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朴大統領、慰安婦問題解決に意欲 ! 公明党・山口代表と会談 !
戦前は、自民党の祖先に騙されて、日本国民は戦争にコキ使われ、
400万人超殺され、アジア数千万人が殺された !
ダントツ大悪人・戦犯が対米隷属・ペテン師を約束させられて復活したのが、
今の自民党・大マスコミの正体だ !
本来の公明党の理念・基本路線と自公連立後の実態を比較の参考 !
真逆に大変質 ?
15年超全国支援・連立の公明党も自民党と同類が実態 ?
『平和の党』・公明党は、今や『戦争の党』に、
平和学の世界的権威が批判 !
T 朴大統領と山口代表と会談
(www.asahi.com:2015年10月8日より抜粋・転載)
韓国を訪問している、公明党の山口那津男代表は、10月8日、ソウルの大統領府(青瓦台)で、朴槿恵(パククネ)大統領と会談し、安倍晋三首相の親書を渡した。
懸案になっている慰安婦問題について、朴大統領は「女性の人権にかかわる問題であり、(慰安婦の)高齢化も進んでいるので何とか解決したい」と語ったという。
山口氏も両国政府間の話し合いのサポートを約束した。
今月末には、日中韓首脳会談が、韓国で予定される。山口氏によると、朴氏は「日中韓の首脳会談をぜひやりたいので、安倍首相の出席を楽しみにしている」と述べたという。
まだ、実現していない、日韓首脳会談については、言及がなかった。
会談では、山口氏が、先の国会で成立した安全保障関連法や、戦後70年の安倍談話について説明し、理解を求めた。
朴氏は安保関連法について「さらなる透明化で、近隣諸国が安心できる対応をお願いしたい」と求めたという。
また、在日韓国人ら特定の人種や民族への差別をあおる、「ヘイトスピーチ」を規制する法案の審議状況なども話題になったという。
山口氏の今回の訪韓は、安倍首相と朴氏の日韓首脳会談の実現にむけた環境を整備するのが目的で、2010年11月以来となる。
今月13〜16日には中国を訪問し、習近平(シーチンピン)国家主席とも会談する方向で調整している。(ソウル=南彰)
U 朴槿惠大統領のプロフィール
(ウイキペディアより抜粋・転載)
朴 槿惠(パク・クネ、朝鮮語: 박근혜、1952年2月2日 - )は、大韓民国の政治家、大韓民国第18代大統領である。
保守のハンナラ党代表、セヌリ党非常対策委員会委員長を経て、2012年韓国大統領選挙で民主統合党の文在寅に勝利し、2013年2月25日に韓国史上初の女性大統領に就任した。
◆ 朴槿惠大統領の経歴[編集]
韓国の第5代〜第9代大統領である朴正煕(パク・チョンヒ)と陸英修(ユク・ヨンス)の長女として、慶尚北道大邱市で産まれた。
異母姉に在玉、妹に槿暎(槿令)がいる。現EGテック会長の朴志晩(パク・チマン)は末弟。
甥二人(朴志晩の長男と次男)がいる。朴正煕の軍人時代の副官で元カナダ大使の韓丙起は、在玉の夫で義兄に当たる。
キリスト教系の聖心女子中学校・聖心高校を卒業後に西江大学校電子工学科に進学した。大学では中国語も専攻している。
首席で卒業後に、フランスのグルノーブル大学に留学した。
留学中の1974年8月15日に文世光事件が発生し、母親の陸英修が暗殺されたため、急遽留学先のフランスから帰国し、その後は父のファーストレディー役を務めた。
1979年に朴正煕暗殺事件で父は金載圭(キム・ジェギュ)KCIA長官に暗殺された。
父の死亡を耳にした際の第一声は、混乱に乗じて朝鮮人民軍が侵攻することを懸念した「休戦線は大丈夫か」だった[1]。
また、1965年(中学時代)に キリスト教カトリック教会に改宗し、「ユリアナ」という洗礼名を授かる[2]。
政界入りとハンナラ党代表就任[編集]
ガールスカウト団名誉総裁、 嶺南大学校理事長、財団理事長を務めた後、1998年に行われた国会議員補欠選挙(大邱広域市達城郡)に当選し政界入りし、ハンナラ党副総裁など党要職を歴任した。2002年2月にハンナラ党を離党した後、5月12日に平壌を訪問して金正日と会見し板門店経由で帰国している。
同年末に行われる大統領選挙に向け新党「韓国未来連合」を5月17日に結成したが、11月にハンナラ党に復帰した。
2004年3月23日に、1965年に野党民衆党の代表最高委員(党首)に朴順天(パク・スンチョン)が就任して以来、韓国では39年ぶりの女性党首としてハンナラ党の代表に就任した。
2004年4月の総選挙でも達城郡の選挙区から当選した。この選挙では、大統領弾劾を可決したハンナラ党に対する国民の批判が集まり惨敗が予想されていたが、朴槿恵の知名度と人気で惜敗に食い止め、「ハンナラ党のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた[3]。
2005年10月5日、ハンナラ党代表として韓国軍のヘリコプターを用いて「独島」へ上陸した[4][5]。
11月8日にはニューライト全国連合創立大会に参加する[6]。また同年には中国を訪問して胡錦濤国家主席と会見した。
2006年5月17日に日本を訪問し、小泉純一郎首相と会談した。また訪韓した北朝鮮による拉致被害者家族会・横田滋代表らとも会見している。
同年5月20日午後、第4回全国同時地方選挙の支援遊説中に、暴漢・池忠浩(後に傷害罪で懲役10年)にカッターナイフで切り付けられ、右耳下から顎にかけて10センチの傷を負い60針縫う手術を受けた[7]。
この際、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領支持団体(ノサモ)からは、「60針を縫ったのは整形手術」[8]という声が挙がったが、それが逆に反感を呼び大統領支持派に対する批判拡大へと繋がり、地方選挙でのハンナラ党圧勝に繋がった。なお犯人の背後関係については、検察・警察の合同捜査本部による捜査の結果、「単独犯」との結論に達した[9]。
(参考資料)
T 池田第三代会長時代・
本来の公明党の理念・基本路線と自公連立後の実態を比較の参考 !
真逆に大変質 ?
公明党:
@政界浄化A議会制民主主義B大衆福祉―
自民党:
金権腐敗・独善的強行採決・大資本優遇・
格差拡大推進・対米隷属・ペテン師
☆ 結党時の理念:政界浄化と大衆政党
公明党の結党大会は、1964年11月17日、東京・両国の日大講堂で行われた。
しかし、創価学会は結党前の56年7月に行われた第4回参議院選挙で、初めて無所属候補として全国区2人、大阪地方区1人の3人を当選させ、第6回参院選(62年7月)までの3回の参院選で15人の参院議員を擁し、「参院公明会」という国会内会派を結成するまでになっていた。
創価学会の池田大作名誉会長=2008年5月撮影(時事)
その後、創価学会の池田大作名誉会長が、1960年5月に32歳の若さで第3代会長に就任すると、翌61年11月に「公明政治連盟(公政連)」を結成した。
掲げた目標は、「政界浄化」であり、その3年後に、公明党の結党が実現する。
結党大会で掲げた方針は、
@政界浄化A議会制民主主義B大衆福祉―の3本柱で、
あいさつに立った池田会長は、「大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいく」と、大衆政党としての立場を強調した。
同時に、公明党は、結党のもう1つの基本理念として「王仏冥合」「仏法民主主義」を掲げた。現在では政教分離原則が厳しくチェックされているが、こうした基本理念は、仏法の絶対平和思想が、世界を戦争から守る道だとするもの。
こうした理念はのちに同党とは切り離された。
キャスチングボートを握り野党として躍進した。
公明党は、1956年に参議院で議席を得た後、衆議院に議席を獲得するまで11年かかかっている。しかし、その躍進ぶりは、政界の台風の目となり、“黒い霧解散”といわれた1967年1月の第31回総選挙では25人を当選させ、自民、社会、民社3党に次ぐ第4党に躍進した。
1969年12月の第32回総選挙には、47人を当選させ、民社党を抜いて第3党に躍り出た。
この結果、竹入義勝委員長、矢野絢也書記長の新執行部体制が発足、政界のキャスチングボートを握った。
だが、政党としての路線は、揺れ動き続ける。
結党当初は、保守、革新のどちらにも偏しない「中道」を模索していたが、結党2年後には、「日米安保条約の段階的解消」を打ち出し、”反自民”を鮮明にして野党化した。
自民党長期政権のもとでの金権腐敗政治の横行など、政界浄化を掲げた公明党は、さらに野党化の流れを強め、1972年の「中道革新連合政権」構想を経て、1973年9月の「安保即時廃棄」論へとエスカレートした。
1972年8月、中国訪問を終えて帰国し、田中角栄首相(中央)と会談する公明党の竹入義勝委員長(右)。左端は大平正芳外相=東京・首相官邸(時事)
*池田会長時代:「中道革新連合政権」
構想5項目の解説
(島田裕巳『創価学会・もう一つのニッポン』139頁):
@ 反自民党、反大資本
A平和・自立・中立政策に基づく外交政策:
「日米安保条約の段階的解消」在日米軍基地段階的縮小
B日本国憲法と議会制民主主義の擁護
C国民福祉優先の経済政策
D政治経済の改革手段としての暴力革命・急進主義を否定し、漸進主義を選択する
*昭和42(1967)年8月、創価学会学生部幹部会で、池田会長は「沖縄返還」を主張した。
昭和43(1968)年、「安保条約廃棄」を基本としていた、公明党は、在日米軍基地を実態調査し、有効利用されていない、基地の一部返還を主張した。
さらに、昭和43年9月、池田会長は、学生部総会で、「日中国交回復」を提言した。
昭和44(1969)年10月、創価学会系学生組織・新学生同盟が、東京で結成大会を行い、7万5千人を結集し、「安保粉砕」を叫んでいた。
U 『平和の党』・公明党は、今や『戦争の党』に、
平和学の世界的権威が批判 !
(bylines.news.yahoo.co.jp/:2015年9月4日より抜粋・転載)
「正直なところ、公明党にはがっかりしている。
『平和の党』を名乗っていた公明党は、
今や『戦争の党』に成り下がってしまった…」
先月、来日したヨハン・ガルトゥング博士は、自民党と共に安保法制の成立を目指す公明党を厳しく批判した。
ノルウェー出身のガルトゥング博士は、1957年からこれまでに100以上の国家間、宗教間紛争を調停した経験を持ち、オスロ国際平和研究所など多くの平和研究機関設立に貢献、紛争解決の手法としてトランセンド理論(超越法)を発案し、1987年にもう一つのノーベル賞と言われる「ライト・ライブリフッド賞」を受賞するなど、平和学の世界的な権威。
これまでに発表した平和に関する文献は共著を含み1600以上、著書は160を数え、「平和学の父」として名高い。
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