http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/4665.html
Tweet |
大河ドラマ・「花燃ゆ」、「薩長同盟!」 ! 薩長同盟とは ?
坂本龍馬の正体と暗殺の真相
実は、幕末維新を動かしたのは、フリーメーソン A
T NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第34回「薩長同盟!」 !
(ja-jp.facebook.com/:2015年8月23日より抜粋・転載)
対立していた薩長が伊之助と龍馬の出会いを端緒に急接近 !
今夜8時〜総合テレビ、第34回「薩長同盟 !」
次期藩主・毛利元徳(三浦貴大)と銀姫(田中麗奈)の長男・興丸の養育係として忙しく働く美和(井上真央)。城内では興丸の「御小姓」選びが進められ、美和もその人選に頭を悩ませていた。
その頃、長州藩では、小田村伊之助(大沢たかお)と坂本龍馬(伊原剛志)との出会いがきっかけとなり、新しい日本を作るために薩摩藩と組むことを模索。
桂小五郎(東山紀之)らが「薩長同盟」成立に向けて、西郷隆盛(宅間孝行)と交渉を進めていた。
しかし、美和にとって、薩摩は夫・久坂玄瑞(東出昌大)を死に追いやった相手。
受け入れることができない美和だったが、伊之助の誠実な言葉に動かされ、新たな一歩を踏み出していく!
*フリーメンソン:巨大財閥の同志・秘密結社。
悪魔信仰者で人類支配収奪を狙う、極悪人のグループ。
U 薩長同盟とは ?
(ウイキペディアより抜粋・転載)
この項目に含まれる文字「薩」は、オペレーティングシステムやブラウザなどの環境により表示が異なります。
薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。
概要[編集]
薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持ったが、薩摩藩が、公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は、急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相いれない立場にあった。
☆薩摩藩は、会津藩と協力し長州藩勢力を京都政界から追放した !
薩摩藩は、文久3年(1863年)8月18日に会津藩と協力し長州藩勢力を京都政界から追放し(八月十八日の政変)、翌元治元年(1864年)7月19日には上京出兵してきた、長州藩兵と戦火を交え敗走させる(禁門の変)に至り、両者の敵対関係は決定的となった。
禁門の変の結果朝敵となった長州藩は幕府から第一次長州征討を受けるなど、非常な窮地に
陥ることとなった。
一方で薩摩藩も自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず、大久保利通や西郷隆盛
らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていくこととなった。
☆長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使
であるハリー・パークスの行動にあった !
長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが、長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた、土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。
土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中(後の海援隊)を率いていた、坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、1月21日(18日、22日説も)小松邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が、6か条の同盟を締結した。
他の薩摩側出席者は、大久保、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。
☆幕府による長州藩処分問題に関して、長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩は、
長州藩を支援する内容だ !
その後の王政復古や戊辰戦争への第一段階の様に置かれることが多いが、以下に認められる様に、幕府による長州藩処分問題に関して、長州藩の状況が悪くなっても、薩摩藩は、長州藩を支援するという内容であり、共に「倒幕」へ向けて積極的に動き出そうとするものではない。
また、「決戦」の相手として想定されているのは、幕府そのものではなく「橋会桑」(当時京都政局を制圧していた、一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)の3者。
いわゆる一会桑政権)である。
一橋家当主の慶喜は、固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的対決の相手としては、会津・桑名両藩、とりわけ会津藩を想定するものであった[1]。
☆薩摩藩は、幕府による、「第二次長州征討」に際し
出兵を拒否し、以後薩長の連携関係は深まっていく !
この密約に基づいて、薩摩藩は、幕府による、「第二次長州征討」に際し出兵を拒否し、
以後薩長の連携関係は、深まっていくこととなった。
薩摩藩士で、明治期には島津久光の側近として歴史編纂事業に従事した、市来四郎は、薩摩藩と長州藩の提携が成立したのは、より後年の1867年(慶應3年)11月、薩摩藩主島津茂久が、多数の兵士を引き連れて上洛する際に、長州藩世子毛利広封と会見し、出兵協定を結んだ時点であると、指摘している[2]。
(参考資料)
坂本龍馬の正体と暗殺の真相
幕末維新を動かしたフリーメーソンA
(savage.blog.shinobi.jp/より抜粋・転載)
★坂本龍馬は単なる”郷士”か、”諜報員”か ?
坂本龍馬についてはこれまで何度も書いてきましたが、実は結構後から作られた話も多く、また、”土佐郷士出身”である龍馬が何故国を動かすことができたのか?という疑問が付きまとうのは事実です。
そして、”最大の謎”はやはり”暗殺”です。
これまでも様々な”犯人候補”が挙げられましたが未だに核心に迫ることができません。
で、今回読んだ「龍馬の黒幕」ではこのようなことが書かれていました。
まず、龍馬は単なる”郷士”だったのか?ということです。
龍馬は青年時代に江戸に二度も修行に出ているし、その後脱藩した後も家族に何の咎めがないのもおかしい限りです。
確かに龍馬の実家は「才谷屋」という商家ですが、実家が金を工面しただけで、江戸に二度も出れたり、脱藩後も実家が”無罪”でいられたのだろうか?
そこで、この著書では、前章で書いた五代や伊藤と同じく藩の”諜報員”だった可能性が高いとしています。
★”諜報員(スパイ)”といった” 汚れ役”は、下士にやらせる !
特に、当時”山内家譜代家臣”を中心とした”上士(城士)”と”旧長曾我部家臣”を中心とした”下士(白札、郷士等)”と明確に分かれていた、土佐藩では、”諜報員(スパイ)”といった”汚れ役”を”上士”にさせるはずがありません。それによって龍馬は、その”資質”上”諜報員”には適役だったようです。
★勝海舟や松平春嶽に謁見できた脱藩者・龍馬、藩の指示による脱藩 ?
でもって、龍馬の”脱藩”も、どうやら藩の指示された可能性が浮上してきたようです。
江戸や他藩の動きを探るために、龍馬をワザと江戸に送り、勝海舟と引き合わせた、と考えた方がなんかしっくりきますからね。
二年前に放送された大河ドラマ「龍馬伝」では、龍馬はそれこそ”郷士身分”にして”脱藩”の身でありながら、なぜか当時”幕府政事総裁職”に就任していた前越前藩主:松平春嶽に謁見し、その春嶽の紹介で海舟に会うことになったのですが、このいきさつが正直”不自然”に思ったのは確か。
そもそも、春嶽は前土佐藩主:山内容堂とは、入魂の中であり、容堂がそのことを知らないはずがないばかりか、最終的に容堂が龍馬の”脱藩罪”を解いている所を見ても、むしろ容堂経由で春嶽に謁見し、海舟と会うことになった、と考えた方が、辻褄が合うのです。
そして、その勝もまた”下級旗本”出身です。
★勝海舟の神戸海軍操練所、実は、”諜報機関”だった ?
そして、”軍艦奉行”となった勝が、幕府から任された”神戸海軍操練所”も、どうやら”
表向き”の施設であり、その”実体”は”諜報機関”だったのではないか?と著者は
記しています。
イギリスやアメリカの水夫を”講師”に迎えて、”表向き”には”航海技術”や”英語”を習得し、実際は、諸外国の情報を得ていたのではないか?としています。
事実、勝と龍馬はその時点で長崎を訪れ、グラバーと会っています。
また、その”門下生”は様々な藩から集まっており、無論”攘夷派”につながるものもいた模様。
龍馬と同じ”土佐藩士”だった望月亀弥太もその一人です。
それが幕府に発覚し、”神戸海軍操練所”は、取り潰され、勝も”軍艦奉行”を解任されています。
★龍馬は、薩摩藩に預けられ、西郷吉之助、家老:小松帯刀に合う !
その後、龍馬は、薩摩藩に預けられますが、そこで龍馬は、西郷吉之助(後の隆盛)と家老:小松帯刀に会っています。
その後、薩摩の後押しで再び長崎に入り、長崎で力を持っていた芸術家にして事業家であった小曽根乾堂の世話を受け、小曽根邸の裏山である亀山にあった亀山焼工場跡をその後設立する商社”亀山社中”の拠点とします。
しかし、この”亀山社中”も”商社”とは表向きで、実際は”諜報機関”だったようです。
表向きに薩摩名義で、グラバーを通じて、イギリスから武器や軍艦を買い、それを長州に売る。
その裏で、グラバーを通じて、イギリス側から”薩長同盟”の構想を聞き、龍馬は、
いわば”エージェント”という形で”薩長同盟”を締結させたに過ぎない、と著書には記されています。
★龍馬は、巨大財閥”エージェント”という形で”薩長同盟”を締結させた !
そして、その”薩長同盟”がひとたび締結されるや、一気に”討幕”の機運が高まっていきます。しかし、龍馬はどうもそれに乗る気がない様子。
実は、龍馬が元々土佐藩の”諜報員”だったことを考えればそれも頷けるんです。
”前藩主”にして事実上の”土佐藩トップ”であった、山内容堂はあくまでも”佐幕派”であったからです。
何故なら、彼の祖先である山内一豊が”土佐一国の大名”に成れたのも、一豊の”実直さ”と妻(千代という説があるが定かではない)の”機転”を買った徳川家康のおかげであり、山内家が今日存在し続けているのも幕府のおかげであると考えていたからです。
★土佐藩の”諜報員”だった龍馬は、イギリスの”諜報員”でもあった ?
そして、龍馬とともに”大政奉還”に奔走した土佐藩参政:後藤象二郎も当然ながら”佐幕派”です。
しかし、龍馬はイギリスの”諜報員”でもあったわけで、イギリスも表向きには”平和的改革”をうたっているが、実際は”武力改革”を望んでおり、そのために多くの藩を武力で脅して”討幕派”に寝返らせています。それでも、”討幕”を疑問視していた龍馬は、次第にイギリス側から距離を置かれたようです。
★徳川慶喜が”大政奉還”を正式に表明したが、薩長藩は、英国の後押しで、
”武力討幕”を狙っていた !
かくして、慶応3年(1868年)10月14日、京都二条城において15代将軍:徳川慶喜が”大政奉還”を正式に表明し朝廷がそれを受諾しています。
龍馬や後藤の意向が遂に実現した瞬間でした。
しかし、それも束の間、薩長藩は、すでに”武力討幕”の準備を整えており、それを後押ししていたのが、イギリスだった、と著者はしています。
龍馬は、この時点で”幕府側”からも”討幕派”からも睨まれるようになり、また土佐藩も龍馬を危険視したため、現在の京都市河原町付近にあった、土佐藩邸とは道を挟んで向かい側にあった醤油屋:近江屋に隠れ住んでいました。
★龍馬は、”幕府側”からも”討幕派”からも睨まれる立場になり、遂に暗殺された !
この時、龍馬は薩摩にいる”盟友”である中岡慎太郎に西郷の”武力討幕”をやめさせるように頼んでいたり、海援隊の”参謀格”である、陸奥宗光に手紙でやり取りをしていたようですが、この時点で、中岡や陸奥は”討幕派”の手中にいた、と著書には書かれていました。
しかし、彼らを信じる龍馬に”悲劇”が起こったのはその後である。
慶応3年(1867年)11月15日、龍馬と中岡は”刺客”2名によって龍馬が隠れ住んでいた近江屋で、暗殺されます。享年33歳。
で、”暗殺劇”に関しても、”通説”では、まず”何者か”が近江屋の玄関の戸をたたき、その戸を龍馬の下僕となっていた元力士:藤吉が開けると2人の見知らぬ男が「十津川の郷士の者ですが」と言って藤吉に名刺を渡すと、それを持って龍馬へ渡すべく階段を上ろうとした瞬間、藤吉は後ろから2人のうちの1人に斬られ、その音を聞いた龍馬は「ほたえな!(騒ぐな、という意味)」と叫ぶと2人の男が部屋の襖を開け「坂本さん、お久しぶりです」と声をかけ、龍馬が「はて、おまん誰ぜ?」といった瞬間に、
「こなくそ!」の声とともに龍馬の額めがけて切りかかり、そして龍馬も奮闘するも最後に脳天を切られ床に倒れ、中岡もかなりの箇所を斬られ、龍馬はすぐに絶命、中岡は窓から落ち、2日後死亡した。
- 下田市観光協会 花燃ゆ 吉田松陰ゆかりの御宿「みなみ」は旅館業法ほか違反の疑い 吉田松陰記念財団 2015/10/19 08:05:37
(0)
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > ペンネーム登録待ち板6掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。