http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/5290.html
Tweet |
特定秘密保護法成立へ一直線 !
「福祉・平和の党」であるべき、公明党の大罪 !
池田会長・長期構想、宗門事件、政権交代、自公連立の軌跡と真相 !
(第2回)
(tc8.blog.fc2.com/blog-entry-2194.html:日々坦々より抜粋・転載)
(東京新聞「こちら特報部」11月20日)
★公明党は、秘密法案に批判的な世論をかわすのが狙いだ !
★日本弁護士連合会は、秘密保護法案反対の急先鋒だ !
★まさに「出来レース」、公明党はその後は、ひたすら法案成立へと突き進む !
★法案に反対する弁護士らが水面下で、公明党ならばと、
協力をお願いしていたのに裏切られた !
★自公連立前、理念・基本路線、
「福祉の党」「平和の党」を掲げ、自民党との対決姿勢をとる !
★戦争を防がなければならないとの創価学会・会員
の意識も薄れているようだ !
★今の自公連立の創価学会に、初代会長の牧口常三郎
の精神を期待する時点で間違いのようだ !
以上は前回投稿済みです。以下はその続きです。
◆以下、週刊新潮の転載記事
≪戸田喬久(城聖の長男)氏の未亡人が次のようにコメントしているからである。
「主人は糖尿病を患い、入退院を繰り返していました。遺言はありましたけど、葬儀を常在寺にお願いすることは、それよりもずっと前に決まっていたことです。
義父母ともにそうでしたから、主人は創価学会については沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申し上げることはありません。とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもないので、主人は自分の道を歩みました。
創価学会と戸田家は無関係です」
「週刊新潮」2月14日号に、「中興の祖『戸田城聖』の長男没して未亡人が語った『創価学会と無関係』」と題する記事が掲載された。
創価学会からすれば、動揺が避けられず、ひた隠しにするほかなかった。年明け早々、2代会長「戸田城聖」の長男が没した。
本来、学会あげての追悼になってもおかしくはないのに、 一部の幹部にしか知らされなかったという。
それは、未亡人(73)が、不倶戴天の敵である日蓮正宗の僧侶に葬儀を取り仕切らせたためだった。
中興の祖と言われる戸田城聖2代会長の長男・喬久氏が、77年の生涯を閉じたのは、今年1月4日のことである。
創価学会の元幹部が言う。
「通夜と告別式は5、6日に港区内の彼の自宅マンションで行われました。
その際、池袋の常在寺≠ニいう日蓮正宗のお寺から2人の僧侶が呼ばれ、お経をあげて戒名を授けた。そこは、戸田城聖が日蓮正宗に入信したお寺で、戸田家の菩提寺なのです」
戸田2代会長は、戦前の宗教弾圧で弱体化した組織の再建に尽力し、政界進出も成し遂げた功労者だ。その子息の葬儀が、創価学会の標榜する学会葬=i友人葬)ではなく、敵対する日蓮正宗の宗派で行われては、学会員が動揺をきたすのは火を見るより明らか。
「しかも、葬儀を取り仕切った2人の僧侶は、日蓮正宗から創価学会を破門にし、池田大作を永久追放した阿部日顕第67世法主の実の息子とその孫だったのです。
これでは、戸田先生の後継者として、池田大作の正統性が否定されたも同然です。
そのため、喬久さんが亡くなったことさえ、未だに一般会員に知らされていません。
ただ、戸田先生を慕う副会長クラスの古参幹部らがこっそり参列していたそうですけどね」(同)
◆戸田家と創価学会の間で、何があったのだろうか ?
池田さんに渡した′ヒ田2代会長が死去したのは、1958年。その後を継いだ3代目が、池田大作現名誉会長であることはご存じの通りだ。元幹部が続ける。
「創価学会は、日蓮正宗の本山。
大石寺と対立し、1991年に破門されると、常軌を逸した口汚い言葉で宗門攻撃を繰り返すようになった。戸田先生の奥さまである幾さんは、夫が手塩にかけた創価学会が、単に池田名誉会長を崇める池田ファンクラブ≠フように変質していくことに怒りを隠せませんでした。
2000年に、彼女は89歳で亡くなりますが、日蓮正宗の信仰を最後まで貫き、遺言は葬儀は常在寺で≠セったのです」。
すでに、戸田喬久氏の母親から、創価学会を拒んでいたわけだ。喬久氏は慶応大学を卒業し、三菱銀行で働く銀行マンだった。
一時、創価学会で、顧問≠ノ取り立てられたものの、幾さんの亡き後、常在寺には度々お参りに訪れていたという。
戸田喬久氏の未亡人に話を伺うと「主人は糖尿病を患い、入退院を繰り返していました。
遺言はありましたけど、葬儀を常在寺にお願いすることは、それよりもずっと前に決まっていたことです。義父母ともにそうでしたから。
主人は創価学会について沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申し上げることはありません。
とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもないので、主人は自分の道を歩みました。創価学会と戸田家は無関係です」
体調不良が伝えられ、ここ最近、公の場にまったく姿を現さない池田名誉会長だが、中興の祖の親族からもソツポを向かれてしまっていたのである。≫
この二代会長である戸田城聖の親族と創価学会の確執は「遺産問題」だったようだ。
現世利益に主眼を置く学会ならではの出来事だと言える。
溝口敦著「池田大作権力者の構造」より
◆戸田城聖の遺産の行方
≪戸田の突然の死は、会の内外を問わず、一般に創価学会の迎えた最大の危機と受け取られた。
それはまず、戸田の死自体が彼の唱えていた功徳を裏切って、会員に教義への疑惑を抱かせ、不安や動揺を与えると考えられた。
また戸田は後継者を指名する余裕を持たなかったから、会幹部間に第三代会長をめぐっての内紛が生じ、それがひいては同会の空中分解や分裂をもたらすと取り沙汰された。
池田自身、当時をこう回想している。
「(池田が)参謀室長当時、戸田先生が一年間病気の時期があった。暗い時代でもあった。小泉(隆)さんが理事長だった。ギア(が)はまらなかった。
どうしようもなかった。空中分解寸前だった。戸田先生が亡くなられたとき、小泉理事長はいても、一寸先は闇で、わからなかったといっていた」(昭和50年9月28日、箱根研修所で、内部文書)
また空中分解には至らないまでも、それまでの爆発的な発展を負っていた戸田の卓越した指導力や組織力、人柄の魅力が失われて、以後の創価学会の停滞と困難が予想された。
由比宏道『毒鼓の縁』によれば遺産問題は次のように処理されたという。
戸田の妻・幾子は、戸田の死まもない4月23日、取引銀行である三菱銀行四谷支店長に、戸田名義の財産がどれだけ残っているか、調査を依頼した。
彼女は、印税と株を動かした儲けが4億円ばかりあると、戸田から聞き、また戸田個人で費消する金は、幾子の父・松尾清一名義で三菱銀行番町支店に預けられ、その中に自宅の新築資金2000万円も含まれている等のことを知っていた。
なお当時、創価学会は出版収入などで、その月収は2億円にのぼると噂されていた。
が、調査の結果、戸田の死の翌日4月3日、戸田の妾で大蔵商事専務理事でもある森重紀美子により、名義が書き替えられていることが判明した。
そのため仕方なく幾子は、戸田の生前、会長印を自由にしていた秘書部長・和泉美代(大蔵商事社長で創価学会小岩支部長・和泉覚の妻)を通じて、戸田の財産譲渡を会幹部に交渉した。この幹部に、大蔵商事の取締役だった池田も含まれていたかもしれない。
池田は会長就任後、大蔵商事を離れ、同社社長は森重紀美子、のちその甥の森重章とかわった。
が、同社は昭和40年ごろ脱税容疑で国税局の手入れを受けて経営が大きく傾き、同年12月、社名を大道商事と変更、事務所を東京・赤坂のホテル・ニュージャパン内に移した。
昭和44年5月、第一商事を併せたが、同社の放漫経営は続き昭和47年ごろ創価学会員からの金約3億円が焦げ付いたほか数億円の負債を負うまでになった。
◆戸田の死後、池田の指示で戸田家から彼
の遺品が運び出された ! 創価学会に運ばれた !
また戸田の死後、池田の指示で戸田家から彼の遺品が運び出されたことは事実のようである。昭和28年7月に入信、当時東京蒲田支部の男子部部隊長だった某は次のように語っている。
「戸田会長が死んで1ヶ月も経たないうち、トラック2台、運転手を入れて6人が戸田家に行った。
私はその一人であり、私のほか、竜年光、大田区議をしていた園部恭平などがいた。戸田家にはすでに白木薫次と池田が詰めており、十文字に麻縄をかけられた茶箱をトラックに積み込んだ。あまり積み上げるなということで、二段に重ねただけである。
当時のトラックは小さく、荷台は二畳半から三畳のスペースしかなかった。荷物には二人がかりでやっと持ち上げられるほどに重いものや、軽いもの、あるいは外見から刀剣と分かるものなどがあった。幾子夫人は険しい顔をして応対が悪かった。
私たちはそれを本部に運んだが、乗用車で追いついた白木と池田の指示で裏口近くの物置きに収めた」
かくして、戸田城聖の財産は、池田創価学会の手により、池田創価学会に運ばれてしまったのです。≫
現在の公明党=創価学会の行状を見たら、草葉の陰から初代会長・牧口常三郎と
第二代会長・戸田城聖が嘆き悲しんでいることだろう。
(参考資料)
池田会長・長期構想、宗門事件、政権交代、自公連立の軌跡と真相
1 自公連立前:政権交代、 非自民党政権樹立路線の時代
1) 大阪事件:自民党・岸信介政権下、昭和32(1957)年、
池田青年室長等創価学会への迫害事件。台頭する民衆に国家権力が抹殺を狙った。
数年後、無罪判決。
2) 言論出版事件:この頃、750万世帯達成。自民党等が脅威を感じて、
大迫害に熱中。
昭和45(1970)年、既成政党(自民・民社・共産)・マスコミから創価学会への迫害
*池田会長の長期構想(昭和41・1966年公表):
1990年までに1500万世帯の創価学会にする。公明党政権で福祉社会建設可能にする。
*「中道革新連合政権」構想
:@反自民党、反大資本、
A平和・自立・中立政策に基づく外交政策、
B日本国憲法と議会制民主主義の擁護、
C国民福祉優先の経済政策、
D政治経済の改革手段として、漸進主義を選択する
3) 第一次宗門事件:
昭和52(1977)年、活動家僧侶・マスコミから創価学会への誹謗中傷が全国的に激化。
山崎正友弁護士が裏で暗躍。さらに、自民党・共産党(迫害回避の隠れ自民補完党)
・米国CIAが、対米隷属自民党体制固定化のため、裏から支援していた。
4) 池田会長辞任:昭和54(1979)年4月。宗門の権威(黒幕は山崎、自民党)
に屈服した首脳の真相を、池田氏は、20年後に漸く、公表できた。
*弘安2(1279)年、熱原法難・大御本尊御図顕から約700年後の出来事。
5) 平成2(1990)年:日蓮正宗・日顕一派が、C作戦決定・実行。
*山崎弁護士が、裏で暗躍。さらに、自民党・共産党・米国CIAが裏から支援していた。
6) 日蓮正宗・日顕一派が、創価学会を破門:平成3(1991)年11月。
7) 細川連立政権誕生:平成5(1993)年。
公明党、大臣4人(石田・坂口・神崎・広中)。
*ロッキード事件・リクルート事件・東京佐川急便事件など多発する政治腐敗を批判し、政治改革を期待する世論を背景に非自民・非共産の八党派が結束し、「細川連立政権」が発足した。
“狙うべき標的は、細川連立政権を支える強固な大組織・公明党・創価学会へのあからさまな攻撃”である。
その攻撃の尖兵となり、「自民党の意志」を代弁したのは、やはり、一部週刊誌・月刊誌であった。一方、創価学会を破門し、信者が激減、離山する青年改革僧侶からも、「日顕、悪いのは、お前だ!」などと弾呵され、窮乏した日顕。
「すっかり落ち目の大自民党と凋落一途の「日顕」一派は、同病相哀れむもの同士となり、公明党・創価学会を「共通の敵」とすることで、しっかりと結びついていった。
8) 自民党は、野党に転落。細川政権の基盤・公明党・創価学会
への誹謗中傷激化。
*反創価学会(弾圧目的)の自民党系団体:
「創価学会等の社会的不正を糾す議員連盟」
「憲法二十条を考える会」・「民主政治研究会」・「四月会」(宗門幹部も参加・自公連立後、解散)など。
平成6(1994)年12月、小沢一郎グループと公明党等が新進党結成。
非自民党政権樹立、政権交代可能な民主政治体制構築に邁進。
平成9(1997)年12月、新進党解党(裏に、自民党の巧妙な分断工作・謀略あり)。
6政党に分裂。
2 自公連立固定化・政権交代阻止・自民党公明派に大転換 ?
1) 自自公連立:平成11(1999)年10月:自民・自由・公明の連合政権誕生。
2) 平成12(2000)年4月、自由党が、政権離脱、自公保連立政権→自公政権へ移行
3) 1998年4月・民主党結成。2003年9月・民主党・自由党合併。
2009年9月鳩山政権成立。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。