメリカから自民党へ密かに長年、資金提供され、アメリカの支援をバックに一党支配体制が構築されてきた。
◆A級戦犯たちが、戦後、米国の支援で保守政党を結成 !
冷戦の始まりとともに、アメリカは、日本の戦時体制を維持し、戦時中のエリートに権力を握らせようと決めていた。
そのため、戦争犯罪人を監獄から出してやった。
1948年12月24日、釈放された、A級戦犯容疑者は、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎など70名以上存在し、戦後の政界・経済界・政界の黒幕など多方面の有力者になった。
日本自由党(自民党の前身)の資金は、戦時中に右翼の児玉誉士夫が海軍の「児玉機関」の長として中国で物資調達にあたった時の横領資産(時価4千億円)の一部をもらった。
◆米国の資金提供等で長期政権を実現 !
アメリカの政策に従順な日本政府の体質は、敗戦直後から着実に形成されていた。
そして、CIAが1950~70年代に日本の保守政権の安定化を図り、自民党や「左派穏健勢力」に繰り返し資金(違法資金)提供していたことが、米国務省の機密文書公開で明らかにされている。
(2)社会統制手段(内務官僚)の復活 !
戦前の社会統制の本拠・内務省の出身者の保守系政党への“降下”は、戦後まもなく始まった。1949年の選挙では、約30人の高級官僚が自由党議員に加わり、すぐに国会議員の四分の一を占めるようになった。
1960年には、54人の国会議員が内務省出身者だった。
◆戦前の思想警察の戦後のキャリア
戦後、多数の特高官が、連合国軍総司令部の監視の目をくぐって行なわれた配置換えによって、公職追放を免れていた。
特高警察の直接指導官である内務省警保局長14名のうち7人が戦後国会議員になっている。
思想警察官僚の多くは、県知事や地方公安委員会の幹部(警察を監督する)になったり、その他の地方自治体の幹部になった。
(3)巨額の企業団体献金を長期的に最大に収受して政治を歪めてきたのは自民党・自民党系議員(国会議員・地方議員・首長)である。
(4)政権交代できないよう、官房機密費・外交機密費などをフル活用(塩川発言・野中発言・平野発言等)して、マスコミ・評論家・社会党などを裏から支配し、自民党一党支配を永続させた。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。